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イェンスとルジェーナ  作者: 如月あい
終章 イェンスとルジェーナ

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ルッテンベルクの香水屋

 ルッテンベルク街のはずれにある、小さな古ぼけた香水屋。

 そこに一人の客が訪れる。

「いらっしゃいませ」

 その香水屋の女主人ルジェーナは、珍しい紫色の髪をもった女性だった。彼女は客に目をとめると、ふっと微笑んで、店の奥のカウンターから出てきた。

「お久しぶりです」

「お久しぶりです。思っていたより、早く来られましたね」

「殿下はあなたが思っているよりずっと、あなたのことを気に入っていらっしゃるようですよ」

「ありがとうございます」

「カトリーナ殿下に、この前の香水をもう一瓶お願いできますか」

 カトリーナの侍女であるズラータはそう言うと、ルジェーナに歩み寄り、ずっしりと重みのある袋を手渡した。

「……多すぎます」

 ルジェーナが袋を受け取りながらそういうと、ズラータはいいえ、と言った。

「殿下が、もう少し大人びた香りもほしいそうです。二つ分のお金だといって渡されていますから、多くはありません」

 二つ分だ、そういわれても、その袋は重すぎるように感じられた。ルジェーナはそっと袋を解き、中に入っているのが銀貨でなく金貨であることに気が付いた。

「ですが……」

「いえ、お願いします。カトリーナ殿下は少しずつ、立ち直ろうとされているのです。それに必要な経費なら、惜しくないと、言われていますから」

 ズラータの言葉で、このお金に色を付けた人物がいるのだとルジェーナは気が付いた。そしてその人物は、カトリーナが立ち直ることを望んで、支えている。

 それが誰か、ルジェーナにはわかるような気がした。

「……分かりました」

 そっと微笑んで、ルジェーナはそれを受け取った。

「二週間……いえ、三週間いただけますか?」

 次はどんな香りにしようか。サンプルをいくつか作って、選んでもらうほうが良いだろう。報酬は過分すぎるほどもらったので、材料費を心配する必要もない。

「はい。また、取りに来ます」  

 ズラータはそういうと、丁寧に礼をした。そして彼女は姿勢よく扉へと向かい、外へ出ていく。

 彼女は扉を開けると、そこで誰かと目があったようだった。外にいる誰かが扉を押さえているらしく、礼を言って足早に店の外へ出て行った。


 彼女と入れ替わりに現れたのは、金色の髪と青い瞳の青年だ。

「おはよう」

「おはよう、イェンス。元気になったんだね」

 ルジェーナはそういうと、一度カウンターから出て、店の扉の前まで歩いた。イェンスが首をかすかにかしげてルジェーナの行動を見つめている。

「どうしたんだ?」

「たまにはのんびり話すのも悪くないかなと思って」

 扉を開けて「準備中」の札を出すと、ルジェーナは扉を閉めた。目を丸くしているイェンスをよそに、ルジェーナはすたすたとカウンターまで歩いていく。

「どうぞ」

 ルジェーナはそういうと、カウンターの奥にある扉を開けた。そして次の部屋までイェンスをいざなう。

 イェンスは部屋の中に入ると、前回と同じ位置に腰かけた。

 それを見届けたところでルジェーナはまずお湯を沸かした。そして自分でつくったハーブティーを淹れる。茶葉にお湯を注ぐだけで、湯気とともに香りが部屋の中を駆け巡る。

 そしてそのティーポットからカップに注ぐと、一つをイェンスに、もう一つを自分の前に置き、ルジェーナも座る。

「ありがとう」

 イェンスはそういうと、ハーブティーにゆっくりと口を付けた。

「さすが、香りを扱う仕事はお手の物だな。いい香りだ」

「どういたしまして。でも香りを重視しすぎると、ハーブティーはおいしくなくなったりするから、難しい」

「そうなのか?」

「きっと私はいろいろ混ぜすぎなんだと思う」

 目の前のお茶に口をつけると、花の香りと苦みが同時に口の中に広がった。香りの良さは抜群だが、味はもう少し改善の余地がある。

 ルジェーナは顔をしかめると、砂糖を一さじいれて甘みを足した。

「そういえば、宮廷薬師の話、断ったんだって?」

 唐突にイェンスが口にした話題に、ルジェーナは苦い顔をしてうなずいた。

「うん。私は大したことしてないし……」

 先日、多くの負傷兵の治療を手助けしたことで、目をつけられたようだった。おそらくユリアの娘ということも大きく影響しているだろう。ぜひ宮廷薬師になってほしいと頼まれたのだ。

「あれだけ現場の指揮がとれれば、それはオファーも来るだろう。結局、応急処置だけじゃなくて薬の調合も手伝ってたんだろう?」

「それはそうだけど……」

「そうだけど?」


「だって私、調香師だから」


 ルジェーナが肩をすくめながらそういうと、イェンスはやっぱりなという顔をした。

 なんだか気恥ずかしくなって茶を口に含む。

 そしてふと、イェンスが軍服を着ていることに気が付いた。 

「あれ、今日は仕事中?」

「ああ。リシャルト殿下から直々に任務を授かったからな」

「リシャルト殿下から?」

 軍の指揮系統から考えれば、イェンスがリシャルトから直接命令されるのはおかしい。ルジェーナが首をかしげていると、イェンスはふっと笑って、一枚の書類を取り出した。

 そして何故か立ち上がり、背筋をピンと伸ばしてその書類を読み上げた。

「リシャルト殿下からのお言葉である。先日の内乱で、貴殿、シルヴィア・ミル殿は負傷兵の治療に多大なる貢献をされた。よってその功労に対して、以下の褒賞を授ける」

 イェンスはかしこまってそう言ったあと、大きな布袋を机の上にどんと置いた。それはズラータが持ってきたものと同じ類の、つまり金貨の入った袋だと想像できた。

「この金貨と――」

 次にイェンスは一枚の紙を机に置いた。ルジェーナが眉を顰めると、イェンスが我が意を得たりとばかりに説明しだした。

「――この店を王家の特別指名店にすることの証明書……」

「何言ってるの!?」

 王家の特別指名店とは、王家がその店の価値を認めた証である。王家の人間が王族もこの店を使うと公にすることで、かなりの宣伝効果が見込まれる。普通の商売人なら誰もがそうなることを夢見るが、よほどのことがない限り、特別指名店にはなれない。

「本気みたいだぞ。これはおそらくベラが手をまわしたんだろう。自分が王籍を外れたら、今までのように援助できなくなるからと」

「でも、あまり敷居が高くなっても困る……」

「ああ、それは大丈夫だ。王家の人間も使うが、侍女や近所の子どもも入れる気軽なお店ということで登録されるらしい」

「……それってどんな店なの」

「まあ、カトリーナ殿下に香水を売っている以上、あながち間違ってはないだろう」

 リシャルトの名前で出された以上、これは絶対に撤回されないだろう。何せ彼はもう実質国王なのだから。それでも、のんびりと香水屋を続ける気だったルジェーナとしては、ありがた迷惑な話である。

 目の前に置かれている重そうな金貨の袋もそうだ。

「それは負傷兵の治療の対価だから、ありがたく受け取っておけ」

「治療ってほどのことはしてないよ?」

「あの場で応急処置をできる人間がいたから、助かったものも多くいた。俺からも礼を言う。ありがとう」

 宮廷薬師のポストを断ったから、結局はこういう形で礼をしようという話になったのだろう。

 あの時は無我夢中で、何よりイェンスがそう望んだからそう動いただけなのだ。イェンスに礼を言われるのはなんだか違う気がする。

「もう一つ、殿下から褒賞があると」

「もう一つ? もう十分――」

「――王家主導で、ユリア・ミルの墓をアルナウト・ミルの墓と一緒にする、と」

 声が、出なかった。

 それはルジェーナが強く望んでいたことでもあった。すでに二人は死んでしまっているが、お墓ぐらい一緒にしてあげたいと思っていたのだ。

「受けるよな?」

「……ありがたく、頂戴します……」

 ルジェーナは言葉を詰まらせながらそういうと、一つだけ、と切り出した。

「どうした?」

「この店の店主は……ルジェーナ・アストロガノフのままにしておいて。ルジェーナと、師匠のアストロガノフの名を、残しておきたいの。一緒に戦ってきた、名前だから」

 双子の片割れルジェーナと、師匠のアストロガノフ。二人の名前をどうしても他の人の記憶に刻んでおきたかった。目に見える形で残しておきたかった。

「……そうか。伝えておく」

「ありがとう。それ以外は、ちゃんとシルヴィア・ソレイユ・ミルに戻る。自分の名前も大切にしないとね」

 ルジェーナはそういってカップの茶をすべて飲み干した。するとイェンスが真剣な顔をして、ルジェーナの隣に立った。

 そしてルジェーナに視線の高さを合わせるように、彼はその場で膝をついた。

「イェンス?」

「なあ……シル」

 海のように凪いだ青い瞳に、自分の顔が映りこんでいる。こんなに近づかれると、緊張して鼓動が早まるのが分かる。

「どう、したの?」

 声が奇妙に裏返った。


「……シルヴィア・ソレイユ・ヴェーダにならないか?」

 

 ルジェーナは視線をそらすことはできなかった。沈黙の間、イェンスの緊張が伝わってくる。それでも彼は、ルジェーナから視線をそらすことはしない。

 青と紫の瞳が交差したまま、しばらくの間二人とも動けずにいた。


「……る」

 どうにか発した言葉は、きちんと形をとどめずに空気中へと霧散する。ベラなら聞き取れたかもしれないが、それはイェンスには届かない。

「え?」

 だから、一度大きく息を吸い直し、はっきりと言った。

「ヴェーダに、なる」


 そういった瞬間、勢いよく抱きしめられた。少し痛いくらいだったけれど、その温かさでルジェーナは幸せだった。

 

 ルッテンベルクの香水屋には……幸せの香りが、満ちていた。


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