それは愛のために
「あなた、ルジェーナ?」
「カトリーナ殿下……!」
二人の前に立ちふさがったのは、王女カトリーナだった。イェンスはどうすると問うようにルジェーナを見つめた。
さすがに王女に手を出すわけにはいかない。しかしここで捕まるわけにもいかないのだ。
「こちらに来て。ここにいては見つかる」
しかし、王女は意外にも、そんなことを言うと、さっとあたりを見回した。そして、ある一点に目を止めた。
イェンスはその視線の先が気になって目をやると、今度は第五王女ヴィクトリアが近衛とともに歩いてきた。
「ちょうどいいところに。お母さまがお呼びです。とはいっても、お兄様に見つかると困るので、これを」
カトリーナはそういうと、イェンスに式典の時にしか被らないような軍帽をかぶせた。
これは逆に目立つのではないかと思ったが、ヴィクトリアは有無を言わさずに付いてくるようにと言った。
ルジェーナを見ると、彼女もうなずいたので、二人はおとなしく先導するヴィクトリアの近衛の後につく。
「カトリーナお姉様もいらしてください。話すことがおありなのでしょう?」
「ヴィクトリア、あなた……いえ。そうね。その通りよ」
ヴィクトリアが現れると、いつも有無を言わさずに彼女の後についていく羽目になる。そういう人を誘導する力というのは、さすが王家の人間だとイェンスは思わざるを得なかった。
「それにしても……今日はちょっと騒がしいわね」
カトリーナが眉をひそめて後ろを振り返った。
その騒がしい理由に心当たりのあるイェンスとルジェーナは二人で顔を見合わせた。
「ちょっとした小火騒ぎでしょう。こんな乾燥した日には、ランプを倒せばすぐに燃え広がりますから」
「そう……そうかもしれないわ」
素直な人間らしいカトリーナは、ヴィクトリアのそんな言葉にうなずいていたが、イェンスとルジェーナは内心ひやひやとしていた。ここまでどうやって入ってきたのか、ヴィクトリアにはお見通しらしい。
しかし彼女はそれを咎める様子はなく、あっさりと小火騒ぎの一言で片づけると、すたすたと歩いていく。
ヴィクトリアとカトリーナの組み合わせは、少なからず周囲の視線を引いた。しかし彼女たちが視線をあつめるおかげで、傍にいるイェンスとルジェーナにはさして視線が集まらない。
ルジェーナ以上にイェンスは見つかるとまずい立場なので、できるだけ堂々とふるまい、疑念を差し向けられないように歩いた。
しばし気を張って歩き続けると、ようやく建物の中へ入ることができた。どうやらクレマチス妃とヴィクトリア妃が住む建物のようだ。カトリーナが初めて入るとつぶやいているのが聞こえたからだ。
そしてある一室に案内されると、そこにはやはりと言うべきか、クレマチス妃が待っていた。
「いらっしゃい」
彼女は部屋の真ん中にある大きなローテーブルの向こう側に座っていた。カトリーナやヴィクトリアのみならず、イェンスとルジェーナも客として着席させられる。
イェンスもルジェーナもお断りしたのだが、クレマチス妃の微笑みに勝てなかったのだ。
「どうぞ」
香りのよいハーブティーを出されて、イェンスは礼を言った。すると、その人物に見覚えがあり、イェンスはかすかに首を傾げた。
「あの……もしかして、ベラ……イザベラ殿下の?」
ルジェーナも同じことを考えたようで、ハーブティーを出してくれた侍女に話しかけた。すると彼女はにっこりと微笑んだ。
「はい。シスラと申します。一時的にこちらにお世話になっております」
「一時的……。なるほど、ベラもやっぱり追われてるんですね……」
「あの方はお強いですから、大丈夫ですよ」
シスラはきっぱりとそう断言すると、一礼して去っていく。
そうしてお茶の準備も整ったところで、クレマチス妃がカトリーナに話しかけた。
「ここに来てくれたということは……おそらく、今回の事件について、何か知っているのではない?」
「……はい。ルカーシュお兄様のことです」
カトリーナは少し緊張した面持ちで口を開くと、一度ハーブティーに口をつけ、そして離し始めた。
「今回の事件……私もお母さまも、犯人がリシャルトお兄様だとは思っていません」
隣に座っていたルジェーナが意外そうに目を丸くしたのがイェンスには分かった。しかし彼女は懸命にも、それを言葉にすることはない。
「おそらくは……ルカーシュお兄様がリシャルトお兄様をはめたのでしょう。王になるために」
「ルカーシュは……どうしてそこまで、王位にこだわるの?」
優しい口調でクレマチス妃が先を促した。
この場にいる全員が同じ疑問を抱いていた。
確かにこの国は王家の人間全員に継承権があるが、はたから見ても、リシャルトの即位というのは妥当な判断だったと言える。
「お兄様には……好きな方がいたんです。ティファナという令嬢で、彼女はリシャルトお兄様の婚約者候補でした」
どこかで聞いたことのある名前だ。イェンスはあいまいな記憶をたどって、それが誰の名前だったかを思い出そうとした。
「ところがティファナはリシャルトお兄様を選び、リシャルトお兄様はティファナを振ったんです。そして最後にティファナに何かをつぶやいて……それで、彼女はそのあと病気で亡くなりました」
「最後に何かをつぶやいた……? あなたは、リシャルトが振ったところを見ていたの?」
カトリーナの言葉にクレマチス妃がすかさずつっこんだ。するとカトリーナはしまったという顔をした後に、肩をすくめて言った。
「ルカーシュお兄様に話しかけようと思ったら、お兄様がリシャルトお兄様とティファナの会話を盗み聞きしているところだったんです」
「その時にリシャルトとティファナが話していたことで、思い出せることはある?」
「そういえば……レナルドのみならず、ルカーシュまで……でも、ちょっとはっきりとは」
「レナルドのみならず、ルカーシュまで……なるほど……そういうこと」
ヴィクトリアは納得したようにつぶやいた。クレマチスもそれにうなずいているし、イェンスやルジェーナにも大体の経緯は読めた。
つまりティファナという令嬢は、同時に複数の、それも権力を持つ男性に言い寄っていたということだろう。だからこそ、この国で最も国王に近いといわれていたリシャルトが、最もねらい目であったわけだ。
「どういうことなの? 何が分かったの? ヴィクトリア」
カトリーナは少し考えが足りないのか、鈍いのか、それとも純粋だというべきなのだろうか。
ヴィクトリアはそんなカトリーナに向かって、すこしだけ驚いたような表情をして言った。
「野心の多すぎるティファナを、リシャルトお兄様は嫌がったんですよ」
「野心?」
どうやらまだピンとこない様子のカトリーナに、ヴィクトリアはじれったそうに言った。
「ティファナがルカーシュお兄様に近づいたのは、単に王子という肩書に惹かれてだったということです」
「そんな……! まさか……」
カトリーナはそうつぶやいたが、しかしそれで納得のいくところもあったようだ。しばし考えた後に、小さくうなずいた。
イェンスはそのやり取りを見つめながら、ティファナという名前にどこかひっかかりを覚えていた。
どこかで聞いたことのある名前なのだ。
「ティファナ……! あの自殺した令嬢か」
どこかで聞いたことがある名前だと記憶をたどったイェンスは、父エドガールから聞いた話を思い出してつぶやいた。
「ティファナは自殺なの?」
ルジェーナは少し驚いたような顔をして聞いてきた。この情報にはカトリーナもまた驚いたようだった。世間一般には病死とされていたが、それは彼女の父親が対面を保つためについた嘘だ。
「ああ」
「自殺するほどの強い悲しみ……絶望……。リシャルト殿下は何を言ったのかな?」
それにはイェンスも同感だった。それが野心であろうが愛であろうが、一人の男に振られたぐらいで死を選ぶのだろうか。愛ならばまだ理解できるかもしれない。しかし野心のために王子を狙っていたのだとしたら、余計に自殺するほどショックを受けるとは思えなかった。
「よほどのことを言われたんだろうな。悪魔の滴を自ら飲むぐらいだから……」
イェンスはそういいながら、自分の言葉にはっと我に返った。
悪魔の滴。
それはミル大佐殺害に使われたものだ。ルジェーナは案の定、大きく目を見開いて、紫色の瞳をこちらに向けていた。彼女は何かを口にしようとして、一度閉じた。
「悪魔の滴、ですって……?」
すると、ルジェーナよりも先に口を開いた人物がいた。
クレマチス妃だ。
彼女はなぜか青ざめた様子でルジェーナを見つめた。そしてふらりと一歩近づき、その名を呼んだ。
「シルヴィア」
名前を呼ばれたルジェーナは、状況が理解できないとばかりに視線をイェンスに移した。そんな視線を受けても、イェンスにもまったく意味が分からない。
「あなたを見た瞬間、分かったの。あなたがあの方の……ミル大佐の娘だと」
クレマチス妃の告白は、ルジェーナとイェンスを驚愕させるには十分な衝撃を持っていた。今までルジェーナが生き延びてきたのは、彼女がミル大佐の娘だと悟られなかったからなのだ。
それなのにこんなにも簡単にそれを見抜いてしまう人がいようとは、驚きである。
「前回助けていただいたときには、もう?」
「そうよ。だから助けたの」
「だから……助けた? どういうことでしょうか?」
「簡単な理由よ。私はミル大佐のことが好きだったの」
さらりと言われたその言葉に、固まったのはイェンスやルジェーナだけではなかった。カトリーナもまた、ぱっと口を覆っている。
ヴィクトリアは知っていたらしく、あきれたような表情をするだけであったし、クレマチス妃は全く悪びれた様子もなく言葉をつづけた。
「何もなかったから、私の片思いよ。陛下に嫁ぐ前の恋愛は、特に禁止されていなかったし」
後半部分は、カトリーナの方を向いて言っているように見えた。それがクレマチス妃のささやかな予防線であったとしても、カトリーナは素直に信じるだろう。
案の定、カトリーナはその言葉を聞いて少しだけ安心したように見えた。クレマチスの見え好いた嘘には気づくそぶりもない。
クレマチス妃の暴走はまだ止まらなかった。彼女はさらにもう一歩ルジェーナに近づくと、彼女の瞳を覗き込むようにして言った。
「ねえ、シルヴィア……。ミル大佐を悪魔の滴で殺したのは、ルカーシュよ。それが直接手を下したわけではなくとも、ね」
「どうして……そんなことを……?」
ルジェーナのもっともな疑問に、クレマチス妃はふと視線を扉のほうへと向けた。それはイェンスたちが入ってきた扉とは別のもの。
そこから姿を現したのは、見覚えのある一人の男だった。




