あの香りを追いかけて②
ルッテンベルク通りから伸びる路地を、走る影が八つあった。
真昼間から帽子をかぶりその上からフードをかぶった怪しい五人組と、それをかなり離れたところから追いかける二人の女と一人の男である。
後ろから追いかける三人にはまったくもって五人組の姿は見えていない。しかしもし今、路地の真上からこの追いかけっこを見ている人がいればきっと感心しただろう。
追いかける三人は、五人の男たちが通った道を正確に再現している。それは必ずしもルッテンベルク通りに出る最短距離ではなかったものの、まるで逃げていく男たちが見えていたかのようにきっちりと同じ道を選んでいたのだった。
水路の多いこの街で、何度小さな橋を渡ったかわからなくなっていたころ。
「ねえ、どうしてさっき、飛び降りたの?」
前を走る薄紫色の髪の女を、一定の間隔で追いかけながら、赤色の瞳の女はそう問いかけた。隣を走る金髪の男は、一瞬ためらったあと、小さくつぶやいた。
「自分でも不思議だ」
冷静に判断すれば、イェンスの行動は矛盾している。ルジェーナが出てくるまではあの場では男たちに誘拐させて、応援を呼びつつあの男たちの行く末をつかもうとしていた。しかしルジェーナに剣が向けられたとき、最初に彼女と会ったときのような妙な苛立ちと、焦りがイェンスの中にまた生まれたのだった。
「! あら、そうなの」
二人とも走っている最中だったが、話したからといって息が荒くなるわけでもなく、平然としている。しかもベラは、イェンスの返答を聞いて、にっと口の端を釣り上げた。
「え……」
そんな話をしていると、前を走る女が急に立ち止まった。そのため後ろに続いていた二人も足を止める。
「ルジェーナ、どうしたの?」
名前を呼ばれたルジェーナは、淡い紫色の髪を振りながら後ろを向くと、前を指しながら言った。
「ここから香りがするんだけどね……」
「道がないわね」
ルジェーナが指した先には道はなく、ただレンガの壁があるだけだった。家の入り口は反対側にあるらしく、中に入ることもできない。
普通ならばルジェーナの”嗅覚”を疑うべきだ。しかしイェンスはすでにその嗅覚の鋭さは身をもって知っているために、目の前の出来事を冷静に分析することにした。
「ん……?」
少し壁に近づいてみると、壁の下のほうのいくつかのレンガだけが色が違うことに気づいた。上を見ると、レンガはどこも雨風などで汚れているのだが、上のほうに汚れが薄い部分がある。
イェンスはまずしゃがんで、色の違う足元のレンガを、持っていた短剣の柄で何度かたたいた。
「あら、抜け道がありそうね。音が違う」
これからイェンスが立ち上がって上のほうをたたこうとしていたら、耳のよいベラがあっさりとそう言った。
しかし一応自分でも確かめるために、イェンスは違う場所もたたいてみた。明らかに音が違うので、やはり最初にたたいたほうは、なんらかの仕掛けで開くようになっているということだ。イェンスはそう判断すると、短剣を懐に戻し、周りを見まわした。
崩れかけた箱や、さび付いた物干しざおが隅に放置されている。
「あれが仕掛けかな?」
ルジェーナはそういうと、さびついた物干しざおを手に取った。そしてさきほどイェンスも見つけていた、あの汚れの少ないレンガの部分を竿で思いっきりひっぱたく。
次の瞬間、がらがらという派手な音とともに、ルジェーナが立っていたあたりの床が動き始めた。
「きゃっ」
「ったく……」
イェンスはとっさにルジェーナの肩をつかみ、そのまま自分に引き寄せるようにして彼女を救い出す。
「これは……」
ルジェーナを抱き寄せた瞬間、甘い果物のような香りがイェンスの鼻孔をくすぐった。彼女の本職を考えれば、香水をつけていてもおかしくはない。しかしなぜかイェンスはその香りをかいだ瞬間に、ルジェーナではない、紫色の瞳をした女性の姿をふっと思い浮かべたのだった。
それが何か大切なことな気がして、イェンスはそれを問いかけようと腕の中にいるルジェーナを見た。
すると彼女もまた顔を思い切り上に向けてイェンスを見つめており、驚いたというかのように瞬きを繰り返している。
「ありがとう……あの、もう大丈夫」
「悪い」
決まりが悪くなったイェンスは、慌ててルジェーナを離した。かすかに残る彼女の柔らかい体の感触が、イェンスの腕に残っている。しかしそれを振り払うかのように首を振る。
「どうやら当たりだったみたいだな」
「そうね。ただ派手な音がしたから……」
ベラはそう言って、慎重に突然現れた地下への階段を見つめた。
鉄道などの交通網の整備こそ、他国に後れを取るヴェルテード王国だが、時計細工をはじめとした機械仕掛けの技術には非常に優れている。王都が作られた時にも、防衛上の工夫か、製作者のいたずらか、様々な仕掛けが街中にあるのだ。
だからこそ三人は特に驚くこともなく、その階段の出現を受け入れた。
「下の奴らが気づいた可能性はあるな」
イェンスはため息をつくと、ベラを追い越して階段を降りるために入り口に近づいた。
「……お前とそこのお嬢様はそこで待ってろ。そしてここまで応援を頼んでつれてきてくれ」
イェンスがそう言い残して階段を下りようとすると、後ろから思い切り腕をつかまれた。
ベラだ。
「そんな悠長に応援を待っていたら、あなたまでつかまるわよ!」
次にルジェーナが近づいてきて、その淡い紫色の瞳でまっすぐとイェンスを見て言った。
「そうだよ! 一人で入るなんて危ないよ!」
二人の足手まといを連れていく気にはなれない。そうイェンスは言いたかったが、この様子だとイェンスが二人を置いて入って行っても、勝手に後ろからついてきてしまうような気がした。それならば、目に届く範囲にいてくれたほうがまだマシかもしれない。
「危ないと思ったらすぐに逃げろ。そのまま捕まるくらいなら、逃げて応援を連れてきてくれたほうが百倍も助かる」
「ええ。わかってるわ」
「大丈夫! 気を付けるから!」
安請け合いする二人の服装をイェンスは見た。
ベラはやたらと音がなるヒールの靴に、ひざ下まである長めのスカートとブラウス。
ルジェーナは黒く裾が少し長めのシャツに、かなり丈の短い白いズボン。黒いタイツにひざ下のブーツを履いている。ピンヒールではないものの踵は高く音は鳴るタイプだ。
二人とも動きやすいとは言い難い格好だ。ルジェーナはともかく、ベラにいたってはヒールの靴にスカートである。
「音、鳴らさないように気を付けろよ」
イェンスがそう念を押せば、二人は自分の足元を見た。そして二人そろってお互いの顔を見る。
自分の服装が追跡には不向きだと今更気づいた二人だったが、ここで引くわけにはいかなかった。
「ダイジョウブよ」
「うん。きっとダイジョウブ」
「二人とも片言になってるぞ」
イェンスがあきれた口調で突っ込むが、二人ともこのくらいの言葉で引く気はない。
「あ、先頭を行くなら、これ、使いなさい」
ベラがそういうと同時に、イェンスに筒状の何かを放り投げた。
「なんだ?」
イェンスがそれを受け取ると、その筒は思った以上に重い。ふと筒の先を見ると、ガス灯の外側に使われているような丸いガラスが取り付けられていた。
「それ、その手に持ってるほうをひねってみて」
「こうか……? って、これは!」
イェンスが言われたとおりにひねると、ガラスの奥からまばゆい光が走る。
「小型のガス灯だと思ってくれればいいわ」
「小型のガス灯って……お前、これは間違いなく最新型だろう? イーグルトンの娘だって所持できるかどうか……」
街灯としてガス灯は使用されているが、室内灯としては普及していない。換気が必要だということもあるが、一番はガス灯を小型化する技術が足りないことなのだ。小さくすることはできても、照度を保つことができない。照度を保てば、室内に置くには小さすぎる。
しかしこの筒上の灯りは、その問題をクリアしていた。小さいうえにかなり明るいし、しかもこれが灯りだと考えるならば、相当軽い。
この灯りは、誘拐されたスカーレットの持っていた腕時計より、間違いなく希少性は高い。つまり価値も高い。
「そもそもこれ、どうやって着火しているんだ?」
「んーそれはそうね、不思議な力よ。摩訶不思議な力。それよりも中を確かめたほうがいいわ」
ベラは説明する気にはなれなかった。厳密にはガスではなく電池を使っているのだが、その最先端技術を説明するには相当な時間を要する。
イェンスもベラが説明する気がないことを見て取ると、それ以上の追及をあきらめた。そしてこの便利な道具を使わないてはないと自分に言い聞かせると、現れたレンガの階段の奥をその灯りで照らした。しゃがみ込んで奥まで覗くが、人影はない。ただ、なぜか水の音がしているのがイェンスには気にかかった。
しかしそれ以上ここから眺めても意味がないと判断し、イェンスは筒をもう一度ひねった。
すると灯りがすっと消えた。
「ありがとう」
イェンスはおそらく非常に高価なそれをベラに丁重に返す。
「まだ持ってていいのに」
もし壊したら明らかに弁償不可能な代物を持っていては、他への注意力が落ちる。
「遠慮する」
だからイェンスはベラの提案を即座に断り、もう一度入り口と向き合った。
入り口が狭い上に天井は地面と同じ高さにあるため、イェンスは崩れたレンガの壁の端をつかみ、体だけをまずは下に滑り込ませた。そしてそのあと、手を伸ばしたまま頭もつっこみ、そのあと手を放して進んでいく。
中は薄暗いものの、覚悟していたよりは明るく、照明もついている。道幅は狭く、両手を広げたら壁に手が付きそうなほどしかない。
空気もよどんでいる感じがない。つまりかなり距離が短い地下道のようだ。
この先はまた違う場所につながっている通路であって、男たちの根城そのものではないかもしれない。イェンスはひとまずそう判断した。
ようやくまっすぐに立てるほどの場所まで階段を下りると、イェンスは足音を立てないように、しかし極力素早く下に降りてゆく。
思った通りここはただの地下だった。そしていやに床が明るいと思ったら、廊下の右側には窓がある。しかもそれは足元にかなり近いところである。
突き当たりもかすかに見えているし、隠れる場所もないので、ここにいるのはイェンスだけであることは間違いない。
「……窓?」
ここまで考えて、イェンスは違和感に気づいた。
ここは地下であるはずだ。
しかし窓がある。しかもそこからぼんやりと光が差し込んでいるのだ。空気がよどんでいないのも、窓のおかげだ。
「あれ、どうして?」
小さな声が地下道に響いた。しかし窓があって音が抜けることと、外から聞こえる水音によって、その声はあまり響かなかった。
先に降りてきたのはルジェーナだ。彼女はイェンスのすぐ後ろに立つと、やはりイェンスと同じ疑問を持ったのだった。
「ここって地下じゃなかった?」
「ルッテンベルクの北東部には滝がある。つまりかなり急な勾配があるということだ。そうなると、ここは地下通路ではなくて、純粋に地形に沿って作られた通路なのかもしれない」
「ああ、じゃあここは滝の下につながってるってこと?」
「ああ……おそらくは。ただ外に出てみないと実際はわからないが」
イェンスはそういうと、足もとにある窓を覗いた。すると、薄い水の膜の向こう側に大きな湖が見える。
「ここは滝の裏側なのか……。いや、まてよ……?」
水音の疑問は解決したが、ここが滝の裏側だとすると、一つの大きな疑問が浮かび上がってくる。
しかしそれが形になる前に、なるほど、という声によって思考は霧散した。
「方角を確かめてくるんだったわね」
ヒールの音を隠しもせずに降りてきたベラは、声のトーンも落とさずに言った。
そして、彼女もまた窓をのぞき込み、そして小さく息をのむ。
「どうしたの?」
何も気づいていないルジェーナは、ベラにそう問いかけたが、彼女は何度か瞬きをしたあと、ふっと笑って言った。
「きれいだなって思ってね。滝の裏側みたいだから」
「え、私も見たい!」
ルジェーナは無邪気にそういうと、しゃがんで窓をのぞきこむ。
「わあ……きれいね。滝の水も薄いヴェールみたいだし」
ルジェーナがそう言って喜んでいる間に、イェンスは入口を閉じる方法を探した。これは迂闊に放置しておくと大問題になる。
注意してみないと気づけないような仕掛けにはなっているが、入り口が開いたままでは、ふらりと入ってきてしまう人間も必ずでてくる。
しかしイェンスはある理由から、それを阻止しなければいけないと考えていたのだった。
そしてそれはどうやらベラも同じだったらしい。彼女は先ほどイェンスに使わせた小型のガス灯を持ち出し、薄暗い照明のある天井を明るく照らし出した。
「左上だ!」
彼女が一瞬だけ照らした場所にひっかかりを覚え、イェンスは思わずそう叫ぶ。するとその声に合わせて、彼女が光をそらし、壁の一部を照らし出す。
「そこにあったのね」
天井の近くの壁に一つだけ色の違うレンガがある。こうして明るく照らせばわかるが、そうでなければ発見できないだろう。
「かなり高い場所ね」
「ほんとだ、かなり高い」
ベラとルジェーナとしては、あの高い位置にあるレンガを押すことは難しいと感じていた。だからこそベラは奥の手として、自らのスカートのすそをつかみ、自分の太ももへと手を伸ばし始めていたし、ルジェーナは一度外に出て、さきほど使った棒を取ってこようと階段へ近寄りかけていた。
しかしただ一人、それを無理だとは思わなかった人間がいた。
「もう少し入り口側によって、そっちから照らせるか? 二人ともできるだけ入り口側に寄っててほしい」
「照らせるけど……」
ベラは太ももに伸ばした手を戻し、言われた通りに動く。
「よし」
イェンスは一度息を整えると、入口とは逆の方向に大きく下がった。そして、ベラが照らし出しているレンガを見つめ、そしてなぜか反対側の壁を向いて、思い切り走りだす。
そして壁にそのままぶつかる勢いで走り続けると、なんと壁を蹴り、数歩そのまま壁を斜めに走った。そして最後の一歩で大きく壁を蹴ると、頭が下に、足は天井につき、まるで天と地がさかさまになったかのような状態になる。
しかしその状態で静止できるはずもなく、次の瞬間には頭から落ちていく。しかしその落ちていく中で、その流れに反して上半身を起こし、頭を先ほどまで足があった方向に向けた。そしてその流れの中で、ベラが照らすレンガを、足で正確にを蹴って仕掛けを作動させる。
その直後に起こった揺れに動じることもなく、イェンスは最後にもう一度、壁を蹴ると、両足でさっと床に着地した。
「あり得ない……」
「びっくり……」
目の前で起こった出来事にまだ呆然としている二人をよそに、イェンスはさっと入り口のほうに視線をやる。
振動はようやく収まり、さきほどよりも通路の照度が落ちた。階段の上にぴったりとふたをするように天井が現れている。
「作動したみたいだな」
「作動したみたいだな、じゃないわよ。あなたどんな身体能力してるわけ?」
まるで雨が降ってきた、ぐらいにあっさりと言ったイェンスに、ベラはいらだちを隠さずに突っかかった。
「これだけ狭い通路だからできただけだ。それにこれくらいなら、うちの頑固親父でもできるだろうからな」
「あなたの家族がおかしいのよ、それ」
「小型のガス灯を所持できるような超お嬢様に言われたくないね」
「まあまあ、二人とも同じくらい普通じゃないと思うよ……」
ルジェーナが素直に意見を述べると――
「ルジェーナの嗅覚のほうが普通じゃないわ!」
「お前の嗅覚のほうが普通じゃない!」
――二人から同時に反論が返ってきた。
「わあ、息ぴったり」
ルジェーナの言葉の後、一度全員で黙り込んだあと、しばらくして一斉に噴出した。
イェンスはルジェーナもベラも信用していなかったはずなのに、ずいぶんと心を許してしまったことに今更ながら気づく。
「そういえば、出るときはどうするつもり?」
「あれだと思うよ」
ルジェーナが指したのは、イェンスが叩いたのと反対側の壁である。先ほどまではなかったレンガの出っ張りがあるため、そこで間違いはないだろう。しかもその仕掛けは、ルジェーナでも押せるくらいの低い位置にある。
「行こう」
イェンスはそういうと、通路の反対側まで歩いていく。窓から聞こえる一定の水音を聞きながら、イェンスは突き当りまで歩き、あたりを見回した。
「それね」
後ろからきたベラが、イェンスの背中側の壁を指した。今度は色が違うのではなく、一つだけレンガがかすかに飛び出している。
とはいえ、仕組み自体は入ってきた方と同じだろう。イェンスはその仕掛けを作動させようとして、手を止めて一度振り返った。
「二人は離れててくれ」
「分かったわ」
ルジェーナとベラが下がったのを見届けてから、イェンスは一度息を整える。
イェンスの予想が当たっているならば、この先には下に降りるための階段があるだけのはずである。しかしあの男たちの根城に直通の可能性もある以上、うかつに動くことは許されない。
念のために今度は短剣をさやから抜き、その柄で仕掛けを押し込んだ。
すると再び轟音とともにレンガが動き入り口が作られていく。さきほどよりも強い振動に耐えながらじっと待っていると、開けた入り口の先に倒れている人の姿が見えた。
「タチアナさん!」
ルジェーナはそう叫ぶとともに、イェンスが止める間もなく入り口から飛び出して行った。