蘭陵王伝 別記 第6章 〔 ⑤ 長恭の凱旋 〕
皇太后の嫁選びの噂を聞いて、沈んでいた青蘭も、四弟の延宗から、長恭の活躍と凱旋の知らせをきいて心が沸き立つのだった。
★ 長恭の帰還の知らせ ★
今年の夏は猛暑で、鄭家の夾竹桃の花の赤色がことのほか濃い。後苑にある四阿にいても、うだるような暑さである。『孫子』を手にした青蘭は、卓上の冷たい茶で喉を潤した。
長恭が出陣して以来、二か月以上経っている。延宗からの情報によると、絳川の竜頭城を攻略したものの、平陽の白馬城の籠城戦は難航しているという。
『兵は拙速なるを聞くも、未だ功久なるを賭ざるなり。夫れ兵久しくて国の利する者は、未だこれ有らざるなり』
戦争には、拙速ということはあるが、恒久という例はない。そもそも、戦争が長引いて国家に利益があるということは、あったためしがない。と『孫子』にある。戦は長くなればなるほど、長恭の危険が増すのだ。
「おおい、・・青蘭」
『孫子』を手にしていた青蘭が正房の方を振り向くと、延宗が露台から続く小径を走ってくる。青蘭は、にじんだ涙を拭くと、立ち上がった。
「延宗様、何なの?取り次ぎもなしに」
青蘭は、唇を尖らせて横を向いた。
「青蘭、・・五月には、兄上が凱旋だ」
延宗は乱れた髪のまま、笑顔で言った。
「凱旋?・・・本当に師兄が戻ってくるの?」
「今朝、軍報がとどいたのだ。お前に早く知らせたく、・・・急いで来た」
延宗は四阿に入ると、青蘭が差しだした茶杯を一気に飲み干した。
「きっと、王位も賜るさ」
「私は、爵位なんてどうでもいいの」
褒賞を欲張ると、長恭が無事に帰れない気がする。
「青蘭、王位は兄上の望みだ。王位の褒賞なくして、御祖母様が婚姻を許すと思うか?」
延宗は、青蘭を睨むと唇を歪めてた。戦の褒賞は、軍監の報告と陛下の評価にかかっている。たとえ武 勇を示しても褒賞に直結するとはかぎらないのだ。
「もちろん、皇太后のお許しは欲しいわ。でも、私の願いは師兄が無事戻ること・・・それ以上は望外な
望みです」
延宗は、菓子をもう一つ口に頬張ると不機嫌に四阿を出て行った。
青蘭は咲き始めた夾竹桃の赤い花を見上げた。長恭が戦から無事に帰ってくるだけで、幸運だと思わなければならない。それ以上を望めば、きっと私欲になる。
★ 長恭の凱旋 ★
五月に入って、斛律衛将軍が凱旋するとの報が公にされた。北周が進出していた絳州を奪還し占領を確かなものにするなど、多くの戦果を挙げたのだ。
皇帝以下主立った廷臣が、斛律将軍が指揮する中軍の凱旋を、宮城の正門である中陽門で出迎えることになった。斛律将軍率いる中軍は、城門から長槍の歩兵を先頭に入城する。騎馬の斛律将軍以下各将軍や軍師、軍監、参軍などが、騎馬で中陽門大街を凱旋するのだ。
凱旋の日、青蘭は巳の刻に鄭家を出ると、開化坊に面した中庸門大街に向かった。これほどの男女が鄴城に居たのかと思わせる人出である。北周による汾州の浸食は、北斉の懸念であった。汾州から北周の勢力をいっそうした斛律将軍の働きに、人々は沸き立っている。
「さすが、斛律将軍は、中原一の大将軍だ」
「斛律大将軍がいれば、怖いものなしだ」
凱旋の軍を出迎える民衆の中からは、中原で最強の斛律衛将軍を讃える言葉が、あちらこちらから挙がっている。
夏のぎらぎらした太陽が中天から人々を照らし、大街には陽炎が立ち昇っている。熱さで気が遠くなるかと思ったとき、中軍の軍旗と戟の林立が見えた。
騎兵が城門より入城してきた。青蘭が薬舗の基壇に上がると、ひときわ大きな駿馬に跨がった斛律光衛将軍の姿が見えた。斛律光は四十代半ばで、張った顎に豊かな髭を湛え鋭い眼光が辺りに威を払っている。斛律将軍が身につけた黒明鎧が、真夏の陽光を浴びて力強く輝いている。
青蘭は、斛律光の後ろに視線を走らせた。斛律将軍の後ろには、軍師以下属将が続いているはずである。
後ろに続く属将の中に、明光鎧を纏った長恭が見えた。豊かな黒髪をたばね、翡翠を鏤めた銀色の冠が長恭の秀麗な美貌を一層引き立てている。長恭の茜色の斗篷が後ろになびく髪に明るさを添えてた。日焼けした頬に清澄で凜々しい瞳がじっと前を見据え、美しい唇が固く結ばれている。
青蘭は、長恭をよく観ようと背伸びをして、手を小さく振った。
長恭は、騎上からさり気なく視線を左右に配り、青蘭を探した。どこかにいるはずなのに、人出が多くて青蘭を見付けることができない。ああ、早く青蘭の顔を見たい。掖庭にさらわれた、昨年の苦い経験が、長恭を不安にさせる。
中陽門大街の半ばを過ぎたころ、長恭は薬舗の前に佇む青蘭をみつけた。長恭を見つけた青蘭は、笑顔で大きく手を振った。
『ああ、・・・青蘭、やっぱり来てくれたのか』
引き締めようとしても、唇が自然にほころんでくる。そうなんだ、この笑顔に会うために戦塵にまみれて戦ってきたのだ。大きく片手を挙げた長恭は、青蘭の方に笑顔を見せ馬上で小さく拱手した。
無骨な武勇を誇る将軍達の中で、若く眉目秀麗な長恭はどうしても衆目を集める。群衆の中に佇む青蘭は馬上の長恭に声を掛けることもできず、中陽門に向って行く姿を黙って見送るほかはなかった。
「見て、あの方、・・・なんて麗しい若様なの」
「素敵な御方。こちらを向いて笑ったわ」
長恭が顔を向けたあたりの女人達は、そんな会話をしながら袖を引き合っている。長恭が表舞台に立てば、注目を集める機会も多くなり、憧れる女子も増えるに違いない。
積もる話があるのだ。早く、師兄に二人だけで会いたい。凱旋の行列を見送った青蘭は、一人鄭家に帰った。
★ 戦勝の宴 ★
皇城の正門である中陽門では、今上帝高洋が皇后李姐娥以下高官達を従えて斛律衛将軍を出迎えた。そして、太武殿の前庭では、文武百官による盛大な凱旋式が執り行われた。二刻の後、太武殿の朝堂で戦勝の宴が開かれた。凱旋式の後、斛律将軍以下おもだった将軍たちが戦勝の宴に参列した。
太武殿の堂には、今上帝高洋と皇后李姐娥を正面にして、左右に斛律光衛将軍と丞相の楊韻が座している。左右には漆塗りの几が三列に配され、戦塵の香を纏った諸将が座を占めている。
開会の辞が内官から発せられて、優雅な衣をまとった官妓が堂内に入場した。西域風の音楽に合わせた妖艶な官妓の舞踊が凱旋の宴を盛り上げた。官妓が引き上げると、皇帝の高洋が立ち上がった。
「こたびの遠征では斛律衛将軍の武勇により、黄河の要衝を手に入れて周に大きなくさびを打ち込めた。おおいにめでたい。今日は心ゆくまで飲むがよい」
高洋は酒を満たした金杯を高く掲げると、飲み干した。
堂の入り口近く、南東に座を占めた長恭は、前に座る鮮卑族の将軍たちの後ろ姿を眺めた。若い宮女が酒瓶を持って歩み寄ると、しなを作って長恭の酒杯に酒を注いでいく。美貌の皇子の凱旋は、宮中の女子の注目の的であった。
長恭は酒杯を取ると、強い酒を口に流し込んだ。絡みつくような宮女たちの視線を避けるように、目を閉じる。ああ、激烈な冀州での戦いが瞼に浮かぶ。ぐっさっと来る剣の手応え。初めて人を殺した。その時は、身体が震えた。しかし、やがては血しぶきを浴びながら無慈悲に檄を振るえる自分がおそろしくなった。自分は獣なのか。それとも、高家の残虐な血筋だろうか。
青蘭に早く会いたい。青蘭の笑顔を見て、あの温かい身体をだきしめたい。そうしなければ、自分は人に戻れない気がする。
「長恭殿の武勇には驚かされたぞ」
右斜め前の席の独狐永業が、酒瓶を持って話しかけてきた。
独狐永業は、兵糧を取り仕切る実務に長けた人物である。武勇ばかりを誇る鮮卑族の武将が多い中で、独狐将軍は学問にも優れ論理的な話のできる信頼できる人物である。宮女が長恭の酒杯に注ごうとするのを手で制して、永業は自ら長恭の杯に酒を注いだ。
「武勇などと・・・諸将には叶いません」
長恭は若者らしい笑顔を見せると、酒杯に口を付けた。
「いやあ、そなたは化粧をすれば、宮女より美しいのに、剣を取れば敵なしとは恐れ入ったよ」
独孤永業は、舐めるような目付きで長恭の顔を見た。
『宮女より美しい?・・・これは、褒め言葉なのか?私を侮っているのか?』
『女にも見紛う』それは、幼少の頃より長恭を苦しめてきた言葉だ。美貌であるが身分の低かった母親の出自を侮蔑するとき、後ろ盾を持たぬ長恭の立場の弱さを揶揄するとき、その言葉は容赦なく長恭に投げつけられた。長恭の美しい眉目が怒りに燃えるも、何の反撃もできない悔しさに心が凍りついたのだった。
「何を言われる。・・・私は粗忽者ゆえ、剣を振るって国を守ることしかできません」
長恭はいつになく、ぶっきら棒に言うと唇をかんで横を向いた。
酒の勢いとは言え、温和な人柄だと信頼していた独狐永業に思わぬ恥辱を受け、戦勝気分はすっかり台無しになっていた。
近衛軍の若い将兵による剣舞が始まった。
「まったく、宮女より美しいなどと、・・・独孤永業は、礼儀を知らぬ輩だ」
隣の席の斛律須達が、膝を進めて長恭の杯に酒を注いだ。須達は斛律光の次男で、長恭の剣術・射術の師匠であった。斛律蓉児の手巾の件により、一時は気まずくなったが、こたびの調練や出陣により関係は回復していた。
「長恭、気にするな、・・・あれでも褒めているつもりなんだ。悪気はない」
須達は、長恭の嫌気を払うように言うと肩を叩いた。
「今回の戦で、そなたはめざましい働きをした。褒賞が楽しみだな」
須達は、長恭の気を引き立てるように目に皺を寄せて笑顔を作った。
「凱旋の時の城内の娘達の目の色を見たか?・・・そなたの方ばかり見ていたぞ」
須達は酒杯で長恭の肩口を突くと、長恭の酒杯に軽く打ち付けた。
夕闇が迫り、堂に燈火が灯された。剣舞が終り、教坊の官妓たちの扇情的な踊りになっても、宴は終了の気配がなかった。
強い酒で乾杯が繰り返され、徐々に理性が失われていく。長の戦で女人に餓えた男である将達が、給仕に当たる宮女に卑猥な言葉を投げかける。男の中にも、長恭に粘り着くような好色な視線を向け、酒瓶を持って寄ってくる輩もいる。
『ああ、何事にも動じないほどの地位と人に認められた強靱さを身に付けたい』
長恭は、不快に目を細め深く息を吐いた。
その時、太武殿の宦官が、小走りにやって来た。
「高侍郎、皇太后様が、お呼びでございます。今すぐに宣訓宮に戻るようにとの命で、内官が来ています」
男であって男でない宦官は、清澄な長恭の瞳を見ると顔を赤らめた。
「分かった。すぐ行くと伝えてくれ」
以前、皇太后は気に染まない宴に長恭が出ていると、遣いを差し向け中座の助け船を出してくれた。しかし、こたびは三か月も会っていないので、本当に具合が悪いのかも知れない。
長恭は、回りの諸将に挨拶をすると、席を立った。
朝堂を出ると、扉の傍らで側仕えの宦官である吉良が待っていた。
「皇太后に、何かあったのか?」
「皇太后様は、お元気でいらっしゃいます。若君、皇太后が早く顔を見たいとお呼びでございます」
吉良は、笑顔で拱手した。凱旋の宴を中座は許されないが、皇太后の要望には逆らえない。長恭は、吉良の後から太武殿の階段を下りた。歩哨が立つ前庭には、深い闇が広がっていた。
★ 婁氏の約束 ★
長恭は、宣訓宮に戻ると喜び勇んで正殿に駆けつけた。
こたびは、武功を挙げたと自信を持って言える。できるだけ早く御祖母様に会うのだ。そして、青蘭との婚姻を許してもらうのだ。
「皇太后は、すでにお休みになりました」
自分を待ってくれていると思っていた祖母は、戻ってみるとすでに寝てしまっていた。凱旋の宴から急いで帰ってきたのに、就寝してしまったという。まさか、約束を守りたくないために、顔を合わせないのか。
長恭は仕方がなく、清輝閣に戻ると入浴をして就寝した。
次の朝、長恭は洗面も早々に、祖母のいる正殿に再び出掛けた。
「御祖母様、無事に戻って参りました」
居房に通された長恭は、膝をつくと婁氏に向かって拝礼をした。
「おお、おお、長恭よ、よく無事で帰って来た」
榻から立ち上がった婁氏は、長恭の手を取って立ち上がらせた。
「昨夜は、祖母に会いに来てくれたそうだな。・・・年寄りは夜が早い。早く寝てしまって会えなんだ。粛や、・・・今日は朝儀もないのに、いやに早起きだな。朝餉を食べたか?」
祖母は、婚儀の約束などすっかり忘れてしまったように朝餉に誘った。
「今朝は、ゆっっくりと朝餉がとれる。お前のために、好物を料理させたのだ。まずは朝餉を食べよう」
婁氏は長恭の手を引くと、朝餉が準備された食盤の前に連れて行った。
長恭は申し訳程度に料理に箸を付けると、じれたように祖母を観た。
「長恭よ、そなたの目覚ましい戦功が、戦報に載っていた。祖母は誇りに思うぞ」
「嬉しゅうございます」
長恭は、小さく拱手した。
「それでは、・・・」
「数日内に、こたびの戦の褒賞がでよう。そなたの武功なら郡王の爵位が賜れよう」
「そうしたら、求婚書を、鄭家に送っていただけますか?」
そうだ、この時を逃してはならない。長恭はすかさず求婚の件を言ってみた。
婁皇太后は、取り寄せた葡萄の皮をむくと長恭の皿にのせた。今年で十七歳になる長恭は、戦での働きや散騎侍郎としての職責を鑑みても、十分王位に値する働きをしている。郡王としての格式を持って、青蘭を娶ることができれば、兄達に引けを取らない婚儀が挙げられるのだ。
「そうよのう・・・王位の叙爵があったら、縁談を進めよう」
「本当に、王青蘭との婚姻を許してくださるのですか?」
他の令嬢との婚姻など持ち出されてはたまらない。長恭はもう一度確認した。
「御祖母様、感謝します」
立ち上がった長恭は、深く拱手した。
★ 青蘭との再会 ★
朝の顔家の南門は、多くの弟子たちでごった返している。目立たないように馬車を南門の近くに停めた長恭は、馬車の窓から外をうかがった。
貴族の婚姻では、本人が直接申し込むことをよしとしていない。求婚書を携えて代理人が訪問するまで、王青蘭と会うことは良くないのである。しかし、もう三ヶ月近くも青蘭の顔を見ていないのだ。会いたくて、密かに晴児を通して連絡を取ったのだ。
何度目かに窓を開けたとき、顔氏邸の門前に鄭家の馬車が停まり王青蘭が藍色の袖をひるがえして降りた。
「青蘭・・・」
長恭はたまらず馬車からと飛び降りると、青蘭に近づいた。
「青蘭、元気だったか?」
長恭は人目もはばからず青蘭の両手を握ると、青蘭の顔を見つめた。
「青蘭、・・昨日もどった。・・・」
門の前で手を握り合う秀麗な二人の若君は、自然に弟子たちの目線を集める。
「馬車に、入ろう。行きたいところがあるのだ」
長恭は青蘭の手をひくと、急いで馬車に乗りこんだ。
馬車の中に入ると、長恭は御者の存在など眼中にないように、肩を抱き寄せた。
「青蘭、夢じゃない。・・・本当の青蘭だ」
未婚の男女は距離を置くべきだ。そう思いながらも、青蘭は長恭の身体が心配になって腕をさぐった。
「怪我はしなかった?身体は大丈夫なの?」
青蘭は、長恭の怪我の有無を確かめた。長恭の広い胸からは、沈香とほこりの匂いが混じって立ち昇る。長恭は幾多の戦闘と戦塵を越えてこの鄴都に戻ってきたのだ。
「青蘭、・・・寂しかった」
「師兄、やっと会えた」
青蘭が見上げると、長恭は青蘭の頬を両手ではさんだ。長恭の容麗な瞳が顔すれすれに迫る。ああ、師兄と距離などとれるだろうか?
「御祖母様が、戦の褒賞で王位を賜ったら、鄭家に求婚書を送るといってくれた」
婚姻のお許しが出た?二人の仲をあれほど反対していた皇太后が、結婚を許してくれたというのか。
「皇太后がお許しを?・・・」
でも、噂では皇太后は、絵姿の収集を諦めてはいないと聞いた。
「青蘭、我らはこれからずっと一緒だ」
長恭は腕に力を込めると、唇を寄せてきた。
「師兄、それほど簡単なことかしら・・・」
青蘭が長恭に言葉を挟もうとすると、いきなり長恭の唇に塞がれた。長恭の唇がいくぶんか荒れている。距離を置かなければ・・・。青蘭は長恭の胸に手を遣り、身体を離した。
「青蘭、私を嫌いになった?」
青蘭は弱々しく小首をかしげた。
「その、・・・婚姻のお許しはほんとうかしら?皇太后は、令嬢の絵姿を集めているとか・・・噂で聞いたわ」
青蘭は、顔を逸らした。
「青蘭、それは以前のことだ。御祖母様の元に何枚か贈られたことがあったが、私は手に取ったこともない。・・・ほんとうだ」
青蘭は、そんな噂に心を痛めていたのか。噂はやまびこのように、後からやってくる。
「青蘭、安心してくれ。御祖母様は約束された。褒賞の勅旨がとどいたら・・・求婚の使いを出してくれる」
長恭の唇が、甘い慈雨のように青蘭に降りてきた。長恭の言葉を信じたい。二人の身体が、ゆっくりと壁際に倒れこんだ。婚儀を挙げれば、師兄と寝起きを共し、学問や詩賦について語り合えるそんな生活が待っているのだ。
「君と一生添い遂げる」
青蘭の耳に唇を寄せると優しくささやいた。
★ 爵封の勅使 ★
二日後、朝堂で斛律衛将軍以下の報償が発表され、各将の屋敷に勅使が派遣された。
斛律光衛将軍は、朔州刺史に任じられ北方の守備を担うことになった。それに伴って北斉の朝廷では、大幅な人事の異動が行われた。婁皇太后の甥の段韶は司空に登り、長恭の父親の三弟の高演は、大司馬となった。四弟の高湛は尚書令に加え司徒を兼ねた。
今上帝の高洋は、婁皇太后の息のかかった斛律光将軍と甥の段韶を、権力のある中央の顕官から外したのである。
その日、宣訓宮にも朝廷から勅使が訪れた。
長恭が盛装をして正殿で待っていると、勅使の内官が現われた。勅使を迎えた長恭は、宣訓宮の内官、侍女と共に北面して勅使の前に跪いた。
「高長恭は、聡明で勇敢、此度の戦功著しく全ての家臣の模範となるべきものである、ゆえに二品楽城県開国公の爵位を爵封し、食邑八百戸を授ける。以上」
宦官特有の甲高い声が響き渡ると、長恭は耳を疑った。楽城県開国公?弟の延宗の爵位からすると、何らかの郡王位を賜ると思い込んでいた。それが、どうだ・・・。弟にも及ばない開国公だ。
宦官に小声で促されて、長恭はやっと頭を上げて拝命の言葉を述べた。
「感謝、致します」
うつむいた長恭は、震える両手で聖旨を受けた。そして、勅使が帰った後も、長恭はしばらく立上がることができなかった。
『楽城県開国公?・・・なんで、開国公なのだ』
調練を厳しく行い、兵士たちを統率したと自負している。戦にあっては、自ら先陣に立ち勇敢に戟を振い、多くの首級を挙げた。諸将達の評価も決して低くない。
第五皇子で、何の武功もない延宗でさえ一昨年に安徳王の爵位を賜っている。それなのに、第四皇子である自分が戦功を挙げても、なぜ開国公なのか。王位を得ることが許されないのか。
長恭は他の侍女や宦官達が去った堂で、ゆるゆると立上がった。長恭付きの吉良だけが、傍らで心配そうに見詰めている。
「若様、・・・」
長恭は聖旨を掴むと、重い足取りで皇太后が待つ正房に向った。聖旨を受けたら、皇太后に報告しなければならない。
『淡々と、感謝を示して・・・』
母親の身分の低さゆえ幼き頃から侮りを受けても、平静を装って来た。他人に心の内の悔しさを見せず、誇り高く生きる事こそ自分を保つ術だったのである。
御祖母様は、明らかに王位を期待し確信していた。自分でも当然だと思っていた。しかし、皇太后の期待を裏切る結果だった。祖母が自分を寵愛してきたのは、常に期待を裏切らない孫だったからだ。
開国公では、青蘭との婚姻は許しが下りないかも知れない。でも、今回を逃したら、次はいつ戦功を挙げられる戦があるかわからない。長恭は居房への回廊を重い足取りでたどった。
居房には入ると、皇太后は房の窓際に立っていた。長恭が拝礼しようとすると、
「おお、粛か、礼はよい」
皇太后は、長恭の身体を腕で支えて立ち上がらせた。見上げた祖母の眉が曇っている。
「先ほど、開国公の爵位を賜りました」
婁氏は、聖旨受け取ると溜息をついた。楊韻と敵対する婁氏は、事前に叙爵の内容を知らされていなかったのだ。
「そうか、・・・私も知らなかった。まさか・・・」
ここで弱音を吐いてはいけない。長恭は奥歯を食いしばった。
戦功に合わせた叙爵を決めるのは、宰相の楊韻だ。楊韻にとって、自分は皇族を束ねる婁皇太后の秘蔵っ子として避忌すべき存在なのだろう。または、賄賂がなかったのが原因だろうか。もとより、御祖母様が、賄を渡すわけはないのだ。
「王位にはとどきませんでした。・・・私の力不足の結果です」
長恭は精一杯の気持ちを吐露すると、婁皇太后を見上げた。戦功に褒賞を受けたというよりも、罪を受けるような姿の長恭に、婁氏の心が傷んだ。
「粛よ、皇子がそのように簡単に跪いてはならない」
婁氏が立ち上がらせようとするが、長恭は首を振った。
「私のせいです。・・・お許しが、あるまで立ち上がりません」
長恭は、幼き頃より聞き分けのいい子であった。皇太后の意向を察して、何に対しても予想以上の成果を上げるのが常であった。
「王位にはとどきませんでしたが、青蘭との成婚をお許しいただきたいのです」
長恭が、予想もしなかった爵位に、恥も外聞もなく跪いている。
「そなたの武勇は、斛律将軍から聞いておった。それなのに、開国公だとは、・・・」
五弟以外の兄弟は全て王位を得ているというのに、長恭が開国公で婚儀を挙げなければならないとは・・。
「御祖母様、私は青蘭以外を娶るつもりはありません。どうか・・・」
多くの孫の中で、長男の高澄に最も似ている長恭の成婚は、王の格式で盛大に挙げさせたいと思っていた。しかし、数段落ちる開国公であれば、夫人である青蘭も何かにつけて引け目を感じるにちがいない。若い二人であれば、次の爵封に合わせての成婚も考えられる。
「粛よ、そなたは、我が手で育てた孫だ。これからの斉を背負っていく逸材だと期待している。成婚の時期は重要だ。・・・祖母にじっくり考えさせてくれ。下がって休むがいい」
祖母にここまで言われると、続ける言葉もない。長恭は、心を残しながら礼をすると清輝閣にもどった。
★ 皇太后の懸念 ★
長恭を目で見送った婁氏は、朱塗りの櫃に聖旨をしまった。
「秀児よ、長恭の開国公位を、どう思う?」
「楊令公たち、李皇后派の差し金でございましょう」
楊韻など漢人派の廷臣は、長恭など文武に秀でた皇族の台頭を望んでいない。延宗のような剣を振り回しているだけの乱暴者には王位を与えても人畜無害だが、長恭に郡王位を与えれば、侍中府での発言力を大きくしてしまうのだ。
「粛には、郡王位を与えて、華々しく婚儀を挙げさせてやりたかった。それでこそ、朝廷での道が開ける」
長恭の母の荀氏には、正式な妃にしてやることもできなかった。長恭は、祖母が結婚を阻んでいると思い込んでいるようだが、だれよりも盛大な婚儀を挙げることが荀氏への供養だと考えていた。
「すでに、四柱を調べさせているとお話になればよかったのでは?」
本来は、求婚書を取り交わしてから四柱を調べるのである。それを、すでに行っているということは、結婚を許しているということなのだ。
「それが、うかつに公にできぬのだ。何とも難しくてな」
叡徳は、四柱推命と骨相観で鄴の貴族には知られた高名な道士である。長恭の本当の四柱がもれれば、兄弟の長幼に混乱が生じてしまう。
青蘭は長恭にとって強運の源のようだ。それゆえ、成婚にあたっては万全のお膳立てをしたいのだ。しかし、開国公となればこの先多くの困難を越えていかねばならない。
「長恭は、爵位が上がるまで何年待てるであろう」
婁氏は、手にしていた扇子を強く握りしめた。
「皇太后が、若君を心配なさるのはわかります。・・・しかし、若君は強い運をお持ちです。必ず、運命を切り開いていかれるでしょう」
婁皇太后は立ち上がると、厨子を開け白玉の聖観音像に手を会わせた。
長恭が開国公に爵封されたため、婁皇太后は長恭と青蘭の婚姻の許しをためらうのだった。すぐに求婚がていた長恭は、すっかり気落ちしてしまった。