1.金のアリスと銀の執事2
「彼は池内善三。私の…まぁ、執事というか、従者みたいなものね。正式ではないけれど」
アリスは、優雅な手つきでお茶を注ぐ青年を改めて紹介した。ピンクの液体がカップに揺らめく。甘酸っぱい、ハイビスカスとローズヒップのハーブティだ。
「正式じゃない?」
「ええ。彼、人を探しているんですって。探し人が見つかるまで、お供したいと言うから許してあげたの。ついでに、私の身の回りの世話をさせているのよ」
「…なんでまたそんな面倒な」
有寿はちらりと池内を見た。銀色の髪をゆるくひとつに結わえた彼は、涼しい顔でチョコレートケーキを切り分けている。
長身の池内は、どちらかというと甘系の、整った容貌をしていた。フリルのついたシャツブラウスが妙に似合っている。更に時代めいたモノクルが、いかにもな雰囲気を醸し出していた。どこからどう見てもばりばりの西洋人紳士なのに、名前だけはがちがちの日本人だ。しかも古臭い。ハーフかクォーターかな、有寿は勝手に結論付けた。
「お嬢様はそりゃもう頻繁に、ウサギの穴に落ちますから」
池内は視線をよこすことなく応えた。アリスはきつく彼をにらみつけた。
「慎重な私ではそんな芸当、とても無理な話でございます。ですからお嬢様にお供させていただければ、一緒に穴に落ちることも可能かと。そう存じまして」
「…口が過ぎるわ」
アリスは口惜しそうに、目の前のスプレー薔薇をちぎって投げつけた。でも届かない。
「お嬢様。花に罪はございませんよ」
表情ひとつ崩さずに、池内は長い指先で花をつまむと、ちいさなボウルについと浮かべた。ガラスの鉢の中で、ちいさな花は金魚のようにゆらゆらと遊ぶ。アリスは悔しそうな表情で、揺れる花びらを見据えた。
「こんな屈辱を受けるのも、みんなやつらのせいだわ。今度こそ、今度こそあの馬鹿ウサギに、制裁を加えてやるんだから」
アリスは忌々し気に吐き捨てると、ケーキスタンドからスコーンをわし掴んだ。なにもつけずに豪快に噛み千切る。
「お行儀の悪い」
咎める言葉とは裏腹に、池内の口調は楽しそうだ。
「制裁?」
「そうよ。美味しいウサギ鍋にしてあげるの」
もちろん、解体は私の手でね。想像で陶酔するアリスはふふふふと、口端から邪悪な笑いを漏らした。美貌は崩れず、凄味だけがいや増す。有寿は思わず逃げ腰になった。ヤバイ、彼女は綺麗な顔して軽くヤバイ。関わったら火傷は必至だ。ここはどうにか穏便に、ご退場願わなければ我が身が危ない。
「えーと、その…アリス?」
口は開きはしたものの、さてどうお願いしたものか、まるで思いつかなかった。この状態のアリスに対して、下手に口出ししようものなら、自分が鍋にされかねない。逡巡する有寿は、ただただアリスの邪悪な笑いを聞くばかりだった。
「さ、あんまりのんびりしてられないわ。有寿、行くわよ」
ひとしきり悦に浸った後、アリスはなにごともなかったかのように、清純美少女の面貌を取り戻していた。有寿はほっとしたもののその変化に、わずかに戸惑いを抱いていた。
「行くって…どこへ?」
「ひとまず不思議の国へ行きましょう。まずはホームで作戦を、ってね」
アリスは導くように、有寿の手を引いて席を立つ。絶妙なタイミングで池内は、白い大きなクロスをワゴンにかぶせた。刹那、煙のようにティーセットもろともかき消えた。足下のラグさえ、消失している。
「…執事というより、魔法使いか手品師だな」
下敷きの影響で、見事に破壊された雑貨たちを呆然と眺めながら、有寿は呟いた。できればこいつらも直して欲しいんだけど。池内はシーツ並みに大きなクロスを、どんどんどんどんちいさく折り畳み、最後にハンカチほどの大きさまでたたむと胸のポケットへと差し込んだ。もう鳩とか飛び出しても驚かないや。ガン見する有寿には気にも留めず、池内は涼しい顔で脇に控えた。
※ ※ ※
「それで、池内。【歪み】はどこ?」
「向こうに見える湖を超えた先の、大きな木の洞でございますよお嬢様」
「…ちょっと距離があるわね」
部屋を出ると、そこには見慣れない光景が広がっていた。玄関にはたどり着けなくても、新品のスニーカーが部屋に置きっ放しだったのは幸いだった。ふたりがなにやら話し込んでる合間に、それを履く。
目の前には、どこかの田舎のような光景が広がっていた。たくさんの木々と広がる水辺。舗装されていない土の道路と、周囲に広がる、雪の積もったでかい山山山。
これが夢だったら、あの壊されたCDとかスマホとかPCソフトとか、無事なんじゃないだろうか。うん、これは夢だ夢に違いないもう夢にしてしまおう夢で正解だ。
「…急に元気になったんじゃない?」
アリスは不審な目を向けた。
「気のせい気のせい。で、どこに向かうんだ」
有寿は大きく伸びをしながら尋ねた。美味しい空気が胸いっぱいに染み渡る。夢にしては妙にリアルな気もするけれど、ま、夢なんて所詮こんなもんだと、自分を無理に納得させた。
「向こうに湖が見えるでしょう?その先の木の洞。そこに【歪み】ができてるの。そこが今回、私たちの世界に繋がってるスポットよ。急ぐわ」
いい?アリスはひとつ頷くと、先導するように歩き出した。少し早足だ。ふわりと広がるスカートから伸びる繊い足が、軽やかに地面を蹴る。
「今回?」
「【入り口】は頻繁に変化してるの。不定期にね。だから、急がなくちゃ」
「…【入り口】」
「ああ有寿、ウサギの穴にはくれぐれも気をつけて。どこに繋がってるか分かったもんじゃないから」
「そんなにヤバイんだ?」
「ええ。特に頭の悪いウサギの掘る穴は質が悪いの。やつらには思慮というものがまるでないのだから。そのくせ至る所に潜んでる」
まるでトラップよ。アリスは苦い顔で吐き捨てた。
「【灰かぶり】や【ヘンゼルとグレーテル】に繋がるなら、まぁまだマシってところかしらね。【青髭】や【ラプンツェル】なんてところに落ちたら…」
逃げたい姫は至る所にいるのだもの、アリスは顔を歪めた。過去よほど嫌な思いをしたのだろうか。歪めても、それはそれで綺麗な横顔を盗み見る有寿の横で、池内がぽつりと呟いた。
「それに…【白雪】」
「ああ…それは一番まずいわ」
アリスは、足を止めずに有寿の顔をじっと見据えた。
「【白雪】に落ちたら…有寿、アナタ確実に捕まるわ」
「捕まる?どうして?」
「だってあなた、まるで」
「有寿様!お足もと」
「えっ?」
「え?」
「えええっ!?」
池内の声と同時に、有寿は大きくバランスを崩した。有寿は慌てて手を伸ばす。
「有寿?!やだもう、言った先から」
暗い、暗い穴に落ちていく。…これが、ウサギの穴。視界が黒く塗り潰される前に、有寿は自分の手首に絡む、アリスの白い手を見た。それきり。
それきり、有寿は意識を手放した。