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とある水の精霊が少女を手に入れるお話

作者: さとう時雨

 ここは精霊の力によって豊かな恵みが与えられた大陸である。人々は精霊と契約し、魔力を与える対価として精霊の魔法の恩恵を受けていた。魔法によって澄んだ水、温かい炎、明るい光等生活に欠かせないもの、更には体を強化したり、怪我を癒したり、魔獣を討ち果たしたりといった大きな力も得ていた。


 しかし、その恵みが与えられるかどうかは精霊次第。人の身勝手に辟易し、力を貸すことを厭う精霊も存在する。例えばスクロ村近くの湖に住み着いた水の精霊がそうだった。


 その精霊はそこらの精霊とは比べ物にならぬ程強い力を持っていた。そのため、他の水の精霊たちはその精霊に従って人間に手を貸さないようになった。だからスクロ村の人間たちは湖や川から水を汲んで生活していた。


 ナナはそんなスクロ村に住む少女である。ナナはいつも灰色の髪を一つに結い、人のいない早朝に出かける。そして歌いながら湖で水を汲み、家へ持ち帰っていた。ナナの一家において水汲みはナナと弟の仕事。二人は一日交替で水を運んでいた。


 歌は年頃の少女が体を動かしながら歌うものにしては随分と静かで、凪いだ水面を思わせるようなメロディーだった。ナナは一人でいる時にしかその歌を歌わなかったけれど、水を汲んでいる間は聞いている者がいた。湖に住む精霊である。


 精霊は人間が好きでなく、いや正確には好きでなくなったため、早く去らないかなと最初は思っていた。だが、ゆったりとした穏やかな歌声をすっかり気に入ってしまった。精霊は静かな環境が好きで、ナナの歌はその環境を壊すどころかその平穏さを強調してくれたのだ。人間なんてと思う気持ちは残っているけれど、段々ナナを待ち望み、来た際には近くで歌を聞くようになった。




「あっ」


 ある日のことだった。いつも通り歌いながら水を汲もうとしたナナは、指輪を湖に落としてしまった。指輪のような装飾品は精霊との契約で使用するため、決してなくせない大切なものなのに。ナナが手を伸ばしても既に遅く、指輪は湖に沈んでしまった。


 一方目を閉じて歌を聞いていた精霊は、歌が驚いたような声で途切れたので目を開けた。次いでちょうど自分の正面に何か落ちてきたので思わず手を伸ばした。見上げると、水面を隔てた先には泣きそうな顔でこちらを覗き込んでいるナナがいた。


 うーん、これは、渡してあげた方がいいかな? そう思った精霊は、久々に水中から出た。ポカンとしているナナに向かって手を差し出す。


「コレ、君の、だよね……?」


 尋ねても反応がなくて首を傾げた精霊の頬に淡い水色の髪が張り付いていた。精霊たちは自覚していないことが多いが、人の姿に化けた精霊は総じて美しい容姿を持っている。この精霊だってどこか幻想的な色合いの髪や鮮やかな夏空を切り取ったような色をした切れ長の涼やかな目等、かなり人目を引く容姿だった。ナナが固まってしまっても仕方のないことである。


 そんな精霊の顔をしばらく凝視した後、手のひらに視線を移したナナは、目を丸くして頬を染めた。


「私の指輪! 拾ってくれたの? ありがとう!」

「エッ、ああ、ウン……」


 あまりにもまっすぐにお礼を言われたものだから、精霊は挙動不審になった。精霊は人の好意に慣れていないのである。心優しい少女はそんな精霊の態度に言及せず笑顔を向け続けた。


「あの、今、水の中から出てきたよね?」

「ウン……僕、ココ、住んでるし」

「ここって、湖の中に? 息ができないんじゃないの?」

「僕、精霊だし……呼吸とか要らないし……」

「まぁ、精霊!? 人の姿をしてて喋る精霊なんて初めて見たわ!」

「アッ、その……」


 つい話してしまったけれど、これは不味いと精霊は焦った。


「ほ、他の人には言わないで……! 僕、人、苦手で、隠れてたんだ」


 本当は苦手というより嫌いなのだが、流石の精霊も無垢な少女にそれを言うのは躊躇われた。なのでできるだけ同情してもらえそうな言い回しを心掛けた。若干片言なのは演技ではなく焦り故だったが。


 幸いにもナナは強く頷いた。


「わかったわ。誰にも言わない。お父さんにも、お母さんにも、弟にだって言わないわ」

「あ……ありがと」

「いいの。気にしないで。指輪を拾ってもらったお礼」

「お礼?」

「嬉しいって思うことをしてもらったら、お礼をあげるのよ。お礼にその人の好きなものをあげたり、その人のためになることをしてあげたりするの」


 精霊契約の対価と同じようなものかと一瞬思った精霊だったが、すぐに少し違うのではないかと感じた。何だかナナが言っているのはもっと温かいものではないかと。


 同時に、精霊は自分もお礼をするべきではないかと思った。


「ねぇ、お礼、何がいい?」

「え?」

「僕も、君にしたい」

「ええと、精霊さんのことを内緒にするお礼はいらないわよ? それは私がお礼にすることだもの」

「それ、じゃなく。歌……」

「歌? あ、もしかして私の歌、聞いてた?」

「ウン」


 精霊が頷くと、ナナは恥ずかしくなって顔を両手で覆った。


「やだ……そんな……」

「嫌、だった……? ごめん、でも、すごく綺麗だった」

「……綺麗? 本当?」

「ウン。だから、綺麗な歌の、お礼がしたくて」

「えっ、お礼ってそういうこと?」

「そうだよ。何かしてほしいこと、ない?」


 精霊の問いかけに、ナナは少し悩んだ。


「うーん、今一番欲しいのは綺麗な水だけど」

「水……あげる」


 精霊はナナの足元に置かれていた桶を魔法で満たした。ナナはうわぁ、と歓声をあげた。


「すごい、透明な水だ!」

「どう、かな?」

「ありがとう! 毎日欲しいぐらいの素晴らしい水だわ!」


 スクロ村の周辺で汲める水は、比較的綺麗な場所を選んでも多少は濁っていた。それはこの湖であっても同じだ。


 水の透明度に関しては精霊のやる気がないことが最大の理由だった。精霊はナナのために湖をもっと綺麗にしようか考えたが、他の人間にまでその恩恵を渡したくないなと止めてしまった。その代わりにナナにこう申し出た。


「これからここに来た時は、歌を聞かせてよ。そうしたら帰りに水をあげる」

「嬉しいけど、私の歌なんかでいいの? 明るくて元気な歌は歌えないわよ?」

「君の歌が、良いんだよ。僕は、静かな方が……好き」

「わかった。じゃあ二日に一回、ここで歌を歌うわ。私は弟と交代で水汲みをしてるから」


 約束を交わした精霊とナナは、それから二日に一度湖の畔で会うことになった。


 ナナは湖を訪れると、周囲に誰もいないことを確認してから湖に向かって声をかける。ナナの声が聞こえると精霊は湖を出る。挨拶を交わしたふたりは湖の畔に並んで座り、太陽の光を受けて煌めく凪いだ水面や風に揺れる葉、小さく花を咲かせた野草を好んで眺めた。


 そして、その空間を壊さぬようにそっと歌い始める。初めのうちはナナが一人で歌い精霊がそれを聞くだけだったが、やがて精霊も一緒に口ずさむようになった。同じ曲ばかり何度も聞いていたので歌詞を覚えたのだ。


 精霊が歌うと、魔力でも作用するのか他の小さな精霊たちがふわふわと寄ってくることがあった。すると、湖が青い光に照らされて幻想的な空間となる。


「夜に見られたら、もっと綺麗でしょうね」

「じゃあ夜に来たら?」

「駄目よ。夜に家から出るなんて、できないわ」


 ナナはあくまで水汲みに来ているのだ。精霊が桶を魔法で満たしてくれるから、本来水を汲んでいる時間を座って過ごせるだけ。精霊に今話し相手はナナしかいなかったけれど、ナナには村に家族がいる。


 それでもナナは精霊に家族の話をしなかった。村での暮らしも話さなかった。ただ湖が広がる景色の感想だとか、歌についてだとか、その程度しか言わない。あとは歌っているだけだ。精霊にとってそれはとても好ましい態度だった。




 ナナと精霊が出会ってひと月近く過ぎた頃。ナナが水を持って家へ帰ると、弟が話しかけてきた。


「姉さんはどこから水を汲んでくるの?」

「湖よ。村を出て少し行ったところにある大きな湖」

「えー? あそこの水ってそんなに綺麗だっけ?」


 弟は不服そうに首を傾げた。


「姉さんの汲んでくる水の方が綺麗だって母さんに言われたんだ。それで姉さんはどこで水を汲んでるのか聞かせてほしかったんだけど」

「私は湖で水汲みをしているわ。他の場所へは行ってない」


 精霊のことを隠しているだけで湖へ水汲みに行っていることは事実なので、ナナは堂々としていた。弟は嘘じゃなさそうだな、と追及を止めた。


 しかし二日後、ナナが家に帰ってきたらまた弟から声をかけられた。


「姉さん、やっぱりどこか特別な場所で水を汲んでるんじゃないの?」

「どうして? 私は湖に行ってるわ」

「湖に行っても姉さん程綺麗な水を汲めなかった。本当はどこへ行ってるの?」

「そんなことを言われても、私は湖に行ってるもの」


 弟はナナから話を聞くことを諦め、母に相談した。


「母さん、姉さんはやっぱり湖に行ってるって言うんだ。でも絶対あの湖の水じゃないのに」

「そうね、じゃあ明日は姉さんの後をついていってみなさい。私は毎日綺麗な水を汲んできてほしいのよ」

「わかったよ、母さん」


 翌日、弟は朝早くから出かけたナナを追いかけて家を出た。ナナは村を出た後、ザクザクと草を踏み分けながら均されていない道を進んだ。弟は風の精霊に頼んで自分が移動する時に出る音をナナに届かないようにしてもらった。


 ナナは弟がこっそり後をつけていることに気づかず、いつも通り湖の畔に立った。そしていつも通り、弾んだ声で歌うようにして精霊を呼んだ。


「あれは、精霊?」


 弟が身を隠していた木の裏からでも、湖の中から現れた美しい青年の姿がはっきりと見えた。人の姿をしているけれど、本当にただの人ならば水の中から出てくるわけがない。


「姉さんはこっそり精霊から水を貰ってたんだ!」


 精霊と笑いあい、歌を歌い、魔法で綺麗な水を与えられるナナを弟は最後まで見ていた。


 ナナが立ち上がったところで弟は駆け出し、ナナより早く家に帰った。おかえり、という言葉に返答することなく弟は早口で母に告げた。


「姉さん、精霊と会ってたよ。精霊から水を貰ってたよ」

「なんですって!?」


 母の驚きは当然である。水を貰ったということはその精霊の属性は水ということになる。この一帯に水の精霊が滞在しているなんて話、スクロ村で生まれ育ったのに母は一度も聞いたことがなかった。


「精霊と父さんに契約を結んでもらいましょう。村全体に水を恵んでもらわなくては」


 翌朝、ナナの家族たちは湖に足を運んだ。父親は古い腕輪を、母親は髪留めを、弟はナナと似た指輪を持参していた。ナナは今日は水汲み当番ではないため、家でスヤスヤと眠っていた。ナナは精霊のことを話さなかったため、家族もナナに何も言わなかったのだ。


 湖の畔で、弟がナナの真似をしてそっと呼びかけた。精霊は自分を呼ぶ声に興味を引かれて、つい湖の外へ出た。ナナとは声が違うとわかっていたのだが、ナナとばかり接していたからか警戒心が少し薄れていたのだ。


「えっと……何?」


 ゆるりと首を傾げた精霊に向かってナナの両親は平伏した。


「ああ、精霊様! どうか私と契約してください。そして村に澄んだ水を齎してください」


 父が腕輪を差し出した。これを精霊との契約の証たる霊具にしようというのである。それをチラリと見た精霊は一言言った。


「ヤダ」


 子どものような物言いに少し呆然とした父は、我に返ると声を張り上げた。


「何故ですか、精霊様! 我が娘に力を貸してくださっているのでしょう? それは私たちに力を貸してくださっているも同然。ならば私と契約をしてくださっても変わりません」

「ヤダ」

「娘もきっと喜びます。村の皆も喜びます。どうか!」

「ヤダ」

「……夫の魔力が気に入らないのでしょうか。ならば私でも構いません。なんなら村人を一人残らず連れてきます。好きな方を選んで契約してください。そして村に力をお貸しください」

「ヤダ」


 精霊は無表情で拒否し続けた。精霊には誰かと契約する気などない。こうして力を貸してと一方的に言ってくる人間が嫌いなのだ。


「てか、娘って誰」

「姉さんのナナだよ。綺麗な水をあげてたでしょ」

「エッ、ナナの家族か……」


 弟の答えを聞いて精霊は眉をひそめた。いくら気に入らなくても、彼らに何かしてはナナが悲しむ。下手なことはできないな、と精霊は残念に思った。


 さて、それではどうやって帰ってもらおう。精霊が悩んでいると、ガサガサと大きな音がしてナナが飛び出してきた。


「何をしてるの!?」


 ナナは目覚めた時、家に誰もいないことに気づいた。普段は弟一人が水を汲みに行っている時間だったのでまず湖へ探しに来たのだ。すると、秘密の精霊さんが自分の家族と何やら話しているではないか。


 水の精霊なんて、村の大人たちが求めてやまない精霊である。ナナは無理を言われているのではと慌てて駆け寄ったのだった。


「まぁ、ナナ! ちょうど良かった。あなたもお願いしてくれない? 精霊様の恩恵は村中で受けるべきなの。そのために村の大人の誰かと契約をしてもらいたいの」


 悪びれることなく言ったのは母だった。ナナは母を嗜めた。


「この精霊さんは、人間が苦手なの」

「でも精霊は、人間を助けてくれる存在よ。精霊と人間は共存するのが正しいの」


 精霊と人間は共存するもの。確かにそれが常識だ。しかしナナはこの精霊に、無理をして人間と暮らしてほしいと思わない。精霊は静かに過ごすことを望んでいるのだから。


「仕方ない、今日は帰ります。明日は村長を連れてきます。精霊様、ぜひ我らにご慈悲を。失礼します」


 睨み合う母子に割って入るように父が精霊に挨拶して、家族を皆引き連れて帰宅した。ナナの家族は精霊を説得するよう諭したが、ナナは家に着いても聞き入れなかった。やがてうんざりしたナナは母の怒鳴り声を無視して家を飛び出した。


「ごめんなさい、精霊さん。こんなことになるなんて」


 湖まで駆けていくと、精霊はまだ外にいた。ぼうっと空を眺めている精霊にナナは大声で謝った。精霊はビクッと肩を揺らし、おずおずとナナを見た。


「……君のせいじゃ、ない。君はただ、僕に歌を聞かせてくれただけ。でも、やっぱり人間って愚かだなぁ。君だけが例外なんだね」

「そんなことないわ。私よりも優しくて、話を聞いてくれる人だってたくさんいる。精霊さんは悪い面しか見てないのよ」

「そうかな……?」


 精霊はどうしても人間の良心を信じられなかった。少なくともこの村ではナナ以外、精霊から搾取することしか考えていない。与えられて当然と思う傲慢な気持ちが透けて見える態度だった。


 精霊はそのような人々に力を貸したいとは思えない。


「ねぇ、精霊さん。これからどうするの? お母さんたち、きっと何度でもお願いに来るわ。村長も連れてくるんですって。そうしたら村の人たちが全員押しかけてくるわ。この村の人は水の精霊の力が欲しくてたまらないの」

「そうだね。だからこの湖から出ていくよ」

「そんな……」

「そのうち、強力な精霊使いを呼んできてさ。僕を捕まえようとするかも、しれないから……ね」


 格の高い精霊たちとたくさん契約し、人々のために精霊と共に働いている者は精霊使いと呼び分けられている。彼らの中には、そういくらもいないとはいえ、この精霊のような大精霊であっても契約し従えられる者もいるのだ。精霊が同意しなければ契約は成り立たないけれど、我こそはと驕ってやって来る人間を見るだけでも気分は悪い。


「ナナ」


 精霊は目を潤ませて落ち込むナナが哀れで、同時に彼女とは離れたくないなと思った。だからつい声をかけた。精霊がここから出ていくことと、ナナと離れないこと。両立できる方法を精霊は一つ知っていた。


「もし、僕のことを恋しがってくれるなら、真名を教えてよ。そうしたら、僕は君を連れて行ってあげられる。ずっと一緒にいられるよ」

「本当? 私、行きたい」


 ナナは即答したが、とんでもないことである。


 真名は握られると魂を支配される。命を握られるも同然だ。だから名付けた親と自分しか知らないものである。まぁ人間同士では早々できないが、力ある精霊であれば話は別であって。


 つまり、精霊に真名をホイホイ差し出すなんて馬鹿の所業である。それでもナナは躊躇しなかった。


「ホ、ホントにいいの? 意味、わかってる?」

「もちろん! 精霊さん、あなたはとっても優しいけど、寂しがり屋よ。私と同じ。歌を聞いてくれて嬉しかった。一緒に歌を歌ってくれた時はもっと嬉しかった。でもね、精霊さんも同じぐらい嬉しそうだったのよ」


 ナナは指輪を拾ってくれた親切な精霊が好きだった。歌を褒めてくれた精霊が好きだった。澄んだ水をくれた精霊が好きだった。人が苦手だと言いながら、人であるナナと過ごして楽しそうに笑う精霊が好きだった。


 精霊だって本当は一人が好きなわけじゃないのだ。そう勝手に思ったから、ナナは精霊と一緒にいると決めた。実際真名を聞こうとする程だから間違っていない。


「お互い一緒にいると楽しくて嬉しいんだから、ずっと一緒にいたいと思っていいでしょう?」


 ナナが力強く言ったものだから、精霊はじゃあいいかと思ってしまった。ナナが進んで自分と一緒にいてくれるなら、それはとっても嬉しいことなので。


「じゃあ、ちょうど日が沈む時間に迎えに行く。外の……水面の前に立って待ってて。小さい水たまりとか、桶に張った水の前とかでも大丈夫だから」

「わかった。待ってるわ」


 約束を取り付けたその日の夕方、ナナはよそ行きの服を着て、綺麗に磨いた指輪をはめて、お気に入りの櫛を持って家の裏手に出た。そこには少量の濁った水が入った桶が放置されていた。ナナは桶の前に座り込んだ。


 いつも朝に結ってから洗う時までそのままでいる髪を解き、ゆっくり梳かす。桶の小さな水面に赤い光が反射した。もうじき日が暮れる。


「ごめんね。私は精霊さんと行く」


 確かめるように呟いてから、ナナは歌い始めた。いつもの歌だ。精霊が聞きたいと言ってくれた、静かな歌。


 東の空がもうすっかり暗くなった頃、見つめていた水面が渦巻いた。ぐるぐると回る水は気づけば透明になり、段々量を増して桶から溢れた。


「わっ!?」


 大きな波となった水がナナに襲いかかった。ナナは思わず歌を止め、持っていた櫛を落とした。だが水はナナを覆うのではなく、周囲を取り囲むように渦を巻くだけだった。それでも視界いっぱい水の幕だったし、水量は増え続けていた。


 渦が家を超す程の大きさになった頃、ナナは変化に気づいた。いつの間にかナナの身長を優に超える巨大な魚が、ナナを取り囲む水の中をグルグルと泳いでいたのだ。


 青い魚だった。それもナナが初めて見た精霊の髪のような色に全身が輝いていた。頭は夜空のような色、そこから段々と淡くなり尾は淡い水色。ナナはそれが迎えに来た精霊だと直感した。


「精霊さん!」


 頭上へ向けてナナが声を張り上げると、こちらに視線を向けた魚の姿が溶けた。あっと思った瞬間、水しぶきと共に人影が降ってくる。少なくない水を浴びながらなんとか顔を上げたナナに、人の姿に変化した精霊が微笑んだ。


「さぁ、水の大精霊たるこの僕が、君を迎えに来たよ。大精霊に選ばれし君の名前は、何かな?」


 ナナは差し出された手を握って、真名を名乗った。ナナの真名を聞いた精霊は、その名を愛おし気に復唱した。


「これより、君の魂は僕のものだよ。君は僕と一つになって、世界が滅ぶまで一緒に生きるんだ」


 精霊は握った手に、正確には指輪に唇を落とした。ナナの身体をぎゅうっと抱きしめた。人に抱きしめられた感覚をナナが感じたのは一瞬だけで、すぐに精霊の身体は形を失い色を失い透き通った水へと変化した。水となった精霊はそれでもナナを離さなかったが、ナナは抵抗せずに身を委ねた。




 さて、その光景を見ていた者がいる。ナナの弟はナナの歌声を聞きつけて家を出た。そして、渦巻く水の柱を目の当たりにしたのだった。


 弟はしばらく呆然と眺めていたが、やがて渦が解けて小さな桶に吸い込まれていくところを見た。あまりの勢いに桶は砕けたが、桶が置かれていた地面にそのまま水が入っていった。その光景もまたぼうっと見ていた弟は、ふいにあっと叫んだ。ナナが水に纏わりつかれて、水と同様に地面へと吸い込まれようとしていたのだ。


「母さん! 姉さんが地面に! 沈んじゃうよ!」


 慌てた弟が家に怒鳴り込んできたので、母は何事かと弟に腕を引かれてやって来た。すると、ナナは既に胸のあたりまで地面に沈んでいた。母は思わず硬直したが、その間にもナナの身体は見えなくなっていく。地面に落ちた水と同じでナナも吸い込まれているのだと否応なく理解させる光景だった。


「なんてこと! 待ちなさい、ナナ!」


 我に返って駆け寄ってももう遅い。ナナは堅く目を閉じていたし、家族の声など聞こえていないようだった。母が手を伸ばして何とか髪を掴んだけれど、ナナは頭まで地面に沈み切ってしまった。くい、と髪を引っ張った時、それはザクリと切り落とされた。ナナも、水の一滴も残らず消えて、その場に残るナナの痕跡は母の手の中の髪と地面に落ちていた櫛だけだった。




「マ、君たち家族だし、それぐらいは譲ってあげるよ。でも、この子はもう僕のだからね。残念でした~」


 大精霊が持つ自分だけの領域の中で、魔法でナナの髪をひと房切り落とした精霊は呟いた。腕の中には未だ目を閉じたナナがいる。


「ん……せいれいさん?」

「ア、起きた?」

「うん……わ、すごい……綺麗……!」


 目を開けたナナの視界には美しい青が飛び込んできた。精霊の目と似た色だ。


「空の中……湖の中、かな」

「どっちでもいいんじゃない。水が青いのは空の色を反射してるから、らしいし」

「じゃあ、どっちもね。空でもあって湖でもある」

「その前に僕の領域なんですけど」


 割とどうでもいい話をして、クスクスと笑いあう。これがナナと精霊の変わらない関係であり、幸せだった。だからナナは、この精霊を独りにしなくてすむ喜びを精一杯笑顔に乗せた。


「ねぇ、また歌を聞きたいな」

「いいわよ。これからはここで歌を歌うわ。でもたまには一緒に歌ってね?」

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