その意志を問う
その男が現れた瞬間、スパイシーで、エキゾチックな香りが蘇ってきた気がした。はっきりと顔を覚えていたわけではなかった。しかし目の前に現れれば、その人物だと分かる。
「あなたは……」
自分の頬がひきつるのがルジェーナには感じ取れた。目つきは自然と鋭くなり、思わず身構えてしまう。
「ルカーシュ殿下に仕えているヴェルナーだ。君と会うのは二度目だな。一度目は……ユリア・ミルを連行した時」
ヴェルナーの声は、不思議なほど凪いでいた。
「……! 何をしにここへ?」
「復讐に」
「復讐?」
クレマチス妃もヴィクトリアも慌てた様子がないところを見ると、彼はきっとルカーシュを裏切っているのだろう。
しかしどうして裏切ったのだろうか。
考えてみると、ふとクリスタ師匠の言葉が蘇る。
彼のつけていた香水は、誰か高貴な女性の”移り香”だった。初めて聞いた時にはその意味をはっきりとは理解していなかった。しかし今ならわかる。香水の香りが移るほどの関係というのは、限定的なものだからだ。
「それは……あなたのまとっていた香りと関係あるんですね?」
ほとんど確信してそう問いかければ、ヴェルナーはあっさりと頷いた。
「ああ。それは……彼女の、イルメリ王女殿下のものだ」
「何ですって!?」
なんでもないことのように言ったヴェルナーの言葉は、ルジェーナのみならずカトリーナを驚かせた。彼女は大声を上げたあと、ほとんど掴みかかるように彼に近づいて言った。
「お前と、イルメリお姉さまが通じていたの!?」
「そうですよ。香水の移り香は彼女と最後の”ふれあい”をした時についたものです」
予想はしていたことだったが、はっきりとヴェルナーの口から語られてしまうと生々しい。
無知と純粋の狭間にいるカトリーナは、そんなことを想像もしていなかったようで、しばらくの間言葉を失っていた。
「それが……ルカーシュ殿下にばれたんですね?」
ルジェーナはカトリーナの言葉を思い出しながら問いかけた。カトリーナによると、ルカーシュは件の香水を製造停止させたようだった。それはつまり、イルメリとヴェルナーの関係に気が付いて、それが周囲にばれないように取り計らったのだろう。
「ああ。そのせいで、あの方は外国へ嫁がされた……。国内にいれば、私が支えて差し上げられたのに!」
「つまり、ルカーシュ殿下を裏切ることが、あなたにとっての復讐ですか?」
「そうだ」
暗い感情を宿した彼の目に、ルジェーナは何も言えなくなってしまった。母ユリアを連れて行った男が憎いと思っていたはずなのに、哀れな男を目の前にすると、自分の怒りはどこかへ行ってしまい、ただ虚しさだけが残った。
「では、どうしてお父様まで見殺しに?」
ルジェーナが黙ると、今度はカトリーナがそう問いかけた。
「それはもちろん、王女の結婚の一端は陛下にもある。国王が認めねば、外国に嫁ぐことはできませんから」
「そん……な」
ヴェルナーはじっとカトリーナを見つめ、そしてふいと視線をそらしてルジェーナに視線を向けた。するとイェンスが無意識なのか、一歩進み出てルジェーナとヴェルナーの間に入った。
「復讐のために、君に情報をやる。ミル大佐が殺されたのは、彼がリシャルト殺害計画を阻止しようとしたためだ。命を懸けて。彼は命をかけなくともリシャルトを守ることはできたかもしれないが、すると家族や妻の故郷までも守ることはできなかった」
「……お父さんは自ら死んだ。それはルカーシュ殿下のせいでもあなたのせいでもないと?」
自分でも驚くほど低い声が出た。爪が手のひらにくいこむほど強く握りしめていると、イェンスが気づかわしげにこちらを見た。その鋭い視線を受けてもヴェルナーはひるまなかった。ただ静かにルジェーナを見返して、そして首を横に振った。
「いや。ルカーシュはミル大佐を殺す気だった。もっと正確にいえば、ミル一家全員を。私はどのみち極刑に処せられるが、復讐の一環として、きちんと証言する。ユリア・ヴァン・ミルの無罪は私が保証しよう」
その瞬間、ルジェーナはあることに気が付いた。
彼女はここまでやってきた目的を、図らずしも果たしたのだ。
両親の死にまつわる真相を明らかにし、ユリアの無罪を証明するという目的を。
「シル……」
そっとイェンスがルジェーナの背中に手を添えた。
混乱しているルジェーナにとって、その支えは何よりも心強いものだった。ルジェーナが今まで目指してきたものが、こうも呆気なく果たされると、感情の整理が追いつかなかった。大きな喪失感がルジェーナを襲い、いったいどうしたらよいのか分からなくなってしまったのだ。
そしてもう一人、事態のあらましを聞いて、困惑しているものがいた。
「お兄様は……ルカーシュお兄様はどうなるの?」
「国王殺しとなれば……死刑は免れないでしょう」
ヴィクトリアはあっさりそういうと、最後に思いついたように言葉を足した。
「もちろん、リシャルトお兄様が負ければ話は別ですが」
「それはダメ!」
声を荒げたカトリーナに、その場にいた全員は驚いた。ルジェーナはすでにカトリーナが癇癪を起すところは見ていたというのに、それでもこのタイミングで彼女が 声を荒げることに驚いたのだった。
「リシャルトお兄様が国王になるべきよ」
凛とした声で告げられたその言葉は、まるでここにはいない誰かに言い聞かせているようにすら思えた。
「でも……ルカーシュお兄様に生きていてほしい」
彼女のつぶやきは切実だった。それがわがままだとカトリーナは理解しているようで、諦めの色すらうかがえた。
ルジェーナはそんなカトリーナを見て、ふと、自分の思いと向き合った。
愛のために死ぬ。それは美談のように聞こえるけれど、残された者にとっては酷く辛い解決法である。だから母ユリアの自己犠牲には憤りすら感じていたルジェーナである。死をもって何かを解決してほしくないという気持ちは、カトリーナと動機は違えど、望むことは同じようにも思えた。
「お母さまは、もうお兄様を許せないようだけれど……それでも――」
「――もう許せないってどういうこと?」
そこで今まで黙っていたクレマチス妃が口をはさんだ。
「お母さまは初めから、ルカーシュお兄様がお父様を殺したと分かっていたようです。だから、お兄様が憎い、と」
カトリーナの言葉を聞いて、しばらくの間彼女は難しい顔をして黙っていた。
しかしある瞬間、顔をふっと上げると、きっぱりと言った。
「……カルミア妃のところへ行くわ。そうでなければ、彼女は死んでしまうかもしれない」
「何を言ってるの!? 危険よ。やめて」
ヴィクトリアが驚いたようにそういうと、首を横に振って抗議した。しかしそれでもクレマチス妃の決意は揺るがないようだった。
「同じ妃として、彼女のことは尊敬しているの」
堂々と言い放ったそれは、妃の一人として相応しい張りのある声だった。その宣言に、ヴィクトリアとカトリーナは二人で目を瞬いて、驚きを隠せないと言ったような表情をした。顔立ちは全く似ていない二人だが、仕草はさすが姉妹というべきか、似ているところもあるようだ。
「あの人だけが、純粋に陛下を愛していたわ。……この王家はあまりにも”愛”をめぐって血を流しすぎた。これ以上、それを見たくはない」
ルジェーナの父、アルナウト・ミルを慕っていたというクレマチス。彼女はおそらく、自分がほかの男に思いを残していることを国王に対してひけめに感じていたのだろう。そしてだからこそ今、妃としてできることをしようと思ったに違いなかった。
「カトリーナ王女殿下は、ルカーシュ王子殿下を生かしたいのですね?」
唐突なルジェーナの質問にカトリーナは酷く驚いたようだった。ルジェーナは一歩前に出て、イェンスの手が背中から離れるのを感じた。それでもしっかりと顔をあげて、その紫色の瞳でカトリーナをとらえた。すると彼女はおずおずと頷く。
「……ええ。でもそれは――」
「――それなら、私は行きます。ベラとリシャルト殿下のもとへ」
「え?」
カトリーナの目が大きく見開かれた。ヴェルナーは信じられないとばかりに口をあんぐりと開けてルジェーナの言動を見守った。
「二人に直談判する以外に、彼を助ける方法はありませんから」
「それは……でも……お前の、あなたの両親は、その……」
もごもごと口ごもったカトリーナに、ルジェーナはきっぱりと首を横に振った。
「これは私の意志です。私が望むからこそ、おそらく願いは聞き届けられる」
許すわけではない。ただ、死を以て、彼の罪を終わらせてほしくはなかった。もしかするとカトリーナが思っているよりも、残酷な結果になるかもしれない。生きるということは死ぬこと以上にエネルギーを使う残酷な行為である。自分が生きるだけで、何かが犠牲になっている。しかし生きている以上、その犠牲のためにも、最後まで生き抜く努力をしなければならないのだ。
少なくとも、ルジェーナにとって生きるとはそういうことだ。
死ぬことより、生きることのほうが数百倍難しい。生きることよりも、生かすことのほうが難しい。しかしそれでも、ルジェーナはそれを望みたいとおもっていた。
「イェンスは、手伝ってくれる?」
振り返ると、長い紫色の髪がからまって、ルジェーナはそれを鬱陶しげに振り払った。そうして開けた視界の先では、金髪の青年が穏やかに微笑んでいた。
「それをシルが望むのならば」
「ありがとう」
イェンスが味方してくれるならば、どうにかなる。
ルジェーナはいつの間にか、当たり前のようにイェンスを巻き込んでいる自分に気が付いた。それが彼女自身の中にある感情の答えなのだとも。
「どうして両親の敵を助けようとするの?」
ヴィクトリアが率直な物言いで尋ねてきた。ルジェーナはそれに静かに微笑んで答えた。
「ルカーシュ殿下が死んでしまって、両親の事件の真相が不明瞭なまま終わるのは嫌なんです。いくら証言してくださると言っても、です。そして何より……生きて罪を償ってほしい。死ぬなんて、逃避でしかないでしょう? 私の両親は死によって事態を好転させようとしたけれど、私はあくまでも生きる、生かすことにこだわると決めたんです」
「……そこまでいうのなら、そうなさい。それがあなたの選んだ”未来”ならば」
ヴィクトリアはそういうと、かすかに微笑んだ。
彼女の反応に安心したルジェーナは、ふと、クレマチス妃の方を見る。そして、「殺せと言ってほしかったですか?」と問いかければ、クレマチス妃は少しだけ肩を揺らして、そしてふっと微笑んだ。
「さあ……どうかしら?」
彼女は答えない。
ルジェーナはそれを悟ると、イェンスとともに部屋を出ようと一歩踏み出した。
「大変です!」
激しく扉が開くとともに、一人の兵士が部屋に乱入してくる。ルジェーナは思わず立ち止まると、息を切らしている兵士を見つめた。
「何事なの?」
クレマチス妃がそう問いかけると、兵士は答えた。
「王宮の中央棟にて、リシャルト殿下率いる軍とルカーシュ殿下率いる軍の武力衝突が起きています」
「武力衝突ですって!? ヴィクトリアとカトリーナはここに残りなさい。私はカルミア妃のもとへ行きます。二人は……」
そこまでいうと、クレマチス妃はイェンスとルジェーナを見た。
「行きます。カトリーナ殿下の思いも連れて、私は私のために動きます」
「彼女は私が守ります。できるだけ戦わずに合流する方法を考えますから」
二人があまりにもきっぱりと言い切ったので、クレマチス妃はそう、と一言だけ言った。そして彼女は部屋を出る。
こうして、ヴェルテード王国史に残る、短い戦いが幕を開けた。
歴史書の一ページにも満たぬ、短い戦いが。




