二人の妃の悔恨
ヴェルテード王国を突然襲った悲劇。それは第二王子ルカーシュが国王を暗殺したことから始まる悲劇だった。第一王子リシャルトは国王暗殺の罪を着せられるが、彼の無実を信じる忠臣たちの手を借り、ルカーシュを討ち取る。そして息子の犯した罪と、彼の死に耐えきれなくなったカルミア妃は自ら命を絶った。
リシャルトがルカーシュを殺したことに関して、ほとんど非難するものはいなかった。彼が王位欲しさに国王を暗殺しただけではなく、国民的英雄であったミル大佐を殺害し、その罪を夫人に着せたことも明らかになったからだ。
すでに他家に嫁いでいたミル大佐の妹の家には連日花束が届けられ、ミル大佐とユリア夫人の不条理な死に対するお悔やみが述べられた。
リシャルトの率いる軍とルカーシュの軍の衝突が王宮内にとどまったことで、市民は戦いの現場を見ておらず、噂話に花を咲かせつつも、普段とあまり変わらない生活を送っていた。
しかしこれはあくまでも表向きの話。歴史書に刻まれる内容の話だ。
リシャルトの望んだ歴史とも言うことができるだろう。
王宮の一角、カルミア妃の住んでいた建物の前に、一人の女性が侍女を連れてたたずんでいた。彼女は建物に足を向けようとして、しかしそれができずに立ち止まった。
「エノテラ妃ではありませんか」
そんな彼女に声をかけたのは、侍女を一人連れたクレマチス妃だった。
エノテラ妃は事件以降、誰にでも振舞っていた笑顔を止めてしまっていたため、非常に昔のベラに似た美しいが無機質な女性に見えた。
「クレマチス妃……どうしてここに?」
「……おそらく同じ理由だと思います。エノテラ妃もカトリーナの様子を見に来たのでしょう?」
「……私にそんな資格はないわ。実の娘でさえ、愛すことのできなかった私が」
エノテラ妃の言葉にはどこか諦念にも似た感情が含まれている。クレマチス妃はそんなエノテラ妃の様子を見て、静かに微笑んだ。
「イザベラが嫌いなのですか?」
「嫌いだったわ……あの子は私の醜い部分を全て具現化したような子どもだった。私はあの子を見るたびに鏡を見ている気分だったし、何よりあの子は……耳が良すぎた」
「そうなのですか」
クレマチス妃は相槌をうつ。そうすることで、エノテラ妃が話しやすくなるだろうと思ってのことだった。
「それでも、あの子は初めは気づかなかった。いえ、もしかすると最近まで気が付かなかったのかもしれない。あの子はリシャルトに責任を転嫁することで、自分の精神を保っていた。でもあの子は気が付いたの。私が嫌っているのはあの子だと。理由はもしかしたら分かっていないかもしれないけれど」
愛想を失ったエノテラ妃は、皮肉なことにイザベラによく似ている。逆にいえば、イザベラが愛想をふりまけば、かなりエノテラ妃に似るのではないだろうか。
「私は……陛下の愛に応えられなかった。あの方がリシャルトや……イザベラも愛してくださっていたことに、最期まで気が付けなかった」
クレマチス妃が話を聞いているかどうかは、エノテラ妃にとってはどうでもよいことのようだった。彼女はもはや相槌すら求めずにただ話を続けていく。
その話を聞きながら、クレマチス妃は胸の痛みを感じていた。分かってはいたことだが、やはり国王は、カルミア妃ではなくエノテラ妃が良かったのだと。
「ずっと怖かった。私は自分の血を厭っていた。イザベラに強く出たその血は、私の立場を危うくするのだと思い込んでいた……。でもあの人はそんなことを気にしてはいなかった……。もっと早く、向き合っていれば……こんなことにはならなかったのかしら。陛下の命が狙われていることに、ルカーシュがそこまでの憎しみを抱いていることに、気が付けたのかしら……」
「後悔なら……私もしています」
「……あなたも?」
ここで初めて、エノテラ妃はまっすぐとクレマチス妃を見た。二人の妃がこうして向かい合うことはほとんどなかった。二人の妃の関係は良好とは言えなかったが、険悪というほどのこともなかった。しいていうなら、互いが互いに無関心だったのだ。
「私が……あの場にカルミア妃を連れて行ったんです。息子が生きていることに安心して、そして、生きながらえてほしいと思って」
「でも……彼女は陛下への愛を選んだ。陛下への愛が強すぎて、息子への憎しみが大きくなりすぎてしまった」
エノテラ妃が簡潔にまとめたことを、クレマチス妃はあの瞬間は全く理解ができていなかった。カルミア妃の陛下への思いは理解していたと思っていたのに、実は全く理解できていなかったのだ。
夫よりも子どもを愛しているだろう、そんな希望的観測は見事に外れてしまったわけである。それは、クレマチス妃自身がそうであったからなのだと、後から気が付かされた。客観的に考えていたつもりでも、実は非常に主観的に判断してしまったのだ。
今ならば、ルカーシュに死刑以外の選択肢があるのだと告げたときのカルミア妃の言動が理解できる。
あれは息子が助かることに生きる希望を見出したのではなく、息子が生きる可能性を潰すという使命感によって生気が蘇ったのだった。
「……ありがとう」
静まり返った場に、ぽつりと投げ込まれた感謝の言葉。
クレマチス妃は、どうしてエノテラ妃が感謝の言葉を述べるのかまったく見当もつかなかった。
しかしエノテラ妃は、小さく微笑んで言った。
「もしあなたがそうしなければ、リシャルトは本当に弟を殺したわ。血はつながっていなくとも、目をかけていた、弟を」
ルジェーナの存在を知らないエノテラ妃は、心からそう思っているようだった。その認識の誤りを正すべきか悩み、そして、クレマチス妃は緩やかに首を横に振った。
「どうあっても、私がしたことは間違っていた……。私はこれから償っていきます。あの子たちを支えることで」
「……そう」
「そういえば……気が付いておられますか? さきほどからあなたはすべて過去形で語っていらっしゃっています。イザベラを嫌いだったのでしょう?」
エノテラ妃の目が大きく見開かれた。それは彼女にとって無意識だった。
彼女の耳につけられたイヤリングが揺れた。右耳には赤、左耳には青の石のついたイヤリングがある。
「やり直せます。きっと……。でも、いきなりあの子の相手は難しいでしょうから……もう少し素直なカトリーナのもとへ行かれては? 気になっていたからこそ、ここにいらっしゃるんでしょう?」
そう言って去っていくクレマチス妃の背を見送ると、エノテラ妃はふるふると首を振った。
自分の本当の娘すら手に負えないというのに、どうして他人の娘のほうが扱いやすいことがあるだろうか。
しかし、カトリーナがイザベラより素直であるのはエノテラ妃も気が付いていた。彼女は表面の言葉に騙されやすかったし、エノテラの上辺の笑みを信じてくれた。
「エノテラ妃殿下!?」
悩んだ末にカトリーナの部屋を訪れると、侍女たちはそろって驚いた。しかし彼女たちは互いに目を合わせてうなずくと、エノテラ妃をあっさりと部屋の中へと入れてくれた。
いくつか扉をくぐりカトリーナの寝室に訪れた。
寝台に寄りかかるようにして、小さな少女が泣いていた。実際のところ、そこまで小さな少女とはいい難かったが、エノテラ妃にはどこか小さく思えた。
そしてそっと近づき、エノテラ妃ははたと足を止めた。
どうすればいいのか全く分からなかった。
イザベラが泣いていたときは乳母に任せていたし、そもそもリシャルトは泣くような子どもではなかった。
しかしここには二人しかいない。自分でどうにかするしかなかった。
エノテラ妃はそっとカトリーナに手を伸ばすと、彼女の背中をゆっくりとさすった。するとカトリーナは顔を上げて、そしてがばりとエノテラに抱き着いた。
「お母さま!」
エノテラ妃が息をのむと、カトリーナがはっと我に返ったようにびくりと肩を震わせ、そして小さな声で言った。
「ご、めんなさい……」
「……いいえ」
きっぱりとした声は、カトリーナの動きを止めた。それをみながらエノテラ妃は、穏やかに微笑んだ。
「私もあなたの母親よ。……あなたが望む限りは」
「……一つ、聞きたいことが……」
「なあに?」
「本当に……リシャルトお兄様がルカーシュお兄様を殺したのですか?」
それが本当ではないと、エノテラ妃は知っている。
ルカーシュを殺したのはカルミア妃だ。彼女は自分の手で息子を殺したのだ。しかしリシャルトはそれを公表しなかった。自分が殺したことにして、自ら弟殺しの汚名を着たのだ。それが誰のためか、考えるまでもない。
「そうではないと思うの?」
「お母さまがルカーシュお兄様を殺したんでしょう? お母さまはその後、自分すらも……殺した」
「っ……! もし……もしそれが、真実ならどうするの?」
「……精一杯、生きます」
それは、エノテラ妃が予想した答えとは正反対のものだった。
カトリーナがそう答えた瞬間、不思議と彼女が大人の女に見えた。さきほどまで小さな小さな女の子だと感じていたのに、急に彼女が成長したかのようだった。
「でも……」
しかし、カトリーナはそこで一度言葉を切ると、エノテラ妃をまっすぐ見つめた。自らの娘よりも数百倍は素直なカトリーナに、エノテラ妃の緊張も解けてゆく。
「……今だけは泣いてもいいですか?」
無言で、その大人と子どもの狭間にいる少女を抱きしめた。
彼女は気のすむまで泣き続けた。
しかしそれは逃げではない。しっかりと、現実と向き合った結果だった。




