0-4 蛍-池
風切り音が響いた。
跳躍し躱すタイミングが遅れ右腕に鋭い痛みが走る。一筋の血が腕を伝う。
──現実なんだ⋯⋯。
天使から逃れるために暗路を駆けながらも、私の意識はまだどこか遠い場所にあった。コンビニを出た後に起こった色々なことを未だに受け入れられていない。この痛みや脚に感じる負担が紛れもない現実だとしても、それにしても⋯⋯。
『建物のない場所に逃げて!なるべく森の中に⋯⋯!』
「なんで!?」
『奴らは鏡から出てくる。あなたを処分するためにね!』
「処分って⋯⋯。私何もしてないんだけど⋯⋯!」
街の中心部から離れて見慣れた通りを過ぎ、足元はいつの間にか舗装もされていない様な砂利道になっていた。その間も断続的に天使たちは戯れに矢を放ち、逃げ回る私を嘲るように交わり合う。
──遊ばれてる⋯⋯。
私が袋小路に行き着く時を待っているのか、それとも単純に狩猟を楽しんでいるのか。せめてもの抵抗として走りながら石を掴み、天使の方向へ投擲する。その石は身体を密着させている天使たちの中央の一体──両手で左右の天使の頭を自らの頬に寄せている──に向かって行き、振り上げられた左脚によって叩き落とされた。その瞬間に響いた鉄パイプを叩いた様な音は、天使の身体が決して綿のように柔らかいものではなく、金属に似た硬性をもつことを示していた。
『⋯⋯確かに、あなたは何もしてないわ』
「え?」
『でも、あなたがあなたとしてその世界、今の場所にいることはやっぱり⋯⋯あなたの今までの行動の、一つの結果だから』
三体の中央──ついさっき私が投げた石を叩き落とした──天使が力を溜める様に瞳を閉じている。膝の部分の輝きが増していく。両側の二体の手がそこに触れる。
「⋯⋯!」
膝から手を離していくのと同時に中央の天使の両脚は次第に消えていき、両側の天使の手中に今までとは異質な、脈打つ鼓動を感じさせる"生きた"輝きを放つ矢が生まれた。
『走って!』
「分かってる!⋯⋯でも、どこまで走ればいいの!?」
『可能な限り、遠くまで⋯⋯!』
「勘弁してよ⋯⋯!」
再び走り出した私の後ろから矢を射る音が聴こえた。今までのそれとは違い、耳を突き破るような響きと増していく輝き⋯⋯。瞬発的に地を蹴り跳躍した直後、大地を貫いた矢の衝撃が全身を包んだ。爆発音が響き、砂利道を超えて吹き飛ばされた私の身体は茂みの中に落下する。
「⋯⋯ぅ」
ぼんやりとした意識と視野の中、天使たちの笑い声だけが不自然にはっきりと聴こえた。
──死ぬ⋯⋯。
『起きて⋯⋯!』
──無理。もう走り疲れて⋯⋯脚が動かない。
うつ伏せの姿勢のまま、少し首を動かし天使を見た。いつの間にか中央の天使の両腕も消え、ダルマ状態になったそれを両側の二体が愛撫している。
──狂ってる⋯⋯。
視線を戻すと、目の前に一匹の蛍が飛んでいた。その光は暖かく⋯⋯私は全身の力を振り絞ってその蛍へ手を伸ばした。
──待って⋯⋯。
飛んでいかないで、私も連れて行って⋯⋯。這いつくばりながら鉛の様に重い体を少しずつ動かし、蛍へ手を伸ばす。すると茂みの下の地面が斜面になっていたらしく、身体は雑草だらけの土手を転がった。そして私の眼の前には──大きな池が広がっていた。