さあ行くか。
一生懸命走ってくれたのだろう、何度もぬかるみに足を取られては転んだのだろう少年は、膝を怪我していた。
痛々しい傷口からは血が流れているが、彼はそれに気づいていないようだった。
わたしはシュオンもネッドも、他の人間も全部無視して少年の前に立った。
「ご主人、彼の着替えを。シュオン、手当てを」
「わ、わかりました!」
「ああ」
慌てて宿の主人が食堂を飛び出す。シュオンが淡々と少年にポーションを渡した。
少年は誇らしげな顔でわたしを見ていたが、ようやく自分の状況に気付いたのか、だんだん泣きそうな顔で自らの足を見下ろす。
「このような夜更けに無理を言ってごめんなさい。わたくしはリーナと申します。お洋服の弁償は我がベルノーラ商会が補償いたします。ネッド、一筆したためて頂戴」
「はい、お嬢さん」
ネッドもいつの間にか落ち着いたのか、わたしが言った通り紙と筆を取り出してさらさらと書き出した。
「外は暗く、寒かったでしょう。何度も転んだのね、痛かったでしょうに・・・あなたの勇気に感謝を。よくぞシュオンを連れてきてくださいました。本当にありがとう」
少年はわたしの言葉に顔を上げて目を大きく見開く。まるで今の言葉で痛みを忘れてしまったような様子に、思わず笑みが浮かぶ。
最大限の礼をと、私は淑女の礼を取った。
「こちらをベルノーラ紹介に持っていきなさい。朝になったら必ず行くんだぞ」
少年は何度もうなずいてネッドから文を受け取ると、まるで宝物を抱くように胸にあてた。
「オーサー、行くぞ、まずは泥を落とそう。ああ、可哀想に」
「ご主人、あなたも是非ベルノーラ商会をご利用くださいませ。こちらに紹介状を置いておきますわ」
「ああ、はい、ええ、ありがとうございます」
ベルノーラと聞いて驚く主人を放置して、わたしはシュオンを見上げた。
「ごきげんよう。それとも、ご無沙汰しております。かしら?」
「ごきげんよう、我が姫君。こんなことに巻き込まれるなんて君はなんて間抜けなのか」
「人気者の辛いところね」
「・・・はあ。はやく私と養子縁組しておけば、王族ごときに目を付けられることもなかったものを」
王族ごときと言われた騎士たちはそろって不機嫌を隠すこともなくシュオンを睨んだが、この男がそんなことでひるむはずもなく。
「さあ、参りましょう」
「いや、あなたのせいでこんなに時間がかかったのだ!」
ああいやだわ、なんて器の小さい男。
言葉には出していないのに、何故かネッドが噴出した。
「何も言っていないわ」
「顔にすべて出ていますよ、お嬢さん」
「君は相変わらず気持ちの悪い男だな」
シュオンの言葉が否定できない・・・
夜中にお城に入るためには、正門からは入れないらしい。
いくつかある裏口っぽいところを通るらしい。いちいち違う名前がついているが、覚える必要はないとシュオンが言っていた。
馬車の中はたいそう狭かった。本来ならばわたし一人だけを連れていくつもりだったらしい男たちは、小さめの馬車を用意していたのだ。
ネッドはもちろん、シュオンも馬車移動以外は認めなかったため、三人のうち一人を残して他は馬で帰ることになった。
宿の外にはまた別の騎士や、武装した憲兵の姿もあった。憲兵たちはわたしの姿を見て驚愕し、思わず武器を下ろしそうになって騎士に文句を言われていた。
見覚えのある男性が小さく一つ頷いたので、おそらく総一郎に伝えてくれるのだろう。
大柄の男三人と、わたしが乗った馬車は城を囲う塀の中に入った途端、まるで森の中にいた。
「不思議ね、街の中に森があるなんて」
「大丈夫ですよ、森といっても敵の侵入を防ぐためのものなので規模は小さいです。まあ、数年に一度身元不明の遺体が出ることもありますが、下手に入らなければ迷子になることもありません」
騎士たちのなかでも比較的温厚そうな一人が同乗しているのだけれど、言うことは全然大丈夫じゃない。なんだ、身元不明の遺体って・・・
「深く考えるな。ここにはまともな人間はいない。この地に住むのは人間のフリをした魔物だ」
シュオンもひどいな。
「アレクも魔物なのかしら?」
「あれは別の意味で魔物ですね、むしを新しい宗教を開いたせいで目立ってしかたない」
深くは聞くまい。
「本当に、お嬢さんはモテモテですね」
口元に笑みを浮かべたネッドの目は全然笑っていなくて、馬車の中の温度がどんどん下がっていくような気がした。




