第三妃クレマチスの恋
「報告ありがとう」
そう言った少女の表情は硬かった。礼を言われた男はすっと頭を下げてその場を去ってゆく。茶色みがかった銀の髪の少女はその場を離れ、ある一室を目指した。
部屋に入ると、そこで待っていたのはこの国の第三妃クレマチスだ。彼女は娘の帰りに気が付くと、笑顔を浮かべ、そして娘の表情を見て笑顔を消した。
「ヴィクトリア、どうしたの?」
「お母さま……お父様が、亡くなったわ」
「そんな! まさか、ルカーシュが?」
「……ええ」
クレマチスは悲し気な表情を見せたヴィクトリアを見ながら、何かを考えるように腕を組んだ。部屋には彼女たち二人と、古参の侍女二人しかいない。
「“彼”は、どうして先に教えてくれなかったのかしら……」
「問い詰めても、こっそりと抜け出す隙がなかったとしか」
「そう……私……」
クレマチスは六年前のことを思い出して、ギュッと胸元を掴んだ。
六年前に感じた喪失感と比べれば、国王を、自分の夫を亡くした悲しみは随分と小さなものだった。
「私は妃失格ね……」
クレマチスが小さく呟くと、ヴィクトリアは少しだけ何かを言いたそうに口を開きかけた。しかしゆっくりとかぶりを振ると、黄玉色の目を向けて言った。
「リシャルトお兄様が濡れ衣を着せられているみたい」
「なんですって!?」
ヴィクトリアかもたらした情報は、クレマチスを大いに驚かせた。
「あの子が罠にはまったの?」
「驚くべきことに、そのようだわ」
ヴィクトリアの言葉を受けて、クレマチスはしばし考えた。
「捕まえるには、それなりに証拠が必要よね? 計画について“彼”は何か?」
「どうやらブローム侯爵を利用したみたい。彼が目撃したからこそ、リシャルトお兄様は疑われているの。次期国王に指名されたのにお父様を殺すなんておかしいけれど、ブローム侯爵の証言は、そんな考えも覆すほどの力がある」
ブローム侯爵は実直で誠実で、そして曲がった事が嫌いな人間だった。彼は自分の目で見たものを信じる。どんな虚像を見せられたのかは知らないが、彼はルカーシュの嘘に気がつかなかったのだろう。
「軍上層部と上位貴族を集めて、審議が行われているようよ。ブローム侯爵が証言するなら、下手をすればリシャルトお兄様の極刑が成立しかねない……」
「おそらくヴェーダ家を筆頭に、軍上層部は抵抗を見せるはず。リシャルトは軍人として優れていたし、きちんと信頼されていたもの」
「お母様……私はどうするべきかしら……」
クレマチスはルカーシュに”借り”を返す必要があった。そのためには、リシャルトに国王になってもらわなければならないのだ。
ぎゅっと掌をきつく握りしめると、クレマチスは硬い口調で言った。
「彼を殺したルカーシュを許せない……。その気持ちは変わらないわ。だからこそ、私は、リシャルトを助けるために動く」
キッパリとした口調に、ヴィクトリアは複雑そうな表情をした。ヴィクトリアには、クレマチスの口にした彼、という言葉が指すのが、国王ではないことが分かっていたからだ。
「ミル大佐のこと……ね?」
そうやってためらいがちに投げられた問いに、クレマチスははっと気がついて、慌てて言った。
「確かに、そうよ。でも聞いて。私はあなたを愛してる。少なくともかつての淡い恋より、はるかに強い気持ちで」
黄玉色の瞳が見開かれ、硬い表情が少しだけほぐれて行く。
「分かってる。お母様の愛を、疑ってはないの」
クレマチスがミル大佐へのかつての恋慕を語ったのは、六年前のことだった。アルナウト・ミルの死を悼んで泣いていたところをヴィクトリアに見られたのだ。
「私たちの間には何もなかった。ミル大佐は私と話したことすら忘れていたかもしれない。静かに見つめるだけで幸せだった。静かな愛は、ヴィクトリアが生まれたことで、本当に薄れていたの。忘れていたのよ」
ミル大佐を殺したのがユリアでないことは分かっていた。クレマチスはミル大佐とユリアを殺した人間を探していた。
もし“彼”に出会わなければ、今でも真相には辿り着いていなかったかもしれない。
「とにかく、私はイザベラの元へ行くわ。あの子とリシャルトの二人を逃がさなければ、ルカーシュの計画を止めることはできない」
「イザベラお姉様の元ですか?」
「ええ。イザベラも排除しなければ、ルカーシュが王位に就くのに、彼女は障害になる恐れがあるもの」
「それなら、私が行きます」
ヴィクトリアははっきりと、そして、これは譲れないとばかりに強い口調で言った。
「私の方が何をしても怪しまれないはず」
「ばれたら、死ぬかもしれないわ!」
「そうなったら、親娘二人で逃げるしかないかもね」
クレマチスの心配をよそに、ヴィクトリアは冗談っぽく笑うと、肩をすくめた。
「正当な次の国王はリシャルトお兄様よ。それに、私たちが何もしなければ、無茶をする人間が増える。王族の責務として、この後継者争いに一般人を巻き込んではいけないわ」
淡い紫の髪の女性と、金髪の青年の顔が、クレマチスの脳裏に浮かんだ。あの二人はきっと、この事態を知れば王宮に駆けつけるだろう。そして迷いなくリシャルトに手を貸すに違いない。
アルナウトの面影を残す彼女を、クレマチスはどうしても守りたいと思っていた。
しかし実際に娘の命と天秤にかけるとなると、話は別である。
「私がやる。あなたは深く関わってはだめ。あなたを失うわけにはいかない。それに、あなたはこの国の王女で、リシャルトに子どもが生まれるまでは王位継承権を持っているのだから」
危ないことをさせてきた自覚はある。本当に安全な場所に置いておきたいのならば、娘に昔の恋心など打ちあけるべきではなかったのだ。しかし、あからさまにルカーシュに楯突くのは、こっそり裏で動くよりも遥かに危険性が高い。
クレマチスの決意は固いはずだった。目の前にいる娘が突然、ふふっと声をあげて笑い出すまでは。
ヴィクトリアは堪えきれないとばかりに笑い続けると、あっけにとられて何も言えないクレマチスに一歩近づいた。
「それだけでいい。引き止めてくれてありがとう。お母様が認めてくれるなら、私はやっぱり、王女として、この国のために動くから」
「ヴィクトリア……?」
「イザベラお姉様の元へ行きます。そしてリシャルトお兄様も助けてくるから」
ヴィクトリアの決意は固かった。彼女はそういうと、すっとクレマチスに背を向けて、部屋を出て行く。
クレマチスは娘の言葉の意味を飲み込みきれず、ただその場に突っ立っている。
部屋の中でずっと控えていた、クレマチスがクレマチスの名前を与えられる前から仕える侍女は、少しだけ呆れたような顔をして、クレマチスに一歩だけ歩み寄る。
「どうしてお笑いになったのか、お分かりにならないのですか?」
「あなたは分かるの?」
「分かります。安心されたのでしょう。ミーシャ様……クレマチス妃殿下が、昔の思い人の娘より、自分と陛下との娘を尊重されたことを」
「当たり前じゃない。今の私には、あの子以上のものはない。かつてのアルナウトへの恋心さえ、この思いを越えはしない」
「当たり前だとは思えないでしょう。六年前、ずっと泣いて恨みつらみをおっしゃっていたのですから」
クレマチスより十歳も年上の侍女は、子どもに言い聞かせるような口調でそういった。
「でも……私はずっと言葉にしてきたわ」
「嘘がお上手だと思われているのですよ。思い人がいながら、上手に第三妃のお役目を果たされてきたのですから」
ひどい言われようだ。クレマチスはそう思った。しかしクレマチスには否定できない。自分が嘘つきである自覚はしている。人を煙に巻くのが好きなことも。
「あの子は、娘だけど……王女なのね」
「ご立派です。多少、ミーシャ様のような悪癖もお持ちでいらっしゃいますけども」
「私の娘だもの」
ヴィクトリアが王女としての役目を果たすのならば、クレマチスにもやらねばならないことがある。
「ねえ、イザベラの侍女たちを、城勤めをまだ希望するようならその子たち全員引き取ってきて」
「……理由はいかがされますか?」
「イザベラの失踪の後でいいわ。手だけ回しておいて」
クレマチスはそういうと、もう微かにしか思い出せない彼の笑顔を思い返した。
するとおぼろげな彼の輪郭は、違う人物の顔と重なって、少しずつくっきりしたものになってゆく。
夫の顔だ、そう思ったクレマチスの頬に、一筋の涙が伝う。
燃えるような愛がなくとも、夫として、国王として、尊敬と穏やかな親愛は着実にクレマチスの中に育っていたようだ。
「全く情なんてないと、思っていたのに……」
唇を噛み締めると、かすかに血の味が口内に広がった。




