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蘭陵王伝 別記 第6章 ② 長恭の調練

青蘭との婚姻の許可を得るために、長恭は斛律光率いる中軍の調練に参加することとなった。将兵を鍛えようとするが、長恭の女子のような美貌がじゃまをする。

   ★ 調練の夜 ★


 二月中旬、斛律衛将軍の率いる中軍が、三月の出陣を見据えて林慮山の山麓に調練に出た。

高長恭は、参軍として斛律須達の旗下に入り、調練に参加していた。参軍ではあるが、皇子の身分を有する長恭は、一つの幕舎を使用していた。簡素な榻牀と床几と椅子があるだけの簡単な幕舎である。


 斛律須達将軍の属将ではあるが、こたびは、直接百人の兵卒の調練を担うこととなった。

 兵卒達は、表面上皇族である皇子の指揮に従うように見えて、本音では若い指揮官を侮っていた。命令の徹底は難しく、訓練は遅々として進まなかった。

『まったく、ぴりっとしない調練だ』

 夕餉の後幕舎の中で休息を取っていた長恭は、剣架から剣を取ると鞘から抜いた。父から受け継いだ佩剣はずっしりと重みがある。上段に振りかぶり、素早く振り下ろす。身を翻すと、横にするどく振り払う。

「たあっ」

「とおっ」

 稽古は熱を帯び、汗がにじんできた。己の鍛錬はたやすいのに、百人の兵卒の訓練は何と困難なのだろう。そのとき、幕舎の入り口に斛律須達が現われた。


「おい、おい長恭、酒を飲まないか?」

 須達は酒壺を二つ見せると、おどけたように入ってきた。剣を鞘に収めた長恭は、決まり悪げに剣を剣架に掛けた。

「なんだ、須達。酒を持ってきたのか」

斛律須達は、中原で最強の武将である衛将軍斛律光の次男である。この時は中護軍として大将軍である斛律光を最も身近で護衛する職にあった。

 幼くして婁氏に預けられた高長恭は、加冠前から斛律府に通わされ、斛律光の息子達に鍛えられたのである。三歳年上の須達は、幼少の頃より剣術の道では師匠であった。二人は朋友として気の置けない付き合いをしてきた。蓉児のことで一時は不仲になったが、今般の調練をきっかけに付き合いが復活したのだ。 

散騎侍郎という文官に任じられた官吏は、戦役に従事しないのが通例である。しかし、長恭は散騎侍郎の職務を中断して、斛律光に出征を願い出たのである。


斛律須達は、床几に座ると酒壺と乾し肉を。卓の上に並べた。

「長恭、何を苛立っているのだ。・・・酒をくすねてきた。一緒に飲まないか?」

須達は、懐から杯を出すと酒を満たした。

「知っているぞ。・・・出陣を志願したのは、婚姻から逃げてきたんだろう?」

須達はどんな噂を聞いているのだろう。

「逃げてきた?」

「皇太后が、お前の嫁候補を探しているとの噂だ。鄴中の令嬢が浮き足立っているらしい。・・・俺はお前との縁談を壊したと蓉児に恨まれているがな」

須達は、酒杯を干すと乾し肉にかぶりついた。

「お前は、女嫌いとして有名だ。皇太后が勧める婚儀から逃げたいのだろう?」

青蘭とのことが漏れ伝わったのかと警戒した長恭は、苦笑いで逃れた。

「いやあ・・・」

長恭も酒杯を傾けると、乾し肉に手を伸ばした。乾し肉は噛めば噛むほどうま味が染み出てくる。


「実は、兵卒の訓練が、どうもぴりっとしないんだ」

 長恭は、酒壺から須達の杯に酒を満たした。調練に入ってすでに五日がたつ。優秀な将兵だとの申し送りに反して、反感を剥き出しにする兵がいれば、呆けたような兵士も目立つのだ。

「私は、誰にでも分かりやすく指示を出している。褒詞や賞罰も厳しくしている。なのに・・・何とも分からない」

長恭は、首をひねると酒杯をあおった。

「なあ、長恭。怒らないで聞いてくれるか?」

須達は、下からすくうような笑顔で長恭を見た。

「ああ、何でも言ってくれ」

 皇子の身分である長恭に、意見してくれる武将は少ない。長恭は溜息をついて、三杯目の酒に口を付けた。

「あの者どもは、そなたの顔に見とれているのではないか?・・・ だから、気もそぞろで命令が耳に入らないのだ」

 必死に命令を出している私の顔に見とれている?そんな・・・酒の上の戯れ言か?

「何を、・・・冗談を言うな」

「冗談ではない。『自分の女房より綺麗だ』と言っている校尉もいるほどだ。女子のいない陣中でお前の

美貌を初めて見れば、変な気にもなる」

 女子のいない陣中では、色めいた視線から解放されると思っていたが、調練の時でさえ将兵からそのような目で見られるとは思わなかった。

『なんということだ。出征で武功を立て青蘭との婚姻を勝ち取ろうと思っていたが、自分の容貌が指揮の障害になるとは思わなかった』

 長恭は、溜息をついて両手で頬を叩いた。

「それは、私の罪だと言うのか?顔に刀傷でも付ければ、少しは苦み走って偉容が増すと?」

 長恭は口にしようといていた干肉を置くと、指を頬に当てた。

「だ、だ、だめだ。それでは、鄴中の女子に俺が恨まれてしまう」

 須達は、慌てて手で押さえるような素振りをした。

「皆は、お前の武勇を知らぬ。だから、いらぬ妄想をするのだ。お前の強さを皆に知らしめる。そのためには、将兵の中に入り強さや人柄で信服させるのだ。武勇を知れば、お前のために命を賭ける頼もしい兵となろう」

 須達は干肉を口に入れると、長恭を励ますように酒を注いだ。


   ★ 強さの証明 ★


 調練も七日目に入り、兵卒の間にも慣れと共に微かな疲労感が流れていた。

 昼食時である。兵卒達は、汁物と焼餅を手に三々五々地面に座り、やっと訪れた休息の時を楽しんでいた。

「さあ来い。稽古を付けてやるぞ」

 小隊長である石逸が、二本の木剣を手に若い兵卒に声を掛けた。

「俺を負かしたら、夕飯の焼餅を譲ろう」

 石逸と小柄な男は、木剣を構えると広場の中央に出た。昼食をすでに食べ終えた男たちが二人を遠巻きにする。

「さあ来い」

 石逸が挑発するように声を掛けるが、男はなかなか動かない。春の陽光の中、痺れを切らした石逸が男に掛かって行った。木剣を受けた小柄な男は、声を挙げると石逸に向っていく。

「よし、いいぞ。もっと強く」

「そうだ、その調子」

 石逸は、木剣を自在に操ると打ちかかってくる男の剣を軽々とさばいていく。長恭は、自分の幕舎に戻りながら、広場で繰り広げられている二人の稽古に目を留めた。

 石逸は、長恭が預かっている百人の小隊長の百戸である。三十代の半ばであろうか、石逸は数々の戦場をくぐり抜けて来た年輪を浅黒い頬の皺に刻んでいる百戦錬磨の勇士である。兵卒たちの信頼も厚い。

 石逸は、決して長恭の命令にあからさまに逆らうわけではない。しかし、言葉の端々に女子に見紛う美貌の皇子に対する侮りの感情が滲み出ていた。そして、その感情は兵士たちに広がっていった。

 長恭は、地面に座り汗を拭いている石逸の横に立った。

「石逸、そちは、なかなかの腕前だな。私と手合わせをしてみないか?」

 石逸は、長恭の言葉に驚いて立上がった。石逸は眉の太い、色黒の顎が張った逞しい男である。立ってみると長恭よりわずかに背が低い。

 皇子に手合わせを命ぜられて、石逸は唇をむすんだ。高貴な身分の皇子と手合わせをして、怪我を負わせたら、ただでは済まない。

「ふん、私に勝つ自信は無いのか?」

 長恭は、傲慢を装って言ってみた。長恭の言葉に、石逸は悔しげに唇を噛んだ。皇族の一員と言うだけで、横暴な振る舞いをする鮮卑族をいやというほど見てきたのである。

「俺は、乱暴者だ。手合わせをして、高貴な皇子に怪我をさせては申し訳ない」

 石逸は、不適な笑みを浮かべた。

「私に勝ったら、そうだな。酒を奢ろう」 

長恭の挑発に地面に置いた木剣を握りなおすと、立ち上がった。


 長恭と石逸は、木剣を持って広場の中央に出た。美貌の皇子と叩き上げの小隊長の対決である。自然と、広場の中央に大きな人垣が出来た。

「ようっ、石逸やってやれ」

「そんな、女みたいなやつ、一撃だ」

 石逸を煽り立てる声が、人垣から挙がる。いつもは、身分を憚って口に出せない罵声が、回りから浴びせかけられた。


 長恭は背を伸ばして木剣を構えながら、晴朗な瞳で石逸を睨んだ。石逸の隙を窺って円を描くように動いていく。長恭が気合いと共に一歩踏み出し、上段から打ち掛かって行くと、石逸は思わぬ力で押し返してきた。先ほど見た稽古から推し量った力量より、手応えは遙かに強い。

 時を置かず、斜めに打ち掛かってくる。長恭は左で受けて、横様に打ち払う。剣を受けた石逸はいったん飛び退くと、前に出てあろうことか長恭の腹を足で力一杯蹴ってきた。喧嘩剣法だ。長恭は、思わぬ攻撃に衝撃を受けてよろめいた。

 高貴な皇子の腹を蹴った石逸の戦い方に、周囲からどよめきが起きた。石逸の剣術は、正規の剣法ではない。しかし、生き死を賭けた戦では、正統な剣法など長槍の雑兵に囲まれたら何の役にもたたない。卑怯も何も無いのである。

 一介の小隊長が、皇族である皇子を相手に形振り構わぬ剣法で勝負を挑んでいるのである。この勝負に勝っても、処罰は免れないであろう。

 腹を蹴られた屈辱感が、長恭の秘めた闘争心に火を点けた。湧上がってくる青白い怒りに任せて、矢継ぎ早に木剣を振り下ろし、石逸を追い詰めていった。その剣先は木剣でありながら、人を斬捨てる鋭さを帯びていった。これは鬼神の成せる技か。気が付けば、石逸が握っていた木剣を遙か遠くまで弾き飛ばし、石逸を力一杯打ち据えていた。

「若様、おやめください」

 宣訓宮から連れてきた衛兵の劉安が後ろから止めに入り、ようやく長恭は我に返った。

「そっ、そうだな」 

 長恭は剣を収めると、息を整えて石逸をにらんだ。

「皇子、参りました」

 石逸は、膝をつくと頭を垂れた。白皙の皇子が叩き上げの小隊長に鼻をへし折られる場面を期待していた兵卒たちは、言葉も無かった。常に温顔で女子にも見紛う皇子が、人が変わったように凄まじい剣気を示したのだ。

 あれは、何だったのか。呆けたように立ちすくむ石逸に木剣を渡すと、長恭は笑顔を作った。

「そなたの剣術はなかなかのものだ。・・・後で酒を取りに来い」

 長恭は清涼な笑顔で石逸の肩を叩くと、自分の幕舎に向った。


 長恭は、幕舎に戻ると、榻牀に身体を投げ出した。

『無我夢中で、剣を振ってしまった。腹を蹴られ、怒りと屈辱感に我を忘れて本気で殺したいと思った。そうだ、まるで何かに取り付かれたような・・・』

皇太后に引き取られて以来、祖母の寵愛を失うまいと、いつも自分を抑えてきた。しかし、今日は喧嘩剣法の石逸に遭遇し、その衝撃で長恭は我を忘れてしまったのだ。日頃の温順な自分の顔は、仮面だったのか。仮面の裏には、もう一人の凶暴な自分が隠れて居るのだろうか?鬼神のような無慈悲な自分・・それは、高氏の血脈のせいなのか。

長恭は仰向けになると、両手で顔をおおった。

 命のやり取りをする戦場に立てば、だれでも平常心ではいられない。仁愛と寛容を学んだ自分も、いつの日か鬼神がのリ移ったように剣を振るうことがあるのだろうか。

『戦に行けば、私は私で無くなってしまうのか』

 長恭は、榻牀の上でしばらく動けなかった。


秀麗な皇子が壮強な剣の遣い手であるという話は、瞬く間に中軍内に広まった。幼少期を市井ですごした長恭は積極的に兵士の中に溶け込み、食事も同じ物を摂るようにした。

 清澄な容貌に似ず鬼神のごとく苛烈な剣を振るった参軍は、将兵には普段は気さくな若者に映った。

 この時代、容貌はその精神性を現すと考えられていた。長恭のような飛び抜けた美貌は兵士たちに神性を感じさせ、その高貴な身分と共に、憧れと崇敬を集めるようになったのである。

調練の終わりの頃には、長恭が指揮する百人隊は、中軍で最も統制の取れた隊になっていた。


★ 長恭の願い ★


 十日後、斛律衛将軍ひきいる中軍は、林慮山麓の軍営を引き払い調練を終了した。

高長恭は、清輝閣から続く露台にでて、南の空を見上げた。三日月が西の空に昇り、太白星がその黄金色の光を増していた。

出陣が迫っている。いまだ出陣の動機が、青蘭との婚姻であることを祖母に明かしていないのだ。今夜こそ御祖母様に婚姻のお願いしなければ・・・。そうしなければ、青蘭や鄭夫人に顔向けができず、命を賭しての出征が無意味となる。

 長恭はうす暗い回廊を正殿に向かった。

 

婁氏は、すでに夕餉の食事を終えて、臥内で陳皮茶を手にくつろいでいた。

「どうしたのだ、粛。・・・秀児、粛にも茶を」

婁氏は孫に榻を勧めると、隣に座った。

「御祖母様、折り入ってお願いがあるのです」

長恭は立ち上がると、婁氏の前に跪いた。

「皇子は、むやみに跪くものではない」

 婁氏が手を差し伸べ立ち上がらせようとすると、下を向いていた長恭が、いきなり顔を上げた。

「こたびの戦で、手柄を立てたら、・・・青蘭との婚姻を許して欲しいのです」

昨年から、長恭は時には利を説き、時には情に訴えて何度も願ってきたことだ。しかし、強力な後ろ盾を望む婁氏は、施粥会の時にも他の令嬢を紹介したり、絵姿の収集も止めなかった。

「結婚相手は、親代わりの御祖母様が決めると言うことも分かっています。でも、王青蘭と結婚することが、斉にとっても私にとっても最良だと思うのです」

 長恭は必死な眼差しで訴えた。

「ほう、王青蘭との婚姻が最良だと?」 

「御祖母様、高一族は国と民のために命を賭して働かなければならぬと仰いました。御祖母様を身を挺して守った青蘭は、聡明で義侠心にあふれた女子です。青蘭となら御祖母様が心血を注いできた斉を共に守れると思うのです。どうか王青蘭との婚姻をお許しください」

 時に正殿で時に雪の前庭で、祖母の嫌忌を知りながら、長恭は何度も青蘭との婚姻を願ってきた。

そのたび、自分は拒絶して青蘭に罰を与えてきたのだ。しかし、確かに自分を守って怪我をした青蘭の功は無下にはできない。

「鮮卑族の男は、戦の手柄で富も名誉も手に入れると言われて育ちました。こたびの戦で、目覚ましい手柄を立てることができたら・・・褒美として婚姻をお許しいただきたいのです」


 恋にはやる男が無謀な戦いに挑み、戦場で散っていったという例は多い。長恭は、青蘭との婚姻に命を賭けるというのか。青蘭の人品には不満はない。しかし、青蘭が商人の母をもち、梁の家臣であった王琳の娘であることは、南朝の政治状況によっては、立場が不安定になる。確固たる後ろ盾を望む婁氏にとっては、大いなる懸念なのだ。

長恭にとって、この想いは初恋だ。戦いの前に孫の願いを無下に否定すれば、絶望で自暴自棄になって思わぬ行動に出るかも知れない。婚姻の許しなど、あとでどうにでもすることができる。

「分かった。約束しよう。・・・ただ、無事に帰ってくることが条件だ」

「ありがとうございます。約束ですよ」

長恭は笑顔で再度跪くと、両手を合わせた。


  ★ 西門豹廟の誓い ★


斛律衛将軍が率いる中軍は、調練を終え三月の上旬に出陣する運びとなった。

 上巳節の三月三日、長恭と青蘭は青鞜のために漳水の河畔に馬車で出掛けた。春の漳水は、清らかな河水がながれ、対岸の喬木の中には桃の花が美しく咲いている。青蘭は昨年の上巳節の日に、長恭と一緒に観翠亭に出掛けた事を思いだした。


「やっと、帰って来たのに・・・もう明後日は、出陣だなんて」

 珍しく華やかな長裙をまとった青蘭は、唇をとがらせた。三月の中旬の予定が、いきなり明後日の出陣になったのだ。

「すまない、周との国境が騒がしいらしい。でも、こたびの出陣で手柄を挙げたら、結婚のお許しを出してくれると御祖母様と約束したのだ」

 長恭は漳水の流れの前でうつむく青蘭の肩を、後ろから抱きしめた。

「もし、戦で怪我をしたら、もし・・・」

 万が一のことがあったら・・・。今は反対していても皇太后だっていつかは許してくれるかもしれない。しかし、命が失われれば、もう今生では会えないのだ。

「手柄より、怪我をしないで帰って来て欲しい・・・」

「大丈夫だ。私の強さは、知っているだろう?」

 長恭が、甘く耳元で囁いた。

「師兄、ふざけないで。私は真剣に・・・」

 青蘭が振り向くと、長恭の唇が青蘭の頬を捕らえた。

「私だって、真剣だ。真剣に君を娶りたい。だから、私の帰還を信じて待っていて欲しい」

 長恭は命を賭けて婚姻を勝ち取るきなのだ。婚姻に一歩近づいているはずなのに、なぜか涙があふれる。長恭の胸に顔を寄せると、沈香の香が青蘭を優しく包んだ。

「さあ、出陣前に、君の笑顔を見せてくれ」

 長恭が、青蘭の顔を覗き込むと涙の痕が見える。青蘭は若菜色の上襦に桃染め色の長裙を着け、紅藤色の外衣を纏った春の装いだ。鄭家に戻った青蘭は、春の梨花が開くように清朗になっている。

「綺麗だ・・・」 

「師兄、世辞を言っても、何も出ないわよ」

 いつになく褒める長恭に、青蘭は長恭の胸を指でつついた。

「君が、男の格好をして居てくれて良かった。毎日その姿だったら、戦に行っている間にどこぞの貴公子に君を取られているにちがいない」


長恭は青蘭の手をひくと、太い槐の喬木の傍に立った。前の長恭が振り返ると、長恭の白い頬が日焼けして、唇もいくぶん荒れている。

「師兄、調練は、大変だったの?」

「ああ、・・・凄腕の百人隊長と剣の勝負をしたのだ」

 皇子が、百人隊長と剣を交えるなんて身分の別が厳しい梁ではあり得ないことだ。なぜそんなことに?青蘭は槐の木を背にすると、長恭を見上げた。

「もちろん勝った。でも・・・」

 長恭は、力なく眉をひそめた。

「でも、我を忘れてしまった。・・・怒りに駆られ、無我夢中のなって相手を打ちのめたのだ」

 いつもは冷静な師兄が、我を忘れて剣を振るうとは信じられないことだ。

「武術でも、無我の境地があると聞いたわ」

 青蘭は、長恭をなだめるように笑顔を作った。

 自分の身体にも、残忍で冷酷な高一族の血がながれているのか。そんな自分の不安は、慈悲深い長恭の人柄を信じ切っている青蘭には、打ち明けられない。

「君に匂い袋をもらったから、私からこれを贈りたい」

 長恭は、懐から簪を取りだした。真珠を中心に珊瑚が桃花を形づくっている金の簪である。

「これは、母上の形見だ。母上が父上と出会ったころ贈られた」

 長恭は笑顔でそう言うと、青蘭の髷に簪を刺した。

「必ずや、君を私の妻に・・・」

 長恭は、珊瑚の深紅が美しい青蘭の髪をなでた。

 

「さあ、西門豹の前で、武運を祈願しよう」

 二人は、春の陽光が差し込む喬木の林を、西門豹廟に向って歩きだした。


祖母の皇太后から、戦で褒賞として爵位を得たら婚姻を許すとの約束を得た長恭は、青蘭に心を残しつつ出陣するのだった。

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