始まりの場所
浅黒い滑らかな肌に、濃い黒い髪の女性。彼女は彼女の宿敵ともいえる女の庭園で泣き崩れていた。エノテラの管理する庭園は、カルミアにとって、国王と初めて出会った場所だったのだ。
今は亡き夫、あるいは国王との思い出の場所。
『カルミアにしよう』
どうして彼がカルミアという花の名前を与えたのかは分からない。しかしその瞬間から、カルミアはカルミアになった。この王宮の掟だ。元の名前は失われて、呼ばれることはない。
子供にもわざわざ教えることはないから、ルカーシュもカトリーナもカルミアという名前だと思って自然と育つ。
隣国から嫁がされて、何もかもが不安だった頃、迷ってきてしまったこの庭園で、二人は出会ったのだ。そして、カルミアの名をくれた国王を好きになった。彼こそが自分の居場所だった。
しかしながら、そんな思い出の場所ではあるここに、その出会い以降足を運んだことはほとんどなかった。この場所がエノテラの庭園だったというのが、カルミアのプライドを刺激したからだ。
しかし今、死ぬ場所を求めてこの庭園にやってきた。こればかりはプライドよりも自分の願望が勝った。
カルミアは細い腕を振るわせながら、手に持っていた短剣の切っ先を自分の胸へと向ける。彼が死んでしまって、カルミア妃は自分が生きる意味を見失っていた。
あともう少しで短剣がカルミアの胸に突き刺さる……。そんな瞬間、カルミアの腕をつかんだものがいた。
「あなたならここにいらっしゃると思っていました」
静かな、しかし凛とした声で話しかけたのはクレマチスだった。
「どうして私を止めるの! 死なせて!」
どうにかして自殺を成し遂げようと暴れるカルミアの手から短剣を奪うと、それを遠くに放り投げた。
そしてクレマチスはカルミアの頬に一発お見舞いする。小気味よい音が響き、その場は急に静かになった。
カルミアの黒い髪が散り、ぱさりと彼女の肩へと落ちた。カルミアはひどく驚いた表情でクレマチスを見ていた。
「生きられなかった命がいくつあるとお思いですか」
クレマチスはカルミアを尊敬していた。しかしながら同時に、アルナウト・ミルの命をルカーシュが奪ったのは、彼女にも責任があると思っていた。
「あなたの息子が、陛下の命を含め、いったいいくつの命を奪ったとお思いですか」
「そうよ……あの子が……あのお方を殺した……」
怒りと絶望の混ざる瞳は、暗く陰り生気を失っていた。そしてやはり、彼女はルカーシュの関与を信じて疑わないようだった。
「私があの子に王位を継がせたいと……あの子にも、周りにも、そう公言してはばからなかったのが原因よ……」
「どうして王位を継がせたかったのですか?」
「陛下に私を見てほしかった……認めてほしかった」
その返答は、クレマチスにとって驚くべきものではない。クレマチスから見てカルミアは、三人の妃の中でもっとも純粋に国王を愛していた。
しかし次に続いた言葉は、クレマチスを驚かせた。
「いつだってエノテラが一番だった……」
「え?」
エノテラはいつもにこにこと愛想が良かったが、その割に娘のイザベラとギクシャクしている。そしてそれと同時に国王に対しても、どこか一歩置いた印象があった。
「エノテラがあの方の愛情を最も多く勝ち得ていた」
国王もまた、カルミアと一緒にいることのほうが多いように思えた。それは子どもの数からも明らかだとクレマチスは感じていた。しかしクレマチスの目にはそうは映らなかったようだ。
「私はリシャルトよりも、イザベラよりも、ルカーシュに優秀であってほしいと願った。それがきっとルカーシュを、あの子を歪ませた……」
「ルカーシュ王子が……国王を殺すかもしれないと思っていたのですか?」
「まさか!」
ルカーシュを盲目的に信じていたわけでもなく、かといって、疑い続けてきたわけでもない。
そんな彼女がなぜ、ルカーシュが殺したのだと確信していたのか、クレマチスには興味があった。
「あれが……あの方を殺すなんて!」
しかし彼女の絶望的な声を聞いていると、これ以上は聞くことができなかった。
彼女にとって、夫の死とは何よりも悲しい出来事なのだろう。自分の命を絶とうとするくらいだ。
ただ、クレマチスはカルミアの自殺を許そうとは思えなかった。それには二つの理由がある。
ルカーシュのしでかしたことの大きさを受け止めてほしいという思いから。
そして何より、カルミアに死んでほしくないという気持ちからだ。
「あなたは知らなければなりません。あなたの息子が、なぜそんなことをしたのか。そして、あなたはあなたの息子がどうやって罪を償うのかを見届けなければ」
凛とした声は、カルミアの心に届いたようだった。
彼女は急に真剣な表情になって、クレマチスを見た。さきほどまで絶望と怒りだけを抱えていた彼女の目に、強い力が宿る。
「罪を償うのを見届ける……? すでにあの方を殺したあの子に、死以外の償いがあるというの?」
カルミアの声はかすかに震えていた。このときクレマチスは、カルミアの絶望は、夫ばかりでなく、息子を失うことへの恐怖からも来ていたのかもしれないと感じた。
ルカーシュがリシャルトに勝てば、彼は生き残ることができる。しかし息子のことをよくわかっているカルミアには、息子がリシャルトに敗北する未来しかみえないのだろう。
正直なところ、クレマチスもまた、リシャルトがルカーシュに負けて殺される未来は想像できなかった。リシャルトの能力は群を抜いて素晴らしいものであったし、多くの軍人に尊敬されている。彼を支持するものがあれだけいれば、リシャルトはそうそう死ぬことはあるまい。
そしてその未来の先には、国王殺しのルカーシュの処刑が待っている。
「まだ死罪と決まったわけではありません」
だからこそ、クレマチスはわずかな可能性の提示をする必要があった。カルミアが生きる意味を失わないために、だ。
ルジェーナがルカーシュの生を望むのならば、処刑が回避される可能性は十分にあるとクレマチスは踏んでいた。
王家はミル家に対して多大な”借り”がある。そしてリシャルトが真実を知れば、その”借り”を返そうとする、そんな人物であることは間違いないのだ。
「そのためには、リシャルトを逆賊として打つ、なんてバカなことをやめさせなければ」
「そう……? まだ……決まって、ない……」
ふっとカルミア妃の中で何かが落ちたようだった。そして、何かを決めたような目で言った。
そこにはもう、先ほどまでのような死への熱意は感じられない。
「行くわ。息子のもとへと」
「私も一緒に行きます。それと……これを」
クレマチスはそれを渡すか悩んだが、しかし渡さないわけにはいかなかった。
「これは……」
「最新兵器です。これから行く場所は、戦場ですから」
カルミアが最新兵器の引き金を引くような事態にはなるはずがない。近衛がそれを許さないであろうし、クレマチスもまた、そんな事態にはさせないつもりだった。
しかしながら、王城内とはいえ、戦場に赴くというのに丸腰で生かせるわけにもいかなかった。
「ありがとう」
生まれて初めて受け取ったその礼は美しく、そして珍しい。カルミアのお礼は、クレマチスの心に長く残るほど、印象的で貴重なものだった。




