蘭陵王伝 別記 第6章 華燭の桃花 〔 ⑥ 父王琳の反対 〕
皇太后を説得し、求婚書を送ってもらった長恭だったが、南朝にいる父親の王琳から反対の文が来て婚姻は頓挫してしまう。
★ 論功行賞の余波 ★
顔家の後苑にある四阿のなかで、青蘭は『文選』を開いた。
青青たる子の衿
悠々たる我が心
ただ君が為の故に
沈吟して今に至る
青い衿の若者よ
わが想いは尽きぬ
ただ君のためにこそ
深い胸の内を今もうたう
曹操の詩賦である。後漢の末期に魏を建国した曹操は、漢の遺臣から多くの人材を抜擢した。有能な若者を登用したいと、恋人を想う『詩経』の詩賦に託して詠ったのである。曹操は、たとえかつての敵であっても、志のある若者は積極的に求めたという。
英雄として曹操を評価している長恭は、この詩賦にもきっと独自の解釈を加えるに違いない。ああ、師兄に会いたい。
青蘭は、先ほど聞いた学士たちの噂話を思い出した。
「こたびの褒賞は、おかしいと思わぬか?」
「何が、論功行賞だ。賄を贈れば、無能な高紹信でさえ漁陽王になれる。しかし、大手柄の斛律大将軍は并州刺史に追い払われ、平原王(段韶)は、権限のない司空に棚上げされた。世も末だ」
朝廷の事情にくわしい胡長山が、口を尖らせた。高紹信とは、放蕩者だと有名な長恭の六弟である。
「本学堂に通っていた、高長恭皇子でさえも、賄が少ないと楽陵県開国公どまりだ。まったく、楊令公は、何を見ているのか」
「まったくだ。いくら武功を挙げても軍監の復命は、賄賂しだいだという話だ。陛下が酒乱ゆえに、朝堂は乱れるばかりだな」
「おい、口を慎め・・・間者がいたら命はないぞ・・・」
三人は、辺りをうかがうと、足早に内院に去って行った。
青蘭は『文選』の書冊を卓の上に置いた。
褒賞の勅使が各屋敷に遣わされてから、すでに数日が経っている。何の連絡も来ないのはどういう訳なのか。しびれを切らした青蘭は、学堂に出掛けてきたのだ。
まさか、くだされた爵位が開国公だったとは・・・。この国では有能な者も賄を贈らなければ、相応しい爵位を得ることもできないのだ。師兄の落胆はいかばかりだろう。戦に行っていない弟の高紹信が、同時に漁陽王に爵封されたことを考えると、不当に低い爵位と言わなければならない。
麗容で声を荒らげない長恭は、一見柔和な性格に見える。しかし、学問を修め武術に優れた高長恭はだれよりも高い自尊心を持ち、豪胆な魂を隠し持っているのだ。命がけの武功を評価されなかったことに、深く傷ついているにちがいない。
まさか爵位が開国公だったために、皇太后は婚姻の約束を反古にする気なのか?
★ 春の離宮 ★
青蘭が顔氏学堂の南門で鄭家の迎えを待っていると、愛馬の俊風に乗って長恭が現れた。長恭が縹色の長衣の袖をひるがえして馬から下りると、青蘭に近づいてきた。
「君に、・・・話があるのだ。一緒に来てくれ」
本来は鄭家に求婚書を持って来るはずなのに、どうして一人で学堂に現れたのか?青蘭が躊躇していると、長恭は手を握った。
「師兄、話って・・・」
二人で話したいなんて、まさか、縁談に何かの支障が生じたのか?多くの弟子たちが出入りする門前で二人が押し問答していると、周りに人垣ができた。
「とにかく、乗ってくれ」
長恭は強引に鞍の前に青蘭を乗せると、東に向かって馬を走らせた。
東の城門である迎春門を通りぬけて鄴城の外に出る。東に延びる漳支河に沿って植えられた灌木の南には、初夏の陽光を浴びた広い草原が広がっている。草原をしばらく駆けて、長恭は馬の歩みをゆるめた。
「会いたかった。・・・来るのが遅くなってすまない」
馬上の長恭は後ろから青蘭の身体をだきしめると、首筋に唇を押しつけた。沈香の香が青蘭をつつむ。
「私だって、・・・」
青蘭を抱えるようにして手綱をにぎる腕はたくましく、背中に感じる長恭の胸は広く温かい。ずっとこのまま師兄に寄り添って揺られていられたらいいのに・・・。
「師兄、どこに行くの?」
「ああ、御祖母様の夏の離宮が漳水支河沿いにあるんだ。そこに行って・・・ゆっくり話しがしたい」
改まってゆっくり話をしたいとは、やっぱり縁談に問題がおきたのだろうか。
★ 離宮の夏もよう ★
迎春門から東へ五里ばかり走ると、漳水支河から引き込んだ支漳溝の向こうに離宮が見えてきた。白壁の塀に囲まれた瀟洒な屋敷である。長恭は橋を渡り馬から下りると、門の扉をたたいた。
門衛がすぐに来て扉を開けた。中に入ると、中央に石畳が敷かれ左右に梅や松などが植えられている。右の回廊から後苑に出ると、露台に茶器が用意されていた。庭に引き込まれた支漳溝の流れを生かして、江南の景色を模した庭が造営されている。
「きれいな庭だわ」
椅子に座って長恭の話を聞くのが怖い。別れの予感が青蘭を支配する。青蘭は露台を通り過ぎると小川の流れに沿って小径を歩いた。
「君に聞いて欲しいことがあるんだ。・・・君に謝りたい」
長恭が背後から声を掛けた。やっぱり、皇太后のお許しが出なかったのか・・・。いやな話は聞きたくない。
青蘭は小走りで石橋を渡り、石灯籠の先を左に折れた。
「青蘭、話を聞いてくれ」
長恭は後を追いかけた。突き当たりの竹林まで来て、長恭が肩に手を掛けた。聞きたくない。長恭の方を振り返った青蘭は、手で耳を塞いだ。
「すまない。・・・王位だと思っていたら、賜ったのは開国公だったのだ」
長恭は、青蘭の肩に両手を置くとぽつんと言った。
「だから、・・・迷っていた。そんな爵位で君に求婚する資格があるのか・・・」
師兄は、そんなことで悩んでいたの?
「御祖母様は、反対じゃないの?」
戦から無事に帰り、皇太后の許しも得たというのに、長恭は何を悩んでいるのだろう。
「御祖母様は成婚をゆるしてくれている。ただ、爵位が変われば・・・」
青蘭が見上げると、長恭は優しく抱き寄せた。
「今、君が私に嫁ぐと、兄弟の夫人の中で一人だけ一段低い開国公夫人になる。兄嫁達からいやな思いをさせられるかも・・・」
青蘭は、不安を吐露する長恭の唇を手で塞いだ。
「だれかのせいで、私はいつも噂の的よ。・・・いまさら義姉に何を言われても気にしないわ」
「いいのか?・・・付き合いでも宴の時にも苦労をさせると思う」
長恭は、青蘭を抱き寄せると額に唇を押し付けた。
「私は、てっきり・・・」
「てっきり、・・・何だと思った?」
「てっきり、この婚姻は皇太后がお許しにならないと・・・だから・・・」
「もしや、別れ話だと思ったのか?・・・私と別れられるか?」
長恭は青蘭のあごから頬を指でなぞると、小首をかしげた。
「別れるなんて許さない。・・・ともに白髪になるまで、決して放さない」
長恭は青蘭の手をにぎると唇につけた。
★ 高長恭の求婚書 ★
数日後、皇太后府の内官である許有孔と高長恭が鄭家を訪れ、鄭家との婚姻を求める求婚書と長恭の四柱、そして礼品の白玉を鄭桂瑛に贈った。
『礼記』に従えば、承諾の場合には王家からの返礼の品と青蘭の四柱が返されるのが通例である。
王琳と鄭桂瑛は、すでに離縁をして、青蘭は鄭家に住まっている。しかし、王青蘭は王家の一員でありその族譜に記載されているため、正式には父親の承諾が必要となる。
この場合、父親の王将軍が遙か遠く江南にいるため、正式な返答は後日に持ち越された。王将軍の返答を待って結納の日取りが決められるのだ。もっとも、鄭賈が鄴で商賈を行い王琳も北斉の支援を受けている現在、皇太后府からの求婚を断れるはずもない。そこで、公には青蘭の四柱を渡した時点で、青蘭と長恭の婚約は成立し、二人は婚約者同士となったのである。
許婚になると、長恭は正式に鄭家を訪問することができる。数日後、長恭は鄭家に着くと、香色の長衣の袖を翻して馬車を降りた。
大門の前には鄭家の人々が、大勢で将来の婿を迎えている。開国公の爵位は不満だが、婚約するとこんなに晴れがましい出迎えを受けるのか。長恭は初めて出征してよかったと思った。
「鄭賈主がお待ちです」
家宰に導かれて広い内院にはいると、躑躅の艶やかな花がよく手入れされているのが見える。門こそ朝廷をはばかって質素だが、屋敷内の造作は贅を尽くしている。
正房に入ると、女主人の鄭桂瑛が扉の近くまで出てきて出迎えた。
「義母上に、ご挨拶申し上げます」
長恭は、義母になる鄭桂瑛に丁寧に礼をした。桂瑛が答礼をしようとすると長恭は柔らかい笑顔で桂瑛の腕を支えた。
「義母上、家族の間で礼はいりません」
桂瑛が長恭を見上げると、改めて見ても女子に見紛う美貌の皇子である。長身で逞しい身体にもかかわらず、秀でた眉目と桃花の唇は、まごうことなき貴公子の風韻をまとっている。権門の令嬢が、妻になりたいと望むのも宜なるかな、鄴都で一番の婿がねと言われているのもうなずける。
鄭氏は空咳をすると、秀児に目配せをした。
「どうぞ、こちらに。心ばかりの爵封のお祝いを用意しました」
長恭が榻に座ると、秀児が漆塗りの箱を持ってきた。未来の婿に鄭家からの祝の品である。
「南朝の釜で焼かれた白磁の花瓶です。御笑納ください」
白磁は、このごろ南朝の釜で焼かれ始めた最新の焼き物である。淮水地域に商圏を伸ばしている鄭家でなくては、手に入らない逸品である。
「これは、見事な白磁の花瓶だ。・・・大切にします」
長恭は礼を言うと白磁を入れた朱塗りの櫃を宦官の吉良に渡した。
婚約後の初めての訪問では、婿側からの贈り物も大切である。
「かねてより、書法を研鑽していたところ、祖母より譲り受けた南朝の名跡の張芝を見つけました。鄭家に贈りたく持って参りました」
長恭は吉良から渡された長い螺鈿の櫃を開けると、掛け物を取りだした。両親のいない長恭に、伝来の財物などあるはずもない。昨夜の夕餉の後に鄭家の訪問を祖母に話すと、きゅうきょ名跡の巻物を渡されたのである。
「張芝は、王羲之にも匹敵する名跡。礼を言います」
桂瑛は表書きを確認すると、秀児に渡した。
「青蘭殿は、いらっしゃいますか?」
求婚のときは、青蘭とは顔を合わせることができなかった。長恭がとなりの房に目を遣ると、鮮やかな紅鶸色の襦裙を着けた青蘭が入って来た。青蘭が礼に則って挨拶をする。青蘭の艶やかな姿に、自然に長恭の唇が緩む。
「今日の青蘭は、特に美しい」
長恭は、鄭氏の目もはばからず傍によると手を握った。
「師兄、お世辞を言っても・・・」
母親の視線をはばかって手を払った青蘭を、長恭は軽く睨んだ。久しぶりに見る青蘭の長裙姿は、ハナミズキの花が咲き初めたように瑞々しい。二年近く兄弟弟子として愛情を育んできた二人が、困難の末に婚約までたどり着いたのだ。長恭は、自然に顔が綻び、抱き寄せたい気持ちに駆られた。
ここで素直に屋敷に帰るわけにはいかない。
「鄭夫人、実はお伺いしたい。四柱推命も先日済ませ、さっそく、結納の品を吉日に贈りたいのだが、いつがよろしいか・・・祖母が」
花婿本人が、結納の日取りを訊くのは異例だ。しかし、結納の日がなかなか決まらないことに、長恭は気持ちがせいた。婚姻は途中でどんな横やりが入らないとも限らないのだ。しかし、結納品を贈れば一連の婚儀が始まったとみなされ、事実上破談をすることは困難となる。
「長恭様、・・・王琳の承諾をえるために、江南に遣いをやっている。何分にも遠方ゆえ一月ぐらいかかるのです。もうしばらくお待ち願いたい」
現在は鄭家にいるが、あくまで王家の娘として輿入れするなら、父親の承諾は欠かせない。
「承知しました。祖母にはそのように伝えまする」
風向きが変わらないうちに婚儀を挙げたい。しかし、そんな焦りを見せるわけにはいかない。
「実は、・・・祖母は高齢なので、早くひ孫の顔を見たいと言っているのです」
長恭は、祖母の気持ちを強調して急ぐ理由を誤魔化した。
鄭桂瑛は茶釜から茶をすくいながら、榻に座る高長恭を目の端で観察した。高一族の気性を思えば、長恭を高慢な皇子だと想像していた。しかし、実際の長恭は、身分を鼻に掛けることもない温順な皇子である。
茶杯を手にして長恭に見とれている青蘭を見遣ると、心配が先に立つ。なぜ青蘭を夫人として望むのだろう。公平に見れば青蘭の容貌は美しい。しかし、後宮で妃嬪を見慣れた長恭にとっては、青蘭など平凡な容貌の娘に違いないのだ。しかも、事実上商賈の娘である青蘭との婚姻をえらんだのだろうか。
青蘭はいまだ世間知らずの娘だ。恋に浮かれて、ただ一人の女人として長恭に生涯連れ添うと言い張っている。しかし、貧乏人ならいざ知らず、皇族でただ一人の妻を守る男がこの世にいるだろうか。そして、婚儀の後に青蘭を待っているであろう苦難の道を思うと娘が心配であった。
出された茶を飲むと、長恭は鄭氏に笑顔を向けた。
「実は出征前に宝国寺に、戦勝祈願をしたのだが、今日は青蘭殿とお礼に参りたい。許していただけますか?」
戦勝祈願のお礼参りと言われれば、参拝を拒む理由はない。桂瑛は、すぐに娘に幸福を願う母の顔になった。
「まあ、そうでしたら青蘭を連れて行ったください」
鄭氏はそう言うと、ほほと笑った。
★ 女子と学問 ★
馬車に乗り込むと、長恭はいきなり青蘭を抱きしめた。
「青蘭、・・・会いたかった。やっと納采まで漕ぎ着けたよ」
求婚すれば、いつでも会えると思っていた。しかし、求婚をして直ぐに青蘭に会うことは、礼儀に反すると言われて数日控えていたのだ。
「師兄、宝国寺に戦勝祈願に行った記憶はないのだけれど・・・」
「わたしにもない」
長恭は、真面目な顔で答えた。
「じゃあ、あれは嘘なの?」
「嘘も方便だ。二人で出掛けるためには、ああでも言わないと・・・」
腕の中で青蘭は、長恭の肩に頭を寄せた。
長恭は、青蘭の額に唇を当てると、寄せた眉に憂鬱な蔭を宿した。
「何か心配事が?」
「婚儀を挙げたら、国公府の経営と貴族の間での付き合いなど、君に負担を掛ける」
舅姑のいない国公府は気楽だが、屋敷を青蘭一人で切り回していかなければならない生活は、大いなる負担なのだ。素朴な青蘭には、陰謀と腹の探り合いが日常の貴族の生活は想像できないであろう。
「私がそんなに弱い女子だと思う?」
青蘭が長恭の瞳をのぞきこむと、長恭は背中の黒髪を撫でた。純朴な青蘭には、妃嬪の間の陰湿な勢力争いなどにたえられるだろうか。
「そんなに大変だなんて、婚儀を挙げたら当分は、顔氏学堂には行けないわね」
長恭は、青蘭の顔を凝視した。
「成婚後も、学問を続けるつもりなのか?」
北魏でも令嬢に、学問の師を付けることはままある。しかし、それは嫁入りのために琴棋書画の教養を身につけるのであり、成婚後も続けている例は聞かない。
「続けちゃだめなの?」
青蘭は、学問の中絶を主張する長恭の顔を見上げた。
「師父も言っているでしょう?・・・『学は已むべからず』と・・・」
一緒に机を並べてきた師兄が、学問を止めるのが当然だと言うなんて・・・。青蘭は肩を落とすと、壁に肩を押しつけた。
「そんなことを言うなんて、・・・師兄も世の男子と同じなの?・・・女子には学問は必要ないと」
長恭は青蘭の手を握った。青蘭が男子だったら何の支障もない。しかし、女子が成婚後も学問を続けることには幾多の困難がつきまとう。青蘭を非難の矢面に立たせたくない。
「君の気持ちは分かる。しかし、同じ講堂で男と講義を受ければ、世の非難を受けるのは必定だ」
「非難なんて気にしない。・・・今までみたいに男装して紛れればいいわ」
青蘭は何でもないというように笑顔を作った。
「皇族の夫人になれば、今までと違って注目される。世の中を男装なんかでだませない」
師兄は、学問を止めろというのか。今までは、あんなに協力してくれていたのに、婚儀を挙げたら学問は許さないというのか。青蘭は、長恭に背を向けた。
「師兄が、そんな事を言うとは思わなかった。男子が、結婚すると薄情になるというのは本当ね」
「私が、薄情だって?」
「そうよ、私から学問を取り上げるの?」
長恭は驚いて青蘭の肩に手を掛けた。
「学問を禁止しているのではない。ただ、・・・今までの方法では難しいといっているのだ」
長恭は青蘭に前を向かせると手を握った。
「分かった。私が何とかする。・・・古からの故事を調べてみる。きっと手立てがあるはずだ」
長恭は、青蘭を抱き寄せた。
「顔師父にも、訊いてみよう」
「きっとよ。きっと学問を続ける道があるはずだわ」
青蘭は目を輝かせると、長恭の肩に身体を寄せた。
男であれば何の問題もないのに、女子の学問を続けると言うことは何と難しいことだろう。向上心にあふれた青蘭にとって、学問を失った生活は、天水を失った野の花のように、味気ないものとなるのだろう。何としても、方法を見つけなければ・・。
★ 婚約の噂 ★
午前中の『史記』の講義を終えた青蘭と紫雲は、東市に出掛けた。
「青蘭、東市においしい麺の店を見つけたの」
紫雲も男子の装束で、青蘭の手を引っ張った。着いたところは、芝居小屋の近くの数卓だけの小さな麺の店である。
「親爺、羊肉の麺を二つくれ」
卓に座ると、紫雲はぞんざいな言葉で麺を注文した。長恭や敬徳とは、このような露店の飲食店に入ったことはなかった。
「男の格好は便利だな。このような店で飲食しても大丈夫だ」
北魏の漢化政策により、鄴都では内にこもる女子が淑女と讃えられるようになっていた。しかし、元来鮮卑族の女子は、活発で馬に乗り商売をする者も珍しくはなかったのだ。最近の鄴都では、男装して街に出る女子がはやっている。馬に乗ったり南朝に比べて、女子はずっと活動的だ。
ほどなく、湯気をたてた羊肉の麺が運ばれてきた。
「旨い、これは旨い」
青蘭と紫雲は、口いっぱいほおばった。
「豪商の令嬢には、なかなか味わえない味だろう?」
そうだ、成婚がすみ皇族の夫人になったら、様々な決まりに縛られて外出もままならなくなると聞いた。露店での飲食など到底許されないことだろう。学堂への通学だって、ままならなそうだ。兄嫁や皇族の夫人たちが知ったら、今以上の中傷をうけるに違いない。
青蘭は羊の肉を噛みしめた。
紫雲は率直な意見をはばからない自由な精神の持ち主だ。共に机を並べ、自由な意見の交換は目からうろこが落ちる思いだ。
「最近、鄴へ来て学問の面白さが分かってきたの。ところが、母が最近、婿を探しているみたいなの。私はまだ十五歳よ。まったく、早く結婚させたいのだわ。本当にめいわく」
紫雲は麺を口に頬張った。
「紫雲、結婚したら、学問は諦めるつもり?」
「まさか、・・・辞めろなんて言う男は婿にしない。もちろん、学問を続けるつもりよ。兵法に興味があるの」
紫雲は、麺の汁を飲み込んだ。
「でも、成婚後は、学堂で講義は受けられるの?」
もし、紫雲が許されるなら、自分だって学堂に通える。
「学堂で他の男の弟子達と一緒というわけにはいかないから、父上やよく知る学者教えを請うわ。でも、それでは、様々な考えに触れる面白さが味わえくなる。学問の楽しさも半減よ」
屋敷に学者が出入りする顔家なら、それも可能だろう。しかし、個人的な授業は多くの束脩が必要だ。鄭家や高家では難しい。青蘭はため息をついた。
「そう言えば、麗容で有名な高長恭皇子が、婚約したという噂だけれど、青蘭は見たことはあるの?」
「高長恭皇子?」
なぜ、紫雲の口から長恭の名前が出るのだ?
「先日の凱旋で、甲冑姿が麗しかったと街の女子の中で評判よ。・・・顔だけの男子なんて私は興味はないけれど」
紫雲は、麺を一口すすった。
「弟子たちの話では、以前学堂に通っていたという話だから・・・会ったことがあるかも。・・・本当に美丈夫なの?」
ここで真実を話したら、根掘り葉掘り訊かれるにちがいない。皇族の横暴や、顔だけの美丈夫についてさんざん不満を述べてきたのだ。
「さあ、・・・記憶にないな。学問に集中していた」
紫雲とは、婚姻がどれほど女子の人生を狭めるかいつも不満を述べ合ってきた。そんな自分が注目の長恭と婚約したとは言い出せない。
「それだったら、なんでそんなことを?」
「この前、徐慧児が遊びに来て、盛んに噂をしていたから・・・訊いてみた」
「いた気がするけれど、美丈夫かどうかなんて・・・個人の好みでしょう?」
紫雲は、羊肉を口に入れた。
「それが、高長恭皇子は、ひどく女子に冷淡で、政略結婚なんですって。恋文をその場で破られた女子や、渡そうとした手巾を踏みつけられた女子も・・・そんな顔だけの男と政略結婚させられた令嬢が悲惨だという話なの」
以前の長恭だったら、十分考えられることだ。長恭は、娘たちの恋慕を集めるとともに、冷淡だと非難も集めているらしい。
「それは、酷い皇子だ」
「まったく、皇族で美丈夫だって、婿は優しくて言うことを聞く男じゃないと、願い下げよね」
豪快に汁まで飲んだ紫雲は、夢見るように頬杖をついた。紫雲の理想は、優しく言いなりになる男子らしい。
「本当に、女子の学問に理解のない男子は、願い下げよね」
青蘭は、羊肉を口に運んだ。
★ 金虎台の宴 ★
数日後、延宗が宣訓宮を訪れた。
「兄上が、開国公とは驚いた。最低でも郡王位を賜るかと思っていたのに、さては、賄を・・・」
矢場に入って来た延宗は、頬を膨らませて片眉をしかめた。延宗は賄を惜しんだのだろうと言外に仄めかしたのだ。この頃の北斉は、賄の多寡によって官位が決まる売官が横行していた。延宗は、あくまでも率直である。
「やめよ。延宗、それ以上は言うな」
長恭は矢を番えると、鋭い語気で延宗を遮り矢を射た。弓は、僅かに中心を外した。
そうだったのか。戦の褒賞でさえも、金次第なのか。それで分かった。皇太后が、孫に爵位を得させるために吏部に賄賂を贈るはずもない。
「私に不満はない。まさか、延宗、宮中で不満を漏らしているわけではあるまいな」
となりで控える延宗を睨んだ。
「もちろん、僕だって馬鹿じゃない。そんなこと言わないよ・・・」
長恭は、眉も動かさない冷静さで、四射目と五射目を放った。
「それより、延宗お前は、私が居ない間も稽古を続けていたのか?」
長恭は、爵位の話を打ち切ると、射術の鍛錬の話に逸らした。
「大丈夫、ちゃんと稽古をしてた。それより、金虎台の話を聞いた?」
長恭が的から矢を抜いて戻ってくると、延宗が、彼に似合わぬ真剣な顔で訊いてきた。延宗の訪問は、叙爵への不満よりこちらの方が本題らしい。
長恭は辺りを見回すと、四阿に入った。
「金虎台で、何があったのだ」
金虎台とは、魏の曹操が鄴城に建設した三台(銅雀台・金虎台・氷井台)の内の一つである。数年以来、高洋は鄴の北城にある三台に、三十万人の工匠を動員して大幅な改修工事を行っていた。金虎台は高さ十丈(およそ三十メートル)三つの邸宅からなり互いの行き来は、橋を通して行っていたという。
長恭は、同僚の散騎侍郎が、金虎台で何か騒動があったらしいと話していたのを思い出した。延宗は、皇后のそば近く後宮で生活しているために、外に漏れない宮中の情報に詳しいのである。
「そう、金虎台で叙任の宴があったのだが・・・」
その後延宗が語った内容は、長恭にとって驚くべき内容であった。
その数日前、斛律光は朔州刺史を命じられ、即刻朔州に出発していた。勲貴の巨頭である斛律光を北の果てに追いやって気持ちが緩んでいたのだろう。今上帝高洋は、斛律光以外の高官を金虎台に招待して、叙任の祝宴を催したのである。
そしてその宴の座興として、囚人達が渡り橋から下へ落とされた。その高さは、十間(二十メートル)以上あり、多くの囚人は落下の後、血みどろの中で死んだという。
武勇を誇り血の気の多い鮮卑族の将軍達も、軌道を逸した座興に顔色を変えた。さすがに残酷な君主の高洋も、将軍たちの反応に驚き座興を半ばで中止した。そして、その事実が外部にもれないように箝口令を敷いたのだ。
しかし、人の口に戸は立てられない。やがて、その噂は皇宮から皇城、そして鄴城内へと際限なく広がっていった。
「囚人の死を肴にして、酒を飲んだというのか」
長恭の唇は震え、頬が蒼ざめた。
「狂っている。死罪にするなら、他の方法もあろう。座興にするなど、・・・紂王にも劣る」
紂王と言えば、池酒肉林や姐己への寵愛、そして炮烙の刑で知られる歴史上最も暴虐と言われる君主である。南北朝時代の刑罰は、見せしめの意味合いもあって市中公開で行わるのが通常であった。しかし、それは厳然たる刑罰であり、今日の倫理観で残虐さを判断するべきではない。
囚人の死をさながら酒肴のように弄ぶことは、当時であってもさすがに人倫に背くことであると考えられていた。
学問で儒学を学び何事も真摯に取り組む長恭にとって、叔父である皇帝のもとで、紂王に並ぶ残虐な処刑が行われたと言うことは、衝撃的な事実であった。
『これが、天命を受けた皇帝のやることか。民に会わせる顔がない』
鮮卑族の王朝である北斉では、今までも廷臣や宦官の惨殺など、血生臭いできごとが頻繁におきていた。遊牧民であった鮮卑族と長く儒教を信奉してきた漢族とでは、文化も風習もちがう。共に顔氏門下で儒学を学んだ青蘭は、叔父の蛮行をどう受け取るであろう。
朝廷の蛮行に、自分は無力だ。長恭は力なく四阿の柱に背を預け、虚空を見つめていた。
★ 宙に浮いた結婚 ★
青蘭が、前庭でテッセンの鉢植えに遣り水をしていると、江南からの遣いが戻ったと知らせが入った。父の王琳将軍に青蘭の求婚書の写しを送ってから、すでに半月以上が経っている。父王琳からの返書が届けば、結納となり婚約が正式に成立するのだ。青蘭の胸が高鳴った。
ほどなく、青蘭は母桂瑛から呼ばれた。青蘭が挨拶をすると、桂瑛は人払いをした。
佳瑛は、溜息をつくと卓上の手簡を指でなぞった。
「父上は、こたびの婚姻、・・・不承知だ」
不承知?母が何を言っているのか解からない。
「父上からの返書に、長恭殿との婚姻に同意できないと記されてあった」
父上が反対だなんて・・・。青蘭は、手簡を手にするとむさぼるように読んだ。確かに、不承知と記してある。
「何故なのです?・・・反対だなんて・・・父上は、私の出奔をいまだお怒りなのですか?」
自分は、父上にそんなに憎まれていたのか。青蘭は、力なく床に崩れ落ちた。
「遣いの者は、何と言っている?」
「青蘭、あの破談については、すでにちゃんと解決したはずだ。お前の出奔の話は出ていなかったそうだ」
父親の王琳将軍は、忠義の士として世の信望を集めている。その反面、頑迷なところがあり家族に波風を立てることもたびたびであった。言葉に出さずとも、父上は、いまだ勝手に江陵から逃げたことにお怒りだ。高敬徳に義理立て、私の幸せよりも、王家の対面を選んだのだ。
鄭桂瑛は、天を仰いだ。父王琳の頑固さは、斉と同盟をしても変わらない。王琳が完全な斉の臣下であれば、皇太后の意向は絶対である。しかし、梁の皇帝として簫莊を戴いている王琳であれば、皇太后の威光も忖度しないのか。
斉で商売をする上で、皇太后に逆らうことはできない。関係がこじれれば、青蘭の将来だけでなく鄭家の商賈にも暗い影が差す。何とかせねば・・・。
「この縁組みが破談になることは王家にとっても鄭家にとっても影響が大きい。私が江南に行って父上を説得して来よう」
「母上、本当ですか?どうか、父上を説得してください」
青蘭は愁眉を開いた。
★ 皇太后の怒り ★
ほどなく、鄭氏は婁皇太后により宣訓宮に呼び出された。
鄭家と高長恭の縁談は宮中でも噂になり始めていて、王琳将軍からの遣いが戻ったことは皇太后にも伝わっていた。
「婚儀の日取りは」
榻に座った婁氏は、温柔な眼差しを鄭氏に向けた。
もう隠しておくことはできない。今すぐ言うしかない。鄭氏は、婁氏の前に跪くと床に手をついた。
「皇太后様、申し訳ございません」
今は、体面を気にしている場合ではない。
「皇太后様、王琳の承諾が来ておりません。もうしばらくの猶予をいただきとうございます」
「王琳が、不承知だと?」
静かな正殿に、婁氏の声が響いた。婁皇太后の眉が逆立った。相手は商人と武将の娘である。皇子で絵姿を求めれば、多くの権門の令嬢が贈ってきた孫が不満だというのか。王琳は斉との関係を断つという意思表示なのか。
「なぜなのだ」
「何しろ王琳は頑固者ですので、・・・先般の破談の件の怒りが解けないのかと・・・」
「婚約まで行かなんだと聞いておるが」
鄭桂瑛は、頑迷な王琳の性格を強調して皇太后の怒りを静めようとした。
「分かった。この婚儀は破談であるな」
婁氏は、不機嫌にきっぱりと言い放った。長恭には気の毒だが、皇族としての面目をつぶされて黙っているわけにはいかない。長恭との縁談を望む令嬢は多い。四柱推命の結果を無にするのは残念だが、青蘭以上に長恭との相性がよい娘がいるはずだ。
「お、お待ちください。皇太后様・・・」
鄭氏は、膝をついたままにじり寄ったが、婁氏は不機嫌に退出を言い渡した。
このまま破談になれば、娘の将来に傷が付く。
「皇太后様、どうか御猶予を・・・。夫を説得するために、私が江南に行って参ります」
婁氏は、瞑目してしばらく考えていたが、重い口を開いた。
「長恭は、私の自慢の孫じゃ。王琳ごときに破談にされるいわれはない。早急に返事を持ってこい。さもなくば、破談だ」
皇族の高長恭にとっては、将来の妃を決める縁談の一つにすぎない。しかし、縁談が世間に漏れてしまった現在、長恭との破談は、青蘭の一生の瑕疵となるのである。青蘭には一生ふさわしい縁談が来ないかも知れない。
鄭佳瑛は、拝礼すると重い足取りで宣訓宮を退出した。
★ 長恭の失望 ★
露台に焚かれた松明の明かりだけが煌々と灯り、宣訓宮の後苑は闇に包まれていた。長恭は清輝閣の扉を開けると、昼間の熱気が残る露台に出た。左を見ると、すでに灯りを落とした正殿が見える。
長恭は、佩剣を握りなおすと昼間のことを思い出した。
今日の午後、長恭は皇太后に呼ばれて正殿に向かった。青蘭の母親の鄭桂瑛が、皇太后府に来たことは吉良から聞いている。いよいよ、青蘭を娶れるのだ。長恭は小躍りしたい気持ちを抑えて、祖母の前に進み出た。
「王琳将軍は、この縁談、不承知だ」
婁氏の言葉に、長恭の身体が揺らいだ。青蘭の父親が不承知の知らせ?皇太后肝いりの縁談を拒絶するというのか?
「御祖母様、なぜなのですか。なぜ、王琳将軍は、この婚姻を許さぬと・・・」
長恭は、初めて自制心をかなぐり捨てて祖母に問うた。
「粛も知っておろう。青蘭は父親が決めた縁談を勝手をして破談にした。王琳は、面目を潰されて怒りがいまだ解けていないのだろう」
「敬徳とは、婚約には至らなかったと聞いています。いまさら、それを理由に・・・婚姻に反対するとは・・・私の爵位が低いのが原因なのですか?」
もう解決済み出ると思っていた問題が、亡霊のように再び障害となっているのか。
「そなたとの婚姻を望む、高官の息女に不自由はしていない。ここで無理して青蘭を娶っても、敬徳より許嫁を奪ったと悪評が立つであろう。粛よ、この婚姻をあきらめよ」
皇族にとって正室は、政治的後ろ盾を得て政治的勢力を広げるための政治的な契約である。正室一族の支援がなければ、長恭がこれから皇族として朝廷で身を立てることはできない。想い人は、側室として別に娶ればいいというのがこの時代の一般的な考え方であった。
「いやです。諦められません。私は、青蘭以外娶りません。・・・そうだ、私が江南に赴き王琳殿を説得して参ります」
父の高澄に似た長恭の瞳が悲嘆に曇り、唇が悔しさに歪んでいる。婁氏は、息子から寵妃の荀翠蓉を引き離し、親子離散の憂き目に遭わせたことを後悔していた。しかし、さすがに斉国の皇子を江南に遣るわけにはいかない。
「母親の鄭桂瑛が江南に行くと言ってきた。・・・返答を待とう」
長恭は夜の静寂に佩剣を抜いた。父高澄から授けられた佩剣が、松明の明かりをうけて鈍く輝く。
私には想う女子を娶る力さえないのか。何て無力で情けない男なのだ。
「とおっ・・」
剣先が、灯火の光を反射してギラリと光った。長恭は心の鬱屈を払うように、声にならない叫びを発しながら闇の中で剣を振るった。
「なぜ、だめなのだ・・・」
私には、妻を娶る資格さえもないのか。敬徳への義理立てなど、方便に過ぎない。開国公の位の低さが、問題なのだ。必死に武功を立て、職務にまじめに専念しても、生まれが卑しい者は報われないのか。己の想念の不吉さを振り払うように、長恭はしゃにむに剣を振るった。
★ 青蘭の決意 ★
青蘭は、居所にある几案の上に手簡を広げた。今朝、長恭から届いた誓いの文だ。
文には、たとえ王琳将軍の承諾が得られなくても、生涯の伴侶として添い遂げると決心が記されていた。いつもの端正な筆致とは違ったやや乱れた手蹟に、師兄の想いが表れている。会いたい。しかし、許嫁でもない自分が、自から皇太后府に会いにいくことはできない。
青蘭は、榻に座ると晴児が煎れた茶杯を手に取った。
爽やかな清明茶の香りでも、沈んだ青蘭の心を和らげることはできない。鄴に来たときは、女子としての人生は諦めて、新しい男としての未来を開くつもりだった。
しかし学堂で師兄と出会ってしまった。師兄は他の男子とちがって、女子の学問を馬鹿にするようなことは無かった。むしろ、女子の自分を学問の道に導いてくれたのだ。二人で講義の復習をしたときは、なんと楽しかったことだろう。一生そばにいて、学問を続けられたら・・・。
師兄と添い遂げれば、平穏な幸せが手に入るのではないかと夢想したこともあった。苦難を乗り越えて、二人の幸せが手にできるはずだった。しかし、結婚後の学問の行方は何も決まっていない。しかも父の反対にあって、縁談は頓挫してしまった。婚姻は、なんと不安定なものだろう。
「長恭様から文がとどいたのですね」
青蘭の横に座った晴児は、文が置かれた几案をちらっと見た。
「お前と一緒に鄴に来たときには、結婚などしないと決めていたわ。・・・あのときは、女子の普通の道をあきらめて、学問で生きていこうと思ったの」
「あの時の山越えは、本当に大変でした」
「漢王朝では、曹大家のような女子の学問の師もいたのだ。・・・でも、この乱世では学問では生きていけない。まして女子の人生は困難続きよ」
晴児は、眉をひそめる青蘭が気がかりになった。
「お嬢様は、長恭様がからはどのような返事が?」
「決して諦めないと記してあった。・・・師兄を信じているわ。でも師兄にすがって生きていくのは嫌なの」
長恭との婚姻は、単に二人の想いだけでは成就しない。この婚姻には様々な思惑が絡んでいる。たとえ母の鄭桂瑛であろうと、成婚をまとめることはたやすくはない。
「お嬢様、若君は諦めないと言っているのでしょう?だったら大丈夫です。いざとなったら、駆け落ちでも何でも・・・」
「いいえ、私は諦めない。師兄に心の全てを明け渡して生きていくなんていやなの。だから、学問を続けるつもりだわ」
一生涯、学ぶことは辞めないつもりだ。しかし、長恭は新たな道を探すと言っていたけれど、婚儀を挙げたあとで、学問をしている女子はいるのだろうか。青蘭は、ため息をつくと牡丹の絵を開いた。
★ 長恭と青蘭の縁 ★
父王琳の返答を知って以来、青蘭は学堂に行くのをためらった。長恭と青蘭の縁談は、皇宮の中でも徐々に噂が広がっている。父の反対によって頓挫していることが知られれば、自分は好奇の目にさらされるだろう。屋敷に籠もっている青蘭に、家人達は腫れ物に触るようにしていた。
数日後、長恭が鄭家を訪れた。青蘭からの返事が届かず、青蘭が父王琳の反対によって成婚を諦めてしまうことを恐れたためである。
学問に距離を置きたい青蘭は、最近は草花の絵ばかり描いていた。居所に入った長恭は、几案の向かいに回り込むと画仙紙越しに青蘭を見下ろした。
「青蘭、元気だった?」
青蘭は、一心に絵筆を動かしている。
「すまない、侍中府の休みが取れなくて・・」
長恭が絵筆に触れると、青蘭が顔を上げた。
「私のせいだわ。・・・父上の怒りを買ってしまった。だから、不承知だなんて」
青蘭の瞳が潤んだ。
「君のせいじゃない、・・・お父上は、皇子でありながら何の力もない私に婿として不満なのだ。だから、・・・」
長恭は、言葉を続けることができなかった。開国県公という爵位を自分の年で授けられる皇子はいない。
「師兄、師兄とは関係ないわ。父上は自分の意に沿わない私を見放しているのだわ」
長恭は青蘭の手を取ると榻に座らせた。
「どんな困難に遭っても、・・・君を娶る」
青州にいる敬徳は青蘭に好意を持っている。もし、青蘭がかつての縁談の相手だと気が付いたら、再度求婚をするかもしれない。爵位も財力も、自分は敬徳にはかなわない。
急がなくては・・・。どうすれば、敬徳の求婚を阻むことができるだろうか?王将軍が、逆らえないような陛下の勅旨があれば・・・。陛下の勅旨は無理だが、懿旨・・・皇太后の懿旨は、切り札となる。
だめだ、懿旨により婚姻を強行すれば自尊心の塊の王琳の怒りを買ってしまう。
「君と一緒になり、・・・ぜったい添い遂げる」
潤んだ瞳で青蘭が、隣に座る長恭の肩に頭を寄せた。長恭は青蘭の肩を抱き寄せると、頬に口づけをした。
青蘭との縁談が進まない中、青蘭に想いを寄せている敬徳が、青州刺史の任を解かれて侍中に昇進して戻ってくるとの知らせが届く。なかなか進まない縁談に業を煮やした長恭は、切り札を思いつく。