巻き戻る時間 sideシュオン
あの日、茶髪の男は照れたように笑いながら去って行った。
握った手は決して普通の人間のものではなかった。過去、一緒に旅をした憲兵と同じか、それ以上に固くなった皮膚の感触は手袋越しでもわかるほどだった。握った瞬間だけ交わされた熱を伴わない視線。
あれは、きっとまともな人間ではない。
よく晴れた日。常ならば穏やかに過ぎる時間も、あの男のことを思い出しては握った手を見つめる。
あの男が何を確認に来たのか、おそらく双黒の少女の件と関わりがあるのだろう。
「シュオンさま、ベルノーラ商会の方がいらっしゃいました。本日の訪問ですが、お嬢様が体調を崩されたので礼拝が済んだらすぐにお帰りになるそうですわ。シュオンさまとお話をしたかったけれど、万一のことがあってはいけないので帰りますと言われてしまいました」
シスターが慌てたように駆け寄ってきて言い切った瞬間、私は彼女を置いて駆け出していた。
普段祈りをささげる礼拝堂は、神殿の本来の役割に関係なく華美であった。四方にある天窓には全て美しく描かれたステンドグラスをはめ込んでいるため、天気の良い日はきらきらと輝くが、少々眩しいくらいだ。白亜と金でできた神の像は誰もが目を奪われる。そしてなにより、他国から輸入した大理石の床は非常に滑りやすい。
これは賊の侵入を遅らせるためでもあるので、普段ならば走ることはない。おかげで二度ほど転倒しかけたが、なんとか目的の人物に近づくことができた。
美しい総レースのショールをかぶり、白いエプロンドレスを着て、シンプルな黒いヒールを履いた少女と、それに付きそう茶髪の男。
「ああこれは! シュオンさま! 先日はどうもありがとうございました。生涯の思い出ができました!」
嬉し気に男が笑いながら少女の前に出たが、それどころではない。
「・・・体調がすぐれぬと聞いたが、無事か」
「シュオンさま、息が切れておりますがシュオンさまこそ大丈夫ですか?」
心配そうにのぞき込まれる。私も背が高いが、そういえばこの男もそれなりに背が高いようだ。
「・・・私は、大事ない」
むしろ先ほど転びかけて足首を痛めた気がするが、今はそれどころではなかった。
「・・・お初にお目にかかります、わたくしは、ベルノーラ商会より参りました、リーナと申します。本日はこれほどまでに美しい神殿を拝見でき、恐悦至極に御座います」
淑女の礼を完璧な形でとった少女。背は・・・だいぶ低い。私は片膝をついて彼女の顔を覗き込む。
「・・・初めまして、か?」
「わたくし、初めてここに来ました。あなたさまとお会いしたのも、初めてでございます。あの、わたくしの顔になにか?」
まるで時間が巻き戻るかのようだった。目の前には夢にまで見た双黒の少女。だが、表情が全く違う。
あの時の少女はまるで精工に作られた人形のようだった。だがこの少女はどうだろうか。まるで天上より降臨した御使いのような美しさと優しい表情。
違う生き物に見える。
だが、
「私は君を知っている」
「まあ。光栄ですわ」
ふふふ、と穏やかにほほ笑む姿は害がない。それでも。
「私は、君に謝らなければならない」
「初対面の方に謝られる理由はございませんわ」
「話がしたい。体調もすぐれないなら休める場所を用意する」
茶髪の男が慌てたように私と少女の間に体を滑り込ませた。
「シュオンさま、それには及びません。馬車を用意しておりますので、すぐに退館いたします!」
へらりと笑う男の眼は、反対に冷たく鋭利な刃物のような色をしていた。こちらも、つと睨み返す。
「体調を崩した子どもを保護することが問題か?」
「店まではすぐですので」
「私は決めたのだ」
「ご迷惑をおかけするわけにはまいりません」
段々と声が大きくなるにつれて、少女がわずかに呆れたような目を私たちに向けた。そして、
「・・・場所をお借りしても宜しいでしょうか?」
と、静かに言った。




