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家蜘蛛

作者: ワタハシ イキル

 僕は蜘蛛がというか虫が苦手だ。蜘蛛は虫ではないんだぞということを聞いたことがあるが、それは一旦置いておく。


 僕がどうして虫が嫌いなのかというと、奴らには可愛げがない。ハチの不快な羽音に奇怪な目。ゴキブリの不気味な見た目に不気味な動き。蝶なんかも遠目で見る分にはまだ良いのだが、近くで見ると大袈裟な羽のついた大きな蚊である。


 そんなわけで、虫とはできるだけ関わり合いを持たないようにしたいのだが。奴らは家に現れる。多い時は週に二回ほど。忘れた頃に現れる。

 頻繁に現れたらそれはそれでもちろん嫌だが、たまに現れるというのもなかなかタチが悪い。小さなゴキブリやコバエが視界に入るたびに、背中と心臓の間に大きな斧が振り下ろされたような気分になる。平和と安全がその斧によって断ち切られるのだ。

 

 ある日。夜9時くらいのこと。夕食を食べ終わりテレビを見ていると、テレビ台の上を埃が動いているのが見えた。風も何もないはずなのに。不思議に思って見てみると、それは白くて小さな蜘蛛だった。蜘蛛の赤ん坊だろうか。いつもなら虫を見ると驚き回る僕にしては珍しく、その時は妙に冷静だった。むしろ、なぜかその蜘蛛を愛らしく思った。そして、蜘蛛嫌いな自分がそう感じていることが、少し嬉しかった。

 この子を失いたくない。そう思って、机の上にあったグラスで蜘蛛を覆った。蜘蛛は行き場を失い、グラスの中を慌てたように一周すると、グラスの内側を上り始めた。がんばれー。自分でその子を閉じ込めておきながら、その健気な姿を応援せずにはいられなかった。


 さて、この蜘蛛を飼ってみるのもありかなと思い、餌をネットで調べてみた。アンサーは生きた虫だった。飼うのは諦めた。


 捕まえてから10分ほど経ち、やっぱり逃してあげようかなと、グラスを覗いてみると、その蜘蛛はグラスの中で浮いていた。グラスの中に目に見えないような糸を2、3本張り、その上を渡っていたのである。

 こんな短時間で糸を張れるのかと感心していると、ふと思いついた。朝までこのままで置いておくと、それなりの巣ができるのではないか。

 そうと決まれば、このままグラスを置いておこう。一夜を越す間に、その子が餓死なんかしないか少し不安だったが、そうした。そうして眠りについた。少しの罪悪感と馬鹿らしい好奇心を胸に抱きながら。


 次の日、目を覚ますと息が苦しかった。そして、口の中に違和感を感じた。髪の毛が口に入っているようなそんな感覚だった。ただし、明らかに1本やそこらではなかった。言うなれば、20本以上の赤ちゃんの髪の毛を口に含んでいるような感覚。口の中に感じる不快さと不気味さ。

 口の中に指を入れると、白くて薄い糸が指に粘つきながらたくさん出てきた。蜘蛛の糸か?そこで、昨夜の蜘蛛が頭に浮かんだ。急いでベッドから出て、グラスのあるリビングまで行くと、そこにグラスはなかった。代わりにそこには15センチサイズの茶色と薄茶色の迷彩柄の大きな蜘蛛がいた。


 僕はその蜘蛛を見た瞬間、いっ、と声をあげ固まった。その蜘蛛はゆっくりとテレビ台から側面をつたって降りると、僕の方へと床を歩いて近づいてきた。僕の体は震え出した。蜘蛛が僕に近づくに連れて、体の震えは激しくなった。そして、汗も止まらなくなっていた。動きたいけど動けない。

 蜘蛛は歩みを止めることなく近づいてきて、ついには、僕のつま先の先まで来た。体が全く動かない。足にまで来たら、噛むに違いない。そして、毒で殺されるんだ。そう覚悟して、目をきつく閉じた。初めには体の表面だけだった震えは、心臓、脳、体全体の震えになっていた。


 目を閉じて5秒くらい経って、まだ蜘蛛が足に触れてこなかった。10秒。30秒。疑わしい体内時計で30秒ほど経った。しかし、蜘蛛が体を上ってくる気配はなかった。体の震えも少しずつ収まり始めて、うっすらと目を開けてみた。足元に蜘蛛はいなかった。

 戸惑いながらも、部屋を見渡した。あの大きな蜘蛛は見当たらず、代わりに先ほどまでなかったグラスが、テレビ台の上に、逆さまに昨夜のままにあった。何が起こったのか、何が起きているのか、全く理解できなかったが、一つ、自分が何をするべきかは直感的に理解していた。


 グラスを手に取り、卓上にグラスの縁を上にひっくり返して置いた。小蜘蛛はグラスの底にひっついていた。そして、全く動かなかった。死んでしまったのか。そう疑った瞬間、蜘蛛はガラスの中を凄い勢いで回り始めた。久々に吸う外の空気を噛み締めるように。

 蜘蛛はしばらくはそうしていたが、ふと思い立ったようにグラスの内側の壁を登り始めた。そうして、縁まで来るとグラスの外側をつたって、机の上へと到達した。

 そこで、私はその蜘蛛と対面する形になった。蜘蛛はしばらく私を凝視しているようであった。その時私の中では、大きな蜘蛛への恐怖は過去のものとなりつつあったが、一方で小さな蜘蛛に対する罪悪感が体の内側で静かに暴れ回っていた。

 小さな蜘蛛はまたしばらくすると、机の上から床へと移り部屋の隅へと進んでいった。そうして壁と床の間、隙間と言えないような隙間へと入っていった。僕はその様子を見届けると、汗で冷えた体を震わしながら、グラスを手に取った。グラスの中には、蜘蛛の糸一つなかった。


 部屋の壁にかかった時計を見ると、針は5時26分を指していた。いつもならまだ寝ている時間だったが、とても今から眠れるような状態ではなかった。

 洗面所へと行き口をゆすいだ。鏡の前で口を開けながら、蜘蛛の糸が口の中から全てなくなったことを確認すると、一体さっきまでの出来事は何だったのか考えようとした。


 しかし、頭の中に浮かんでくるのは、小さい蜘蛛に対する行いを悔いる気持ちだけだった。きっとこの感情は一生私の前に現れるだろう。蜘蛛を見るたびに。虫を見るたびに。

 

 


 

 




 

 



 





 

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