あの香りを追いかけて③
「タチアナさん!」
イェンスが止める間もなくルジェーナが走って飛び出して行ってしまう。その無防備さにイェンスは舌打ちするも、すぐにそのあとを追った。
頭を打ちそうな小さな入り口をくぐると、タチアナが寝かせられていた踊り場がまず目に入る。そしてイェンスの予想通り階段が螺旋を描いて下へとのびている。
天井はさして高くなく、頭上には窓もないのでどこからか弓で狙われる恐れはない。人影も声も聞こえないことから、これは罠ではないようだ。
そこまで確かめてようやく、イェンスは倒れているタチアナとそれを支えるルジェーナの近くに駆け寄った。
「大丈夫か?」
ルジェーナはタチアナの首に手を当てて目を閉じている。そしてそのあとにタチアナの口元に手をかざした。
「気を失っているだけみたい。脈も呼吸も正常だから、とりあえず安静にしておけば大丈夫」
「そうか。ただ……イーグルトンのお嬢様がいないな」
もし誰かが近くに潜んでいるのなら、ルジェーナだけが飛び出してきたあの瞬間に襲い掛かってくるだろう。イェンスが出てきて警戒されるのを待つ意味はない。
「彼女、何か盗られたものはないのかしら? カバンはあるようだけど」
タチアナが放置されていたところのそばに彼女が持っていたカバンが放置されている。後ろからヒールの音を響かせてやってきたベラはカバンを拾うと、がばりとそれを開いた。
「え?」
「あ!」
その中身を見たベラは眉をひそめ、ルジェーナは何も見ていないというのに何故か声を上げた。
「香水がないでしょう? 香りが弱いもの!」
ルジェーナはさも当然のようにそう言い、ベラは少しあきれたような表情を見せた。どうやらそれが正解ということらしい。
「……相変わらずの嗅覚ね」
まったく同感だ。とイェンスは心の中でうなずいた。
彼女の嗅覚のほうが、イェンスの身体能力よりもはるかに”普通”ではない。もっとも、これはあくまでもイェンスの意見であり、ルジェーナとベラは異を唱えるに違いなかったが。
「でもそうね、つまりまだ追える余地はあるってこと」
「……ただ、意識を失った彼女を連れて追うのは無謀だ。二人は彼女を連れてルッテンベルクに――」
戻れ、と言おうとしたらすぐさまルジェーナが首を横に振った。
「――香りを追えるのは私だから。私は行かないと!」
そういわれては、返す言葉がない。この階段を下りた先に誘拐犯がいればよいが、そうでなかった場合、頼りになるのはルジェーナの嗅覚だけなのだ。
しかし意識を失っているタチアナを抱えて移動するというのも無理な話である。かといって、タチアナを街の医者に預けていては、まだ行方の知れないスカーレット・イーグルトンの命が危ないだろう。
たとえ今日が非番であったとしても、目の前で行われた誘拐を放置できるほど、イェンスは無責任な性格ではなかった。
「……足跡が聞こえる」
ベラが身構えて階段の先を見つめた。イェンスはその声を聞き、タチアナとルジェーナをかばうように前に出た。そしてできるだけ階段の外側に身をよせながら、ゆっくりと降りていく。そして螺旋階段を半円を描くほど降りたところで、右下方に一人の男の姿をとらえた。
同時に向こうもイェンスに気づいたようだった。鋭い殺気が飛び、イェンスがとっさに剣を抜いた瞬間だった。
「パーシバル!」
頭上から降ってきた声は、ベラのものだ。そしてその声と同時に、彼女の持っていた小型ガス灯の光がその人物の顔を照らし出した。
その人物が、イェンスも見たことのある人だっため、イェンスは剣をもとに戻し、警戒を解いた。そして、突然光を当てられてもまったく動じなかった男がイェンスの立っている段まで登ってくると、イェンスは手を頭に当てて敬礼をした。
「失礼いたしました、セネヴィル少佐」
「いえ、当然の判断ですよ、ヴェーダ大尉」
セネヴィル少佐は優雅に敬礼を返すと、上からヒールの音を鳴らして降りてくる女に視線を移した。
「私のほうが謝罪すべきかもしれませんから」
「え?」
彼の言葉の意味を理解できずにイェンスは問い返したが、それを遮るようにして、ベラが声を弾ませていった。
「イェンス、これで万事解決よ。タチアナはパーシバルに任せて、私たちはスカーレット・イーグルトンを探しましょう!」
「本当にお嬢様なんだな……。セネヴィル少佐と顔見知りどころか、そんな口をきけるなんて」
パーシバル・セネヴィルは、セネヴィル侯爵家の長男で、この国の第三王女の婚約者候補でもある。ヴェーダ家も軍人としてはかなり格式が高く、イェンスはその家名からでさえ過剰な評価を得ていると感じているが、セネヴィル家は全く違う方向性かつ、段違いの格式の高さがある。
セネヴィル侯爵家は何度も王家と交わる由緒正しい家柄で、それなりの家の出身のイェンスでさえも、腰が引けてしまう相手なのだ。
「ええ。セネヴィルもイーグルトンも怖くないくらいのお嬢様よ、私は」
しかしベラは当然だとばかりにそういうと、何かにひどく驚いて口もきけない様子のパーシバルに状況を早口で説明しだした。
「一緒に来てくれたらわかるけど、階段の上にいる女の子、タチアナと、もう一人スカーレット・イーグルトンが私たちの目の前で誘拐されたの。ルジェーナが香りを追ってここまで導いてくれたおかげでタチアナは見つけたわ。でもスカーレットはいないのよ。だからこれから追いたいの。でもタチアナは意識を失っているからあなた、預かってくれるわよね?」
階段をのぼりながら早口で話すので、いつか舌をかむのではと危惧していたイェンスだったが、それは杞憂に終わった。
ベラは滑らかに、そして一気に話し終えたあと、ルジェーナのそばによると、パーシバルを指していった。
「さて、ルジェーナ。タチアナはここにいるパーシバルに任せて――」
「――ベラ嬢。こちらからも報告が」
「あら、何?」
「スカーレット・イーグルトンは先ほど保護いたしました。怪しい集団が湖のそばをうろついていたものですから。その怪しい集団も、お気の毒なスカーレット嬢も、部下がしかるべきところに送り届けていますのでご安心ください」
パーシバルは非常にかしこまった様子でベラにそう言った。パーシバルが畏まらなければいけない相手となると、ベラの身分も非常に限定されてくる。
しかしその対応以上に、イェンスは何かがひっかかった。三人が探していたスカーレットが、そう簡単に見つかるのか、イェンスにはどうにも納得しがたかったのだ。
「あら、そう。なら結構よ」
しかし、ベラは特に疑う様子はなく、あっさりとそう言った。
「本当ですか? それならよかったです……」
ルジェーナは素直に喜び、ほっと一息をついた。ルジェーナもパーシバルと面識があるようだが、やはり彼女もパーシバルには丁寧な口調で話している。
「それで、あなたはどうしてここにいるの? それよりどうやってここに来たの?」
「ある人を探すために湖に来たところ、不審な人物を見つけ捕縛しました。そしてその際に、今までただの壁だと思っていた場所が開いていることに気づき、一人でここに来た次第です。部下は気づいていなかったようでしたので、彼らに後始末は任せ、ひっそりと来ました。入り口も閉じておいたので問題はないかと」
パーシバルはそう話した後、ルジェーナのほうをちらりと見た。そしてそれからイェンスへと視線を向ける。
入り口を閉じたとあえて言うところを見ると、イェンスと同じ懸念を持ったようだ。だからこそ、彼は入り口を閉じて他の者に知られないように配慮したのだろう。
「やっぱり湖につながっているのね」
ベラはそう言って、赤い瞳をイェンスに向けた。
「そうなると……イェンス、あなたとは意見が一致しそう」
王都の大きな特徴として挙げられるのは、北部と南部が大河リーニュの存在により完全に分断されていることだ。そして、それをつなぐ陸路は王城しかない。
リーニュは王都よりはるか西から続いてる河であるし、川下にあたる東側には滝があり、それは東側にある湖につながっている。
王都から出て南東部を大きく迂回して森を突っ切れば、勾配が緩やかなため、湖に出れるし、湖から北部の街までは緩やかな勾配で、道も舗装されている。しかしどのみち、王都を一度出ない限りは、陸路で南部と北部を横断することはできない。
防衛上の理由から、北側と南側をつなぐ橋を作っていないのが、王都の特殊な構造の一つだったのだ。
ところが、この隠し通路が湖につながっているとすれば、王都の南部から北部
につながる陸路が存在することになる。
「ああ。向こう側を閉じて正解だったな」
王都の防衛上は、まったく好ましくない事態だ。
「後で調べないと……」
ベラが考え込んでいる間、イェンスは別のことが気になって、思わずパーシバルに質問をした。
「その不審な人物は、四人全員、捕まえたのでしょうか?」
「はい。四人全員捕まえました」
パーシバルは躊躇いなくそう返答した。そして彼はタチアナに近づくと、彼女を抱き上げた。
すると、ルジェーナがかすかに眉をひそめ、パーシバルに尋ねた。
「スカーレットさんも意識を失っていたのですか?」
「私が抱き起こした時には、意識がないようでした。呼吸はあったので、大丈夫だとはおもいますが」
「そうなんですね。早く良くなってくれるといいんですけど」
「きっと大丈夫ですよ。では、ルッテンベルクに戻りましょう」
パーシバルは前半はルジェーナに、後半はベラに向かって言った。
「申し訳ないのですが、後をお願いしてもよろしいでしょうか? 実は私は今日は非番なので、湖でも散歩しようかと。仕掛けはきちんと閉じておきますので」
「あら、非番だったの? 軍服着てるのに?」
「非番じゃなければ、こんなに自由に動けないだろ。軍服を着ているのは、お嬢様のお望みが”軍人”だと思ったんでね」
「そ、ありがとう。ご苦労さま」
イェンスとしてはパーシバルに許可を取ったのだが、ベラが代わりにうなずいた。しかしパーシバルもそれに異論はなさそうなので、イェンスは階段に向かって一歩踏み出した。
「私も一緒に行っていい?」
するとルジェーナがイェンスを呼び止めるように言った。イェンスはルジェーナを見て、彼女の淡い紫色の瞳が語る何かを感じ取り、うなずいた。
「じゃあ、またね、ベラ。お願いします、パーシバルさん」
「ええ、またね」
「お任せください」
ルジェーナはそういうとイェンスの隣に並んだ。
イェンスはそれを見て、一度パーシバルに敬礼をしてから、階段を下りる。
階段を下りきるまで二人は無言だった。螺旋階段を四、五周したところで、ようやく階段に終わりが見えた。
そこまで来ると、ルジェーナはふとすぐ隣を歩くイェンスを見た。そして上を一度確認した後、ささやくように言った。
「パーシバルさん、嘘をついてるよね?」