青蘭の帰還 ①
王青蘭は正月の宴で皇太后を助けた功により鄭家に戻った。高長恭との成婚が許される可能性が少ないと悟った王青蘭は、母親に顔氏学堂への復学を願い出る。しかし次の日、青蘭は無理がたたって床に伏せってしまうのだった。
★ 鄭家への帰還 ★
王青蘭は鄭家の前で馬車を降りると、南門を見上げた。久しぶりの鄭家の屋敷だ。門の階の上では、楊家宰と女中頭の朱華、そして侍女の晴児が出迎えた。やっと、鄭家に戻れたのだ。懐かしさに青蘭の目が潤んだ。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
晴児が青蘭に駆け寄ると、持っていた嚢(袋)を朱華が受け取った。
「お嬢様、賈主様が、お待ちでございます」
まずは、母に会わねばならない。顔をしかめた青蘭は、正房に向かった。
母の禁を破り長恭と会っていたために、結局は浣衣局に入れられてしまったのだ。母上は、お怒りだ。鄭家の財を使えば、浣衣局から出すことも可能だったはず。ところが、晴児を寄越して銀子を届けてきただけだった。そのことが、母の怒りの深さを示している。
正房に入ると、母が几案の前で帳簿に向かって筆を取っていた。
「母上、ただ今、宣訓宮より戻りました」
青蘭が膝をついて礼をすると、顔を上げた桂瑛は筆を置いて立ち上がった。
「青蘭、・・・元気だった?」
歩み寄った桂瑛は、確かめるように青蘭の両肩を触った。
「青蘭、よく戻ってきた」
青蘭を座らせた桂瑛は、茶釜から茶をすくうと茶杯を差し出した。
「宴で負った背中の怪我は、大丈夫なのか?・・」
箝口令にもかかわらず、正月の宴で陛下に懲打された話は、鄭家にも伝わっていた。青蘭は笑顔を浮かべ肩をさすったが、上襦の衿から白い包帯が見える。桂瑛はため息をついた。
「若い娘が、そのような傷を負って・・・」
これほど酷い傷を負いながらも、身を挺して守りたかったものは,皇太后かそれとも長恭か。皇宮で、娘はどれほどの惨い経験をしたのだろう。皇宮から直ぐに救出しなかった自分の判断を、桂瑛は後悔した。
「早く出られるように、するべきだった。・・・青蘭、分かったであろう?・・・君主に仕えるは、虎に仕えるに同じという。・・・皇族に関わると、どれほど危険を伴うか。・・・傷が癒えるまで、邸内で十分養生するように」
青蘭は母の言葉に下を向いた。皇宮を出て長恭との婚姻に近づけたと思っていたが、それは思い違いであったのか。せめて、以前通りの生活に戻れたら・・・。
「母上、傷が癒えたら、また顔氏学堂に通いたいのです。お許しいただけるでしょうか」
桂瑛は、生気を失った青蘭の横顔を見た。青蘭の帰還に長恭は付き添ってこなかった。一人娘が皇宮に拉致され、背中に怪我まで負ったというのに、何の謝罪もないとは鄭賈も見下げられたものだ。
皇太后は二人の成婚を許すつもりはないのだ。女子の大きな身体の怪我は、名節に関わる。大家との婚姻が難しければ、婿を取り商賈を継がせる道しかない。商売には詩経や算術などの学問も必要だ。気持ちを引き立てるために、顔氏学堂に再び通うのもいいかもしれない。
「傷が癒えたら、以前通り学堂に通うといい」
桂瑛は、朱華を呼ぶと湯浴みと夕餉の準備を命じた。
★ 病床の青蘭 ★
次の日、青蘭は病床に伏せるようになった。
やっと鄭家に戻れた青蘭であったが、掖庭宮や宣訓宮での過酷な労働と緊張のせいであろうか、熱を出した青蘭は、身体に力が入らず粥も口にできなかった。
「お嬢様、好物の鶏の羹をお持ちしました」
晴児は羹の椀を小卓に置くと、青蘭を見た。少年のように健康だった青蘭が、今はうち捨てられた小鳥のように痩せ細ってしまっている。夢を見ているのだろうか、青蘭が苦しげに小さく眉をひそめた。
「お嬢様、お嬢様」
晴児が青蘭の肩を揺すると、青蘭が、うっすらと目を開けた。
「晴児?」
「お目を覚まされました?・・うなされていて・・・」
目を閉じると、掖庭での苦しかった出来事がうかんでくる。振り下ろされた棒の痛み、切れる様な水の冷たさ、捕らわれた闇の幻が、青蘭を苛む。皇宮では、掖庭を出ることに必死だった。しかし、鄭家に戻ると、掖庭での悪夢に日夜悩ませられるようになった。
青蘭は晴児の助けで榻牀に起き上がると、夜着を肩に掛けた。晴児が、湯気の立つ椀から羹をすくって唇に口に近づけた。
「お嬢様は、怪我も癒えていないのに、・・・一人で帰すなんて、長恭様はひどい・・・」
「晴児、口を控えて・・・師兄にも考えがあるのよ」
馬車で送ろうとした長恭を止めたのは、青蘭であった。皇太后の機嫌を損ねたくなかったのだ。
「長恭様からの、遣いはまだ来ていない?」
宣訓宮にいたときは苦しかったが毎日会えた。しかし、皇宮を離れてからもう何日も長恭に会っていない。自由になり学堂に行けば、旬休のときは会えると思い込んで連絡の手立てを考えていなかったのだ。
早く良くならなければ・・・。青蘭は、匙ですくった羹を飲みこんだ。
★ 延宗の懇願 ★
侍中府の前庭の白梅が、足元に残雪を残してほの甘い香りを漂わせている。侍中府は、太武殿の近く外朝の中に位置し、政の中枢を担っている。
多くの民族や言語を抱える中原の政は、古来より文書によって成り立っている。斉国の全土から送られてくる上奏文は膨大で、侍中府の官房では、季節に関係なく散騎侍郎が上奏文と格闘していた。
散騎侍郎の定員は通常四名である。以前、鮮卑族の不満を解消するために、鮮卑族の中から数人が官吏に任命されたことがあった。しかし、意欲も能力もないため、いつの間にか寄りつかなくなって名ばかりの官吏となってしまった。それを補うために、数名の漢人官吏が員外郎としてその職務に当たっていた。
長恭のように、学問を身につけ文書の作成に関われるような皇族は稀であった。
「兄上」
聞き慣れた少年の声で、長恭は上奏の帖装本から目を上げた。扉の脇に、鮮やかな鴇色の長衣に若草色の背子を着た延宗が立っている。
「長恭兄上、ちょっと」
延宗が手招きをすると、侍郎たちは仕事を中断して挨拶をする。
王の爵位を持つ安徳王延宗は、ここにいる誰よりも爵位が上なのである。侍中府の職務を滞らせるわけには行かない。長恭は、立上がると延宗のいる回廊に出た。
「どうしたのだ、延宗」
長恭は、珍しく不機嫌な顔で延宗を見下ろした。
「兄上に、お願いがあるのです」
長恭は他の侍郎に声を掛けると、延宗を誘って侍中府の中庭にある梅林に出た。白梅に混じって紅梅が芳しい香を放っている。
「延宗、侍中府に来るとは、どうしたのだ」
長恭は、露台の椅に腰を掛けて延宗を見た。延宗は、警戒するように辺りを見回すと、向かいに座った。
「今日、斛律将軍が三月には、周へ出兵するとの話を聞いた。二月中頃には練兵に行くそうだ」
延宗は、いまだ後宮に住まってているので、朝議にかけられる前の事案を耳にすることも多いのである。
「三月の出兵で初陣を飾りたいのだ。兄上から御祖母様に言ってくれないかな」
延宗は、以前から後宮を出たがっている。この度の戦いで初陣を飾り、褒美として屋敷を賜り後宮を出るつもりなのだ。恩賞として婚姻を賜りたいと思っている自分と同じだと心の中で笑った。
「延宗、今のお前の剣術と射術の腕前では、命が危ないぞ。今回は我慢しろ」
「なんだ、あんなに稽古をしたのに、兄上は、まだだめだというのか?」
口を尖らせる延宗の手をひいて長恭は、梅林の庭にある四阿に入った。
延宗は、落胆して椅に腰かけた足をぶらぶらさせている。延宗の肩を落している姿が、愛らしい。しかし、戦は子供の遊びではない。
「私は侍中府の仕事でいそがしい。そうだ、斛律将軍に師事したらどうだ?斛律家で武芸の腕が認められれば、すぐに初陣もかなう。御祖母様にお願いしてみよう」
斛律家は、長恭が武術の鍛錬に通ったところである。
「兄上、恩に着るよ。もう後宮に閉じ込められているのは、飽き飽きなんだ」
延宗は笑顔になると小さく拱手した。
「先日、顔之推の弟子になりたくて学堂へ行ったのだ。まあ、体よく断られたが。・・・そう言えば、また、王青蘭が、学堂に復帰するときいたぞ。でも、病に倒れて寝込んでいるらしいな」
「青蘭が病で伏せっている?」
長恭は驚いて延宗の顔を見た。
「兄上、兄上は青蘭をちゃんと鄭家に送っていったのか?何も連絡を取っていないのか?・・・まったく、それでよく、想い人だと言えるな」
延宗は呆れたというように横を向いた。
青蘭が 宣訓宮を出て鄭家に戻っただけで、安心してしまっていた。自分は何て愚か者だろう。青蘭は体調を崩して寝込んでいるのか。文さえ出していない私を、きっと恨んでいるに違いない。
そうだ、明日に見舞に行こう。
「延宗、珍しくいいことを教えてくれた」
長恭は延宗の頭を、優しくなでた。
★ 鄭氏との対面 ★
馬車の車輪の軽やかな揺れが、長恭の心を勇気づける。鄭家への初めての訪問だ。まさか、門前払いはないだろうが。・・・見舞を断られたら、どうしよう。
長恭は、見舞の品の白人参を確かめた。
病に伏せっている青蘭に、宝飾品は相応しくない。豪商の鄭家には何でもあるに違いない。そこで、御祖母様の薬堂から高価な白人参を拝借してきたのだ。
長恭は心を静めようと、目を閉じた。
鄭家の門前に着くと、長恭は宦官の吉良を従えて馬車からゆっくりと降りた。門前には家宰他の家人達が大勢出迎えている。かつて見舞に来たときとは大違いだ。
「長恭皇子、ようこそ、主人がお待ち申しております」
通常、皇族の訪問は、主人が大門で出迎えるのがならいである。しかし、できたら今は母親の鄭桂瑛には会いたくなかった。
「鄭夫人に、挨拶をしよう」
長恭は、家宰にしたがって正房に向かった。
正房に入ると、礼儀にのっとり桂瑛は扉の近くで出迎えた。
「高長恭、鄭夫人にご挨拶をいたします。今までの数々の無礼を、お許しください」
長恭は片膝をつくと揖礼して許しを求めた。
「若君、おやめください」
桂瑛は、手を差し伸べて長恭を立ち上がらせた。
「今日見舞にお見えになると聞いて、お待ちしておりました。・・一つ、お話したいことがあるのです」
桂瑛は横に控える小翠に茶を命じた。侍女が出て行くと、長恭に榻を勧めた。
「皇宮では、娘の青蘭をお助けいただき、礼を申します」
桂瑛は、優雅に揖礼をした。
「若君にとって、商人の娘など取るに足らない存在だと思います。しかし私にとってただ一人の娘なのです」
桂瑛は、長恭の花顔を見下ろした。
「いえ、そのようなことは・・・」
「鄭家は、鄴では取るに足らない商賈ですが、ゆくゆくは、青蘭に婿を取りこの商賈を任せるつもりでいるのです。皇子と商人の娘では、身分が違います。娘のことは、諦めていただきたい」
身分の違いや、国の違いなど今までに何度も考えたことだ。しかし、青蘭だけは諦められない。
「鄭賈主、それは青蘭の考えでしょうか。青蘭は学問を究めて民に尽くすのが夢だと言っていました。今の私は何の功績もありませんが、武功を挙げ御祖母様に婚儀の許しを頂くつもりです。青蘭を娶り、青蘭の志を遂げさせたいのです。一緒に生涯を添い遂げたいのです」
長恭は、思いの丈を語った。
「皇太后のお許しは出ているのでしょうか?これ以上娘に危険な真似はさせられない」
ああ、鄭氏は何もかも知ってるのだ。青蘭を危険にさらすなと言われると、言葉もない。
「最初は、祖母は誤解をして青蘭を嫌っていました。しかし、青蘭と親しく接して、祖母は青蘭の人柄を好いている。私が武功を挙げて、婚姻のお許しをもらうゆもりだ」
長恭は端正な瞳で、桂瑛を見つめた。多くの令嬢が憧れる長恭に見つめられたら、初心な青蘭はすぐに心を射貫かれたにちがいない。しかも、あの背中の傷は、青蘭が他の男と婚姻する場合、本人の名節と共に問題になる。
長恭との婚儀ならば、傷の存在も後ろめたさを感じなくてすむ。しかし、嫁候補を探していると言われる皇太后が、簡単に婚姻を許すとは思えない。
「青蘭は、鄭家にとっても王家にとっても大切な存在だ。疎かに思ってもらっては困る。青蘭を娶りたいなら、正式な求婚を求めることだ」
「青蘭を、大切に思っています。必ず、祖母の許しを得て正式に求婚いたします」
長恭は揖礼をすると、正房を出た。
★ 長恭の見舞 ★
晴児に導かれて居所に入ると、青蘭は目を閉じて力なく榻牀に横たわっている。病がこんなにひどいとは・・・。長恭は目を瞬かせた。
「青蘭・・・」
長恭は、青蘭の枕元に座った。四か月の拘束は建康だった青蘭の体力を少しずつ削っていたのだ。
「ああ、青蘭。もっと早く来るべきだった。許してくれ」
青蘭の瞳は閉じられ、唇は苦しげに開いている。長恭は青蘭の肩に腕を回すと、青蘭の身体を抱きしめた。かき抱いた青蘭は羽根のように頼りなく軽かった。気が付かなかった、青蘭の身体がこれほど弱っていたのか。
「ああ、・・く、苦しい」
長恭の腕の中で青蘭がうめいた。長恭が、腕を解いて榻牀に寝せると、青蘭が顔をしかめて目を覚ました。
「ああ、師兄、・・・本当に師兄なの?」
夢じゃないのか、師兄が目の前にいるなんて・・・。
「青蘭、病は大丈夫なのか?傷が原因か?」
長恭は青蘭の額に手を当てた。熱がある。
「屋敷に戻ったら、風邪をひいてしまったの。・・・心配ない」
「侍医には診せたのか?薬は飲んでいるのか?」
長恭は熱のある手をにぎると、自分の頬におし付けた。晴児に薬を命じると、長恭は盥の水で手巾を絞った。
「手を出せ、拭いてやろう」
長恭は手を取ると手巾で拭きはじめた。細い指先がまだ荒れている。
「こんなに弱っているとは知らなかった。来るのが遅れてすまない」
青蘭は弱々しい笑顔を見せた。皇宮と城内では、自由な行き来も許されないのだ。
「休みの時は、学堂に行くからそこで会えると思っていた。でも、・・・私の考えが浅かった」
長恭は、もう一方の手を取って手巾で拭いた。
「先ほど母上に挨拶してきた」
青蘭は額を拭こうとしている長恭の手を押さえた。
「今度の出征で手柄を立て、御祖母様に許しをもらって君を娶るつもりだと話した。お許しはなかったが、・・・来るなとは言われなかった」
師兄は、母に婚姻の意思をはっきりと示してくれた。
「師兄・・・」
「今までは、隠しておくことで君を守れると思ってきた。しかし、隠しておけば君を苦しめるとわかった。だから、鄭夫人に決意を告げたのだ」
長恭は青蘭の顔を拭き終わると、静かに額に口づけをした。
★ 学堂への復帰 ★
二月になり啓蟄が過ぎた。鄭家の内院には紅梅や杏の白い花が咲くようになり、後苑にも薄紅色の木瓜の花が可愛い姿を見せる季節となった。
病の癒えた青蘭は、馬車で顔氏邸にでかけた。学堂に通うときの王青蘭は、以前と同じように男子の姿である。垂花門から内院に入ると、以前に比べて学士の数が格段に多くなっている。顔之推の名声を頼って入門を希望する士大夫の子弟が後を絶たないのだ。
「王文叔様、お久しぶりです?」
物思いに耽っていた青蘭に、少年が声を掛けてきた。振り返ると馮元烈が、笑顔で立っている。四ヶ月しか経っていないが、元烈は身体が一回り大きくなり、身体も逞しくなっている。
「元烈なのか?久し振りだ。元気なの?学問は続けている?」
青蘭は、矢継ぎ早に質問した。元烈は、久しぶりに見る青蘭をまぶしそうにみあげている。
「あれから、旦那様にお許しを頂いて、今では講義も聴けるようになりました」
そうか、そうか。青蘭は笑みを浮かべて肩を叩いた。
「旦那様がお待ちでいらっしゃいます」
束脩(入学の礼物)を手に持ち、青蘭は正房に向かった。
「王文叔、師父に御挨拶を申し上げます。ご無沙汰をしておりました」
青蘭は、束脩を脇に置くと、丁寧に師父への拝礼をした。
昨年の十月に忽然と姿を消し、母親から休学の連絡があった王文叔である。皇宮に拘束された文叔を救い出すための手立てを高長恭より相談され、永嘉王の力を借りるように助言をしたのだった。
「文叔、よく戻って来た」
「師父、永嘉王の訪問には、師父のお力があったと聞いております。礼を申し上げます」
青蘭は、頭を下げた。
「なに、長恭がそなたのことを心配していたので、知恵を授けたのだ。礼には及ばん」
顔之推は、青蘭の右手に目を向けた。
「ああ、これは母から言付かった江南の茶でございます。まずは、形ばかりの束脩です」
青蘭が差し出すと、顔之推は相好を崩した。もともと南朝の官吏であった顔之推にとって、南朝の茶は一番の嗜好品であった。
青蘭は勧められて、椅子に座った。
「そなたは優秀ではあるが、女子ゆえ官吏にはなれぬ。四書五経は続けるとして、実学を学んだらどうだ?・・・商賈を継ぐなら医術や本草学も役にたとう」
鄭賈は生薬の取引や薬舗の経営にも関わっている。
「江南では、病に苦しむ民を目にしました。医術に興味があります。・・・医術に造詣の深い学者がいたら、講義を聴きたいのですが」
顔氏学堂の講師はほとんどが儒者で、詩経や史書、文選などの講義はあるが、実学の師匠は招聘していない。実学の講義を希望するとは、長恭との間の婚姻話はないのかも知れない。
「そうか、・・・医術の大家か・・・。そう、崔叔正を知っておるか。将作大匠の崔叔正は優秀な官吏でありながら、医術にも優れ高潔な男だ。望まれて皇族の治療に当たることもある。訊いてみよう」
崔季舒(叔正)は、崔瑜之の子として生まれ、頭脳明晰で経書や史書に通じ文才も備えていた。長恭の祖父である高歓に気に入られたが、不正を告発して官吏に憎まれ、逆に誣告されて流刑に処された。
しかし医術を好む李舒は、流刑先でも研鑽を重ね都に復帰してからも、密かに治療を行っていた。
「師父、ありがとうございます。明日から学堂に復帰し、学問に励みます」
青蘭は拱手をすると、正房を出た。
★ 久しぶりの遠出 ★
学堂の内院に出て垂花門を眺めた。連翹の黄色い花に囲まれた垂花門をくぐり、大門に出るとそこに長恭が立っていた。
「師兄、どうしてここに」
長恭は、悪戯っぽい笑いを浮かべる。青蘭の腕を引いて駐めていた馬車に乗せると、長恭はいきなり肩を抱いてきた。
「今日は、確か侍中府のはず・・・」
「急に具合が悪くなって、休みにした」
長恭は青蘭を引き寄せると、青蘭の頭を自分の方に倒した。
「詐病で休む官吏がいては、斉の国が心配だわ」
長恭の甘やかな沈香の香が、首筋から立ち上り青蘭を切なくさせる。
「師兄、心ここに在らずの官吏は、自宅で養生すべきだと思わない?」
青蘭は、長恭を睨んだ。
「鄭家は敷居が高い。・・・学堂に行くときしか、会えぬであろう?」
長恭は、青蘭の耳元で甘く囁いた。
「清廉居士の師兄を、怠け者にしたら、私は妖女と呼ばれるわ」
青蘭は座り直すと、長恭の秀麗な瞳を見た。
「君が妖女なら、私に術を掛けてくれ」
長恭は、青蘭の首に手を当てると頬に口づけた。来月には、周との国境に出征することになっている。そうしたら、数ヶ月は鄴を離れなければならないのだ。
長恭と青蘭は、漳水の辺で馬車を降りた。昨年の春に剣術の鍛錬を行った喬木の林だ。長恭が青蘭を抱きしめると、腰に下げた茉莉花の香袋が揺れた。
「青蘭、この香袋をくれないか?」
長恭は、青蘭が腰につけた躑躅色の香袋を手に取った。
「出征は三月の初めに決まった。その前の調練もある。戦場に行けば、しばらく戻れない。だから・・・いつも君を感じていたいのだ」
「調練もあるの?」
長恭は自分との成婚のために命の危険を冒そうとしているのだ。
「香袋なら、新しいのを作り直すわ」
「君の使っている香り袋が欲しいのだ。君の香りがするから」
香袋を青蘭の腰帯から外すと、長恭は懐にしまった。
嘉会 再び会い難く
三歳 千秋とならん
この喜ばしいときは、二度と訪れない
別れた後は、三年が千年に感じられる
長恭は、『蘇武に寄せる』の李陵の一節を口ずさんだ。
「君のために、必ず、手柄を挙げる。私を信じて待っていて欲しい」
長恭は青蘭の手を握ると、唇に持って行った。
青蘭との成婚を実現するため、高長恭は北周との戦いに志願する決心をする。出征前の調練に行くが、女子に見紛う美貌が災いして、兵士の訓練はうまくいかない。