あの香りを追いかけて④
「パーシバルさん、嘘をついてるよね?」
ルジェーナはそう囁くと、再び視線を上に向けた。
「そうだな。四人全員と言った俺の言葉に、四人全員とそのまま繰り返してしまったのは、実際には不審人物なんて見かけてないからだろう――」
イェンスはそう言いながら、再び歩き始める。しかしそんなに歩かないうちに、突き当りにでてしまい、仕掛けを探そうとぐるりとあたりを見回した。
「――あと、セネヴィル少佐は人を探しに湖に来たと言っていた。彼は近衛、それも第三王女付きだ。第三王女といえば、あの有能な第一王子の実の妹でありながら、公式の場には姿を現さず、気まぐれかつ無気力で、部屋に引きこもりがちだと有名な人物だ」
「気まぐれで無気力で……部屋に引きこもりがち」
ルジェーナはその単語を復唱しながら、何とも言えぬ微妙な表情をしてみせた。
「引きこもりがちということは、その姿を誰にも見られていないということだ。つまり、もしかすると彼女は部屋にいないかもしれない」
「それで、体調不良を理由に城下を歩き回っている王女を、パーシバルさんが探しに来たってこと?」
「その可能性は高いと思っている――」
イェンスは足元を注意して観察すると、一枚だけ妙にきれいな石があることに気づいた。ルジェーナに目配せを送り、下がらせると、イェンスはそこを足で思い切り踏みつけた。
すると再びあの轟音が鳴り響き、徐々に突き当りの壁が横に真っ二つに割れて、下部分だけが地面にのめりこんでゆく。
「――それを加味するなら、どれだけ多くとも少佐は三、四名しか連れていなかったはずだ。それなのに四名を捕縛してさらにスカーレット嬢も助け、部下がそれらをしかるべきところに送り届けたというには無理がある。俺たちはさして遅れずに男たちを追ってきていたからな」
完全に仕掛けの作動が終わったところで、ルジェーナはイェンスの扉の前に並び、そして口を開く。
「そっか。私はそれには気づけなかったよ」
「じゃあ、なんで?」
「単に、パーシバルさんから香りがしなかったのがおかしいと思って」
「香り?」
「スカーレットさんの香りだよ。私、ずいぶん前に会ったことがあったの。調香師としてではないけどね。彼女はいつも同じ香水をつけてたし、この前店に来た時もつけてたから」
つまり、様々な香りがするあの香水屋で、離れた距離からその香りをかぎわけたということだ。しかしここまでくると、もうイェンスもルジェーナの特異性に慣れてしまって、そんなものかと納得できるようになってしまっていた。
「急ごう。まだ今なら香水の香りを追えるよ」
「やっぱり、付いてくるんだよな?」
「当たり前じゃない! 一人でどうやって追う気なの?」
「それは確かにそうなんだが……」
イェンスは言い淀むが、彼女を納得させられるような理由を見つけられず、ため息をついた。
「離れててくれ。外に誰もいないか確かめる」
イェンスはまず、片膝をつき、左手を入り口の上部分においた。そしてそこに手をつっぱりながら、首を横に向けてあたりを見回す。
入り口はイェンスの腰と膝の中間くらいの高さで、そこから見える景色はあまり多くはない。
入り口を覆うように生える草花と、それを誰かが踏んで倒された跡。
もし誰かが潜んでいたとしても、これでは分からない。
「何かあればな……音を鳴らせるもの……」
「音? うーん……あ、予備の瓶があるから、割ってみる?」
ルジェーナはそう言うと懐から小瓶を取り出した。香水を携帯するための小瓶だが、中身は空だ。
「それ、いつも持ち歩いてるのか?」
「仕事柄、香料になりそうなものは採取したくなるし、その場で簡易的な……香水を作るとか?」
「どうして後半はそんなに自信なさそうになったんだ? ……まあいい。それ、割れてもいいんだな?」
イェンスが確認をとれば、ルジェーナは頷いて小瓶をイェンスに渡した。
小瓶を受け取ると、イェンスは懐を探り、小さな棒に巻き付けられていた裁縫用の糸を取り出した。そしてそれを瓶にしっかりと結びつけると、その瓶を勢いよく入り口から放り投げた。
まかれていた裁縫用の糸はくるくると小さな棒から外れて伸びていき、瓶はあっというまに見えなくなる。
イェンスはその場にかがんで、じっと外を見つめた。そして糸を強く引いたり弱く引いたりしながら、棒にまきとっていく。ルジェーナはそれを見つめながら、疑問を口にした。
「どうして糸なんて持ってるの?」
「糸と針は持ち歩いているんだ。傷口を縫えるように」
「でも、それって裁縫用の糸だよね?」
「あくまでも応急処置だからな」
答えながらもイェンスは視線はずっと外に向けたままだった。彼が糸を巻き取りきると、最初よりも土で汚れた瓶が再び姿を現した。
「今ので何を確かめたかったの?」
土で汚れはしたが、とくに割れてもいない瓶を見て、ルジェーナは不思議そうに尋ねた。彼女にはイェンスの意図がわからなかった。
「狙撃されないかどうか……だな。もし瓶が割れてたら、弓を構えている奴がいる可能性がある。外は腰丈まである草が生えているから、姿が見えなくても動きがあれば矢を放つだろうから」
「つまり、瓶が無事だったってことは、ひとまず安心ってこと?」
「ああ」
イェンスはそれを肯定すると、瓶の土を払って、それを懐に入れた。そして注意深く外を観察してから、ゆっくりと小さな入り口をかがみながら抜けた。
そしてすぐに体の向きを変え、自分が出てきた建造物のほうを向く。
「これは……どうしてあの人、気づいたんだ?」
「どうしたの?」
驚いているイェンスを見て、ルジェーナが中から尋ねた。イェンスは周囲を確認すると、小さくうなずき、ルジェーナを手招きした。
そして自分はゆっくりと体を起こして立ち上がり、後ろに下がる。
外に出てきたルジェーナは、周囲を確認してから体を起こし、そして後ろを振り返った。
「うそ……ただの崖?」
「ああ。どおりで今まで誰も気づかないわけだ」
二人の目の前に広がっていたのは、巨大な建造物ではなく、ただの崖だった。どうやら先人は崖の中を起用にくりぬいて舗装し、あの大がかりな抜け道を制作したようだった。
「仕掛けは……あった! 閉じとくわ」
ルジェーナが入り口部分のすぐそばにある妙に出っ張った石を押した。すると、再び音と揺れとともに地面から岩がせりあがってきて、ぽっかりとあいていたその出入り口を完全にふさいだ。
残ったのは、入り口があったとは誰も思えない、ただ岩でできた崖の壁である。
イェンスは仕掛けが完全に作動し終わったのを見届けると、出入り口に背に向けて、言った。
「香りを追えるか、調香師さん?」
「……調香師さん、じゃない」
「ん?」
思わぬ反論に首だけ振り向くと、ルジェーナが少しむっとした表情で言った。
「ルジェーナよ。調香師だけど、それは名前じゃない」
「ああ……」
イェンスは決まり悪げにそうつぶやくと、金色の髪を掻いた。
「ああ、じゃないわよ! ベラのこともお嬢様って呼んでるよね?」
ルジェーナは大きな声でそういうと、一歩、二歩、とイェンスに詰め寄った。
「いや、だってお前たち二人って……どうも名前がしっくりこないっていうか」
「え?」
「本当にルジェーナって名前か?」
その質問にルジェーナは驚いて黙り込んだ。質問したイェンスも、自分が言っていることがむちゃくちゃだと自覚しているので、さらに言葉をつづける。
「お嬢様のベラって名前も、何かがひっかかる。それでもまだ、あの女のほうが違和感は少ないけどな」
「……じゃあ、シルって呼んで。私、小さいときそう呼ばれてたから」
「シル? ……気が向いたらな」
イェンスはどうしてシルなのかと疑問に思ったものの、その名前のほうがしっくりくるため、突っ込むのはやめた。
しかし呼ぶという約束はせずに、イェンスはとりあえず歩き始める。腰丈の草を極力倒さないために、手でかき分ける。
「ちょっと待ってってば!」
ルジェーナはそういうと、イェンスの隣に並んだ。
そして草の一帯を抜けるまで無言で二人は進んでいく。
ようやく普通の道、と呼べる場所まで出ると、湖は目の前だった。
湖岸に打ち寄せる波が、心地よい音色を奏でる。イェンスは海を見たことがなかったが、湖より広いというその海は、どんな音を聞かせてくれるのか、常々興味があった。
湖を右回りに移動すれば、森があり、左回りに移動すれば、滝に突き当たる。
「あっち側だよ」
ルジェーナは湖の右側を差すと、湖には目もくれずに歩き出す。どうやら彼女はあまり湖には興味がないようだ。
確かに湖自体は、このルートを通らずともいけるため珍しくはない。しかしこちら側はめったに見ることのできない湖の裏側であるというのに、それをのんびり眺められないのは残念だとイェンスは思った。
「ねえ」
「なんだ?」
「あれ、何かな?」
ルジェーナが指したのは、森の真ん中から立ち上る煙だった。モクモクと天に昇るその煙は、風に吹かれて東側へと流れていく。
「あれは……」
イェンスはルジェーナより前に出ると、まずはさっとあたりに視線をやる。そしてそのあと、見通しの良すぎる湖から極力離れ、木々が無造作に立ち並ぶ森の中へと入った。そして極力足音を立てないように気を付けながら、問題の煙の上がっている場所まで急いだ。
ルジェーナも後ろからついてきているが、彼女もまた足音を消すのが上手かった。二人して一気に問題の場所近くまで詰め寄ると、ルジェーナが突然イェンスの腕をつかんだ。
「香りが近い!」
イェンスはその言葉を聞いて、さっと木の陰にルジェーナごと引き込むと、耳を澄ませた。
二人の耳はベラのそれほど性能はよくなかったが、それでも人の話し声が聞こえてきた。イェンスは木から顔を出し、あたりを注意深く観察する。
そして先ほどまでとは違い、ゆっくりと進み、問題の場所に近づいた。
木々の向こう側にいるのは八人の男だった。
四人一組となって一直線に横に並び、向かい合っている。そして左側の集団の後ろ側に蜂蜜色の髪の女性が倒れていた。顔は見えないが、彼女がスカーレットと考えていいだろう。つまり左側の集団が誘拐犯である。あいにく帽子とフードはもうかぶっていないが、逆にそのおかげで顔は見える。
「――煙とは考えたな。ただ、目立ちすぎだ」
イェンスとルジェーナから見て右側のグループの一人が、低い声で言った。
男たちと、イェンスやルジェーナとの距離は十メートルもないほど近い。
「しょうがねえだろ! それ以外にどうやって連絡を取れっていうんだよ? ああ? 大砲でもぶっぱなせってか?」
それに反論したのは左側のグループの一人だ。
「まあいい。その女を渡してもらおうか」
右側のグループの男がそう言った。つまりスカーレットを本当に欲していたの右側のグループということになる。
「一人足りないのが気になるな……」
「一人? あ……ほんとだ」
イェンスの言葉でルジェーナも気づいた。そして、消えたもう一人の気配がないかを探る。
「……今から、あの男たちの後ろに回ってくる」
「え?」
「あの金持ち女さえ取り戻せば、こちらの勝ちだ。お前は危ないからここにいろ」
「でも……!」
「大丈夫。戦うわけじゃないさ。あの男たちが取引で夢中になっている間なら、気づかれずに取り戻せるかもしれない。ただし、俺が捕まったらとにかく逃げろ」
イェンスはルジェーナの返事を待たずにその場を離れた。気づかずに取り戻せるとはまったくもって思っていないが、人質に取られてしまっては、戦うことすらできないことも事実だ。彼女だけでも取り戻せれば、あとは戦いながら男たちを撒けばよい。
消えた一人の存在も気になるが、今は一刻を要する。
音を立てないように、慎重に森を迂回して、スカーレットの姿をとらえられる位置まで来た。
「ふん。まずは金を半分よこせ。その後、女と残り半分の金を交換だ」
「……いいだろう。おい」
交渉役の男は、隣にいた男に支持を出した。すると隣にいた男が一歩前に出て、大きなカバンをその場に放り投げた。
誘拐犯四人の視線は、その金に釘付けである。
イェンスはその間にこっそりと繁みを抜けだした。本当は向こう側にいる男たちに見つからぬように這っていくべきだろうが、見つかったときのリスクが高すぎる。
そのため、できるだけ腰をかがめ、誘拐犯四人の陰に隠れるようにして慎重に進んだ。そして倒れているスカーレットにあと一歩で手が触れるという時だった。
「誰だ!」
誰かが鋭く叫び、全員の視線が一斉に同じところに向いた。
いやな予感がして顔を上げると、剣を突き付けられて繁みから出てきたルジェーナの姿が見えたのだった。