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イェンスとルジェーナ  作者: 如月あい
七章 愛のかたち

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兄妹の逃走劇

 そこは、それなりに居心地の良い部屋だった。生まれてからこのかた暇というものを経験したことのなかったリシャルトは、人生初めての暇を謳歌していた。

 暇を謳歌するといっても、彼はゆったりとしたソファに腰を掛けて考えていた。

 もちろん、誰が父かつ国王であった男を殺したかということである。

 リシャルトが部屋に入った時には、すでに彼は絶命していた。そしてそこに駆け寄ったところ、リシャルトの短剣が血まみれでそばに落ちていた。それは間違いなく彼のものだった。最近は使っていなかったので身には着けていなかったが、リシャルトが成人したときに国王から贈られたものである。

 そしてそれを調べようとしたところでルカーシュとブローム侯爵が部屋に入ってきて、今に至る。

 この部屋はソファもベッドもテーブルも一級品がおいてあったが、窓には鉄格子が嵌められていた。ここは三階であり、一つしかない扉にはもちろん鍵がかかっている。つまりここは貴人用の牢屋だ。リシャルトはそこに囚人として囚われていた。

 あの時は動揺していたが、冷静になってみると、どうにもルカーシュの来たタイミングが良すぎた。しかも中立の立場を貫いているブローム侯爵を伴っていた。

 別段ルカーシュとつながりのない彼がいたというのが、リシャルトを窮地に追い込んでいる原因の一つなのだ。あの時ルカーシュは巧妙に演技をしていたが、しかしかすかに喜びを隠せていなかった。

 まさかルカーシュ自ら手を下したことはないだろうが、国王につかえている誰かが国王を裏切って殺したのかもしれない。それにしてもあの部屋で起きた殺人は説明のつかないところが多すぎるが、これ以上のことはリシャルトには推察使用がないことだった。

 しばらくソファに座っておとなしく考えていると、急に扉の鍵が開けられる音がした。

 なぜか武器は奪われていないため、リシャルトは取り押さえられたときのことを考えてそっと腰に手をやった。穏便な話し合いには応じるが、実力行使された場合は、誰かを殺してでも生き延びる必要があった。

 なぜならリシャルトは国王を殺していないし、国王を殺していない以上、彼が次の国王であることは明白だからだ。

 それが亡き父の最後の望みともいえる。

 リシャルトは立ち上がって扉を見つめると、そこから姿を現したのはヴェルナーだった。

「お待たせいたしました」

 ヴェルナーはそういうと、扉を大きく開け放ち、そしてそれを抑えた。

 リシャルトは彼の行動の真意がつかめず、動けなかった。そしてそれを問いただそうとしたところで、第三者の声が響いた。


「動くな!」


 ヴェルナーはとっさに振り返り、そしてその人物が誰かを認識して、なぜか彼はおとなしく部屋の中に入った。

 リシャルトの位置からはまだだれがそこにいるのかは見えない。しかしその人物が入ってくると、リシャルトは思わず声をあげた。

「イザベラ!」

 すでに捕まっているだろうと思っていた妹の登場に、リシャルトは胸をなでおろした。

 彼女は最新兵器(ピストル)をぴたりとヴェルナーにつきつけていたが、ふと思いついたように尋ねた。

「まさか、あなたが内通者なの?」

 その後ろから入ってきたパーシバルもぴたりと照準をあわせているが、ベラの口にした問いかけに、何かを思いついたような表情を見せた。

「はい。ヴィクトリア殿下は名前を伝えてくださらなかったようですね」

「なんてこと……それでこんなに早く分かったのね」

 ベラはそれで武器を下したが、パーシバルはまだ突きつけたままだった。

 しかしヴェルナーはそんなパーシバルの様子には気にも留めず、肩をすくめて言った。

「早くお逃げください。私の裏切りが露呈する前に」

 リシャルトはうなずいて、そして一瞬躊躇った後に、ヴェルナーに問いかけた。

「……イルメリか?」

 第一王女の名前を口にすると、ベラとパーシバルが面を食らったような顔をした。一体どうして今この名前が出てくるのだろうと思ったのだろう。

「なぜ……?」

 ヴェルナーだけは顔色を変えて、鋭い視線をリシャルトに向けた。彼にはありあまるほどその名前に憶えがあるからだ。

「優秀な側近が調べてくれただけだ」

 そう、リシャルトは知っていたが、その情報を生かしきれなかったのだ。結果的にこのような悲劇が起きてしまった。

 そしておそらくは、ミル大佐の事件もこの件と無関係ではない。リシャルト自信にはあまり理解しがたい感情だったがゆえに、放置してしまった結果が、王子による国王暗殺だ。

 頭が痛かったし、リシャルトは自分で自分の甘さを呪うしかなかった。


「兄上」


 そうして一人で反省し始めたリシャルトの意識を現実に戻したのは、ベラの声だった。

 彼女は今、普段ではありえない呼び方でリシャルトを呼んだのだ。

 驚いてベラを見ると、彼女の赤い瞳がまっすぐとリシャルトの青い瞳に向けられていた。白い肌が際立つ赤い唇が、そっと開かれる。

「逃げますよ。今、過去を振り返っている暇はない」

 小麦色に染められた髪を波打たせて、彼女はあっさりと部屋の外に出た。リシャルトは一瞬だけためらったあと、彼女の後に続いた。ヴェルナーは部屋から出てこなかったが、パーシバルが後ろからついてくるのは気配で分かった。

 部屋の前はヴェルナーの計らいか、誰もいなかった。

 しかし今、少し冷静になって考えてみると、ベラとパーシバルはいったいどこから現れたのだろうか。ヴェルナーとともに来た様子ではなかった。そうなると、二人は追われながらも追っ手を振り切り、見張りを躱してここに来たことになる。

「どこに行くんだ?」

 ベラに続いて部屋を出ると、ベラが階段のある左手ではなく、なぜか壁しかない右側に歩き始めた。彼女は呼び止めたリシャルトに振り返ると、赤い唇の両端をにっと釣り上げて笑った。

 それは、リシャルトに対して初めて向けられた笑みだった。しかしその感慨に浸っている時間はなかった。

「兄上でも知らないことがあるんですね」

 そういって、次の瞬間ベラが壁にもたれかかったからだ。

「イザベラ!?」

 ベラが壁にもたれかかると同時に、彼女の体は壁に吸い込まれるようにして消えてしまった。

「大丈夫です。壁の向こう側にいますよ。壁に近づいてください、殿下」

 あまりのことに混乱していたリシャルトに、パーシバルがそう声をかけた。

 ゆっくりと壁に近づいて、手を触れる。するとパーシバルが隣に立ち、そして壁を勢いよく押した。

 壁に触れていた手が急に宙を切り、背中全体に何かが触れて体が前に放り出された。とっさに前に足を踏み出したおかげで転ぶことはなかったが、自分の置かれている状況を認識することはできなかった。

「ここ、は?」

 急に薄暗闇に放り込まれたため、目が慣れない。しかししばらくすると、仄かな明かりでも、ベラとパーシバルの顔が見えるようになった。

「秘密の通路です。ここから地下に降りて、城を抜けます」

「地下? まさか大河リーニュの下を抜ける気なのか?」

 リシャルトはこんな秘密通路があったことにも驚いていたが、ベラがことも無げに地下を通ると口にしたことに驚きを超えて呆れていた。

 大河リーニュは底なし川と呼ばれていて、太いくせに勢いがある川だ。それほど深いはずの川の下を抜けていけるような道が存在するはずがない。

「思い込みと慣習は、現実を見る目を失わせます。それに厳密に言えば、リーニュの横を走っていくだけです」

 きっぱりとそういったベラはおもむろに最新兵器ピストルを天井に向け、一発撃ち込んだ。轟音が閉鎖空間に鳴り響き、耳だけでなく頭をグラグラと揺さぶられたような気分になった。

 そしてその振動が収まりきらぬうちに、地面が大きく揺れだした。ぐらりと揺れた体制を整えるために、リシャルトは足に力を入れる。

 通路中に鳴り響く轟音。そしてその音とともに動き開いて行く石の壁。

 歯車の噛み合う音がどこかで鳴ると、先ほどまでの喧騒は嘘のようにピタリと止んだ。

「行きましょう」

 ベラはそういうと現れた螺旋階段を下り始めた。リシャルトも慌ててそれに続き、ベラの隣に並んで歩いた。

 螺旋階段は永遠に終わらないのではないかというほど先が見えず、薄暗い。しかしそれでもリシャルトは、何階分降りたかを数えながら歩いた。そして大体五階分降りたところで、ようやく終わりが見えた。

「……本当に地下なのか」

「そうですよ。まあ、厳密には、ここが地上だと思いますけど」

「どういうことだ?」

 階段を下りきると、今度はいやに広い空間に出た。しかもこれだけ広い場所であるのに、水の流れる音が空間に響きわたっている。

 リシャルトは思わずベラよりも前に出ると、遠くのほうに川があるのを見つけた。

「まさか……あれは、リーニュなのか?」

「おそらくは。兄上は城内を流れる大河リーニュの水量が少なすぎることを疑問に思ったことがありませんか?」

「つまり、城の西側にぶつかる前に、地中に切れ目が入っていて、それが下に、この場所に落ちている、と?」

「城の西側はもとの地形で、そこからはすべて、私たちが地上だと思っていたのは建物の屋上の部分だった、ということでしょうね」

 とんでもない仮説だ。リシャルトはそう思った。しかし残念ながら、ベラの言うことは筋が通っているし、目の前にある状況を上手に説明している。

「ただ、どうして今までこれが見つからなかったか、については不明です。この場所にいくには、二度、からくりを突破しなければいけないということもあるでしょうが」

「ここでは誰にもすれ違ったことがないのか?」

「はい。誰にも」

 自分たちが住んでいた場所が、地上ではなく巨大な建物の屋上だったといわれてもなかなかしっくりこない。それに、こんな建造物を建てる技術が、ヴェルテード王国建国当時から存在したというのも、リシャルトの中でまだ納得がいかぬ部分があった。

「地下を掘ってこの大空洞を作ったというよりは、地上の上に建物を建てたというほうが技術面でも納得できますよ」

 まるで心を読んだかのようなベラの言葉に、リシャルトはふっと口元を緩ませた。

「そうだな……。それにしてもイザベラ、今日は随分と……」

 愛想がいいんだな、といいかけて、止めた。この言葉で気分を害したベラが無表情で黙り込むのを避けたかったためだ。しかし意外にもベラは肩をすくめて、少しだけばつの悪そうな表情をして言った。

「愛想がいいっておっしゃりたいんですね? ……向き合うと決めたので、そうしているんですよ。ねえ、パーシバル?」

 ベラが歩きながら後ろを振り返ると、話を振られたパーシバルもまた、気まずげに視線をそらしながらコクコクと頷いた。


 そこから先は、逃亡中だとは思えないほど穏やかな時間だった。三人とも、あえて国王の死には触れず、ただ関係のないことを話していた。ひびの入った兄妹の関係を修復するには、こういう時間が必要だったのだと、リシャルトは改めて痛感していた。

 しばらく歩いたあと、再び仕掛けを作動させることで階段が現れ、三人はそこを登っていく。階段を登り切ると、パーシバルがさっと前に進み出て、そっと外へつながる扉を開けた。

 彼が扉を開けた瞬間、地を鳴らす足音と、男たちの叫び声が聞こえた。それは血気にあふれていたが、無秩序ではない騒音。何かを誓う男の雄たけびだった。

 音のうねりに圧倒されていたリシャルトとベラは、パーシバルがためらわずに外に飛び出していったのを見た。そして慌てて彼の後ろについて外に出る。

 どこに出たのかと思えば、そこにあったのはオーシェルマン地区の街だ。大通りからは外れているようだが、まだまだ町の中心部で、田畑ではなく建物が並んでいる。 

 その建物の間にびっしりと並んでいるのが、あろうことかヴェルテード王国軍の兵士たちだった。中には正規軍ではないものまで混ざっている。しかし全員が訓練された戦闘員であり、きっちりと武装している。

 そして、その兵士たちの集まりを建物の中にいる町の人間が興味深げに見つめている。あるものは賛同して野次をとばし、あるものは不安げに目を伏せて。 


「リシャルト殿下が無罪であることは、エドガール・ヴェーダの名に懸けて、私が保証する!」


 騒ぎの中心にいる一人の男が、高らかに宣言した。彼の低いが張りのある声は、喧騒を切り裂き、一瞬にしてその場を黙らせる力があった。

「兄上。しばし人目を引きつけておいてください。私は王城奪還作戦に関して、ヴェーダ大将に話したいことがあります」

「待て、お前は戦いに参加する気か?」

 ベラが戦えることは承知していたが、リシャルトとしては彼女にはおとなしくしていてほしかった。戦いには危険がつきものだ。仕方がない場合を除いては、できるだけ妹には安全な場所にいてほしかったのだ。

「はい。私はルカーシュに聞きたいことがあるので」

「……ミル大佐のことだな?」

 リシャルトが限界まで声を低くして問えば、ベラが真剣な表情でうなずいた。彼女が外に出て何をしていたのか、リシャルトにはもうだいぶつかめていた。そしてあのルジェーナという少女が何者であるのかも。

  

 リシャルトは一度息を吸うと、人ごみをかき分けて、エドガールの元へと走った。途中まではどうにかして熱狂した兵士の間をくくっていたが、一人、また一人とリシャルトの登場に気が付く人間が現れると、道は自然と開かれた。

 道の先に待つエドガールが、驚いたような表情でそこにいる。

 すぐさまその隣に立つと、さっと一言だけ彼に伝えた。するとエドガールはうなずいて、ゆっくりとリシャルトから離れ人ごみに紛れてゆく。


「今、ヴェルテード王国は危機に瀕している!」


 リシャルトが声を張れば、その場は一瞬にして静まり返った。リシャルトの姿をこんなに間近で見たことのない民衆は、窓からほとんど身を乗り出すような形でリシャルトを見つめている。


「第二王子ルカーシュが、王位を恣にせんと企み、あろうことか国王を手にかけたからだ!」


 兵士たちはそれに同調するように声を上げたが、民たちはまだ納得していない様子だった。おそらく彼らが聞いた話は、まったく逆のものだったはずだ。


「私は先日、王家の全員が見守る中、陛下より、次期国王にと指名された! よって、私が陛下を殺す理由は、まったくと言ってよいほどない!」


 銀の髪の王子の言葉は、不思議なほどまっすぐと人々の心に届いた。


 彼の演説を横目で見ながらも、小麦色の美女はエドガールのそばにそっと立ち、これからどうするかについて伝えた。


 この日の様子は、後のヴェルテード王国に長く語り継がれることになる。

 これは民にとって、戦いの始まりの合図であった。

 短く、しかし劇的な継承権争い……あるいは血みどろの兄弟げんかとしての戦いの。 



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