0-1 陸上-天使
ある夏の日の夜中、私こと千代田あかりは──走っていた。
履きつぶしたサンダルで硬いアスファルトを転げる様に進む。ダイエットのためのランニング?違う。トイレに焦ってる?それも勿論違う。私が走る理由は、背後にいる天使にあった。天使?別に「こういった特徴を持つ存在を天使と呼ぶ」といった具体的な知識がある訳でもないし、背後の存在に天使と書かれた名刺を貰ったわけでもない。ただ私の貧弱なボキャブラリーで形容するなら、それは本当に天の使いというような神々しさをもつ存在だった。
背後にいる天使は3体。地に足を着け無様に駆ける私とは違い、優雅に宙を舞っている。今の私に確認できている奴らの特徴は、その脚にあった。天使の御足──惜しげもなく放り出されたその美しい脚には、まるでそこに溶け込んでいる様に、それぞれの膝の部分に2本の矢が貫通していた。バツ印のようにクロスして御足を射抜いている矢の先端、矢尻は前を向いている。それは私を威嚇するように輝き、天使はまるで我が子を愛でるような慈しみを以って御足から矢を抜いた。
「────っ!!」
風を切る音が響くと同時に横っ飛びをしてなんとか矢をかわす。アスファルトが削れる。第二、第三の天使が矢を抜いていく。走れ。走らないと──死ぬ。
無我夢中で人通りの無い夜道を駆ける私は、無意識のうちにほんの少し前にあった日常を思い返していた。
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大学生になって初めての夏休み。多くの学生が充実した余暇を過ごす一方で、私は空虚な日々を送っていた。講義がないのでサークル活動に精を出そうと思ったところ、所属している陸上サークルのメンバーはその多くが旅行に行ったらしい。また私同様旅行にあまり乗り気でない新入生はほとんどが幽霊部員になっていた。それでも私は走ることが好きなので毎日グラウンドに顔を出す。そして走る。いつまでも、いつまでも。日が暮れたら帰って、眠る。そんな毎日の繰り返し。
長距離走者にはマイペースな人が多いという。きっと私もそうなのだろう。サークルの浮ついた雰囲気に馴染めず、それでもただ走るために所属している。大学に入ってからは、高校生の頃の様に大会を意識して厳しくタイムを制限することをやめ、ゆったりとしたペースで心ゆくまで走ることができた。私以外走る人間のいないグラウンド。弾丸の様に駆ける短距離走者に心を乱されることもない。両足で大地を踏みしめそこから私の意思を送る様に、無心で走り続けた。
しかし無心の日々が積み重なるにつれ、それは私の中に大きな虚無感を形成していった。走ることが好きなはずなのに、目的もなくただ続けていたためか、私は次第に私が何なのか分からなくなってしまった。ただ走る私。どうして走るのか。走るのが好きだから。好きって、何⋯⋯?
炎天下走り続けていた私は立ち止まって、空を見上げた。視界を覆う青空と同じ様に、今抱えている虚無感を爽やかに感じられたら⋯⋯。そんな風に思って、あまりに馬鹿げた発想に嫌気がさした。走ろう。走って、全部忘れてしまった方がいい。しかしそうやって動かし始めた脚は再びグラウンドを周回することなく、いつの間にか更衣室に向かっていた。虚無、虚無、虚無⋯⋯。私は一体何なのだろう。どうしてこうも、自分が空虚に感じるのだろう⋯⋯。
ぼんやりとした意識のまま下宿先のアパートにたどり着き、倒れ込むようにベッドに横たわった。疲労感は柔らかなベッドと溶け合い、運動後の身体の火照りはひんやりとした毛布と優しく中和する。繭の様に意識を包み始める心地良い眠気は、いつもより少し残酷なものに思えた。