「脳人間経 土産品(みやげぼん)」 大体現代語
ある日、目覚めたる人は弟子達を伴い
須弥陀川のほとりを散策なされた
うららかな陽光に照らされた空樹をご覧になり
須弥陀川の川面に映る空樹を指して言われた
「比丘よ、須弥陀川の水は絶ゑずして
しかも元の水ではない
川面に映るこの美しい空樹木は、変わらずと言えど
同じ水に映っているのではないのだ」
弟子達は、賛嘆する者、深く感じ入る者、様々であったが
背の高い、一人の弟子が言った
「尊者よ、何処で聞いたような言葉の気が致します」
一瞬怯んだかの様な尊者だったが
忽ちにして気を取り直して言われた
「比丘よ、空樹を見、かつ川面に映る逆空樹を見ない者は有る
しかれども、逆空樹を見、かつ空樹を見ない者は無い
されど真理を得んとする人、往々にして
逆空樹を見、空樹を見ざる事あり
ただ川面を眺め、偽なる空樹に思い巡らし
しかも須弥陀川の水が絶ゑるまで気付く事がない
真理を得る人と得ざる人との違いは
ただ顔を上げるか否かの違いである
顔を上げる事は自在であり
見上げるのに何らの妨げはない
悟りを得るのに、一切の障害はない
おのれをおいて外には」
悟りの要諦を知り得た事を弟子達は喜んだ
かの弟子は申し述べた
「されば尊者よ、川面に初音未来が映っているならば
それは偽と言うべきでしょうか、虚と言うべきでしょうか」
尊者はこの言葉を悦び、欣然として言われた
「比丘よ、未来は反実仮想偶像である
反実仮想とは架空であり
偶像とは虚である
未来は空であり虚である故に偽である事はなく
如何なる所、如何なる形で顕現しようとも
真ならざる事もない
未来は存在しない
未来は存在ではない
反実仮想合成偶像である初音未来は
ただ非存在の極みであるばかりである
我ら存在から解き放たれた脳人間の
新たな大日如来と言うべきものである」
尊者はそう言われると、かの弟子に空樹と名を授け
「南無大姉初音未来 反実仮想合成偶像」
(ナームー・タイシー・ハツネー・ミークー
ハンジツカーソー・ゴーセー・グーゾー)
と称名を唱えられた
弟子達が唱和すると、辺りに称名が響き渡り
付近の土産物屋から苦情を受けて称名を止めると
尊者は散策をお続けになられたのだった
了