0-5 水面-鏡
こんな大きな池、この街にあったんだ⋯⋯。
真夜中に方向も気にせず走り続けたため、今私がいる場所の見当はつかない。起き上がって周囲を確認することも叶わない。砂利と雑草、虫の声と天使の笑い声、そして視線の先にある水面。それが今の私に感じられる世界の全てだった。
『⋯⋯ごめんね』
⋯⋯名前も知らない、どこにいるのかも分からないアンタに謝られてもね⋯⋯。
『あなたをこっちの世界に導くことが私の役目だった。でも⋯⋯』
無理だった?
『⋯⋯せめて、最後に警告しておくわ。池には近づかないで。あなたが水面を覗いたら、また──が現れると思うから⋯⋯』
そう言って、今まで意識に響いていたその声は消えた。
──つめたいなぁ⋯⋯。
勝手にスマホに現れて、勝手に逃げろって言って⋯⋯。訳の分からないところまで来ちゃったよ。
今日まで同じグラウンドをずっと走っていたのに。あのまま走り続けていれば、良かったのに⋯⋯。
「⋯⋯ぅ、ぅうぅ⋯⋯!」
死にたくない。こんな場所で、こんな訳の分からない天使もどきに殺されてたまるか⋯⋯!
拳に力を込めて上半身を起こす。傷だらけの両腕、パラパラと落ちていく小石。
「あ、ぁあぁああぁっ⋯⋯!」
動け、両脚⋯⋯!今まで鍛えて来た自慢の脚じゃないか。私の身体を支えてくれ⋯⋯!
重力が何倍にも掛かっているように感じる。左脚で大地を踏みしめ、その膝に手を当て右脚を動かす。痛みで全身が震える。それでも──立つことが出来た。
──星だ⋯⋯。
立ち上がった私の視界を満点の星空が包んだ。その無数の輝きは頭上の天使たちが放つ光に比べて静謐で、私はその不規則な配置に人為的な暖かさを覚えた。乾いた笑いが溢れる。やっぱり、目の前にいる奴等は天使なんかじゃない。天の使いの輝きが、同じ天にある星の輝きに比べてこんなに不自然に感じるのか? お前たちは、お前たちは⋯⋯。
「⋯⋯偽物⋯⋯」
その瞬間、私の胸を一本の矢が射抜いた。巨大な拳で胴体を殴られたような衝撃。私の身体は後方の池へ落下し、薄れゆく意識の中で私はその池がとても濁っていること──こんな汚い水面を見ても奴等は表れなかっただろう──、そして底知れない水中の暗闇に一条の光があることを認めた。後に私はその光があの世界のものであること、そして池の底に沈んでいた一枚の鏡を通して私の身体が転移したことを知ることになる。
濁りきった視界と残酷な水の冷たさ、矢に貫かれた身体の痛み。そんな非日常は新しい非現実──青人形が住む、あの鏡面世界を導いていた⋯⋯。