蘭陵王伝 別記 桃花の華燭 〔 ③ 北周との戦い 〕
青蘭との婚姻を手に入れるために、出征した長恭であるが、戦場では厳しい現実が待っていた。
★ 出陣式の朝 ★
三月五日、斛律光衛将軍の指揮の下、中軍に所属する高長恭は出陣式に臨んだ。
上党郡の西部、沁水と汾水に囲まれた地域が絳州である。北魏が東魏と西魏に分裂して以来、その国境に近い絳州は、たえず激しい攻防が繰り広げられてきた。
黃河は、古来より時代によってその川筋を大きく変えてきた。黃河が南から大きく東へ流れを変える要衝の絳州は、北斉の建国以来北周の支配下にあった。国力の充実した北周は、絳州の北に位置する晋州に進出し、晋州に属する平陽(白馬城)、秦平城、安平郡(冀城)の一帯にも周軍がたびたび侵略する事態となったのだ。
絳州から、副都の洛陽までは、僅か百里(四十キロ)しか離れていなかったため、絳州の支配を許すことは、斉の存亡に拘わるのである。
長恭は、参軍として馬丁の劉安と従卒の樂緯、そして三人の侍衛と共に出陣式の列に並んだ。
鄴城の中心である太武殿の前庭は、将兵で埋め尽くされていた。太武殿の基壇の上には、大きな台が設けられ、今上帝(高洋)が十二旒の冕冠をつけた盛装で立っている。
その左右には、皇后の李姐娥、そして尚書令(宰相)の楊韻が控えている。
多くの高官が居並ぶ中央の道を、斛律光衛将軍が黒明鏡の甲冑を着けて、階を登っていく。高洋は、緊張した顔で階段を昇ってくる甲冑姿の斛律光を見遣った。高洋は斛律光衛将軍の威光に気圧されることを恐れるように、将軍を一瞬睨んだが、すぐに苦い笑みを浮かべた。
斛律将軍は中原で最強の将軍であり、斉国の守りの柱石である。政に関わることを善とせず、権力争いから一歩ひいた将軍だが、勲貴派の巨星であり決して気を許してはならない存在であった。
浅黒い肌に、鋭い眼は光り、口に蓄えた髭は、これまでの斛律偉将軍の武功と民からの絶対的な信頼を物語っていた。
「皇帝陛下、万歳、万歳、万々歳」
礼に従って、全臣下による皇帝を言祝ぐ挨拶が雷鳴のような大号令で行われた。前庭に居並ぶ数千の将兵の中ほどで、高長恭が斛律須達と並んで斛律衛将軍の後ろ姿を見上げた。
「晋州への、出兵を命じる」
今上帝は、威儀を正すと皇帝らしい冷酷さを含む声で叫んだ。宦官の捧げ持つ櫃の中から虎符を取りだし、斛律光に差し出した。虎符は、兵権そのもので、辺境においても兵や兵糧の徴集の権限を持ち、時には君主たる皇帝の勅命を無視することができるのだ。
斛律光は、甲冑の音をさせながら大きな身体で跪くと虎符を受けた。
「命に服します」
斛律光は、腹の底から絞り出すような声で応えると、鋭い眼差しで高洋を見上げた。斛律光は立上がると、基壇から一段降りて南面し、虎符を示しながら叫んだ。
「者ども、汾州へ出陣だ」
二千人の地鳴りのような将兵の喚声が前庭に響き渡った。
斛律光が率いる勲貴派の武力こそ、斉国の皇帝たる高洋の力の源泉だ。斛律光による一糸乱れぬ軍の統率と軍律は、中原一帯に知れ渡っていた。
高洋は、止車門を出ていく将兵の騎乗姿を見送った。斛律衛将軍の軍事力は、鮮卑族である高一族の権威の根源である。しかし、高洋が斉の政を統べるに当たっては、勲貴派の将軍たちや皇族は常に脅威であり乗り越えなければならない一大勢力なのである。
★ 出陣の見送り ★
青蘭は、中庸門街の開化坊の前で出陣の軍列を待った。
出陣の行列は、含光門から中陽門を通り、中陽門街からまっすぐ南下して城門を出る。そして、城外の軍営にいる中軍の本隊と合流することになっていた。
午の刻(午前十二時~午後二時ごろ)である。三月の春の陽光が大街に溢れ、出陣を祝う民の熱気が城内に満ちていた。鄴城には人が多いが、どこから湧いてきたのかと思うほどの人出である。
ほどなく、中陽門の方から喚声が聞こえた。まずは長槍の歩兵の列が現われ、次ぎに騎兵が続いた。
力強い黒馬にまたがる斛律光の威厳に満ちた姿に、一段と大きな歓声が沸く。斛律光は、当時中原最強の武将であった。その武功は他の追随を許さず、民の人気も絶大であった。
斛律衛将軍の後ろには、軍師、長史、司馬、従事中郎、中領軍、中護軍、参軍などの幕僚が続いた。
青蘭は、長恭の明光鎧を参軍の列の中に見付けた。壮強な将兵の中で、優美な明光鎧姿の長恭は目立つ。秀麗な眉目が白い肌に映え、愛馬の俊風が進むたびに髷に結った黒髪が、背中でなびいている。
長恭は、騎上から青蘭を探した。中庸門街を進むと、薬房が見えてくる。昨年の夏、青蘭が見送ってくれた場所だ。薬房の店先に青蘭が立っているのが見えた。今日の青蘭は、女子の格好をしている。青磁色の上襦に葡萄色の長裙を付け、鴇色の外衣を身につけた姿は、多くの人々に囲まれても決して埋もれることはない。髪を高く結い母の形見の珊瑚の簪が、黒目がちの瞳によく似合う。
長恭の唇が自然に綻んで、手綱を握った手を振った。不安げにさまよっていた青蘭の瞳が、喜色に染まった。
『必ず、手柄を挙げて、君を娶る』
唇の形でそう言うと、長恭は青蘭に小さく拱手をしだ。これから、何ヶ月も会えないのだ。どうか、無事に戻って欲しい。
青蘭が手を降ると、長恭が花顔を向けた。その時、青蘭の周りの女子たちから歓声が上がった。手綱を握る端正な長恭の横顔が前を通り過ぎる。城門の方に向う長恭の後ろ姿は清高で、どこまでもついて行きたい。
「ねえ見た?小梅、あの若君が私に手を振ってくださったわ」
「ええ?・・どこの若君ですか・・・」
二、三人向こうで、十五、六歳ぐらいの令嬢と年嵩の侍女が話している。
「何て素敵な方・・・私を、見初めてくださったのだわ」
少女は夢見心地でそう言うと、侍女は困惑して令嬢の手をひいてその場を離れた。
『師兄が知らなくても、師兄に思いを寄せる女人は多い』
名も知らぬ少女だってそうなのだ。多くの令嬢の想いを集めているに違いない。
長恭は、母に婚儀の意志を示し、周との戦での手柄の褒美として婚姻を許してもらうと言っていた。しかし、降るほどにあるだろう長恭の縁談のなか、長恭との成婚の許しが簡単に降りるとは思えない。
青蘭は、大きく太陽が傾いた頃、鄭家の屋敷に戻った。
★ 斉軍の戦況 ★
斛律光の率いる斉の軍勢は、三月の初めに鄴都を出発すると、上党郡の壼関城を経由して安平郡に入った。安平は、黃河の支流の沁水の辺に位置する交通の要所である。斛律光は、安平に本拠を置くと翼城の攻略にかかった。
翼城は、東の山地の河川が合流し、汾水の支流に合流する辺りに造られた城である。そして、汾水は西に流れて大河の黃河と合流するのである。汾水の上流の晋陽や南の朔州を支配している北斉であるが、黃河が、南から東に流れを変える絳州の地域は、北周の勢力範囲であった。この流域の城の支配は、水運の支配権を意味し軍事上でも重要な地域であった。
長恭は、翼城攻略に参戦していた。
『孫子』の謀攻篇は言っている。『軍を全うするを上と為し、軍を破るはこれに次ぐ』
斛律光は、およそ五千の兵を翼城攻略に向わせた。斛律光指揮下の軍は、当時中原や江南をふくめ最強の呼び声高い軍隊であった。安平から翼城に向かって斉軍歩騎五千が翼城に迫ると、翼城を守備している兵は浮き足だった。
通常城攻めには、守備兵の十倍の兵力が必要であると言われる。しかし、斛律光は翼城内に間諜を潜伏させ、民衆の心を揺さぶるとともに攪乱工作に出たのだ。斛律光は五千の兵騎を急襲させると、兵糧に火を放って城兵に打撃を与えた。城内の民や城兵の士気を失わせた上で、攻撃を仕掛けたのである。
斉軍はあえて西門の攻撃を手薄にした。退路を残すことにより城兵の士気を削ぎ、白馬城への撤退を促しながら、長恭たち斉軍は、城内になだれ込んだ。
斛律光の威名は周にも轟いていた。斛律の軍旗を見ただけで、敵兵は足をすくませ戦意を喪失するほどであった。しかし、必死の抵抗を試みる城兵との血みどろの白撃戦が繰り広げられ、多くの無辜の民が逃げ遅れて斬殺された。
長恭は、南門からなだれ込むと馬上から檄を揮った。長恭の強力な檄は、斉の将兵をなぎ倒し地面に沈めた。下馬した長恭は、その端正な容姿とは裏腹に、鬼神のごとく剣を振るい多くの敵兵を打ち取っていった。華麗な長恭の鎧が、敵兵の血しぶきで赤く染まった。
数百の周兵は包囲されていなかった西門から脱出して行った。その多くは、西に位置する白馬城のある平陽に落ち延びていった。
斉軍は、ほとんど無傷で翼城と兵糧を得ることができたのである。安平に駐留する斛律衛将軍は、いよいよ絳州の攻略に取りかかった。
★ 長恭の嫁選び ★
長恭が出陣してから、青蘭は毎日のように学堂に通い、講義を受けるようになった。鄭家にいては、戦況の噂も伝わってこないからである。陣中からは、定期的に軍報が朝廷に届いているはずである。本来は機密事項であるが、官吏が頻繁に訪れる顔氏学堂では、どこからともなく戦況が噂として学士たちの口間に上るのだ。
国境の地名や斛律将軍の名前が出るたびに青蘭は耳をそばだてたが、戦況については時々耳にするも、参軍にすぎない高長恭の情報はまったくなかった。青蘭にとって、長恭の無事を願いながら学問に専心することが、自分にできる唯一のことだった。
「晴児、先日買った料紙を嚢に入れておいて」
青蘭は朝食の鶏の粥を口に運びながら、晴児に命じた。今日は、南朝からきた学者の本草学の講義があるのだ。
「先ほど賈主様から、今日は早く学堂から戻るようにとの言伝でした」
「母上から?」
「はい。夕方からお嬢様と一緒にお出掛けになるところがあるそうです。女子の装束でとおおせでした」
女子の装束で出掛ける?いったい母上は、私を連れて夕方からどこへ行くのだろう。以前はその存在を隠そうとした私を、なぜ人前に出そうとするのか。
青蘭は残りの焼餅を口に押し込むと、嚢を持って居所を出た。
青蘭は未の刻に学堂から戻ると、女子の衣装に着替え、母親と一緒に馬車に乗りこんだ。
「母上、今日はいったいどこへ行くのです?」
いつになく豪華な衣装を着せられて、青蘭は居心地悪げに衿を合わせた。
「今日は馮翊王府に行く」
「馮翊王府とは、大車大叔母様のところですか?」
鄭大車は、桂瑛の父述祖の妹で、桂瑛の叔母に当たる。文人として名高い祖父の薫陶を受けた大車は、若い頃経書の素養と美貌を併せ持つ令嬢として広く知られていた。そして北魏の皇族であった広平王元悌の妃となった。
しかし、高歓と宇文泰の対立で、北魏は東魏と西魏に分裂した。その混乱の中で広平王元悌はあえなく亡くなり、鄭大車は未亡人となったのだ。その後、大車は東魏の宰相となった高歓の妃となり馮翊王高潤を生んだのである。馮翊王高潤は、母親譲りの端正な美貌が有名だったが、母親との親密な関係が噂されていた。
「ええ、大車叔母上の所よ」
鄭家は鄭道昭など多くの学者を輩出する家系だが、鮮卑族の王朝では不遇であった。高歓の妃となった大車の威光と商賈を起こした大叔父の鄭仲礼の働きによってどうにか面目を保ってきたのである。
「馮翊王の婚姻が決まったので、結納品について打ち合わせにいくのだ」
鄭氏一族の出である大車を母とする馮翊王の婚姻となれば、鄭賈を取り仕切る鄭桂瑛が、無関係ではいられない。結納品や婚礼に関わる品々を調達しなければならないのである。
また、高歓の妃であった鄭大車は、自分の大叔母であると共に長恭の義理の祖母に当たるのも事実である。多くの妻妾を持っていた高歓には、皇太后所生の嫡子以外にも数多の庶子がいた。
馬車は戚里にある馮翊王府の前で止まった。
鄭桂瑛と王青蘭の母娘は、 大門を入ると北殿に案内された。質素を旨とする宣訓宮と違って馮翊王府は贅を尽くした豪壮な造りである。
「叔母上、馮翊王の婚約、おめでとうございます」
桂瑛は礼儀の通り祝の言葉を述べると、結納品の目録を差し出した。
正式な婚儀には、婿側から多くの結納品を贈るのが慣例になっている。その豪華さで馮翊王府の権勢と婚儀にかける気持ちが示せるのである。
「ふうん、大体いいわね。でも、絹をもう少し多くしないと、・・・」
「叔母上、今年は江南で桑が不作なため、絹布の値段が高騰しているのです。絹を増やすと他の玉などが少なくなりますが・・・」
桂瑛は、あくまでも賈人の顔で言った。
「潤に、粗末な結納をさせられない。鄭賈がここまで大きくなれたのは、誰のお蔭かしら?」
大車は、髪に挿した金歩揺をシャラシャラとさせながら、桂瑛を睨んだ。
鄭家で商賈を始めたのは、大叔父の鄭仲礼であったが、その仲礼が高歓の暗殺を企てたとの罪を得て、死罪を命ぜられたのである。連座で鄭家に累が及ぼうとしたときに、身を挺して一族を救ったのが大車であった。大車のお蔭で、鄭家は連座を免れ、商賈は弟の鄭述仁に引き継がれたのである。
「叔母上の恩は決して忘れておりません。鄭賈からの祝の品も用意するつもりでした。要望通りの絹を取り寄せます。ご安心を・・」
桂瑛は慇懃にうなずくと、青蘭に持たせた小さな櫃を差し出した。
「これは心ばかりの品でございます」
大車は、中の銀子を確認すると横にいた侍女に渡した。
青蘭は、絹張りの窓から差し込む西日に照らされた大車の顔を見遣った。青蘭の大叔母に当たるが、三十代後半の母親に劣らない若さを保っている。
「ああ、そう言えば紹介が遅れました。これが娘の王青蘭にございます」
桂瑛は、横に控えた青蘭を紹介した。
「王青蘭にございます。太妃様にご挨拶を」
青蘭が揖礼をすると、大車は、値踏みするような鋭い眼差しで青蘭を見た。
「ああ、別れた王琳将軍との間の娘ね。・・・鄴に来ているとは聞いていたけれど、大きくなった」
息子の王恵が王琳と行動を共にしている現在、娘が鄭家に来た意味は大きい。
「賢そうな娘だ。将来が楽しみだ」
大車は侍女に茶を用意させると、青蘭にも椅子を勧めた。
「花嫁は廷尉少卿の李稚廉殿の令嬢であるとか。貞淑で美しい娘だと聞いています」
「そうよ、李昌儀に頼んで相手を探したけれど、なかなかいい娘が見付からなくて・・・李稚廉の娘になったのよ」
大車は李稚廉の娘では不満だというように、茶杯を手にすると溜息をついた。
「馮翊王は、見目麗しく高官の令嬢が憧れる貴公子ですわ」
桂瑛は、珍しくお世辞を言うと笑顔を作った。
「昨年から皇太后が令嬢たちの絵姿を集めているという噂があって、権門の令嬢たちが色めき立っているというの。だから、縁談をまとめるのが難しかったわ」
絵姿は、花嫁候補の容姿を吟味するために集められるのである。
「皇太后が絵姿を?どの皇子のためなのかしら」
皇太后、花嫁候補の言葉で、青蘭の心がざわついた。
「もちろん、愛孫の高長恭よ」
皇太后が、長恭の花嫁を探している?青蘭は耳を疑った。戦功を立てたら婚姻を許してくれるとの話だったのに、何かの間違いだろうか?高歓の側室だった大車は、正妻の婁皇太后には敵愾心がある。長子高澄の忘れ形見である愛孫の高長恭には対抗心を燃やしているのだ。
「高長恭を侍中府に押し込んだから、今度は気に入った妻を娶らせるつもりなのよ」
後宮に頻繁に出入りしている大車大叔母の情報は、信憑性が高い。いまだに師兄の花嫁候補を探しているということは、皇太后には自分を孫嫁にする気は無いのだ。君主に仕えるは、虎に仕えるが如しであるという。長恭との約束など、皇太后の気が変われば花弁のごとく握りつぶされてしまう。青蘭は、苦しさに胸を押さえた。
鄭桂瑛は、右に座っている青蘭の顔をチラリと見た。出征前、長恭は戦の手柄によって祖母の許しを得ると求婚してきた。しかし、皇太后はその約束を果たすつもりはないらしい。桂瑛は青ざめた青蘭の顔を正視できなかった。愛する者の縁談の話を冷静に聞いていられる女子はいない。
青蘭はほとんど喋ることなく馮翊王府を後にした。
★ 自分の人生 ★
馮翊王府から戻った青蘭は、大車大叔母の言葉が心に掛かって夕餉の膳に箸を付ける気になれなかった。皇太后との約束は、嘘だったのか?・・・それとも、皇太后は長恭と約束しながら、依然として嫁選びを諦めていないのか。皇太后が嫁選びを続けていというなら、長恭が無事だという報告があるからなのかも知れない。
榻牀に座った青蘭は不安と安堵の両方を抱いて『玉台新詠』を手に取った。これは鄭家に戻ってから、手に入れた詩賦集である。
秦嘉の『婦に贈る詩』である。
人生は朝露の譬く
世に居るも屯蹇多し
憂艱は常に早く至り
懽会は常に苦だ晩し
人に人生ははかない朝露のごとく
生きている間も苦難が絶えない
辛いことはすぐやってくるのに
楽しく会える時は 常にとても遅い
長恭は汾州方面に出征したという。汾州は北周と北斉との最前線で、毎年のように激戦を繰り広げてきた。中原で最強の斛律将軍の指揮とは言え迫撃線になれば、怪我を負ったりや命を失わないとも限らない。成婚を望む新兵が、武功を焦って命を落とす話は耳にしたことがある。
神様に愛されすぎた者は薄命だという。師兄は大丈夫なのだろうか。青蘭は長恭から贈られた玉佩を握りしめた。
★ 崔叔正との出会い ★
皇宮の東に広がる戚里を東に馬車を走らせると、奥まったところに漢人官吏の屋敷の一角がある。崔叔正の屋敷は東の城壁の近くにあった。
顔之推と王青蘭が、門前で馬車から降りた。王青蘭は、いつものように男の髷を結い地味な書生の装いである。
「ここが崔叔正の屋敷だ」
門は古びて塀はところどころ崩れている。顔家の従者が案内を請うと、中から家人が現れて三人を門内に招き入れた。ひどく簡素な屋敷で、内院には数本の松が植えられているだけである。
「こちらが,以前に紹介した王将軍の令嬢の王青蘭だ」
正房に入ると、顔之推は崔季舒(叔正)に青蘭を紹介した。
「王青蘭が、崔叔正殿にご挨拶いたします」
青蘭は崔叔正に揖礼をした。
崔季舒は、崔瑜之の子として生まれ、字は叔正という。若くして父を失ったが頭脳明晰で高歓に気に入られ大行台都官郎中に抜擢された。高澄が宰相になると重用され、中書の中丞として政の中枢にあった。しかし高洋が東魏の実権を握ると一転誣告されて北辺に流されたのである。
北斉が建国されると高洋は叔正の無罪を知り、中央に戻された。有能な崔叔正はほどなく将作大匠に抜擢された。叔正は官吏として着実に職責を果たすと共に、医術を好み、都ではもちろん流刑先でも研鑽を重ねて医術に造詣が深かった。治療に関しては名手と言われる腕前であった。
崔叔正は、青蘭をまじまじと見た。商賈の令嬢といえば、贅沢を競うのが普通であるが、青蘭は質素な男の身なりをしている。
「王青蘭は、王琳将軍の息女で鄭家の娘でもある。我が学堂で以前より学問に励んできた。男の格好をしているのは、学堂内にいらぬ影響を起こさぬためだ。こたび医術を学びたいと言ってな・・・それで叔正殿に学堂で講義をしてくれぬかと頼みに来た」
叔正は、二人に椅子を勧めた。王青蘭は年のところ十四、五歳であろうか瞳が美しい少女である。貴族の娘であれば、もうすぐ婿を選び嫁ぐ年齢である。年頃の令嬢が医術を学びたいとは、めずらしい。
「青蘭殿は、なぜ医術を学ぼうと思っうのだ」
叔正は、二人に茶を勧めた。
「江南にいたとき、戦火の中を逃げ惑う人々を目の当たりにしました。飢えと病に苦しんでいました。医術を学んで民を助けたいと思ったのです」
崔叔正は青蘭の顔を顔を真っ直ぐに見た。南朝の将軍である王琳に従っていれば、多くの悲惨な場面を目にしたことだろう。その経験から医術を志したのか。
「今までに女子の医者がいなかったわけでは無い。しかし、貴族の令嬢が直接患者を診れば、世の非難を免れまい。漢の女医である淳于衍のように、政治の陰謀に巻き込まれないとも限らない」
淳于衍は、後漢の宣帝の女侍医であった。ところが、淳于衍は霍光の陰謀に巻き込まれ、出産間近な徐平君に附子を飲ませたと言われ汚名を残している。
「私ごときが、義妁のような歴史に名を残す医者になろうとは考えておりません。鄭家では薬舗を経営しているので、医術の心得があれば医者の手助けができればと思っているだけです」
薬舗という言葉に叔正の眉が動いた。王琳将軍の娘は、鄭賈の令嬢でもある。薬舗の助けがあれば、多くの人々を助けることができる。
「そうか、確かに医術は人助けだ。・・・医術を学びたい者があったら教えるのもやぶさかではない」
頑固な叔正が、医術を教えるとは珍しい。
「有り難い。・・・実は、最近、儂も医術を学びたいと思っているのだ」
顔之推は、笑顔になると拱手をした。顔之推は、中原一の学者であるとともに、様々な分野に興味を持ち、琴棋書画にとどまらずト筮から算術・投壺まで諸芸に貪欲な人物であった。
「崔殿、・・・ありがとうございます。医術に精進します」
王青蘭は立ち上がると、感謝を示した。
蔵書の見学を許された青蘭は、家人の案内で蔵書庫に向かった。崔叔正は、若い頃から俸禄の多くを医術に関する書物につぎ込んできたのである。
青蘭は薄暗い崔府の蔵書庫の扉を開けると、中に進んだ。崔家は屋敷の造作が簡素であるにもかかわらず、蔵書庫には四書五経の書冊の他に、多くの医術に関する竹簡や書巻きが収蔵されている。
右手には『黄帝内経』の『霊枢』や『鍼経』、そして『素問』の竹簡が積まれている。中ほどに進むと『神農本草経』や『神農本草経注』・『本草経集注』なども並んでいる。青蘭はかび臭い書庫深く進むと、竹簡の袋に付けられている木札を手に取った。
「蔵書庫に、勝手に入り込んでいる不届き者はだれだ」
締めたはずの扉が突然開かれ、若い男が入って来た。東側の窓をふさいで書架を設けてある書庫の中は薄暗く、入って来た男はずんずんと青蘭に近づきその腕を捕らえた。
「お前は、誰だ?」
男は青蘭の手首をひねり上げた。
「誰だとは?・・・そう言うお前こそ誰だ?」
青蘭は、つかまれた手首を思い切り振り払った。窓から差し込んでくる陽光で服装を観ると、士大夫の子弟のようだ。
「俺は、・・・崔叔正の嫡子、崔鏡玄だ」
「私は、王琳の子で王青蘭。・・・今日、崔叔正殿に弟子入りを許された」
弟子入りしたと宣言した青蘭は、手首をさすりながら挨拶した。
「崔鏡玄殿に、ご挨拶を・・・」
拱手をしている姿をみると、十五、六歳の華奢な少年である。何でこの少年を弟子に?・・・父は弟子を取ったことがない。ましてや何の力もない子供を弟子にするとは信じられない。
「崔師父に、蔵書を見学してよいと許しをもらった」
父を崔師父と呼んでいる。鏡玄は薄暗い書庫の光の中、足元から青蘭を検めるように見た。王琳の名は知らないが、不機嫌に顔を背ける王青蘭は身分のある者の子息のようだ。
「父の弟子なら、・・・蔵書庫を案内しよう。・・・ここにある書物は、父が心血を注いで集めたものだ。大切に観てくれ」
鏡玄は、書架の竹簡を示しながら奥に進んでいった。暗さに目が慣れると、崔鏡玄は端正な顔立ちの青年であることが分かった。
「『黄帝内経』は一部しかないが、これほど揃えているのは皇宮の太医局ぐらいだ。・・・本草学の書物もある。『肘后方』など、鍼灸に関する書も最近手に入れた」
この時代は製紙の技術も発達して紙による書物も多かったが、古くからの医学書はほとんど竹簡に記されて残されている。高価な竹簡を手に入れるために、どれほどの労力と財物を要したのであろう。青蘭は質素な暮らし向きと思い合わせて胸が痛くなった。
一通り案内をしてもらうと、青蘭は鏡玄と一緒に正房に戻った。
崔家を辞すると、顔之推と青蘭は、馬車に乗り込んだ。すでに桃の花は散って、白い梨の花が塀の向こうから見える。長恭が出陣してから何日すぎただろう。
「青蘭、斛律衛将軍は、安平を平定し翼城の攻撃に向かったらしい。こたびの戦は、長く掛かるかも知れないな」
軍報の内容は機密事項で、皇宮内でも漏れることはない。しかし、顔之推は各方面に配された漢人官吏から情報を得ているに違いない。
「翼城を攻撃するとは、絳州の支配を狙っているのですか?」
絳州は、黄河が南から東に向きを変える水運の要衝にある。ここを支配するということは、黄河を軍事的にも産業的にも手中に収めるということなのだ。
「ああ、・・・よくわかっているな。そなたは長恭のことが心配なんだろう?」
青蘭は学堂に戻ってから、以前にも増して学問に励んでいる。しかし、やっと鄭家に戻ったと思ったら、出征するとはどういう訳なのであろう。長恭の話では、すぐにでも成婚しそうだったが。
「青蘭、長恭との婚儀は、進んでいないのか?」
「はあ、・・その話は・・・」
青蘭が言葉に詰まっているのを見て、言葉を止めた。婚儀が迫っているなら、崔氏への弟子入りなど考えないだろう。皇族との縁組みは難しい。ましてや相手が令嬢たち憧れの高長恭となれば、容易に話が決まるまとも思えない。
「そうか、思うようには行かないのが世の中だな・・・」
顔之推は蔀窓を押し上げると、蒼空を見上げた。
★ 医術の講義 ★
三月の下旬、顔氏学堂で崔叔正による医術の講義が始まった。儒学者である顔之推の学堂で、青蘭の他に講義を受ける学生は十名ぐらいである。その中に、叔正の嫡男である崔鏡玄もいた。
崔叔正は、『易経』を開いた。
「原初は、混沌であった。混沌の中から澄んだ明白な気、すなわち陽の気が上昇して天となり、濁った暗黒の気すなわち陰のきが下降して地となった。万物の事象は、二つの気によって構成される。これが陰陽である。人体もこの陰と陽の気がめぐり、調和を保って初めて秩序が保たれるのである」
崔叔正は書冊から顔を上げると、右前の席で一心に筆を走らせる青蘭を見遣った。豪商である鄭家からの束脩(入門の謝礼)と鄭賈からの生薬の納入は清貧を守る崔家には魅力的だった。それゆえ王青蘭の学問には期待していなかった。それが、これほど真剣に学問に向き合うとは意外であった。
「崔師父、二元論には善悪もありますが、陽が膳、陰が悪ということなのでしょうか」
左前に席を占めている申伯仁が、質問した。
「陰陽は、善悪ではない。能動的な性質を陽、受動的な性質を陰と分類する。一方がなければもう一方も存在しない。森羅万象、宇宙のあらゆるものは、相反する陽と陰の二つの気によって消長盛衰し、調和して自然の秩序が保てるのだ」
医術は、自然の一部である人体の失われた調和を取り戻す術なのである。
青蘭は、『易経』の余白に解説や疑問をびっしり書き込んでいると、いつの間にか講義は終わっていた。医術は単なる治療にとどまらず、人体を宇宙ととらえその均衡を図る哲学に他ならない。青蘭は医術の奥深さに頭を振った。
「その書冊を貸してくれない?」
座っている青蘭が声の方を見上げると、十三、四歳ぐらいの見慣れない少女が立っている。
「え?・・・この書冊を?」
「そうよ、熱心に書き込みをしていたでしょう?・・見せて欲しいの」
顔之推の弟子には、女子はいないはずだ。青蘭が戸惑っていると、崔叔正の息子である崔鏡玄が声を掛けた。
「講義を受けないで、他人の書冊を見ようとは、本末転倒だ」
学問に真っ直ぐな鏡玄は、少女に向かって顔を強ばらせた。
「あなたは,誰なの?」
少女は、鏡玄を睨んだ。
「お前こそ,誰なんだよ」
少女は、相当な気の強さだ。屈強な鏡玄に対しても一歩も引かない。
「私は、顔之推の娘の顔紫雲よ」
紫雲は胸を張って、一歩前に出た。
「俺は、崔叔正の息子の崔鏡玄だ」
顔之推の娘が長安から来たと噂で聞いたが、この鼻っ柱の強い娘が、そうだったか。
「女子が父の講義を聴くなんて、・・・やる気のない奴は学堂に入るな」
崔鏡玄は、捨て台詞を吐くと講堂から出て行ってしまった。どうも、二人は気が合わないらしい。
「紫雲、崔鏡玄は悪い奴じゃないんだが、一本気な性格で、・・・」
青蘭は鏡玄のために弁解しながら、筆硯を片付けた。顔之推の令嬢である紫雲が、鏡玄や自分と不仲では学問に支障をきたす。
「茶房に行かないか?・・・話したいことがある」
紫雲は世の女子とは、違った考えの持ち主のようだ。自分に似ているような気がする。
青蘭は、麗香房の二階の個室に案内した。
「さすが、鄴都は都会だわ。茶房にこんな個室があるとは、無骨な長安とは大違いね」
麗香房に登った顔紫雲は、窓から二階の風景を眺めている。
「最近まで長安に?」
「そうよ、父上は兄や弟だけを連れて、長安を脱出したの。母上と私は置いてけぼりよ。屋敷には衙門が踏み込んできて酷い目にあったわ」
「顔師父は、洪水に乗じて筏で長安を脱出したと聞いている。母子の安全を考えたのだ。悪く考えない方がいい」
青蘭は、紫雲の浅慮を指摘した。
「兄ができることは、私だってできるわ。・・・馬鹿にしないで」
紫雲は茶杯を手にとると、ぐいっと飲み干した。
「紫雲殿、ここは鮮卑族が牛耳る斉だ。腕っ節が物を言うんだ。侮ってはいけない」
紫雲は青蘭を男子だと信じている。青蘭はあえて傲慢な物言いをした。
「まあ、それはそうだけれど」
蜜がけの餅が運ばれてきて、紫雲は一口つまんだ。
「君も学問をするんだろう?これからは協力し合おう」
青蘭は、茶杯に茶をそそいだ。顔師父の娘と繋がっていれば、何かと師兄の情報も得やすい。
「じゃあ、『易経』の記録を写させてくれる?」
「ああ、いいよ」
青蘭が書冊を差し出すと、紫雲は筆硯をとりだして写し始めた。青蘭が茶杯を取ると、馥郁たる茶の香りの中で、サラサラと筆の音だけが聞こえてくる。
顔紫雲の言動は、突飛なところもあるが書法は端正で乱れたところもない。きっと、幼いころから兄弟と一緒に学問に励んできたに違いない。
青蘭は静寂の中で眠気に襲われ、頬杖をついた。師兄は無事だろうか。どこで戦っているのだろうか。目を閉じるとかつて見た戦闘の様子がよみがえる。学問をしているときは紛れるのに、一人になると不安に襲われるのだ。
青蘭がうつらうつらしていると、いきなり紫雲の顔が目の前に迫ってきた。
「青蘭は、男子?女子?どちらなの?」
紫雲は鼻先に迫ると、疑わしげに眉をよせた。バレている?何か女子だと思われる言動をしたのだろうか?
「これは、茉莉花の香だわ。男にはめずらしい香よ。男子とは思えない」
青蘭は目をつぶって、衣の香をかいだ。いつまでも、男と偽るわけにはいかない。
「実は、私は女子なのだ。・・・講義を受けるために男の衣装を着ている。誤解させたらすまない」
「やっぱりね。やっぱり変だと思ったわ。小柄だし・・・でも、父上は女子の弟子は取らないから、まさかと思ったの」
紫雲は、ふざけたように青蘭の肩や腕をなで回した。
「父上は、知っているの?」
「もちろん、師父はご存じだ。兄弟弟子は、多分、知らないと思う」
紫雲は、餅をつまむとゆっくりと口に運んだ。
「そうなんだ。・・・いいえね、私は同じように学問を志す同士ができて、うれしいのよ。朋友になりましょう」
紫雲は青蘭に手を差し伸べた。
「もちろんだ。師父の令嬢と友になれたら私も嬉しい」
★ 兄弟子の鏡玄 ★
『史記』の講義が終わって、青蘭は崔鏡玄を四阿に誘った。
夏が近い後苑の四阿には、木香薔薇の馥郁とした香りが風に混じって吹き込んできた。長恭と復習をしたのはこの四阿のなかだ。長恭がいたころが懐かしい。あのころは、未来があって全てが可能な気がした。
青蘭は、嚢から柑子を取り出すと鏡玄に渡した。江南から鄭家に渡来した物を取ってきたのだ。
「これは?」
「柑子が手に入ったので,持ってきた。食べてみろ」
鏡玄が皮をむくと柑子の爽やかな香りが四阿に広がる。口に入れると、甘みがあふれ出す。
「さすが、鄭家は豪商だ。贅沢品もたやすく手に入るのだな」
商人は、身分が低いとされているが、鄴都では、むしろ商人の方が豪奢な生活をしている。
「お父上は、高名な方だ。官吏としての仕事の他に医術の研鑽を重ね、多くの者を救っていると聞く。斉には民から搾取する輩は多いが、崔師父のように民に尽くす廷臣は皆無だ」
「父はへそ曲がりなのだ。自分の職分を果たしてればいいものを、俸禄は医書に使い、求められれば危険を冒して医術を施す。とんだ善人だ」
鏡玄は、不機嫌に唇をゆがめた。世間からは聖人と褒めそやされる人物が、家族にとってはよい父親になれない例は多い。
青蘭は柑子の皮をむくと一房つまんで口に入れた。
「確かに、他人だったら尊敬できるけれど、自分の父親としては、迷惑な存在だ」
青蘭は江南で絶大な輿望を集めている父親の王琳を思いだした。
「お父上は、なぜ学堂の講義をする気になったのだ?」
崔叔正は、賄を善としない謹厳な官吏で、本来は賄賂にまみれた漢人官吏とは相容れない関係である。鏡玄は、ため息をついた。
「父上は、この国の政治に絶望したのだ」
たしか、崔叔正は最近、左遷先から将作大匠に抜擢され鄴都に戻ったはずだ。
「なあ、青蘭。斉の民のほとんどは漢族だ。ところが、皇帝以下高官は鮮卑族が独占している。それがこの斉という国だ。おかしいと思わないか?」
青蘭は、鮮卑族の皇帝を批判する崔鏡玄の言葉に、間者を警戒して周りを見回した。
「官吏の子息が、そんなことを言って大丈夫なのか?」
青蘭は、唇をとがらせると人差し指を持って行った。
「みんな心の奥では思っていることさ。鮮卑族と漢族が協力して政を行うなどと言うのは建前だ。・・父上は、この国の政に絶望して、医術に傾倒しているのだ」
西暦三一一年西晋の皇帝の司馬越の崩御を契機として、漠北から河北に匈奴が侵入し蹂躙されるままとなった。その後、河北では匈奴や鮮卑などが多くの国を建国し、滅亡していった。
五世紀になり戦乱を終息させたのが拓跋氏の北魏であった。北魏は優秀な漢族の官吏を登用し勢力を伸ばしていったのだ。漢王朝の政治制度を取り入れた北魏には、多くの漢族の官吏を必要とした。ここに、鮮卑族の軍戸・勲貴派と漢族の終わりなき対立が始まったのである。
「神武帝(高歓)は、鮮卑族と漢族の融和を望んでいた。学問に堪能な鮮卑族も多い。協力すればより良い政ができるはず」
「青蘭はそんな建前を信じているのか?・・・まだ、青臭いな」
鏡玄は、最後の柑子を口に入れた。爽やかな香りの中で、苦みが舌に来る。鏡玄は微かに残る苦さを噛みしめながら、目の前の青蘭を見た。
「それで、鏡師兄はお父上の手助けをしたくなったの?」
青蘭は少女のように小首をかしげた。
不思議な少年だ。女子のように軟弱そうなのに一本筋が通っていて、笑顔を観るとつい本音を吐いてしまう温かさを感じる。
鏡玄は傾き始めた西日のまぶしさに目を細めた。
★ 青蘭と延宗 ★
高長恭の戦場での安否が分からないまま、四月となり季節も初夏になろうとしていた。青蘭が顔氏学堂で、『史記』の講義を受けおわって内院に出ると、安徳王延宗が、萌葱色の長衣に香色の背子をまとった姿で待っていた。
「延宗様、久しぶり」
「青蘭、兄上の情報を知りたくないかい?」
延宗は垂花門まで行くと、からかうように青蘭を見た。
「師兄の情報?・・・どんな?」
青蘭は思わず延宗の肩に手を掛けた。
「軍報の内容は、機密だ。ただでは教えられないな」
青蘭と延宗は馬車に乗ると鄭家の向かった。長恭が出征してからおよそ一ヶ月、既に鄴都は初夏の光が満ちている。鄭家の後苑にある蓮池の回りには、躑躅が咲き藤の花が、美しい紫の花を滴らせていた。
青蘭は露台に入ると、卓のうえに茶杯と一緒に延宗の好物の一口酥の皿を並べた。
「延宗様、師兄のついての情報って、どんな情報?」
椅子に座った青蘭がせっつくと、もったいぶった様子で延宗は青蘭を見つめた。
「もちろん、青蘭の一番の望む知らせだ。・・・一昨日、軍報が来て、・・・翼城が陥落したんだ」
「翼城の陥落?・・・そ、それで師兄は、無事なの?」
「伝令の兵士を追いかけて訊いたら、兄上は元気だということだ。・・・しかも、大した活躍でおおいに武勲を挙げたらしい。大立ち回りで戦神のごとき働きだったと言っていたよ」
戦神のようなという言葉が、青蘭の胸を突いた。青蘭は婚姻のために、危険を犯しているのだ。延宗は自分のことのように自慢しながら、太刀を振るう真似をすると後宮に帰って行った。
師兄は無事で、武功まで挙げたという。しかし大立ち回りとは長恭自ら最前線で刃の下に身を置いているのだ。腕に覚えのある者ほど、その慢心が仇となって戦では命を落とすのだ。
とにかく斉軍の戦況は、優勢に推移しているらしい。
★ 王将軍の苦境 ★
延宗が帰った後、青蘭は斉軍の戦況を知らせたくて、母のいる正房に向かった。見舞に訪れて以来、母は長恭に幾ばくかの好意を持ったようだ。戦況を知らせれば、きっと喜ぶに違いない。
正房の前に行くと、侍女の朱華が出てきた。
「客人がいらしています」
「そうか、出直そう」
青蘭が踵を返そうとしたとき、中から声が聞こえた。
「王琳将軍は、・・・長江北岸で苦戦をしているのか?」
えっ?父上が苦戦?永嘉王の帰還で、斉との同盟が実現したはずではないか。
「永嘉王が帰還して梁の皇帝に即位した。しかし、陳の勢力が強勢で後退を余儀なくされているのじゃ」
聞き覚えがある。何子元の声だ。
「王琳将軍から、援軍の要請をせよとの命で鄴に参ったのだ」
『援軍の要請?』
帯同している何子元を鄴に送るなんて、父はかなり苦しい状況なのではあるまいか。
「今上帝は王琳将軍の武勇と忠義心を恭敬しているはずだ。援軍の要請をなぜ出さなかったのだ?」
母の桂瑛の声だ。
「実は、援軍の要請は内々で何度も出したのだ。・・・斉は、今、周国境での戦を抱えている。江北に援軍を出せば、同時に南北で戦を構えることになる。だから、援軍は難しいと返答が来たのだ」
何子元は、苦渋に満ちた声で訴えた。
「このままでは、本拠地の江北まで失ってしまう。王琳将軍は、危機感を持っている。ゆえに儂を鄭夫人の元に差し向けたのだ」
離縁したとは言え、梁の再興を志す王琳将軍を、母桂瑛は蔭から様々な支援してきた。正室の蔡氏が北周に拘留されているいま、母上は父からの手助けを拒めないのだ。
「手立てを講じねば・・・」
永嘉王の帰還によって戦況は好転すると思っていた。しかし、父の率いている梁は援軍を乞うほど状況が悪いのか。やっぱり、敬徳との婚姻で斉の援軍を引き出そうとしていた父の判断は正しかったのだ。
何子元と桂瑛の声が小さくなって、青蘭は正房の傍を離れた。
★ 援軍を出させる ★
この年の一月、南朝では王琳が江州の汾城(河北にあるものとは別)に至り、水軍兵十万の調練を行った。
二月、鄴よりはるか梁に到着した永嘉王簫莊は皇帝に即位した。北周の傀儡である後梁がある一方で、簫荘を君主とする梁が建国されたのだ。王琳は簫荘により、梁の侍中・使持節・大将軍・中書監・安城郡公に任命された。
しかし、簫荘の即位にもかかわらず、長江中流に割拠する魯悉達の恭順を得ることはできなかった。王琳は、それ以上長江を下り東下して建康を攻撃することはできない状況だった。
鄭桂瑛は何子元に椅子を示すと、茶を勧めた。
「斉の朝廷を動かすためなら、財はいとわぬ」
鄭桂瑛は王琳と離縁した後も、蔭で兵糧や情報など様々なことで軍事的な支援を行ってきた。
「今上帝は、将軍に対して尊崇の念を持っている。しかし、陛下は鮮卑族の将軍たちが戦功を挙げることにより、勢力が拡大することを警戒している。そのため漢人官吏を重用し、権力の均衡を図っているのだ。しかも、陛下は最近酒毒に侵されて、冷静な判断力を失っている。今朝廷の実権を握っているのは丞相の楊韻だ。そこを突かなければ」
何子元は、斉の朝廷内の情勢を鄭夫人に詳しく示した。
王琳将軍は漢人ではあるが、援軍を送り鮮卑族の将軍が武功を立てれば、勲貴派の勢力を増すこととなるのである。楊韻は、江北への援軍を送らないであろう。
鄭桂瑛は、斉朝廷内の勢力争いのために、押し潰されそうな王琳将軍の志の儚さを思いやった。
「楊韻を動かすことが出来るのは、誰であろう」
「・・・中原一の学者と言われる顔之推様であれば、もの申すことができる。しかし、顔之推様は、財物を贈っても、そのようなことはなさらないかと」
顔之推は、漢人に広く影響力のある学者である。しかし、黄河を下って周から脱出したように、硬骨漢である顔之推に対して、生半可な説得や財物の贈呈は、反って反対派に押しやりかねない。
「そういえば、顔之推や陽休之が、太学のような学堂を作りたいと考えていると漏れ聞いたが」
漢王朝では、王朝の官学である太学があり、士大夫の子弟の教育に当たっていた。そこで教育された士大夫が、官吏として政務に当たっていたのである。顔之推は、官学を作ることにより斉の漢人による支配を堅固なものにしたいと考えているにちがいない。
「官学の設立への協力を条件に、顔之推様に協力を依頼したらどうだろう」
「顔氏学堂で、何度か講義をした。私がまず意向を探ってみましょう」
何子元は、ほどなく鄭家を出て行った。
鄭桂瑛は、楊家宰を呼ぶと、料紙に筆で幾つかの言葉を書き家宰に渡した。
「顔氏邸に訪問の遣いを出し、ここに書いた贈物を準備してほしい」
家宰は料紙を受け取ると、退出しようとした。
「ああそれから、これは青蘭には内密に」
家宰は、笑顔で振り向くと深く礼をした。
長恭は、武勲により婚姻を勝ち取ろうと思っていたが、婁皇太后は、他の花嫁候補探しを諦めていなかった。一方、江北で奮闘を続ける王琳将軍は、陳の勢力が拡大し劣勢に立たされていた。策に窮した王琳は、元夫人である鄭氏に支援を頼んできた。鄭桂瑛は、礼物を持って顔之推を訪ねることにする。