さよなら、愛しき私の異形
畢竟、悪いのは私なのだろう。
他の誰でもなく、私の責任なのであろう。彼に惚れてしまった、私の責任。
異形のものに惚れてしまった、私の。
然しながら、私には他に術が無かったのだ。
あのような、置いていかれた子供のような、地上に降りてしまった神様のような、それでいて狡猾な悪魔のような、彼を放っておける訳が無いのだ。
だから、私の責任なのだろう。
今、こんなにも苦しいのも、悲しいのも、彼が隣に居ないのも、全て。
嗚呼、憾みます、神様。貴方がいらっしゃるのならば。
何故、彼にあのような酷い仕打ちをなさったのですか?
嗚呼、でも、私はほんの少しだけ感謝してもいるのです。
そうでもなければ、私は彼には巡り会えなかったのですから。
嗚呼、なんて愚かで醜いのだろう、私は。彼を憐れに思い、そしてそれに感謝するなんて。酷いひと。
もしも、何方か、神様にお会いすることがありましたら、私の代わりに謝っておいてください。
彼に惚れてしまったことを。
神様を憾んでいることを。
彼に出会ったのは、季節が秋に片足を踏み込んだ頃。夕暮れ時。
私は、先生の所に向かうために、いつもと同じ道を歩いていた。そう、彼が倒れていた、土手沿いを。
彼を初めて見たとき、私は心臓が止まるかと思った。
だってそうでしょう? いつもと同じ道を、いつもと同じように歩いていたのに。そんな日常の中に、血まみれで倒れている人が居て、私、悲鳴をあげなかった自分を褒めてあげたいぐらい。
現実を認識するまでに少しの間を置いて、私は慌てて声をかけた。
「大丈夫ですか?」
彼は閉じていた目を、ひどく億劫そうに開けて、目玉だけを動かして、こちらを見てきた。
「あの、大丈夫ですか?」
顔を覗き込むようにして、もう一度尋ねる。
私、血は苦手なの、ものすごく。本当は、私の方が倒れてしまいそうだったの。
ねぇ、知っていた?
「……あんたは、これが大丈夫そうに見えるわけ?」
彼は、腕を持ち上げて額から流れる血を拭いながら逆に問い返してきた。額から、止め処なく流れる血なんて、眩暈がしそう。私は大きく顔を歪めた。
あとで彼は、まるで私の方が怪我をしたみたいだった、と言った。当たり前でしょうに。目の前であんな血をどくどく流している人が居て、普通でいられるわけがないじゃない。
それにね? 彼、……貴方は人の怪我や体調には大騒ぎするくせに、自分のことには無頓着過ぎる。だから、これでいいの。貴方が自分のことを放っておく分、私が貴方の心配をするから。
「そ、そうですよね。……でも良かった、喋られるならば見た目よりも酷くないみたいですね」
私は本当に安心して、そう呟いた。だって、大怪我しているように見えたのだもの。話が出来ることに安心するのは普通でしょ?
彼はひとつ、息を吐いた。
私は持っていた日傘を傍らに置くと、彼の隣にしゃがみこんだ。そのまま、自分のハンカチで彼の額を押さえる。傷口を押さえて、血を止める。子供達の誰かが怪我をした時に、先生がおっしゃっていたのを思い出しながら。
ハンカチが血を吸い込んで赤く染まっていく。
「うわっ、あんた何やってるんだ!?」
彼は私の行動に、ひどく驚いたようで悲鳴に近い声でそう言った。
「え、一応止血を……」
何を聞いているのだ、この人は。そう思った私のこと、一体、誰が責められる? 人として、当たり前の行為だと思わない?
「別に、そんなのいいって……」
なのに彼は何故かそう言って、痛み以外の何かで顔を歪めると、私の手を振り払おうと右手を動かす。私は、慌ててその手を掴んだ。
普段出す以上の力で、けれどもゆっくりと、その手を下におろさせる。
「大人しくしていてください。大丈夫、悪いようにはしませんから。それより、動くと傷口が開いてしまいます」
冷静を装っていたけど、本当は私、泣きそうだった。これ以上傷口が開いたら、きっとこの人は死んでしまう。そう思ったから。
彼は、観念したのか何も言わなかった。
「……この近所に」
ぽつりと呟くと、彼の顔がこちらに向く。
「私の主治医の先生がいらっしゃいます。今からそこに行くつもりだったので、一緒に行きましょう」
そこまで言ってから、彼の様子を確認する。
「……あ、でも、その怪我じゃ動かない方がいいですし、動けませんよね。先生を呼んできますので、待っていてください。いいですか、絶対に動かないでくださいね」
必要以上に念を押して、私は立ち上がった。ハンカチはそのままで。
必要以上に念を押したのは、放っておいたら、この人は居なくなってしまうんじゃないかと思ったからだ。動けない怪我だろうとは思っていても、消えてしまいそうだった。
「おい、あんた」
呼び止められて、立ち上がったまま、彼の顔を見て、微笑む。
「大丈夫、私も先生も口は堅いですから」
訳有りなのかなぁと、思っていた。普通ならば、こんな怪我をしたら、どうにかして助けを呼ぶ筈。動けないにしても、声を出せるのだから、助けを呼ぶことは出来るだろう。
それをしなかったのは、何か訳有りなのかと思ったのだ。
私と同じように。
「……そこじゃない」
彼は何故か、苦虫を噛み潰したような顔をしてから、
「名前」
「え?」
「あんた、名前は」
この場の流れにそぐわない質問に、私は一寸驚いた。けれども、人に名乗るときはいつもそうしているように、出来るだけの笑顔を浮かべて、それに答えた。
「茜。一条茜です」
彼は何故だか、眩しそうに目を細めた。
「茜」
土手から彼をなんとか移した、先生の診療所で、先生が渋い顔をして呟いた。
「拾うのは頼むから猫だけにしておいてくれ」
「俺は猫以下かよ」
先生の言葉に返事をしたのは、診療台の上、包帯でぐるぐる巻きにされている彼だった。
「そんなこと言われても……。放っておけないじゃないですか」
「いや、確かに人助けは英断で、尊いことだが、しかし……」
先生が語尾を濁す。彼は何故かはん、と鼻で笑った。
「人助け、ね」
「何が面白いんだ、お前は」
「いや、別に。すごいな、あんた」
先生を相手にそんな乱暴な口をきける人は、この村には居なくて。私ははらはらしながらそのやり取りを見守っていた。
「おい、」
先生は、患者にするには到底思えない手つきで、彼の胸倉をつかむ。
「先生!」
悲鳴に近い声をあげた私には視線もくれず、先生は吐き出すように低く呟いた。
「お前は、一体、何なんだ?」
彼はにやり、と笑った。
「俺が一番知りたいね」
先生は顔を歪めると、彼を診察台に叩き付けるようにして、手を離す。
「先生! 怪我人に対してそれは……」
見ていられなくなって、私は先生と彼の間に割り込む。
「ぴーぴー騒いでんじゃねえよ」
助けに入ったつもりだったのに、何故か私には彼から乱暴な言葉が届く。
「放っておけばこんな怪我治る」
「治るわけないでしょう!」
自分の怪我なのに、あまりにあっさりした物言いに、私は思わず怒鳴っていた。
「耳元で騒ぐな、餓鬼が」
彼は五月蝿そうに右手を振ると、
「一度しか言わないからちゃんと聞けよ? 俺は人間じゃない。因って死なない。怪我しても放っておけば治る」
彼は当然のように、早口で言い放った。
私は言われている言葉が理解できずに、動きを止める。
間抜けな顔をしている私に、彼は唇を歪めてみせた。
「もう少し端的に言うならば、物の怪ということだ」
後ろで先生が舌打ちするのが聞こえた。
「とんだ拾いものだな、茜」
先生が小さく呟いた。
私は理解できずに、莫迦みたいに口をあけて、彼を凝視する。
彼は溜息をつくと、右手に巻かれていた包帯を外した。赤く染まったガーゼがひらりと床に落ちる。その下にある筈の、さっきまで血を流していた傷口は、何故か無くなっていた。
「判ったろう?」
彼は体を起こし、私の目を覗き込むと、聞き分けのない子どもに聞かせるような口調で呟いた。
「放っておけば、治るんだ」
「普通の」
先生が口を開くから、私は慌てて後ろを、先生の方を向いた。
「普通の人間だったら、死んでいてもおかしくない傷で、出血量だった」
先生がぼそりと呟く。
「そりゃぁ、驚くよな、先生。前に見つかった医者は、悲鳴をあげて卒倒したぜ?」
けらけらと彼は笑う。然し、急にぴたりと笑うのをやめると、真顔で私の顔を覗き込む。
「驚いたろ、嬢ちゃん。悪いな。先生も」
言いながら、足の包帯を外す。その包帯も、既に用をなしてなかった。
「先生が怖がらずに、適切に処置してくれたおかげで治りが早い。感謝する。二、三日は動けないと思っていたが、これならば明日にはなんとかなるだろう」
そこで私たちに向かって頭を下げた。
「一晩でいい、泊めてほしい」
そして、ゆっくりと顔を上げると、肩を竦めて唇を歪めた。
「勿論、こんな化け物にいつまで居いられては困るというならば、追い出してくれて構わないが」
沈黙。
先生が一歩踏み出してきた。私の頭を撫でるようにして、少し後ろに押す。かばってくれようとしているのだ、と思った。
「この子に聞いてくれ。あんたを助けたのはこの子だ」
そう言いながらも先生はもう一歩、私と彼の間に体をさしこんだ。
彼は私を見つめる。
「そうだな、嬢ちゃんに聞いてみないとな」
そう言って唇の片端だけをあげる。
「……茜」
私は少し躊躇して、小さく呟いた。
「私の名前は、嬢ちゃんではなく、茜、です」
彼は驚いたように少しだけ目を大きくして、すぐに小さく笑んだ。
「ああ、そうだな。さっき俺が聞いたんだった。茜色の、茜だな」
「あなたのお名前は?」
さりげなく、先生の手を横にどかす。先生は一度私の頭を軽く撫でて、悟ったかのように横にずれた。
「……。神山隆二」
彼は何か思案するように一度私から視線をそらせ、しかし、すぐにこちらを向いて答えた。
「神山さん、ですね」
私は出来るだけ、にっこりと笑んでみせる。
「此処をでて、どこか行く処が在るんですか?」
「居場所なんてどこにだって……」
「もし、無いのでしたら」
私は最後まで言わせずに、神山さんの言葉尻に早口で言葉をかぶせた。
「しばらくうちで暮らしませんか? 部屋なら余っていますから」
「……はい?」
先ほどまでの怖い顔を崩して、神山さんは間抜けに口をあけて呟いた。
先生が小さく、
「茜」
と呟いたが、それは嗜めるというよりも、諦めに似た感じだった。
「あんた、俺が怖くないのか?」
神山さんは眉間に皺を寄せると、怪訝そうに呟いた。
私はただ、笑んで見せた。
隆二。貴方は私が怖がらなかったことを不思議がったわ。
本当はとても怖かったのよ。本当に物の怪だったら勿論のこと、そうじゃなくても少し頭がおかしいのではないかと思った私の事、一体誰が責められる?
でも、それよりも、貴方がまるで置き去りにされた迷子のような顔をするから、私は放って置けなかったの。
沈黙が続く中、私は出来るだけ微笑んで、本当は怖くて怖くて仕方がなかったけれども微笑んでいた。
先生が斜め後ろで、右足を少し前にして神山さんを睨んでいる。神山さんは、眉根を寄せたまま、私を見ていた。
ふぅ、
誰かが息を吐く音が、やけに大きく響いた。
「……あんた、莫迦か?」
それを合図に、神山さんが半ば吐き棄てるように言った。
「俺の話を聞いていたか? 俺は人間じゃなくて、化け物だ。こんな大怪我を負っても生きている。そんな人間を傍に置いておく事が、どんな事か判っているのか?」
畳み掛けるような言葉を、私は一呼吸おいて受け止める。
化け物、化け物、化け物、ね。くすりと少しだけ、自分にだけわかるように嗤う。
「貴方がもしも悪い人なのでしたら、私も先生も殺しているんじゃありませんか? ほら、正体がばれちゃ生かしておけねぇ! ってやつです」
「あんた、顔に似合わず、えぐいな」
先ほどとは違う意味合いで、神山さんは渋い顔をした。
「よく言われます」
私は嗤う。
はぁ、と神山さんが溜息をついた。
「確かに、正体がばれたら困るんだよ。迫害されるならまだしも、見世物小屋を呼ばれた日にはどうしたらいいものかと」
神山さんは首を横に振った。見世物小屋、呼ばれたことあるのかしら?
「だけど、まぁ、あんたたちはそんなことしないだろうし。別に、されてもいいけど」
肩をすくめる。
「正体がばれたからって、ほいほい殺してたらまずいんだよ。変死体が見つかったり、行方不明者がでたりしたら、そっちの方が彼奴らに見つかるかもしれない」
「彼奴ら?」
苦々しく吐き出された言葉の、判らない部分について小さく問い返す。
神山さんは一瞬目を細めて、次に舌打ちして、
「関係ない」
それだけ吐き棄てた。どうやら、失言だったらしい。
手の内を明かさないのは、お互い様?
「そんなこと言って、怪我が治るまで油断させてるだけじゃないか?」
後ろで先生が呟いた。その解釈もありえるが、私は思わず振り返って先生を睨んだ。
「そう思うなら、俺を放り出せばいいだろう? わざわざ戻ってきてまで殺すような、酔狂な人間じゃないさ」
神山さんは先生を睨むようにして見つめ、言った。それから、ふっと顔を緩ませると、
「ああ、人間じゃないけど」
嗤った。
自分で言うのも躊躇われるけれども、彼のその嗤い方は、ひどく、私に似ていた。
「神山さんは、」
私は嫌なことに気づいてしまったと、内心で自分を罵りながら、表面上はにこやかに尋ねる。
「どうして、怪我をなさったのですか?」
言った瞬間、神山さんの動きが止まった。
先ほどまで浮かべていた嘲笑を消し去って、ただただ、目を見開いてこちらを凝視する。
「痛いところをつかれた、って顔だな。人でも殺したか?」
先生が言う。
「先生」
流石にそろそろ放って置けなくて、私は先生を睨みながら、嗜めるように告げる。
「私に全権を委任してくださったのではないのですか?」
先生は驚いたような顔をして、それから渋々と、
「まぁ、そうだが」
それだけ言う。納得していないのがありありと伝わってくる。私のことを心配してくださるのは嬉しいが、それとこれとは話が別だろう。
「どうなさったんですか?」
私は神山さんに向き直ると微笑む。
神山さんは、ひどく不愉快そうな顔をした。不服そうに細められた目で、こちらを見ると、
「笑うなよ」
と、一言前置きをした。
私は小首を傾げる。
「車に轢かれそうになった餓鬼を助けるつもりが、失敗した」
「……はい?」
全く、想定していなかった答えに、私は傾げいてた首を、更に傾けた。
言ってから、私も心の何処かではこの人が人でも殺したのではないかと、疑ってかかっていたことに気づき、胸中で自分をはたいておいた。愚かな私。
神山さんは、憮然とした顔でこちらを見る。
視界の端で、先生が私と同じような顔をしているのに気づき、少し自分を取り戻す。
「貴方は」
傾げていた首を、ようやく元に戻し、私は本当に、心から笑んだ。
「優しい方ですね」
神山さんは、不愉快そうな表情をますます強くした。
「格好悪いだろう」
「何がです? 人助けは立派な……」
「人の何十倍もの身体能力を持っているくせに、車なんぞに轢かれて」
ひどく不満そうに歪められた唇に、私は笑う。くすり、と。
「笑うなと言っただろうが」
神山さんが舌打ちした。だから言いたくなかったんだ、という呟きが聞こえた。
「ふ、」
何か、空気が漏れるような音がして、私は音の主を見る。
「あはははは」
一拍置いて、先生が豪快に笑い出した。
「……てめぇもかよ」
神山さんはついに、余所を向いてしまい、呟いた。
「おま、それ、」
「先生、何が言いたいのか解りかねます」
私は呆れている風を装って、告げる。本当は、先生の大笑いしたい気持ちも良く判った。
先生は言葉にするのを諦めたらしく、一頻り大笑いしてから、はぁっと深呼吸も含めた呼吸をする。
「気に入った」
息を整え、開口一番にそう言う。ぽん、っ膝を叩いた。
「実はな、さっき小僧が来たんだよ。車に轢かれそうになった、ってな」
他所を向いていた神山さんの視線が、再びこちらに向く。
「怪我はないのか? と尋ねたら、僕は無いという。だが、知らない男の人が大怪我していた、と」
神山さんは片膝を立て、そこに頬杖をついた。
「頭から血をだらだら流しながら、涼しい顔で大丈夫か? なんて聞いてきたとか言うから、半信半疑でな。丁度、その子の親が通りかかったらその子を返して、でもとりあえず、どうにかしなくてはな、と思ったときに、茜がやって来た」
「一寸待って、それじゃぁ、先生」
私は一歩、先生に詰め寄る。
「先生、最初から知っていらっしゃったのですか?」
「この小僧が」
「いや、爺さんよりは長生きしてるぜ、俺」
どうでもよさそうに、神山さんが茶々をいれる。
「その割には人間が出来ていない、青二才じゃないか」
先生が楽しそうに笑う。青二才呼ばわりされて、神山さんが舌打ちするのが聞こえた。
「この、神山隆二と名乗るやつが、もしかしたら小僧が言った、助けてくれた男なのかもしれない、とは思ったな」
「でしたら、なんで」
なんで、あんな侮辱するようなことを!
「だがな」
言いかけた私を遮るように、先生は続ける。
「治療しようとして、生き物として何かがおかしいことはわかった。何を考えているかわからない。助けたのとは別の男かもしれない。助けたのには何か策略があったのかもしれない。疑いだしたらきりがない。とりあえず、かまをかけてみた」
そういって豪快に笑う。
「呆れた……」
私は心底そう思って呟いた。これだけ私の肝を冷やさせて、先生はすべてお見通しだったなんて。なんて、なんて、ずるい人。
でも、そんな先生だから私は信頼しているのだ。そうも思って、何か悔しくて私は少しだけ唇を尖らせた。
「とんだ狸爺だな、あんた」
神山さんも、なんだか不満そうにいった。
結局、私たちは先生の手の上で踊らされていたのではないか、そんな気がした。
先生は何も言わずに、一度にかっと笑った。
「まぁ、面白そうだし、茜に害を加えないのならば」
「だから、加えないって」
「今日だけといわず、暫くいていいぞ。面白そうだから」
「一言余計だな」
神山さんが溜息をつく。
私は知っているけれど、先生のこの物言いは許可ではなく、命令だ。逆らえる人は、少なくともこの村には居ない。
「まぁ、あれだな。俺が助けた餓鬼が少しでも俺のことを気にしていてくれたのは、少しばかり有難いな。助けたのに礼儀のなっていない餓鬼だと思ったから」
ぼそり、と呟く。
頭から血を流した人に、涼しい顔で大丈夫か? なんていわれたら、少し怖いと思うけれども……。
「こんな小さな村に車が走っていること自体、俺には不思議だがな」
少し、思い当たることがあって、私はうつむく。
先生がちらりと此方を見た。
「あの」
意を決して、私は顔をあげる。神山さんが、私を見た。
「その、車は、真っ黒なものでしたか?」
「ん? ああ、洒落た服着た爺さんが運転してた」
嗚呼、やはり。あたった予感に私は嘆息する。
「神山さん、それ、私の身内です。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
深々と頭を下げると、神山さんが少しだけたじろいだ。
「いや、別にいいんだが……」
まったくあの人たちは、まだ人に迷惑をかけないといられないのだろうか?
「ひょっとして、あんたいいとこのお嬢様ってやつか?」
神山さんの言葉にぴくり、とこめかみが引きつるのがわかる。
いいところのお嬢さん? 誰が。
「茜です」
ぴしゃり、と言ってのけると、彼は押し黙った。
先生が何か言いたそうな顔で、それでも黙ってこちらをみていた。
「私は、ただのこの村に住む娘です。それだけ、です」
「……ふーん」
納得しかねるな、と彼は呟いた。
「お互い様でしょうに。貴方も」
「隆二」
言葉を言い切る前に言われた。にやり、と神山さんが笑う。
「人には名前を訂正させておいて、自分は違うんだな、茜」
厭に順応力に長けている人だ。笑う。
「隆二も、全てを話したわけではないでしょう? 手の内を明かすのならば、お先にどうぞ?」
小首を傾げる。はん、と隆二が鼻で笑った。先生が唇を歪める。
嗚呼、なんて歪んだ関係。お互いがお互いの秘密を暴き合おうとして、牽制し合っているなんて。少し笑う。私にはお似合いだ。
「これからよろしく、茜」
隆二が、挑むようにして笑うので、
「ええ、こちらこそ、隆二」
同じような顔をして私も笑った。
「……お前ら一寸おかしいだろ」
先生が小さくぼやいた。
そう、これが貴方とあった最初。私の人生を変えた、劇的な出来事の一幕目。
嗚呼、出来るなら、ここからやり直したい。
一人で歩けると言い張る隆二を連れて、私は自宅へと戻った。一人で歩けると言いながらも、自分は化け物だと言いながらも、隆二の足取りは重かった。
ゆっくりと歩いていたので、家に辿り着く頃には、だいぶ辺りは暗くなっていた。
「ここ、どうぞ」
小さいながらも、私一人が住むには広過ぎるこの家。田の字に襖で区切られた一番奥、普段使っていない、何もない一室に案内する。
隆二は首だけで小さく頷いた。
「お食事は普通に摂られますか?」
「食べなくても死なないから気にしなくていい」
「……食べることは出来るわけですよね?」
「それはまあ」
「そう」
私は一瞬視線をさまよわせてから、隆二に戻すと小さく微笑んだ。
「じゃあ、作るんで一緒に食べましょう。大した物は、出来ないけれども」
「……なんでその結論になるかねぇ」
心底不可解そうに言われる。その質問が、私には不可解だ。
「一人の食事は寂しいから」
そんなこと、当たり前ではないの?
待っていて、と付け足すと、夕食の準備のため、部屋をあとにした。
ご飯とお味噌汁と漬け物に、お魚。お魚は一人分しか買っていなかったから、半分こ。
「……俺要らないから、ちゃんと喰えよ」
したのに、嫌そうな顔をして隆二が魚を返してきた。
「でも」
「喰わなくても死なない俺より、普通の人間のあんたが喰え」
ほらっと、目の前に魚のお皿を置かれる。しばらく悩んでから、素直に受け取った。明日からはちゃんと、二人前用意しなくっちゃ。
私が用意したご飯を、美味しいとも不味いとも言わず、隆二は食べていく。でも、要らないとごねたりせず、きちんと食卓についてくれたことが嬉しい。
貴方は最後まで美味しいとか言ったことはなかったけれども、それでも貴方とご飯を食べること、私、楽しみにしていたのよ。
だって、一人の食事は寂しいでしょう?
「……ご馳走様」
小さな声で呟かれた。
それに思わず、頬が緩む。
あらいやだ、可愛いらしい。
「はい。お口にあったのなら、よかったです」
動物の餌付けに成功した。そんな、気分だった。
あの日から、隆二と二人の生活が始まった。
本当に小さい時にお手伝いさんがいた時以外では、初めての誰かと一緒の暮らし。期待と不安が入り交じって、どうしたらいいかわからなかったの。だから、もしかしたら、少し強引だったかもしれない。強引に、隆二を私の生活に組み込んでいった。
いつも同じ時間に起こして、食事を摂り、掃除を手伝ってもらって、散歩についてきてもらって、野良猫に餌をやり、週に何度か先生の処に顔を出す。これの繰り返し。
貴方は、特に抵抗することもなく、私に合わせてくれた。それに、私は本当に感謝していたの。有難う。
嗚呼、でも一度だけ。隆二に訊かれたことがある。
「毎日毎日同じ事の繰り返して飽きない?」
そんなことを、言われた。
散歩中、隆二と初めて出会ったあの土手で。
私は、何故貴方がそんなことを訊くのかが判らなかった。
「どうして? 同じ日なんて一度もないじゃない」
出かけた先で見る物も、貴方が言うことも、何もかもが違っていたのに、どうして同じだなんて思っていたのか。本当に不思議だったの。
「……あー、そう」
隆二はそう言うと、頭を掻いた。
それっきり、その話は終わりになったけれども、後から思ったの。家に帰って、寝る前にふっと。
長く生きている貴方にとっては、毎日の小さな変化なんて、本当に些細なもので、変化のうちには入らなかったのかもしれない、って。
嗚呼、それなら、大きな変化として受け取ってもらおう。毎日を楽しいと思ってもらおう。私と居る間ぐらいは、楽しいと思ってもらおう。そう、思ったの。
貴方の事が、本格的に気になりだしたのは、きっとこの頃。風変わりな同居人から、少し気になる人になったのは、きっとこの頃。
だけど、あの頃は、ここまでにしておこうと思っていた。私は未だ貴方に隠し事をしていたし、そもそも貴方は本来一カ所に留まるべきひとではなかった。自身を化物という貴方は、きっとずっと此処には居ないだろう。漠然とだけど、私は感じていた。
だから、ほんの少し親しみが増した程度にしておこうと思っていた。
きっと短い間だけれども、その間ぐらいは隆二には此処での生活を楽しんでもらおう。そうして、一条茜という人間が居たことを覚えていてもらおう。打算も込めて、そう思っていたの。
だけれども、貴方はなかなか出て行かなかった。本当は、すぐに、長くても数ヶ月で居なくなると思っていたのに。
「……明日は太郎と遊ぶ約束をしたんだ」
夕飯を食べながら、初めて貴方がそう言った時、私はとても驚いた。
「太郎君と?」
「ああ」
あの日、貴方に初めて会った日、貴方が助けた男の子。あの後、改めて顔を合わせた後、貴方があの子に懐かれていたのは知っていた。散歩の時会うと、会話していたことも。
にしても、これは予想外だった。だって、いつも我関せずと飄々としている貴方が、あの小さな男の子と遊ぶ約束をしているなんて。
「……そう」
なんだか胸が温かくなって、唇が綻ぶ。貴方が誰かと関わってくれたことが、なんだかとっても嬉しかった。
「楽しみね」
「ん」
その日以来、貴方は度々あの子達と遊ぶ約束をしてきた。だから、少し安心していたの。
貴方は感情を表に出さないし、冷たいように思われるけれども、それでも小さな男の子との約束を破ったりするようなひとじゃないっていう事、この数ヶ月で判っていたから。貴方は、自分が思っている程、ひとでなしではないのよ?
だから、きっと、もう少し、このままの暮らしを続けていけるのだろう、と。
今から思うと、あれは甘えだったのだろう。こんな日々がずっと続く訳がないと知りながら、甘えていたのだろう。本当は、私は判っていたのだ。いつか、あんな日が来るということが。
もしも、意識していたら。私の方から動いていたら。ねぇ、何かが、変わっていた?
この生活を変えたのは、二人の死神の存在だった。
いつもどおりの散歩道、あの土手に現れたのが一人目の死神。
隆二、貴方の、死神だった。
赤い着物、長い黒い髪を束ねることなく、風になびかせている女性。見ない顔だな、と思った。見かけない顔だな、と。
私はただそれぐらいしか思わなかったけれども、隆二、貴方は違った。
その人の姿が見えた瞬間、隆二は足を止めた。
気づかず数歩進んでしまった私は、立ち止まると振り返った。
「どうしたの?」
隆二の顔は酷く真っ青で、いつも表情が読めないのに、なんだか泣きそうな顔をしているように見えた。
今から思うと、あれは怯えていたのね。
「隆二? ねぇ、本当にどうしたの? 真っ青だけど」
近づこうとすると、それに合わせるかのように二、三歩後ずさった。逃げるかのように。
「……隆二?」
何かしてしまったのだろうか。不安にかられる私に、
「違う、そうじゃなくて」
隆二は真っ青な顔のまま、首を左右にふって否定の意を表した。でも、そのまま流れるような早口で、
「だけど御免」
それだけ言うと、振り返り、逃げるかのように足を動かした。
「隆二っ」
思わず慌てて私が名前を呼ぶのと、
「U078」
遠くから、だけどはっきりと声が聞こえたのはほぼ同時だった。
走りかけた隆二の足が、その声に縛り付けられるようにぴたりと止まったのが判った。
「逃げても無駄ですよ」
冷たい声。それは、あの女性のものだった。
「……ゆうぜろななはち?」
初めて聞く言葉を思わず復唱する。淡々と、冷たい声で話すその人の言葉は、まるで呪文のようだった。
「U078?」
窘めるような声色でその人がもう一度言うと、隆二がゆっくりと振り返った。
顔色はより一層悪くなっていて、泣き出す手前のような顔をしていた。迷子の子供みたいな。
「御機嫌よう。御無沙汰ですね。随分と楽しそうな暮らしをしていらっしゃるようで」
その人は淡々と、顔色一つ変えずそう言葉を続けた。
私は、その人と隆二の顔を見比べると、少し隆二に近づいた。詳しいことはわからないけれども、その人が隆二にとって味方で無いことだけは判ったから。
悪い夢を見た、独りぼっちの子供みたいな顔をしている隆二の右手をとる。なんだか判らないけれども、私は此処に居るから。それだけは伝えたくて。隆二は縋り付くかのように手を握り返してきた。
「勘違いしないでください。貴方を連れ戻しにきたわけじゃありません」
「え?」
その人は淡々と言葉を放ち、隆二が驚いたような声をあげた。それは隆二にとっては吉報だったのだろう。少し、安心したような顔をする隆二に、
「私達はもう貴方達を兵器としては必要とはしていません。そこで選んでいただきたい。此処で、証拠隠滅の為に大人しく消え去るか、又は必要に応じて我々の力になるかを」
その人は冷たく告げた。
その人が、何の話をしているのかは判らなかった。だけど、
「……必要と、していない」
小さく隆二が呟いたのを見て、良くない事なのだと思った。
「……消滅か、隷属か」
隆二の掠れた声。
「……もう、疲れた」
意味は判らない。何の話をしているのか判らない。
それでも、今貴方を引き止めなければいけない、それだけは判った。
今引き止めないと、貴方は此処から居なくなってしまう。いいえ、この世界から、居なくなってしまう。
そんなの、絶対に、駄目!
「俺は、もう……」
「隆二っ」
魂の抜けたような顔で何か呟く貴方の手を強く引くと、名前を呼んだ。自分でも、こんな大声が出るのかと、少し驚いた。
はっと我に返ったかのように、貴方が私の顔を見た。揺れていた瞳が私を捉えたから、それに少し安心する。
居なくなるなんて、そんなの駄目。この世界から消えてしまうなんて、そんなの、絶対駄目。
「ゆうぜろななはち? そんなもの知らない。貴方は、神山隆二よ」
私には言っている意味が判らない。
だけれども、私にも判っていることがある。
貴方が神山隆二であること。
「……俺は、化物だ」
「だから何? もうそんなこと、今更気にしない。貴方が優しい人だってこと、知っている」
子供を庇って怪我をして、私の生活に付き合ってくれて、小さな太郎君と遊ぶ約束をして、いつも傍に居てくれる。貴方が優しい人だっていう事、知っている。
かたかたと、小刻みに自分の手が震えているのが判る。
自身を化物という隆二が、こんなに怯える相手のことが怖い。貴方が消えてしまうことが怖い。怖いけれども、恐ろしいけれども、この手を離してはいけない。
手を握ったまま、しばらく隆二と瞳を合わせていたが、
「……判った」
吐息と共に隆二が言葉を吐き出した。ゆっくりとその人の方を向くと、
「あんたらの言うことを聞く。だから、此処に居させてくれ」
どこか頼りない声で、それでもしっかりと答えた。
嗚呼、良かった。貴方が消える未来は回避出来た。
「そうですか。では、何かあったらまた来ます。逃げても無駄ですから」
その人は、淡々とそれだけ言い、すぐにその姿を消した。最後まで、表情を変えることなく。
「……いっ」
その人の姿がしっかり見えなくなって、緊張の糸が切れた。悲鳴のような声が口から漏れ、足から力が抜けて座り込んでしまう。そんな私を、慌てたように隆二が支えてくれた。
「いまのは?」
「……死神だよ」
そう答えてくれた隆二の顔色もまだ悪かった。二人とも力が抜けて、そのまま土手の草むらに腰をおろす。
握った手は離さない。まだ、どこか怖かったから。貴方が生を手放そうとしていた事が、怖かったから。
貴方は振り払うこともなく、そのままにしていてくれた。お互いに手を握ったままで。
冷たい貴方の手を、しっかりと握った。
「死神?」
「俺にとっては」
「……そう。怖い人ね」
貴方のその説明でなんとなく判った。隆二の死神。
きっと私にとってのあの人達のようなものなのだろう、と。
「……俺さ」
「うん」
川を見たまま隆二がぽつりと口を開く。私はその横顔を見つめた。
「元々は人間だったんだ」
「……え?」
「元々化物として生まれたわけじゃなくて。もう、どれぐらい前かな……。覚えてないけど、人間として生まれて、家に金なくて、俺体弱かったし、売られた。……それとも、俺、自分で行くって言ったんだっけな。親と俺、どっちが先に言い出したんだっけ。もう覚えてないや」
隆二の視線は水面に向けられたまま。零れ落ちるかのような言葉を、私は黙って受け止めていた。
いいえ、何と言っていいのか判らなかった。貴方が話し出すことが、予想外過ぎて。
「売られたのが、さっきの死神がいる変な研究施設で。戦の為の兵器を作るとか言って、色々な子ども集めてて。すぐには何もされなかったけど。だけど、そのうち実験はじめて。なにがどうなったのか判らないけど、俺は成功したんだ。成功したから、化物になった。人より優れた身体能力と、死なない体を持った化物になった」
心臓が不自然に跳ねる。厭な感じに胸をそっと押さえた。
嗚呼、だって。だって、それじゃあ、まるで。
「U078は、俺の実験体としての番号で。ずっと、そうやって呼ばれてた。あそこでは。殆どの実験が失敗して、成功したのは俺を入れて四人。四人で相談して、逃げた。研究所から。怖かったから。このまま兵器として扱われることが」
「……兵器は生き物ではないから?」
「え?」
思わず零れ落ちた言葉に、隆二が驚いたようにこちらを見た。
嗚呼、だって、隆二。それじゃあ、まるで。
「化物は生き物だけど、兵器は生き物ではないから? 兵器だったことが嫌で、ずっと隠していた?」
「……そうかもしれない。尊厳も何も無く、ただ物として扱われるのが怖かったんだな。自分が消えてしまうようで」
それじゃあ、まるで、私みたいじゃない。
最初から、貴方は私に似ていると思っていた。それでも、その時、より一層、強く思った。
貴方は、私みたいじゃない。
「……さっきの人は、隆二のこと道具としてしか見てなかった」
隆二の手を思わず強く握る。あの人は怖い。厭だ。嫌いだ。
道具としてしか見ていない、なんて。
「そんな人には、隆二は渡さない」
道具じゃない、物じゃない。ひとではないかもしれないけれども、神山隆二は自我のある生き物だ。
隆二の顔を見ると、なんだか驚いたような顔をしていた。それを見て、思わず強張ってしまった顔を、慌てて少し緩ませる。ふぅと一つ息を吐いて、そっと尋ねる。
「逃げて、此処まで来たの?」
「あ、ああ」
「そう。……ならずっと此処に居ればいい」
しっかりと隆二の瞳を捉えると、ゆっくりと慎重に言葉を発した。貴方にきちんと、届くように。
「隆二がなんだって関係ない。人間でも化物でも兵器でも、隆二は隆二だから」
それ以外の何者でもないし、それだけで十分の筈だ。私達には。
隆二は少し時間をかけて言葉を受け止めてから、
「……うん、ありがとう」
思ったよりも素直に一つ頷いた。
言葉が届いたようで安心する。
嗚呼、貴方はまるで私みたい。そう思っても、この期に及んで、私は未だ自分の話が出来ないでいた。秘密を抱えたまま。
「帰りましょう」
狡い私は、微笑んで立ち上がる。握ったままの手を軽く引くと、隆二も立ち上がった。
特に会話もないまま、帰路につく。手は繋いだまま。貴方が振り払おうとしなかったこと、嬉しかった。
言葉も無い帰り道だったけれども、あの空気は心地よかった。貴方と何か、近づけた気がした。
秘密を抱えているくせに。
そうやって秘密を抱えたまま、黙ったままだったのがいけないのだろう。
あれは、罰があたったのだ。私が自分から秘密を暴露しないから、神様がお怒りになったのだ。
貴方が離さなかった手を、私は、私から離す羽目になったのは、罰なのだ。
「茜様」
名前を呼ばれたのは、家が見えた頃。
たったそれだけで、心臓がすぅっと冷えた。心が、凍った。
見られたくない、と、慌てて隆二の手を離した。私の方から。
「何処にお出かけですか?」
淡々と問いかけてくる、黒服の老人。私の、死神。
泣きそうになるのを堪えながら、私が口を開きかけた時、
「あ、車の……」
隆二が小さく呟いた。
嗚呼、そうだ、初めて貴方に会った時、貴方を轢いたのはこのひとなのだ。
私の、身内の、このひとなのだ。
「そちらは?」
死神が尋ねてくる。
「一条には、関係ありません」
隆二を巻き込んではいけない。その思いだけで、必死にそう答える。このひとを見ると、いつも足が竦む。声が震える。
「茜様。仮にも一条の人間が、こんな何処の馬の骨とも判らぬ人間と一緒にいるとはどういうことですか」
死神が酷く冷たい眼差しを隆二に向けるから、私はますます泣きそうになった。私の事は何と言ってもいいから、そのひとを巻き込まないで。
私の想いとは裏腹に、隆二が何故だか鼻で笑った。
「何が可笑しいのです?」
死神が咎めるように言う。
やめて。やめて。
「何も可笑しく無い」
隆二は何故だか、笑いながら答えた。
「俺が何処の馬の骨とも判らないのも、塵みたいなのも事実だから。それをわざわざ指摘することに、可笑しなところは何も無い」
あまりにも隆二らしくて、あまりにもこの死神に向けるには不相応な言葉に、私の心臓は縮み上がった。
死神にそんな口の聞き方をしないで。怖いから。貴方に危害が及んでしまう。
「隆二っ」
思わず縋るように名前を呼ぶと、
「……すまん」
隆二が小さく頭を下げた。
嗚呼、お願い。せめて今のこの生活は壊さないで。覚悟は出来ているから。いざという時は、ちゃんと道具になるから。だから。
「一条に、迷惑がかかることをしたつもりは、ありません」
手をぎゅっと握って、なんとか言葉を絞り出す。
「第一、葵がいるならば、私は要らないはずです」
「立場は判っていると、そうおっしゃるのですね?」
立場? そんなもの、痛いぐらいよく判っている。ずっとずっと、昔から。
「……はい」
なんとか頷くと、
「結構」
死神は満足そうだった。
「くれぐれも、一条家の名を汚さぬように」
駄目押しのようにそう告げると、立ち去って行く。
嗚呼、もう、どうして。
「……なんだ、あれ」
隆二が小さく呟くのを背中に聞きながら、体から力が抜けて座り込んだ。
立場は判っている。覚悟は出来ている。なのに、どうして、この生活すら守らせてくれないの?
「茜っ」
慌てて駆け寄ってくれる隆二の両手を、
「隆二っ」
縋り付くようにして掴む。
「あれが、あれが私の死神なの。……私が黙っていた事、聞いてくれる?」
嗚呼、もう、泣きそうだ。
さっき、ちゃんと自分で言っておけば良かった。そしたら、こうして死神に会うことも無かったかも知れないのに。
愚かな仮定の話を繰り広げながら、それに縋り付く。
「……ああ」
隆二はゆっくりと頷いた。
「私には、姉が居るの」
家に入り、落ち着くと、私はゆっくりと切り出した。
「同い年の」
隆二は少し、考えるような表情をしてから、
「血の繋がらない? ……いや、双子か?」
「そう、双子。葵って、言うの」
小さく頷く。
「一条は、昔から続く名家とかで、家柄をとても大事にしていて。だから、双子が生まれたなんてこと、外聞を大事にする一条にはあってはならないことだった」
「……ああ、双子は悪魔の子、とか言われる風習が?」
「そう。……流石に、知っているんだね」
長く生きている貴方ならば、知っているかもと思っていたけれども。
まったく同じ顔の人間が二人いること、一つの腹から一度に二人生まれること、そう言ったことから双子は忌まわしいものとされている。私達だって、例外じゃない。
「だから私は、生まれなかったことにされる筈だったの。……殺される筈だった」
仕方ないよね、と呟くと、小さく笑った。
私は、仕方ないことだと判っている。だから、気に病まないで、と。
「だけど、一条は代々体の弱い者が生まれることが多くて。私や葵も例外じゃなくて。だから私は、今日まで此処で、一条から離された処で、生かされている。葵に何かがあったときに、すぐに代われるように」
私は、予備だ。
生まれた時からずっと、一条葵の予備でしかない。
予備である私は、道具としてしか見られていない私は、だから隆二の境遇に心惹かれた。同じなのではないか、と思ったのだ。
だからと言って、貴方を巻き込む言い訳になんか、ならないけれども。
「……さっきの人は、一条の補佐を代々している人で、だからだいぶ失礼なことを」
「笑うな」
先ほど巻き込んでしまった詫びを言おうとしたところ、強い口調で遮られた。
隆二の目が真剣で、それに少し驚いた。
「どうしたの?」
「笑うな」
もう一度貴方はそう言い、私の手を引っ張った。突然の事に蹌踉け、貴方に支えてもらった。そう思った次の瞬間には、私の頭は隆二に抱えられていた。隆二の胸元に額を押し付けるような体勢になり、
「隆二っ」
突然のことに慌てて声をあげる。嗚呼、だってこんな、こんなに誰かに近づくことなんて、今まで無かったもの。
隆二は私の抗議の声を無視して、
「なんで、泣きそうな顔をしてる癖に笑うんだよ。なんだかとても、腹が立つ」
低い声でそう言った。
その言葉に、腕から逃れようとしていた手を思わず止めてしまう。
私、そんな顔、していた?
「向こうの都合で勝手に振り回されてるんだろ。怒ってもいいし、泣いてもいいし、それが普通だろ。判ったような顔をして、笑わなくてもいいだろうが」
言われた言葉が優しくて、そしてその声がなんだか震えていて、私の心は揺さぶられた。
「笑わなくて、いいから」
もう一度呟いた隆二の声は、どこか必死で、縋り付くようで、嗚呼、このひとはやっぱり同じなのだ、と思った。きっと、このひとは私の気持ちを自分の物として理解しているのだ、この気持ちを知っているのだ、そう思えた。
優しい言葉が嬉しくて、辛そうな貴方の言い方が愛しくて、なんだか泣きそうになった。
少し躊躇ったけれども、結局腕をそっと、隆二の背中に回した。ぐっと力を込める。
「……有難う」
発した私の声は、あからさまに泣いていて、自分でも恥ずかしかった。
「ん」
ぶっきらぼうに貴方が頷く。
こんな風に異性にくっついて、恥ずかしくなかったと言ったら嘘になる。それでも、この手を離すつもりはなかった。もしかしたら、貴方に対してとても失礼な言い方になるかもしれないけれども。貴方は、私が私自身の力で、私として、一条葵の予備ではなくただの一条茜として、手に入れた唯一の存在だから。
離れたくなかった。
隆二の方も手を離すことはなく、どれだけそうしていただろうか。
「……茜」
小さく名前を呼ばれて、
「あ、御免なさい」
少し体を離して顔をあげた。貴方が何も言わないのをいいことに、長いこと甘えてしまった、そう思って。貴方が途方に暮れて名前を呼んできたのだ、と思って。
でも、違った。
「……隆二?」
隆二はなんだか目を細めて私を見ると、私の頬を驚く程優しい手つきで撫でた。
嗚呼、私は、この人の事が好きだ。
その瞬間、理屈ではなくそう思った。
ひととして、異性として、好きだ。
だから、貴方の顔が近づいてきても、私は避けようとは思わず、寧ろすすんで目を閉じた。
一瞬、一条の事が頭を過ったけれども、それは貴方を拒む理由にはならなかった。
同じように貴方が私を好いてくれているのが判って、それなのに拒むことはないと思った。
貴方と共にいることは、私の人生において唯一の、一条への反抗だ。
唇が触れて、離れて、貴方が少しだけ微笑んでいて、それでもう満足だった。
また貴方に抱きつく。
私の心臓は、どくどくっどく、と大きな音をたてていた。我ながら心配になるぐらい。
けれども、耳をつけている貴方の胸からは何の音もしなかった。嗚呼、これが、生きていないということなのか、と妙に冷たい貴方の手を感じながら思った。
でも、そんなこと関係なかった。
私は貴方を愛していて、貴方と暮らす事を、選んだのだ。
あの日以来、貴方との生活は少しだけ様子を変えた。
貴方は以前よりも笑うようになって、優しくなって、それから出て行くつもりがなくなったことも判った。
貴方が笑って、優しい言葉をかけてくれて、私に触れて、そういった日々が嬉しかった。
貴方と二人、色々な話をした。私の話をここまで聞いてくれる人は初めてだったから、嬉しかった。勿論、先生は私の話に耳を貸してくださったけれども、先生はお忙しくて私だけに構っているわけにはいかない。
貴方は、私だけを見ていてくれた。
それが、どんなに嬉しかったことか。
「葵は、知らないわ。私がいること。自分の予備がいること」
それに、一条の話は先生相手には出来なかった。先生は、基本的には私の味方で、優しくしてくださるけれども、それでもやはり、一条の息のかかった存在だから。
「自分が双子だったことも、きっと、知らない」
「……会った事は?」
「一度、遠くから、少しだけ、一方的に」
どうしても見てみたくて。私の本物を見てみたくて、こっそりと見に行ったことがある。
「私と同じ顔をした人間が、上質の着物を着て、沢山の人を従えているのを見るのは、愉快ではなかったわ」
だから、それ以来、一条に近づいたことはない。
私がそこに居たのかもしれない。生まれる順番が違ったら。そう、思ってしまう自分が厭で、近づいていない。
「葵は葵で、きっと色々あるのでしょうけれども」
そこにまで思いを馳せられる程、私は大人ではなかった。
貴方は少し困った顔をして、それからそっと右手で私の頭を撫でた。くすぐったくって、少し笑う。
「俺にはよく判らないんだが、普通、茜の立場のような人間は、一人で生活はしないんじゃないのか?」
「見張りと教育係を兼ねた世話役が居たこともあったのだけれども、私が十になるころに、男と逃げ出して、それっきり」
あの人の事は、それなりに好きだった。私より十ほど年上の、あの女性。偶に癇癪を起こして怒鳴る事もあったけれども、それ以外はとても優しい人だった。
私にとって、家族のような人だった。
でも、好いた妻子持ちの男と添い遂げる為に、逃げ出した。私を置いて。
私は彼女が居なくなった事を、しばらく一条に報告しなかった。彼女が生活の仕方を教えてくれていたから、一人でも困らなかったのもある。
「彼女が居なくなった事、なんで黙っていたのか、自分でもよく判らないの」
彼女が逃げ切れるように、と思った気持ちもある。でも多分、一人になったことを認めたくなかった気持ちもあったと思う。
彼女が逃げた事を知って、一条は私を叱った。あれはなかなか不愉快だった。
「それでも私、間違った事をしたとは、今でも思ってない」
彼女が何処かで幸せにしていればいいな、とは思っている。
「その後、新しい人が来る事になったんだけれども、私が一人で大丈夫だと言ったの。一人で十分生活出来るって。それ以来、あの死神が様子を見に来るぐらい。私が大人しくしているから、様子を見に来る回数はかなり減ったわね。村のお偉いさん達は、私の事を知っているから、何かあったらすぐに報告が行くでしょうしね」
「……十の時からずっと一人?」
隆二がなんだか痛ましげに呟く。
「そんな顔をして」
頬に手を伸ばす。
「貴方が、十の時はどうだったの?」
言うと、隆二はかすかに苦笑いのような物を浮かべ、
「大差ないか」
小さく呟いた。
隆二は、あまり自分の話をしなかった。したくないのならば、それで構わなかった。
過去のことよりも、今があれば。
「今は、隆二が居てくれるから」
呟く私を、優しく貴方の手が抱き寄せる。
日々は穏やかで、優しかった。
あの頃の貴方はよく、逃げようと言った。
此処から逃げよう、と。
好きだとか愛しているとか言わなかった貴方にとって、あれは精一杯の、一番素敵な愛の言葉だったのだと思う。
実際に、とても素敵な提案だと思った。本当よ。
私はいつも、煮え切らない返事をしていたけれども、いつも本当にそれは素敵なことだと思っていたの。想像していた。
貴方となら、きっと、一条から逃げ切ることができる。貴方なら、きっと、私を違う場所に連れて行ってくれる。
そこで、二人で暮らすのは、とても幸せだと思ったの。
安全で、安心で、平和で。
だけど、私はそれに頷けなかった。頷けるわけがなかった。
だって、私は、一条を裏切れないから。
本当は、生まれたその時に私は殺されるはずだったから。それが、双子の運命だから。
それを、葵の予備として生かしてくれていた一条に、私は感謝していたの。貴方は、きっと、理解できないと言うでしょうけれども。
だって、そうじゃないと、隆二。生きていないと、貴方に会えなかったじゃない。
きっと貴方は、理解してくれないだろうけれども。
私の唯一の我が侭と反抗は、貴方とこうして居る事だから。それよりも先は、私には望めなかった。
素直に応じない私の態度に不満そうな顔をする貴方にそっと抱きつく。
貴方が此処に居てくれれば、私はそれだけで十分で、それ以上望めなかった。
貴方との生活は、それぐらい幸せだったのだ。私の人生の中で、一番いい時期だったと、胸をはって言える。
だから私は、自分の事を一つ、黙っている事にした。どこまでも狡い私は、これを知ったら貴方が居なくなる可能性が高い事を理解した上で、秘匿した。
私の心臓が欠陥品である事を。
すぐに気づかれるかと思ったけれども、貴方は何も言わないから、私は隠し続けた。
主治医の先生。一条は代々体が弱い。これらを知っていた上で、賢い貴方が本当に気がつかなかったとは思えない。貴方もきっと心の何処かで考えるのをやめていたんじゃないかしら。
私と同じように。
考えなければ、無かった事に出来るのだ。一時的に。
秘密を抱えている以外には、極めて平和で、そして幸せな毎日だった。
ある日、部屋で裁縫をしていた時、ふっと心臓に違和感を覚えた。いつもと同じ、違和感。
嗚呼、またか。
厭な気持ちを抱えながら、そっと針を置くと、畳にそのまま寝転がった。
隆二が近くに居なくて良かった。そう感謝しながら。
幾ら駄目な心臓でも、自分の物の事だから判っている。こうやって少し大人しくしていれば、これぐらいならば大丈夫だろう。
軽く瞳を閉じる。
しばらくそうしていると、
「……茜?」
そっと声がかけられた。同時に床が軋む。
「寝てるのか?」
隆二が近づいて来たのを感じながら、私は目を開ける事は無かった。隆二には悪いけれども、このまま寝たフリをすることに決めたのだ。下手に動いて発作を起こしてしまうよりもそちらの方がずっといい。
「……風邪ひくだろうに」
呆れたような小さな声がして、すぐにまた足音が遠ざかる。何処に行くのだろう、と思っていると、すぐに戻って来た。
ふわり、と何かが体にかけられたのが判った。布団、持って来てくれたのか。
優しさに心打たれていると、そのまま隆二は隣に座った。
冷たい手がそっと、優しく私の頭を撫でる。とくんっと、こんな時に私の心臓が一つ跳ねた。違う意味で。
貴方が今、どんな顔をしているのか、見たくてしょうがなかった。確認したかった。貴方がきっと、とても優しくて、素敵な顔をしていることが判ったから。
同時に、私が目を開けたら、すぐに貴方はその表情を消してしまう事も判っていた。
だから私は必死に瞳を閉じていた。
貴方の手を感じながら。
こんなにも優しさと愛情を向けてくれる人が、傍に居てくれることの有り難みを噛み締めながら。
そのまま、寝たフリは、いつしか本物になってしまったらしい。軽い睡眠から目覚めた私の目に、最初に飛び込んで来たのは、誰かの頭だった。
誰のか、なんて考えるまでもない。
眠っている私の、ずっと傍に居てくれたのだろう。そして、そのまま自身も眠ってしまったらしい。隣に寝ている隆二の寝顔をそっと見つめる。
身じろぎしたら貴方は起きてしまいそうで、息を潜めて、そっと。
出逢った時は、手負いの獣のようだった貴方が、こうして無防備な寝顔を見せるようになったことが、とても嬉しい。
愛している人が傍に居てくれることが、とても嬉しい。
そんなこと、私の人生には望めないと思っていたから。
嗚呼、幸せだ。
小さく微笑んだ。
そんな幸せが、ずっと続くとは思っていなかった。きっと、隆二だってそうだったろう。
その日が来るまで、私はそのことを考えないようにして生きてきた。
運命の日は、なんでもない一日に紛れていた。
その日も、いつもと同じ様に始まった。隆二と二人、散歩に出かけて、土手で子供達に声をかけられた。
「りゅーじにーちゃん、あーそーぼー」
「太郎達か」
最初、隆二が助けたその少年は、今ではすっかり隆二に懐いていた。私はそれを微笑ましく見ていた。
「やだよ」
「ええっ、ケチー」
「一寸ぐらい、いいじゃない」
冷たく返事する貴方と、膨れる子供達と、呆れた様に宥める私。ここまでは、いつもと同じ、お決まりの会話だった。
「仕方ないなー、一寸だけだぞ」
そんなことを言いながら、缶蹴りに参加する隆二が、気づいたら誰よりも熱中しているのもいつもの事。普段、斜に構えている貴方の、そういう子供っぽいところを見るのが、私は大好きだった。
いつものように少し離れた場所でそれを見ていたけれども、
「っ」
心臓に違和感を覚えて、小さな呻き声が漏れた。
これは、違う。
いつものとは、違う。
思った時には、震える手で、持ち歩いてた薬箱から薬を取り出し、強引に飲み込んだ。
嗚呼、でも、駄目だ。
一際不自然に心臓が跳ねて、耐えられなくなって倒れ込む。
嗚呼、遂に来てしまった。
「っ、茜!」
慌てて駆け寄ってくる貴方の存在を感じながら、そう思った。
「どうした?」
「発作だ」
と、どの子供かが言った。
嗚呼、遂に来てしまった。私の秘密が、貴方に伝わってしまう日が。
「発作?」
「茜ねーちゃん、心臓弱いって先生が」
「薬は? 持ってないの?」
「飲んだ、から、へいき」
微笑んでみせようとしたけれども、掠れた声しか出なかった。
私を支えてくれている貴方が、ぐっと一度、唇を噛み締めたのが見えた。
嗚呼、貴方はきっと自分を責めている。何故気がつかなかったのかと。でもそれは、私が黙っていたからだから。だから、気にしないで。
本当はそう言いたかった。
「少し、我慢しろ」
隆二の冷たい手がそっと私の頬を撫でると、そのまま私を抱えて彼は立ち上がった。
「りゅーじにーちゃん」
「先生んとこ」
そんな声が聞こえて、次に貴方は走り出していた。
頬に受ける風に、貴方が本気で走っていることが判った。普段、目立つ事を気にして、化物だと知られないようにと気をつけている貴方が、そんなこと関係無しに走っている事が判った。
申し訳ないな、と思う。
私の秘密のせいで、貴方をそんなにも追い詰めてしまった事。
でも、かすむ視界に映る貴方の顔が、いつになく真剣で、必死で。不謹慎だけれども、私はそれに少し嬉しいと思ってしまった。貴方が思っていてくれるのだと思って。
そんなことを思いながら、意識は一度、落ちた。
次に目が覚めた時、視界に映ったのは、私をじっと見ている貴方の顔だった。
「……隆二?」
そっと呼んでみると、
「ああ、お早う」
貴方はそう、言葉を返して来た。
きっと、淡々とした挨拶を意識したのだと、思う。大方、先生にいつもと同じようにしてくれと、言われたのだろう。
嗚呼、貴方は嘘が下手ね。
「……うん」
そんなことを思いながら頷く。
「先生のとこ。今日はもう遅いから泊まっていけって」
明らかにいつもとは違う、いつもどおりを意識した貴方がそう言う。
「隆二が連れて来てくれたのよね? ありがとう」
だから私は、微笑んだ。
黙っていたのは私だ。断罪されるべきは私だ。貴方が、そんなに苦労して嘘をつく必要は無い。思った事を、言ってくれればいいのだ。
「吃驚したよね。御免ね」
揺れる視線を捉えて微笑むと、貴方の顔が、瞬間、くしゃりと歪んだ。泣きそうに。
「茜」
寝台の横に跪き、私の右手を握る。貴方の冷たい手。祈るように、貴方はその手を額につけた。
「隆二」
「置いていかないでくれ」
吐き出されたのは、少し意外な言葉だった。
私の手に縋り付くようにして、貴方が言葉を続ける。必死に。
「頼むから。もうこれ以上、一人にしないでくれ」
黙っていた事を責められる覚悟は出来ていた。でも、この展開は考えていなかった。私は、愚かだ。
嗚呼、置いていかれる事が寂しい事、一人になる事が寂しい事、私だって判っていたじゃない。世話役のあの人が、居なくなったあの気持ち。
「茜が居ないと、無理だ」
隆二の声が震えている。
そして、隆二が言う「置いていく」は、生死が絡む話だ。永遠の、別れだ。
この人はきっと、沢山寂しい思いをしてきたのに。考えれば判る事なのに。
「……うん、心配させて、御免ね」
握られたのとは、反対側の手を伸ばして、そっと隆二の頭を撫でる。
黙っていて、御免なさい。
不安にさせて、御免なさい。
「御免ね隆二、有難う」
私の事、愛してくれて有難う。
ずっと、一緒に居てあげられなくて、御免なさい。
「違う、草太」
貴方は急に、聞き覚えの無い名前を言った。
「え?」
「俺の名前、人間の時の。草太っていうんだ」
その言葉を発する時、貴方は少し痛そうな顔をした。それでも、はっきりと私に言った。
「茜にだけは、覚えていて欲しい」
握られた手を、そっと握り返す。
嗚呼、確かに貴方は人間じゃないかもしれない。永遠を生きるという貴方は、人間じゃないかもしれない。
それでも、貴方は、私の愛したひとだ。
「ん。草太」
愛したひとの名前を、どうして忘れよう。
名前を呼ぶと、隆二は泣きそうな顔をした。
そのまま、また少し、握った手に力がこもる。
「一緒に居てくれ」
「一緒に居るよ」
此処に居るよ、と付けたした。
いつか、貴方が離れたくなるまでは、意地でも此処に居るよ。
永遠を生きるという貴方が、いつまでも私と一緒に居てくれる訳が無い。そんなことは、とうの昔に理解していた。
でも、この時、改めてそれを認識した。
貴方はきっと、いつか、私と一緒に居る事が厭になる日が来る。
私がどんなに頑張っても、私は私の老いを止められない。私の時間を止められない。
貴方はきっと居なくなる。過ぎた時間を突きつけられて、優しくて少し弱い貴方は、きっと私と一緒に居る事が耐えられなくなる日が来る。
でも、それまでは、貴方の傍に居よう。この欠陥品の心臓を、無理にでも動かして、貴方の傍に居よう。
私はあの日、改めてそう決めた。
そして、もう一つ。いつか来る別れの日の為に、覚悟を決めて行く事にした。
その後は表面上、何事も無く日々が流れて行った。
貴方が全力で走った事で、少し村の人が隆二のことを奇怪な目で見る事になってしまったけれども。
気に病む私に貴方は、
「別に、今更気にしても」
何でも無い事のように肩を竦めた。
そうして、
「そんなことより大丈夫か?」
いつだって、私の体の心配をした。
そう、あの日から貴方は、目に見えて過保護になった。平気だと言っているのに、私に触るのも少し躊躇う程度に。
あれには少し、閉口した。
私は、貴方に気づかれないように少しずつ、家の中から日付の判る物なんかを撤去した。時間は無くならない。そんな事は判っている。
それでも、時間なんてものは無いフリをしたかった。
それは、私の為だけど。
私も隆二も、時間については触れないようにしていた。意識しないようにしていた。
嗚呼、違う。一度だけ。一度だけ、私はその話題に触れたことがある。
きっかけは散歩の時のこと。
「ほらほら、おいで」
野良猫を構うのが、その頃の私の日課だった。
片手を伸ばしてそう告げる。猫は警戒しながらも少し近づいて来る。
今日こそ、触れるかもしれない。期待していると、
「痛いっ」
悲鳴をあげると、伸ばした手を引っ込め、反対の手で押さえる。
伸ばした私の手を引っ掻いて、猫が逃げて行った。
背後で見守っていた隆二が、呆れたような溜息をつきながら、引っ掻かれた私の手をとった。
「血は出てない、な。とりあえず、あとで消毒しておけよ」
「はい」
それには素直に返事したものの、口からは思わず溜息が漏れる。毎日毎日、この展開だ。
ぼやく私を、しばらく呆れたような顔で見ていた隆二だったが、
「……茜」
少し真剣な顔をして、私の名前を呼んだ。
「やっぱり野良は警戒心が強いから気をつけた方がいいんじゃないか? 傷口から何か病原菌に感染してしまってから嘆いても遅い」
「そうは言うけれども」
隆二の言っていることは正論だとは思う。それでも、やっぱりなんだか不満だ。
反論しようとした私を、隆二の言葉が遮った。
「というか、人に平気で近づいていくような野良は駄目だろう。生き残れない」
それもまた、正論だった。
「そっか、そうだよね……」
でも猫、可愛いのに。特に最近見かけるあの子はとっても可愛いのに。
あからさまに落ち込んだ私を見かねたように、隆二が言葉を続ける。
「だから、餌を与えたいならば此処に置いておけばいいんじゃないか?」
そういってほらっと、物陰からこちらを見ている猫を指さす。
「あ、そっか」
持っていた煮干しを、地面に置く。
猫に触れてみたいことが大きいが、少し痩せたあの子の事が気になるから、構っているのが実情だ。
「それじゃ、私達は行くからゆっくり食べて大きくなるのよ」
猫に向かって真剣にそう伝えると、隆二が呆れたように笑う。そのまま、二人で家に向かって歩き出した。
「そんなに猫が好きならば、飼えばいいだろう」
「でも、それはそれで色々と問題があるから。餌代とか躾とか。それに、先生は私が猫と触れ合うのあまりいい顔なさらないから」
「だろうな。ただでさえ体弱いのにその自覚ないから」
「何、その言い方」
「あまり無茶をするな、と言っているんだ」
ぶっきらぼうで、冷たい言い方。でもそれが、口下手な貴方にとって「ものすごく心配だから無茶はしないでくれ」を表す言葉だと気づき、少しくすぐったくて笑う。
「うん、気をつける。有難う。……あれ、でも、飼ってもいいの? 前は嫌そうにしていたのに」
猫問題は、隆二と暮らすようになってから、既に何度かあがってきたのだ。その度に、隆二はいい顔をしなかった。あまり、生き物と一緒にいるのが好きではないようだ。
「毎日毎日、野良に餌をやりに行くのにつき合わされるよりは幾分ましだ」
「……そう」
返された言葉は、なかなかに冷たかった。
「なんだ、てっきり隆二も遂に猫の可愛さに気づいたのかと思ったのに」
「俺は未だに思うぞ。あんな懐かない生き物のどこがいいのか、と」
あまつさえ、そんなことを言い出す。
「判ってないわねー」
呆れて笑いながら、猫の可愛さについて貴方に話ながら、歩く。
猫は可愛いと思う。でも実際のところ、大好きだと言う程でもない。それでも、貴方に猫を好いて欲しかった。
いいえ、猫でなくても構わなかった。何でも良かった。
貴方に何か、私以外の生き物に接して欲しかった。
隆二は私の話を判っているのかよく判らなかったが、私は最後にこう締めくくった。
「隆二も、猫を飼ってみればいいのよ。そうすれば、絶対その可愛さに気づくから」
「にゃー」
私の言葉が終わったのと、猫の鳴き声が聞こえたのはほぼ同時だった。
狙ったような鳴き方に少し驚きながら、声の主を捜す。
もしかしたら、これは神様からの贈物なのかも知れない。そう、思った。
私は貴方に、生き物に接して欲しかったから。
道の端に置かれた、くたびれた箱。それに駆け寄ると、中では案の定、仔猫が震えていた。
「隆二来て」
少し離れた所で、きっと呆れた顔をしている貴方を手招きする。貴方は文句も言わずに隣に来てくれた。
そんな貴方に、その箱をそっと手渡す。
中に居たのは、黒い仔猫だった。今は薄汚れているけれども、きっと綺麗であろう毛並みをしていた。黒というよりも、漆黒。
緑の瞳でじっとこちらを見てくる。
この子をどうするかなんて、考えるまでもなかった。
「……茜?」
黙って猫を見つめていた私に、隆二が声をかけてくる。それに言外に含まれた意味を理解しながらも、私は努めて明るく、隆二を気にせずに言った。
「怪我しているみたい、捨て猫かしら? 可哀想に、まだこんなに小さいのに」
「茜?」
もう一度、先ほどよりも強く名を呼ばれる。
まさか拾うつもりじゃないだろうな。貴方はきっとそう言いたかったのだろう。でも、
「ねぇ、隆二」
私は隆二の瞳を捉えると、微笑んだ。
「助けてあげなきゃね」
言うと、隆二は一瞬、何かを言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わなかった。代わりに小さく息を吐いて、家に向かって歩き出す。
貴方は優しいから、駄目だとは言わない。先ほど、自分で飼えばいいと言ったばかり、ということもあるのだろうけれども。
隆二の隣を歩きながら、仔猫を見つめる
「これで、隆二も猫の可愛さが判るわね」
微笑むと、隆二は何も答えず、ただ呆れたような溜息を返してきた。
それでも良かった。
私は、貴方に、私以外の生き物と接して欲しかった。
別にそれは猫でなくても構わなかったし、勿論人間でも良かった。
私は、貴方の永遠をずっと一緒に生きてあげることが出来ない。いずれ、私は貴方を置いて逝くことになる。そうなった時に、貴方が何か生き物と触れ合うことを躊躇うようにはなって欲しくなかったのだ。
貴方のその冷たい手を、温めてくれる何かが居てくれた方が良い。そう思っていた。
それが例え人間でも。
人間の、女であっても。
本当は、そんなこと想像するだけで厭だけれども、それでも。貴方がひとりぼっちになってしまうよりは、ずっといい。
私は、そう思っていたの。
連れて帰って来た猫を、部屋の暖かいところに箱ごとおろす。
「隆二、一寸見ていて」
それだけ告げると、返事は聞かずに台所に向かう。とりあえず、温めた牛乳を用意すると持って行った。
隆二は、少しだけ箱とは距離をとっていたけれども、それでもちゃんと仔猫を見ていてくれた。何を考えているのかは、その表情からは判らなかったけれども。
嫌がらないでいてくれたことが、どこか嬉しかった。
「どうぞ」
箱の中の猫に、牛乳を差し出す。お皿に容れたそれを、その子はしばらく見ていたが、飲もうとはしない。
「……まだ、母親からお乳をもらう年齢なんじゃないか?」
私が困惑していると、隆二がそう言った。
「嗚呼、そうね。それじゃあ、何か、代わりになる物」
とはいえ、赤ん坊も居ない我が家に哺乳瓶などある訳も無いし、
おろおろしている私を見て、隆二は一つ、溜息のようなものを吐いてから、
「なんか、綺麗な布」
「え?」
「あるか?」
「あるけど。……一寸待ってて」
少し慌てて取りに行く。持って来たそれを隆二は受け取ると、
「何も無いよりは、いいだろ」
何かに言い訳するかのように呟くと、丸めた布を牛乳に浸した。そのまま、それを仔猫の口元に持っていく。そこから、絞り出す様にして、仔猫の口に牛乳を落とした。
そこに食べ物があることに気がついたのか、仔猫は布をくわえる。それを何度か繰り返して、隆二は何かに納得したかのように頷くと、
「後は、茜がやってくれ」
「あ、うん」
私が布を受け取ると、隆二は立ち上がり、何処かに行ってしまった。
私は、隆二がやったように仔猫に牛乳を与えながら、ただただ、驚いていた。
貴方がこんなこと考えついて、実行するなんて、考えても見なかった。
「……自分で思っているよりも、ずぅっと優しい人だからね」
出逢った時からそうだ。貴方は子供を助けようとしたのだ。
この分なら、きっと、貴方は大丈夫。時間はかかるかもしれないけれども、ずっと独りで居る事はないだろう。私が居なくなった後も。
優しい貴方だから、また何か、懐かれてしまった生き物と、仕方なしにでも一緒に生活することだろう。
貴方に温もりを与える存在が、いつか、きっと現れるだろう。
犬か、猫か、もしかしたら、人間かもしれないけれども。
私以外の誰か、女の人と居る貴方を想像してちくり、と胸が痛んだ。
ゆっくりと、覚悟してきたつもりだった。それでも、やっぱり想像すると厭な気分になる。
「仕方ないのにね」
私は貴方とずっと一緒に居てあげられないのに、貴方に一人で居る事を強要するなんて、酷い事だ。頭では判っているのに。
「仕方ないわよね」
感情は、そう簡単にはつ<いていかない。
仔猫の牛乳を与えながら、小さく微笑む。
「今は、まだ」
にゃぁと、小さく仔猫が鳴いた。
「貴方の、名前も決めなきゃね」
最期の瞬間に、隆二の倖せを願えるように。それが、私の人生の目標だ。
食事を与えて、寒くないように気をつけて。後は何をしたらいいのだろう。
隆二が仲良くしている子供達の中に、猫を飼っているお家があったから、あの子に聞いてみよう。
そんなことを考えながら、お皿を片付けるために、ほんの少し、仔猫の傍を離れた。
私としては、それだけのつもりだった。
再び、仔猫の前に戻った時、仔猫はその緑色の瞳を閉じて、眠っているようだった。最初、そう見えた。
でも、近づいてみて気づいた。さっきまで動いていた、黒い毛並みが動いていない。
息を、していない。
「っ、隆二つ!」
思わず、叫ぶ。
慌てて抱き上げた仔猫はまだ温かくて、眠っているように見えて、でも、鼓動が感じられない。
やだ、だって、そんな。
「茜っ?」
慌てた様に隆二が走ってくる。
「どうした?」
「助けてっ」
そんなこと隆二に言っても、隆二を困らせるだけだと判っていたのに、仔猫を差し出し、縋り付く。
だって、そんなの、
「この子を助けてっ」
納得出来ない。
隆二は驚いた様に仔猫を受け取る。ひんやりとした貴方の手が、触れた。
隆二は仔猫に触れ、軽く眉を動かすと、そのまま座り込み、仔猫の様子を見始める。
私は祈る様に両手を組んで、それを見ていた。
いくらかの時間が流れて、
「茜」
隆二が顔を上げた。
いつの間にか泣いていた私の頭を撫でて、隆二は小さく微笑んだ。
「お墓、作ってあげよう」
庭の隅に、隆二が穴を掘っていく。それを仔猫を抱えたまま、黙って見ていた。
一体、何が駄目だったんだろう。私には、それすら判らない。それなのに、猫を拾おうなんてしたことが駄目だったのだ。
誰かに暖かさを与えたい等という、不遜な気持ちで、この子を使ったから。だから、私が悪いのだ。
結局、この子は救えず、隆二をも傷つける結果になってしまった。
「茜」
名前を呼ばれて、俯いていた顔をのろのろあげると、隆二が困ったような顔をしていた。
穴は、掘り終わったらしい。
ゆっくりと、その中に仔猫を寝かせた。
隆二が、庭に勝手に咲いていた花を幾つか手折ると、猫に手向けた。
御免なさい、御免なさい。
心の中で謝りながら、仔猫を見送る。私に泣く資格なんて無いのに、涙が溢れてきた。
地面に膝をつき、座り込む私の後ろで、隆二が困った顔をしているのが判った。
御免なさい、貴方にそんな顔をさせたかったわけでもないのに。
「茜」
そっと、貴方が優しく声をかけてくる。
「子猫だから、抵抗力が弱かったんだ」
「……うん」
「だから、茜が悪かった訳じゃない」
「……うん」
「今度はきっと、元気に生まれてくるさ」
「……うん」
「だから、……もう泣くなよ」
「……判っているけど」
私が悪い事は、判っているけれど。
「でも。でも、やっぱりもっと他に何かが出来たのじゃないかと思うから。それにまだ、……まだ、名前すら付けてあげていないのに」
私は本当に何もしていない。
あの子が、苦しんだ顔をしていなかったことだけが救いだ。でも、そんなの私の勝手な救いだ。
「……生き物は」
隆二が、躊躇いがちに話だした。
「いつか死して逝くものだ。自然の理なんだ」
「だから、諦めろというの!」
宥めるような言葉に、思わずかっとなり、振り返る。それで死が諦められるというの?
でも、振り返ってすぐに、怒鳴るように言ったことを後悔した。隆二がいつもよりも眉を下げて、諦めた様に笑っていたから。
嗚呼、そうだ。彼が、諦めろなんて言う訳が無い。
諦められたら、このひとは苦しんだりしない。
「違う。だから、黙って送ってやれって言いたいんだ。……それは、自然なことなんだから」
死なない貴方は、そう言った。自分の存在が自然ではないと、死ぬ事を諦めた貴方が言った。
私は何も言えなくて、口を閉ざした。俯く。
ぽたり、とまた涙が落ちた。
私は最早、自分がなんで泣いているのかが判らなかった。
仔猫の為か、悲しいのか、悔しいのか、詫びているのか。それとも、貴方の事を思ってなのか。
私の感情が少し収まったころ、隆二が言葉を選ぶようにして、
「なぁ、茜。……少しだけ判ったぞ。懐かれると可愛いっていう意味が」
「……うん」
「もっと勉強して、今度は救えるようにしような」
「……うん」
それが、貴方の精一杯の慰めの言葉である事が判った。
貴方は本当に優しい。
「……ほら、風邪引くから戻るぞ」
そう言って差し出された片手に掴まると、立ち上がる。
私の手を引いて、家に戻ろうとする貴方の背中を見つめる。
こんな事、本当は言ってはいけないのだと、頭では判っていた。でも、どうしても言いたかった。言っておきたかった。これは、私の我が侭だけれども。
今を逃したら、もう二度と機会は訪れないことが、漠然とだが判っていた。
だから私は、
「……隆二」
「なんだ?」
禁忌を犯した。
貴方の背中に、躊躇いながらも、しっかりと告げた。
「……もし、私があの子みたいになった時は、黙って見送ってね」
隆二は、何も答えなかった。黙っていた。
言ってはいけないことだとは、思っていた。貴方を傷つける言葉だというのも。
私達はお互いに、時間から目を逸らしていたから。私の命の終わりについて、考えないようにしていたから。
でも、一度だけ。今だけ。私は貴方に言っておきたかった。
引きずらないで。囚われないで。気にしないで。貴方は優しくて臆病だからそんなことを言っても無理だろうけれども、それでも。
どれぐらいの時間が経っただろうか。
私は、かすかに隆二の背中が震えるのを見た。
そして、
「二度と、そんなこと言うな」
体の奥から吐き出したような声で、隆二はそれだけ言うと、あとは黙って家に向かって歩く。
判っている。もう二度と言わない。でも、忘れないで。
そう思って、少し微笑んだ。
結局、私が禁忌に触れたのは、あの時だけ。あれ以降は、概ね平穏な日々が続いていた。すこぅし、過保護になった貴方との生活は、それでも緩やかに続いていた。
触れたら壊れそうな、砂の土台の上で。それでも、壊れずに。
私は少しずつ、だけど確実に覚悟を決めて、そして、あの人が現れた。
あの日、庭の木の、枝が伸び過ぎていて気になると、突然剪定をはじめた隆二を、縁側がら見守っているところだった。貴方は突然、そうやって思いつきで妙な事をはじめるから、私は度々驚かされていた。きっと、自覚は無かったでしょうけれども。
「隆二兄ちゃん、茜姉ちゃん!!」
そんな中、慌てた様子で庭に飛び込んで来たのは、あの時、隆二が助けた太郎君だった。
あの頃よりは大きくなって、上の学校に通うようになって、彼に会う事も減っていた。久しぶりに見るあの子は、体は大きくなっていたけれども、相変わらず少し、落ち着きが足り無かった。
「太郎、どうした?」
ひょいっと地面に降り立ちながら、軽い調子で隆二が尋ねる。
「車に轢かれた!」
太郎君は悲鳴のように叫んだ。
どう見ても、ぴんぴんしていて、元気そうな外見で。
「はぁ?」
隆二が思い切り怪訝そうな声を出した。
要するに、太郎君はまた車に轢かれそうになり、それを助けてくれた見知らぬ男性が車に轢かれたらしい。
「隆二兄ちゃんっ、みたいに!」
「で、俺の時みたいに悲鳴をあげて逃げたわけだ」
「だって! 怒られると思ってっ」
「判ってるなら気をつけろよ。そそっかしいんだよ、太郎は。いつか本当に轢かれるぞ」
事故現場まで先導する太郎君に着いて行きながらの状況説明。
それにしても、走っているから呼吸が乱れている太郎君や私とは対照的に、隆二の声は平坦なままで、不謹慎だけれども感心した。
「でもっ、大丈夫なのかしらっ。隆二は、ともかくっ、心配」
隆二は、隆二だったから大丈夫だったのであって、普通の人ならば場合によっては死んでしまうこともあり得るのだ。
それにしても、太郎君の話では車は一条の物とは違ったようで、他にもそのように乱暴な運転をする人間がいるのかと思うと、一条ではなかったことに安堵する一方で、辟易した。
この村にも、一条以外にも、車を持つ人間がいる程、普及し始めたのか、とも少し思った。嗚呼、貴方と初めて逢った時から、どれだけ時間が経ったのだろう。普段意識していないことをつきつけられて、心臓がきゅっと痛んだ。
それが表情に出ていたのか、
「俺はどっちかっていうと茜の方が心配だ」
隆二がこちらを見て、うんざりしたような顔をした。
「いいから歩いてゆっくり着いて来い。走るな」
「でもっ」
確かに少し心臓は跳ねているけれども、今顔を顰めたのは別の理由だし、心配だし。
反論しようとする私を無視して、
「太郎、土手だよな」
「そうだよっ、隆二兄ちゃんと一緒」
「だって。走るな、歩け。まだ距離がある。お前まで倒れたらどうする」
厳しい顔と口調で言われた言葉に、素直に歩調を緩める。
「……はい」
その轢かれた人というのは心配だったけれども、貴方に心配をかけることも本意ではなかった。それに、怪我人に病人を増やしても、迷惑になるだけだ。
「先に行ってる。俺一人の方が速いし。太郎、茜が走らないようにちゃんと見とけ」
「うんっ」
隆二はそれだけ言い残すと、速度を上げて走り去った。
相変わらず、速い。でも、あれでも本気ではないのだろう。
「茜姉ちゃん、大丈夫?」
胸に手を置いて、一度深呼吸をした私を見て、太郎君が心配そうな顔をする。
「大丈夫」
それに微笑みかける。
まだ、大丈夫。
まだ、貴方がこの町にいるから。だから、私は、まだ生きていくのだ。貴方が居なくなるまで、この欠陥品の心臓を無理にでも動かそうと、そう決めているから。
だから、大丈夫。
走るなとは言われても、のんびりと歩く訳にも行かず、心持ち早歩きになる。
私達が土手に着いた時、何故か隆二は倒れ込んだ男性の隣に、のんびりと座り込んでいた。
一寸待って、どういう状況なの、それ。
「隆二っ」
手当ぐらいしたのだろうか。そう思いながら呼びかけると、隆二は私を見て、
「だから走るなって」
咎めるように言った。
「でもっ」
「これ、知り合い」
言葉は、つまらなさそうな隆二の言葉で遮られた。
「え?」
「仲間」
「……ああ」
そうだ、成功した実験体は四人居た、と彼は言っていた。そのうちの一人、と言う事か。ならば、隆二が落ち着いていたのも理解出来る。
と、同時に、あの隆二の死神の姿と、死神が現れた時の怯えた隆二を思い出して、厭な気持ちになった。
それは顔にも出ていたらしい。
「……だからなんでお前がそういう顔するかねぇ」
隆二が呆れたように呟いた。その言葉は、とても優しい。
貴方の事を愛おしく思っているから、だから私は、こういう顔をするのよ。貴方だってそれぐらい、判っているでしょうに。
「あの……」
私の影に隠れるようにしていた太郎君が、意を決したように、男性に声をかける。
「太郎、大丈夫。こいつも俺と同じようにしぶといから、生きてる」
それを見て、思い出したかのように隆二が言った。目に見えて、太郎君が安心する。
「ありがとうございました。御免なさい」
男性の隣に立つと、頭を下げた。
でも本当、太郎君はそそっかしいところがあるので、気をつけて欲しい。
「……いいよ」
男性は、呟くと、視線を何処かに逸らした。逃げるように。
あ、隆二と一緒だ、と直感的に思った。出逢った頃の隆二と。その顔は、お礼を言われるのも、誰かと触れ合うのも、嫌がっていた頃の貴方に、とてもよく似ていた。
隆二の仲間は、皆、そんな風に寂しい反応をするのだろうか。彼らの立場を考えてみればそれは当たり前なのだけれども。それでも、悲しいことだと思った。
同時に、今の隆二が、私だけではなく太郎君達ともかかわることを嫌がらなくなったことに安心もした。
私が居なくなっても、貴方はきっと、誰かに助けてもらえる。すぐにでは無いかもしれないけれども、いつかは。誰かと触れ合うことに躊躇いが無くなっていることは、安心材料だから。
さてと、と隆二は呟くと、
「先生の処、連れてく。二人は先、帰っててくれ」
「でも」
一人で大丈夫だろうか。勿論、私が居ても役に立つとは思えないけれども。それでも、仲間だというその人に、思い出してしまった死神の存在に、素直に任せる事は躊躇われた。
「大丈夫」
そんな私の心を読み取ったかのように、隆二が笑う。安心させるように。
「本当?」
「ああ」
「……じゃあ、判った」
貴方がそこまで言うのならば、任せよう。それに、考えてみれば、私が居たら出来ない話だってあるだろう。貴方にも。
「太郎、茜送ってやってくれ」
「うん!」
「車には気をつけろよ」
「判ってるよ!」
「茜、待ってなくていいから。遅くなったら先に寝てろよ」
「……うん」
それは、そこまで遅くなる予定がある、ということか。でも、久しぶりに会った知り合いなのだから、積もる話もあるだろう。そう、自分を納得させる。
少し、寂しいと思った自分が居て、内心苦笑した。私は本当に、貴方に依存している。いつも一緒に居るのに、居るから、少し離れるだけでも寂しい。
気をつけてね、と念を押して、太郎君と二人、家に戻る。
「太郎君、車に気をつけてね」
「判ってるよー!」
不満そうに太郎君が唇を尖らせる。本当に、判っているのかしら?
「茜姉ちゃんこそ、気をつけてね」
それはきっと、車の事を言っている訳じゃない。
「うん、ありがとう」
「茜姉ちゃんになんかあったら、隆二兄ちゃん、きっと駄目人間になるからね」
太郎君が真剣に呟いた言葉に、思わず笑う。
「駄目人間になるの?」
「なるね。隆二兄ちゃんは、一人だったらご飯食べるのも忘れそうだよ。なんか、生活出来なさそう」
こんな子供にも見抜かれている隆二が、なんだか愛おしかった。
「ねえ、太郎君」
「うん?」
「大丈夫だけど。だけどね、もしも、隆二が駄目人間になっちゃったら、叱り飛ばしてあげてね」
太郎君は、私の言葉の意味を考えるかのように、少し黙っていたが、
「ん」
小さく頷いた。
「でも、そういう面倒臭いの、僕、嫌いだから。だから、駄目人間にさせないで」
それから、少し怒ったように言葉を続けた。私が自分の死後の事を頼んでいる事が判らないような子供じゃないのだ、この子も、もう。
「うん。させないけど、万が一」
「万が一ね。約束だよ」
「ええ」
家まで送るという太郎君とは、もう遅いからと、手前で別れた。私の家は村の外れだから、こちらまで来たら、太郎君が帰るのが遅くなってしまう。
家に一人、帰る。
誰も居ない家の中は、恐ろしいぐらい静まりかえっていて。私はもう何年も、ずっとずっと、この静寂の中で生活してきた筈なのに、耐えられないと、今は思った。
嗚呼、貴方が居ないのなんて、貴方が来てから初めてだから。
耐えられない。
貴方がきっといつか居なくなってしまう未来を思って、この家の中にまた一人になることを思うと、耐えられない。
そして、私が居ない世界で、一人で生きていく貴方を思うと、やはり耐えられなかった。
耐えられないのに、私には何も出来る事が無い。
「寂しいね」
呟いた言葉を拾う人間は居らず、ただ、家の中を漂った。
隆二が帰ってくる気配が無かったので、久しぶりに一人で食事をし、寝る準備まで終えた。本当は待っていたかったけれども、待っていたら隆二はいい顔しないだろうから。<
改めて、一人で住むには広い家だな、と思う。隆二と出逢うまで、当たり前のようにこの家に一人で居た自分が信じられない。
しかし、そろそろ本当に寝ないと。あまり起きていると隆二が何言うか判らないし、などと思っていると、がたがたと、玄関の方で音がした。
それにびくり、と肩が強張る。何でも無い音が、一人だととても怖い。
玄関の方まで行くか悩んでいると、がらがらとドアが開く音がした。言葉も無く、進んでくる足音。
隆二だと思うけれども、隆二の筈だけれども、違ったらどうしよう。部屋の隅で、怖くて身構えていると、
「まだ起きてたのか」
部屋に来た隆二が、不愉快そうに言った。
「……ただいま、ぐらい言ってよ」
隆二に対して身構えていた自分が恥ずかしくて、そう言うと、
「寝てると思ったんだよ」
「寝ようと思ってた」
言い訳のように答えると、どうだか、とでも言いたげに隆二が肩を竦めた。
「でもまあ、良かった。事後報告で悪いんだけど、こいつ、とりあえず一晩泊めていいか?」
背後を指差す。そちらに視線を移すと、襖に隠れるようにして、先ほどの男性が居た。なんだかもの凄く微妙な顔をしている。よほど不本意なのだろう、此処に来る事が。或いは、隆二の世話になる事が。
「先生は構わないって言っていたんだが、流石に先生の処にこいつ一人置いてくるのは躊躇われるし」
「……だから、俺、何もしないって」
暗に危険人物扱いされて、不愉快そうに男性が答える。
「俺が使ってる部屋に置いとくし、俺が一応監視しておくから。茜には近づかせないようにしておく」
「いや、だからさ、何もしないってば」
面倒臭いなぁお前は本当、と男性がぼやく。
「それはまあ、別に、構わないけれども」
今日一緒に眠れないのは、少し寂しいけれども。
「隆二が連れて来た人ならば、何か問題が起きるとも思えないし」
本当に、この人の事が信用出来ないのならば、先程の土手で彼を捨て置いた筈だ。隆二ならきっと、そうする。それをしなかったということは、口では色々言いながらも、少なくとも、ある程度は信用している、という事だろう。
「有難う」
「あー、なるほど、判った」
軽く微笑んで頷いた隆二を見て、男性が少し、高い声を出した。
「俺が何かをするっていうのが心配なんじゃなくて、茜ちゃんが心配なわけね。相手が誰であろうと。心配だから俺を見張ってるとか言い出したんだ」
なるほどねー等と、先程までの態度からは考えられないぐらい明るく言う男性を、隆二はうんざりしたように見た。
「俺はお前の、そういうところが本当、嫌いだよ」
「それはどうも」
皮肉っぽく、男性が唇を持ち上げた。
二人のやりとりに、少なからず驚く。隆二がこんな風に誰かにからかわれることも、あるのね。なんだか少し、面白い。
「……何?」
顔に出ていたらしい。隆二がこちらを見て、小さく問いかけて来た。
「いいえ、何も?」
慌てて表情を取り繕って答えた。隆二は、小さく溜息のようなものを吐いた。
「まあ、そういう訳だから」
「あ、うん、判った」
「悪いな」
「いいえ」
「もう遅いから、ちゃんと寝ろよ」
「うん」
隆二は小さく微笑むと、一度私の頭を軽く撫でた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
そのまま、隆二の部屋に向かう二人を見送る。男性はなんだかへらへらしていた。最初の拒絶するような印象とは違う人だ。
「あ、待って」
慌てて呼び止める。
「どうした?」
「あの、お名前だけ、御伺いしてもいいですか?」
私はまだ、男性の名前を知らない。直ぐに此処から出て行くのかもしれないが、一晩、家に居る人の名前を知らない訳にもいくまい。
「え、何、俺の?」
男性が驚いたように、自分の顔を指差す。
「他に誰が居るんだよ」
つまらなさそうに隆二が呟いた。
「ええ。ご迷惑で無ければ。私は」
「茜ちゃんでしょ?」
名乗ろうとしたのを遮られる。嗚呼、そう言えば、この人はさっき、私の事を名前で呼んだ。
「隆二に聞いたよ」
男性は、そこで漸く、緩やかな笑みを見せた。
「俺は、神野京介。隆二の同族。出来るだけ早く出て行くから、今日は御免ね」
結局、しっかりとは眠れなかった。考える事が色々あったから。隆二の同族に出会う事があるなんて、考えても見なかった。
いつもの時間に起きると、小さく欠伸する。
寝起きに使っている部屋を出て、隆二の部屋の方を見ると、隆二が襖に寄りかかるようにして座っていた。
「隆二?」
近づきながら声をかけると、隆二はゆっくりとこちらを見た。
「お早う」
「お早う。ねえ、もしかして、一晩中そこに居たの?」
「ん、まあ。幾ら何でも怪我人をただ転がして置くのも気が引けたし、だからって一晩彼奴と同じ部屋に居るのも嫌だったし」
別に大丈夫だよ、と続ける。
「でも、寝てないんじゃ?」
「ぼーっとしてた」
それ、何かの答えになっているの?
「平気だって、本当に」
「……ならいいけど」
確かに、隆二ならば一日二日休まなかったところで問題はないのだろう。そうは思っても、心配にはなる。
「朝御飯、作るけど」
「あー、いいよ、俺等の分は別に」
「食べるよね、って念を押しに来たんだけど。なんで、そういうこと言うの?」
軽く頬をふくらませて言うと、隆二は呆れたように微笑んだ。
「悪かった、御免。作ってください」
「うん」
などと話していると、隆二の後ろの襖が開いた。
「わっ」
寄りかかっていた物が急に無くなり、隆二の体勢が僅かに崩れる。
「お前、開ける時は声かけろよな」
隆二が舌打ちする。
「部屋の前で、いちゃつかないでくれる?」
神野さんが、不愉快そうに目を細めて、立っていた。
「話してただけだろうが」
「どこがだ」
「っていうか、泊めてもらった分際で偉そうだな」
「お前だって居候だろうが」
「あ、あの、お早う御座います」
なんだか無意味に睨み合う二人に慌てて声をかけると、
「お早う、茜ちゃん」
失礼ながら、胡散臭いぐらいの良い笑顔で応えてくれた。
「お怪我は?」
「平気平気」
「じゃあ、もう出てけよお前は」
「言われなくても。でも、折角、茜ちゃんが作ってくれるって言うんだから、朝御飯は御馳走になりたいかなー」
「……それが、御馳走になる人間の態度かよ」
「残念、ひとじゃないんだ」
ぽんぽん軽く交わされる会話に吃驚する。ひとじゃないとか、私では決して触れられないぐらい、繊細な事を、あの人はあっさりと口にする。それに、私と話している時よりも、隆二の口数の多い。なんだか嫉妬してしまう。
当たり前なのだけれども。私と、神野さんに見せる顔が、同じな訳、無いのだけれども。
「それじゃあ、御飯、作ってきますね」
そんな愚かな気持ちを押し隠して、小さく微笑むと、台所に向かった。
神野さんは、最初の印象と違い、よく喋る人だった。最初の隆二と同じように、もっと人を拒否するかと思ったのに。
いや、違う。隆二は露骨に無愛想にする事で人を拒絶していたけれども、神野さんは必要以上に喋り、戯ける事で、人との距離をとろうとしているのだ。
胡散臭いぐらいの笑顔を仮面に被って。
そう思ったのは、私だけでは無かったようだ。
「その気味悪い笑顔をやめたらどうだ」
神野さんの傷を確認しながら、先生が淡々と言った。
朝食を摂り、出て行く前に一度先生に挨拶して行くという、意外に律儀な神野さんに付き合い、三人で先生の所に来ていた。神野さんに付き合い、と言ったが、どちらにしろ私の定期診察だってある。
「気味悪いって、やだなぁー、センセ」
「嘘の笑顔を四六時中向けられているなんて、気味が悪いだろうが」
「嘘って」
「それが本物の笑顔に見えると思っているのだとしたら、だいぶ青いな」
淡々と先生に指摘され、神野さんは笑顔を引っ込めると、片手で口元を覆った。
「……嘘っぽい?」
部屋の隅の椅子に座って、二人を見ていた私に尋ねてくる。
最近の隆二は、診察の時は、外で待っている。少し前までは、問診の時ぐらいまでは近くに居たのに。それはきっと、日に日に悪くなっていく、私の心臓の様子を少しでも聞くのが嫌なのだろうな、と思っている。聞かなければ、無かった事に出来るから。
だから、今この部屋には、私と、先生と、神野さんしか居ない。だから私は、隆二に対する気兼ねなく、答えることが出来た。
「胡散臭いですね」
「……はっきり言うねぇ」
苦笑する。
「それは、仮面ですね」
「防御とも言えるね」
先生が、次から次へと、神野さんの包帯を外していく。本当に、ほぼ治ったらしい。
「愛想しておいた方が、周りの人間に与える影響、いいだろ?」
「でも、神野さんのは胡散臭いです」
「……うーん、それは、今後気をつけていくかな」
よほど心外だったのか、胡散臭いかなー? と何度も呟いている。
「隆二に比べれば、とっつきやすいのは確かだがな」
慰めるように先生が口にした。それはまあ、そうだが。
「だって、彼奴は、冷た過ぎだろ、判りやすいぐらい」
へらへらと神野さんが笑った。
「ねー、茜ちゃんさ」
体を捻ってこちらを見てくる。動くな、と先生に叱られていても気にせず、
「彼奴が怖くないの?」
へらへら笑ったまま、真剣な口調で問いかけてきた。
それに、先生の腕が止まる。先生が、困ったように私を見ているのが判った。
怖くないか?
何を当たり前の事を……。
真っすぐに見つめてくる、神野さんの真剣な目を見つめ返し、微笑んだ。
「怖いですよ」
此処には彼がいないから、私は躊躇うことなく本音を口にした。
「私はあの人がとても怖い」
「だったら、なんで」
何かを言いかけた神野さんを遮るように、言葉を重ねる。
「だって、きっとあの人はもうすぐ、此処から居なくなってしまう。私を置いて。倖せを与えるだけ与えて、居なくなるんです。私は、それが、怖い」
神野さんは、訝しげに顔を顰めた。
「居なくなる?」
「居なくなりますよ、あの人は、きっと、もうすぐ」
それは神野さんが来た事で、また近くなっただろう。そうも思っていた。神野さんが来た事で、私は改めて、私と隆二が違う生き物だということを思い知らされた。隆二もきっと、そうだろう。
私達の生活を支えている、砂の土台を神野さんは抉ったのだ。それは少しでも、いずれ重みで崩れる筈だ。
「私は、ずっとあの人と一緒に居てあげることが出来ないから。あの人は、優しくて、臆病だから、私を看取る勇気が持てずに、私が死ぬ前に、此処から出て行く筈です」
「……あー、ありそうだな」
神野さんが苦い顔をして言った。
先生は、聞こえないフリをするかのように、唐突に器具の片付けをはじめた。
「だから私は、怖いと思っています。でもそれ以上に、私は、あの人を置いて逝ってしまう自分が嫌いです」
無理な相談だとは判っていても、私もあの人と一緒に、永遠を過ごしたかった。ずっと、一緒に居たかった。あの人を独りなんて、させたくなかった。
「……彼奴のこと、本当に好きなんだな」
辛そうに吐き出された言葉に、私は微笑んで見せる。
「ええ、とても」
痛みを伴う思いでも、私はあの人を愛している。それはとても倖せな事だから、私は笑う。
「……正直、俺には彼奴が何を考えているのかが理解出来ない。人間と一緒に居る事を選ぶなんて」
神野さんは私から視線を逸らし、床に落とす様に言葉を紡ぎ出していく。
「俺達はもう、人間じゃない。人間になんてなれない。人間と暮らす事なんて、出来る筈が無い。茜ちゃんはどんどん歳をとって、死んでしまうのに、俺達はそれについていけない。お互いに傷つく事が判っているのに、なんでこんな選択をしたのかが理解出来ない。彼奴、そこまで莫迦だとは思えないのに」
長々と吐き出された言葉が、床の辺りで渦巻いている。神野さんの言った事は事実だ。そんなこと、
「私達だって、判っていますよ」
無理をしているということ。頭ではきちんと理解している。
「だったらなんで」
「好きだからです」
私の言葉に、神野さんが顔をあげた。
「愛は理屈を超える物ですよ」
理屈では判っていても、理解していても、心がそのとおりに動くとは限らないのだから。
神野さんは驚いたように、私を見ていたが、やがて、
「……恥ずかしいこと言うねぇ」
揶揄するように言われたが、反して、神野さんの顔は柔らかく微笑んでいた。
「神野さんにも、いつか見つかるといいですね。大切な何かが」
祈っています、と続けると、
「……そりゃまた、凄まじい呪いだな」
苦笑された。
確かに、痛みを伴う物だと判っていながら、この感情を勧めるのは呪いに近いのかもしれない。でも、それでもやはり、幸福には違いないのだから。
話の終わりを感じとったのか、先生が片付けの手を止めた。
「お前さんの怪我はもう大丈夫だ」
「あ、有難う御座います」
神野さんは、また胡散臭い笑顔を浮かべて、頭を下げた。
「だからその笑顔はやめろと」
「そうそう染み付いた習慣は変わらないって。まあ、今後、善処します」
どこか投げやりな言葉に、先生が苦笑した。
「まあ、いいけどな。気をつけろよ」
「はい」
「じゃあ、次は茜の診察だから、出て行け」
ほらほらと、犬でも追い払うかのように片手をふる。
神野さんは立ち上がると、私の方を見て、
「茜ちゃん、どっか、悪いの?」
「心臓が。生まれつき」
包み隠さず答えると、神野さんは僅かに顔を顰めた。
「それ、隆二は?」
「勿論、知っています」
立ち上がりながら、答える。
「知った時、あの人は出て行かなかった。出て行かれる覚悟、私にはあったのに、彼はそうしなかった。何故か判りますか?」
戯けて尋ねると、
「愛、って言いたいんでしょう?」
苦笑された。
「ええ」
私は笑って頷いた。
「まあ、なんでもいいけど。せいぜい気をつけて」
それじゃあね、と軽く片手をふって部屋を出て行く神野さんを呼び止めた。
「何?」
「こんなこと、私が言う事じゃないのかもしれませんが。……私が死んだら、あの人のこと宜しくお願いします」
頭を下げる。
沈黙。
「……言われなくても」
吐き捨てる様に神野さんが言った。彼がどんな顔をしたのか、私には判らなかった。彼が部屋を出て行くまで、顔を上げなかったから。でも、それでいいのだ。このお願いは、図々しいお願いだから。ただ、自分が安心する為だけに、言っておきたかった図々しいお願いだから。
診察を終えて出て行くと、隆二がいつものようにつまらなさそうに、壁にもたれかかり、待っていた。
「お待たせ」
「あー、うん」
「神野さんは?」
「もう行ったよ」
「あら、早い」
「んー」
別れ際、一悶着あったのか、隆二の答えは歯切れが悪い。機嫌もあまり良くない。きっと、隆二も何か言われたのだろう。
神野さんの事、怖いとも迷惑だとも思っていないけれども、来なければ良かったのに、とは思っている。彼は、私と隆二に、二人の違いを見せつけて去って行った。隆二が居なくなる日は、彼のせいで確実に近くなった。
でも、今は、
「帰りましょ」
隆二の腕をとり、歩き出す。
意識して出したはしゃいだ声に、隆二は察してくれたらしい。
「ああ」
一度軽く、私の手の甲を撫でた。
砂の崩れる音がする。
じわじわと確実に。
覚悟はとうに出来ていた。
貴方が居なくなる事。貴方が私以外の誰かと生きていく事。全ての覚悟が出来ていた。そのつもりだった。
そして、その日は、思ったよりも来るのが遅かった。
「少し、外の世界を見て来ようかと思うんだ」
貴方が早口に言った時、嗚呼、遂にこの日が来たのか、と思った。
貴方が居なくなる日が。
でも、それは思っていたよりも遅かった。
それは、あの缶蹴りで遊んでいた小さな太郎君が、少年から青年へ変わりかけるぐらいの時だった。
人伝に、一条葵が結婚し、第一子の男の子を出産したと、聞いたぐらいの時だった。私が一条葵の予備としてもお払い箱になったぐらいの時だった。一条家に跡取り息子が生まれたのならば、例え葵が死んでも、私は要らないのだ。
いずれにしても、貴方と暮らせるのはもっと短いと思っていたから、思っていたより長かった事に少し感謝していた。
そして同時に、これは私の我が侭だけれども、とても残念に思った。
隆二にははっきりと言っていなかったけれども、私の心臓の調子は、その年の冬から、ずっと悪かった。本当に。いよいよいつか、止まってしまうのではないかと、毎日びくびくしていた。ただ起きている、それだけの事が、本当にしんどかった。
それと同時に、私は期待もしていたのだ。このままだと、隆二に看取ってもらうことが出来るのではないか、と。貴方を苦しめる、私の我が侭だけれども、そう思っていた。
そんな感情でごちゃ混ぜになった私を見て、何を思ったのか、貴方は言い訳のように続けた。
「ずっと此処に居たから。研究所とか、今どうなっているのか知らないし、状況把握っていうか。旅行っていうか」
早口の言葉。
そんなに取り繕ったって無駄なのに。貴方は嘘が下手なんだから。
「……そう」
もっと上手く、嘘をついてくれればいいのに。でもそんなの、隆二じゃないわね。
ずっと前から、貴方が居なくなることは覚悟していた。それでも、実際に言われると、心が揺さぶられて、痛んだ。
泣きそうになるのを、一つ息を吸う事で耐える。
「判った。……でも、ねえ、幾つか約束、してくれる?」
微笑みながら言うと、隆二は軽く頷いたものの、気まずいのか視線を逸らした。
嗚呼、本当、臆病なのだから。
「人は簡単に『物』になってしまう。だから貴方は、誰も殺さないと、自分も殺されないと約束をして」
貴方が生きていく道はきっと険しい。でも、人殺しにならないで。その時はそれで危険を回避出来ても、貴方はきっとそれに傷つくから。一度は平気でも、それを続けていくうちに、貴方の心はきっと壊れてしまうから。
貴方が死なないことは知っている。でも、あの死神は貴方に消滅を迫った。あの死神は、貴方をこの世界から消すことが出来る。それに、屈しないで。
「決して生きた屍にならないで。貴方は生きていて。どんなに滅茶苦茶でも、格好悪くても構わないから、生きていて」
生きていればきっと、貴方はまた温もりをくれる誰かに出会える筈だから。一人の時の貴方は、太郎君が言っていたみたいに駄目人間になるかも知れないけれど、誰かが居たらきっと持ち直すだろうから。
貴方の永遠は長いのだから、私以外と一緒に居る事、躊躇わないで。
我ながら、今生の別れのようなお願いだと思った。ような、ではない、事実なのだけれども。
でも私は今、貴方の本心を知らないフリをしなければならないのに。嗚呼、私も対外嘘が下手だ。
「それから、」
これが一番大事な約束だ。貴方と私との、私と私との約束。
「私は此処で待っています。ずっとずっと。だから……」
いつまでも他所を見たままの、隆二の頬に手を伸ばす。両手でそっと包むと、無理矢理私の方を向かせた。体勢を崩した隆二が、片手を畳の上につく。
「だから、絶対に帰ってきなさい。いつになっても構わないから」
待っているから。私は。
隆二は何も言わない。嘘を吐く事も、止めてしまったの?
「……約束ぐらい、しなさいよ」
呆れて言った声が、思っていたよりも掠れていた。嗚呼、泣きそうになっているのだな、とどこか他人事のように思った。
覚悟、していたはずなのに。
「……ああ」
隆二が、小さく呟いた。根負けしたように。
俯いたまま、畳みを見つめる隆二の額に、そっと唇で触れた。
「約束、だからね」
そのまま、貴方の頭をそっと抱え込む。抵抗はされなかった。
「……ああ」
「帰って来なさいよ。待っているから」
「……ああ」
「本当に、判っているの?」
「……判っては、いる」
余りに素直な貴方の言葉に、思わず苦笑する。約束は出来ないけれども、判ってはいる。どれだけ素直で、嘘がつけないのだ、貴方は。
そんな風に優しい癖にどこか捻曲がっている処や、不器用な処が好きなのだ。どうしようもなく愛しくなって、涙が零れ落ちそうになった。慌てて呼吸を整えてから、
「……ずっとずっと、待っているからね。ねぇ」
そっと、名前を呼んだ。
「草太」
貴方の本当の名前。
隆二の肩が、ぴくりと震えた。
初めて貴方の名前を聞いて以来、呼んだ事は無かった。貴方との最後に、呼ぼうとずっと決めていたのだ。
「待っているから……」
それは、私と貴方との、私と私との約束だから。
貴方が出て行った家は、思っていたとおり、私には広過ぎた。
この家で、長い期間一人で過ごしていた事があるなんて、我ながら信じられない。
縁側に腰掛け、一人でぼーっと空を見ていると、
「茜?」
垣根の向こうから、先生の声がした。
「邪魔するぞ」
門からひょいっと、先生が入ってくる。
「……先生、どうなさったんですか?」
「いや、蜜柑を知り合いからもらってな。沢山あるから、二人にもあげようと思って」
なんでもないように言われた、二人、という言葉に、自然と涙が零れ落ちた。
「茜?」
先生が慌てたように近寄ると、私の隣に座る。
「すみません」
慌てて目元を押さえるものの、涙は止まらない。
覚悟していたけれども、こうなることは判っていたけれども、だからって、悲しくない訳ないのだ。
耐え切れず、両手で顔を覆う。先生は私の背中を撫でてくれながら、
「……彼奴は、出て行ったか?」
「……はい」
頷くと、また涙が溢れる。
「そうか……。ひとまず今は、泣いておけ」
優しい言葉に、一つ頷く。
先生の温かい手を背中に感じる。貴方のあの、冷たい手に触れる事はもう無いのだ。そう思うと、喉の奥がきゅっと詰まった。
しばらく先生の言葉に甘えて、泣かせてもらった。
少し落ち着くと、深呼吸する。
「大丈夫か?」
「……はい」
なんとか微笑む。
「あの人ってば、先生に挨拶もせずに出て行ったんですね。本当、駄目なひとなんだから」
軽口を叩いてみせる。
「彼奴に社会常識なんぞ、期待してないよ」
先生も、それにあわせくださった。
「私、あの人に約束したんです。ずっと待っているって」
それを聞いて、先生は渋い顔をなさった。
「判っています。私が、そんなに長い間待って居られない、って事ぐらい」
今こうしていられるのだって、奇跡だと思っている。
「それでも、私は、あの人が帰ってくるのを待っています」
「……帰ってくると、思うのか?」
「いつになるかは判りませんが、あの人は絶対に帰ってきます」
微笑む。それだけは確信があった。本当に、いつになるか、何年後が、何十年後か、もしかしたら何百年後かもしれないけれども。
「あの人は、優しいから別れた私のこと、きっとずっと気にしてくれます。そんな必要全然ないのに、負い目に感じるかもしれない。でも、あの人は臆病だから、一人じゃきっと、帰ってくることが出来ないとも思います」
「それじゃあ、意味がないじゃないか」
「でも、あの人が永遠をずっと一人で居る訳ないですから」
優しいから。きっとまた、何か面倒に巻き込まれて、誰かと生活を供にすることがあるだろう。永遠は長いのだ。あと一回ぐらい、そういう事があっても、おかしくない。もしかしたら、あの人自身が、すすんで誰かとの生活を望むかもしれない。
「その時、あの人は絶対に帰って来てくれます」
先生はなんだか痛ましげな顔をした。私が無理難題を言っていると思われたのだろう。
それでも構わない。
他人がどう思っても構わない。相手が例え、先生であっても。
私さえ、理解していればいい。
「私はそれまで、あの人を待ち続けます」
それが、私と私との約束だから。
貴方が居なくなって、三日後、私の心臓は本当に動くのを止めた。
誰も居ない部屋の中、不穏当な動きをして、その役目を手放さそうとする私の欠陥品の心臓。本当に、今まで良く保ったと思う。
薄れ行く意識の中、貴方が居る間は保ってくれて良かったな、と思う。
きっと、ぎりぎり頑張ってくれていたのだろう。貴方が居る間は、無理をしても動かすぞ、と。何度も何度も言い聞かせてきたから、心臓も頑張ってくれたのだろう。
その事だけは、貴方が居る間は動き続けたことは、褒めてあげたいと思う。欠陥品だった、私の心臓のこと。
そうして、一条茜の生涯は幕を閉じた。
畢竟、悪いのは私なのだろう。
他の誰でもなく、私の責任なのであろう。彼に惚れてしまった、私の責任。
貴方との約束を守るために、未だに現世に留まっている、私の。
然しながら、私には他に術が無かったのだ。
貴方と私との約束を守るため、私と私との約束を守るため、大人しく素直に、あの世に逝く訳にいかなかったのだ。
だから、私の責任なのだろう。
否、私は望んでこうしているのだ。
望んで、幽霊になって貴方を待っている。
貴方という異形と接しながらも、幽霊の存在なんて嘘だと思っていた。莫迦莫迦しいと思っていた。
それでも、約束が私を現世に縛りつけてくれた。私を此処に留めてくれた。
嗚呼、だって、愛は理屈を超えるのだから。
もしも、何方か、神様にお会いすることがありましたら、私の代わりに謝っておいてください。
彼に惚れてしまったことを。
神様の元に逝くのを、拒んでいることを。
私は貴方と初めて逢った土手で、今日も空を見上げていた。
私は今、此処から動けない。もう何年も、何十年も、此処に居る。
でも、そんなこと苦ではなかった。
貴方と別れて暮らした、あの三日間の悲しみや寂しさに比べたら、何も苦ではなかった。
きっと、私と別れて、どこかで私の死を知って、悔いているであろう貴方の胸の内に比べたら、何も苦ではなかった。
土手に来る人々を、毎日毎日眺めながら、私はずっと考えていた。
貴方が帰ってくる日の事を。貴方が帰って来たら、何て言おうかと。どうしようかと。
ずっと、ずっと考えていた。
今日も、同じ様に空を見上げていて、
「……茜?」
ふいに背中にかけられた、声。聞き覚えのある、声。怪訝そうな、声。
どれだけ時間が経っても、聞き間違えることのない、声。
もうずっと長いこと待っていた、声
貴方の、声。
もう動いていない私の心臓が、とくんっと、一つ跳ねた。
私は一つ息を吸うと、振り返った。
驚いたような顔をする貴方が見えた。
もうずっと、ずっと、貴方が帰って来たらそうしようと思っていたとおりに。何度考えても同じ結論になったとおりに。
私は、微笑んで、告げた。
「お帰りなさい、隆二」