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イェンスとルジェーナ  作者: 如月あい
六章 愛と憎しみが牙をむく

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血濡れた手

 血濡れた手は、既に乾き始めている。完全に乾いてしまえば、永遠に落とすことのできない赤になりそうで、気持ちが急く。

 第二王子が全力で走る必要性に迫られるのは、滅多にないことだ。しかしルカーシュは走らなければならなかった。

 ヴェルテード王宮内で、おそらく自分しか知らぬであろう秘密通路を駆け抜けながら、高揚感と焦燥、そして意外なことに、喪失感に苛まれている自分に気がついていた。

 どうしても自分で手を下さなければいけなかった。たとえリスクを冒しても、ルカーシュは自ら殺すことにこだわった。

 それが原因で、ルカーシュは走っている。

 そして長い長い通路の終わりまでたどりつくと、自分の腹心の部下がそこに待っていた。水の張られた桶を持っている。

「これですすいでください」

 ルカーシュは差し出された桶に手を入れると、無心で血を落とした。桶の茶色を映していた水は、あっという間に赤く染まってゆく。手からは血が落ちたというのに、ルカーシュの手に残る気持ち悪さは全く消えなかった。

 しかし彼には時間がない。今すぐに計画を実行する必要があった。

「ヴェルナー」

「これを」

 ルカーシュは手をタオルでふくと、汚れた服を素早く着替えた。そして一度、ヴェルナーの顔を見る。

 そして何を言うでもなしに、ルカーシュはふっと笑みを浮かべた。しかし彼は喜びというよりは、どこか狂気を瞳に宿している。彼は不安定だった。

「殿下……?」

「……行こう」

 いぶかしげなヴェルナーの問いかけに、ルカーシュは頭を振った。頭を動かしたらすっきりするかと思ったが、余計にぐらぐらと視界が揺れるだけだった。

 しかしどれだけ体調が悪かろうが、ルカーシュにはやらねばならないことがあった。

 そっと秘密通路から抜け出すと、ルカーシュの近衛達と侍女が一人待っていた。

 待っていたその侍女に、ヴェルナーが一言だけ囁いた。それだけで侍女は幸せそうな表情をして、その場を去っていく。

 二人は予定通り、王宮の廊下を歩いた。すると、これまた予定通り、一人の貴族とすれ違う。彼は別段ルカーシュと親しくはなかった。だからこそ彼は型通りの挨拶をしてその場を去ろうとした。


「ブローム侯爵」

「……はい」

「一つ、頼まれてほしいんだ」


 王位を得られなかった哀れな王子の頼みとはなんであるか、ブローム侯爵はあからさまに警戒の色を見せていた。しかしルカーシュはそんな彼を安心させるように穏やかに微笑むと、大したことじゃない、と前置きした。


「父上と話がしたいのだけれど……今、私が父上の元を訪れると誤解する人間が多くいるだろう。兄上に迷惑をかけないためにも、私が父上と話す内容が”王位”に関することではないと証言してほしい」

 ブローム侯爵はしばらく考えていたようだったが、ルカーシュの話に矛盾はないと思ったようだった。

「御意」

 彼はそう答え、ルカーシュは微笑んでうなずいた。そしてヴェルナーに言う。

「先触れを頼む」

「御意」

 これも計画のうちである。どうしても、リシャルト派でもルカーシュ派でもない中立の人間の証言がほしかったのだ。

 そしてそれを成功させるために、ヴェルナーが一枚かんでいる。彼の後姿を見送って、ルカーシュはあらかじめ決めていた時間、そこで待った。

 そしてそのあと、ルカーシュとブローム侯爵は、他の近衛とともに国王の私室へと向かっていく。普通ならばブローム侯爵が国王の私室に入ることはない。そのためか、彼は少し緊張している様子だった。 

 彼が緊張しているのは、好都合だった。ルカーシュも彼の比にならぬほど緊張していたからだ。

 ルカーシュの計画は驚くほどうまくいっていた。しかしながら、最後の仕上げが上手くいかなければ、すべては台無しだ。


「今、何か……」


 国王の私室の前に差し掛かった時、何か鈍い音がした。予定通りの音に、予定通りブローム侯爵が気が付いてくれた。

 ヴェルナーは上手くやったようだった。

 ルカーシュははやる心臓を押さえつけるかのように、ぐっと胸元の服をつかんだ後、真剣な表情を作ってブローム侯爵に言った。

「……何か、ものが落ちたのかもしれない」

「ものどころではないような……」

 ブローム侯爵はそういうと、行きましょう、と言って扉の前まで速足で近づいていく。扉がわずかに開いていて、ブローム侯爵は眉をひそめた。

 ルカーシュは少しためらうそぶりを見せたあと、扉を開こうととってに手を伸ばす。

 すると、扉が開き、中から人が一人出てきた。その人物はルカーシュを見つけると、なぜか安心したような表情で言った。

「ルカーシュ殿下、ブローム侯爵閣下! ご相談が……」

 国王の近衛の一人が戸惑うようにそう言った。

 隣にいるブローム侯爵は眉を顰めると、どうしたのかと尋ねる。

「実は……陛下の部屋から物音が聞こえたのですが……入っていいものか悩んでいるのです」

「どういうことだ?」

 ブローム侯爵がすっと眉をひそめて問い詰めた。彼はまさか目の前にいる近衛がルカーシュ側の人間だと思ってもみないだろう。これが予定調和だとは、決して思わないに違いない。

「陛下がリシャルト殿下を呼ぶように申し付けられて、その後、一人寝室に閉じこもられたのです。そしてリシャルト殿下以外は何人たりとも通すなと仰せられました。我々もこの応接間に集められ、隣の部屋は空室、そしてそのさらに奥の寝室に陛下がおられるのです。物音の少し前にリシャルト殿下が入っていかれたので、陛下がおひとりというわけではないのですが……」

「つまり、陛下は殿下と二人きりというわけか。ただそれが勅命なら、我らではどうにもできまい……」

 ブローム侯爵はちらりとルカーシュを見た。彼は善人だ。期待通りの人間だ。ルカーシュは歓喜に震える自分の体を抑えながら、極めて真面目な顔をして言った。

「僕と入ろう。もし何事もなければ、立ち入った非礼は僕が詫びる」

 ルカーシュはそう宣言すると、まずは応接間に入る。そこには国王に仕える者たちが揃って不安げに扉を見つめていた。

 ルカーシュは応接間の扉を開け、次の部屋に移ると、後ろからブローム侯爵が付いてきていることをさりげなく確認した。

 そしてその王の寝室につながる扉の前に立ち、ノックとほぼ同時に、ルカーシュはそれを開けた。

「父上? 物音がしましたが大丈夫ですか?」

 声をかけながら扉を大きく開ける。すると開けた視界に、二人の男の姿。


「陛下! なんということだ!」


 ブローム侯爵の声に、生きている男が勢いよく振り返った。彼の手には血の付いた短剣が握られている。

 青い瞳が、大きく見開かれていた。


「何をされているのですか!」


 ブローム侯爵は床に倒れる男に近寄ると、それが国王であり、すでに事切れていることを確認する。


「あに、うえ……?」

「違う! 私が来た時には、もう……!」

 リシャルトは首を振って否定するが、ブローム侯爵はその言葉を鵜呑みにはしなかった。彼はまず、窓を確かめた。部屋の内側から鍵がかかっており、犯人が逃げた形跡はない。

「ルカーシュ殿下。恐れながら、リシャルト殿下を一度拘束なさるべきです」

「ブローム侯爵! 私は陛下を殺してなどいない!」

 ブローム侯爵は公平な男だった。権力に屈せず、自分の目に映ったことを信じて検証する。

「いいですか、リシャルト殿下。私とて、殿下が陛下を殺めたと思いたくはありません。しかしこの部屋には殿下の他はおらず、殿下が来られる前に生きている陛下を、陛下の近衛や侍女が確認しています。これから他の部屋も捜索いたしますが、誰も出てこなかった場合、あなた以外に陛下を殺せる人間はいません」

「しかし!」

「……王子リシャルトを拘束しろ」

「ルカーシュ!」

 ルカーシュは銀色の髪の男と向かい合った。彼の青い目を見つめると、残念だという顔を作りながら言った。

「捜査が終わるまでは、拘束されていただきます。いいですね?」

「……わかった。私に犯行が可能だったのは、確かに事実だ」

 リシャルトがそういうと、ルカーシュと国王の近衛たちがリシャルトを拘束した。

「その短剣は置いていってください」

 ブローム侯爵がリシャルトにそう言った。すると彼は一瞬だけ躊躇った後、静かに床にそれを置いた。

 そして兵士に連れられて部屋を出て行く。

 ブローム侯爵はルカーシュを気遣わしげに見ると、この場の指揮をとって良いかと願い出た。

 任せるよ、とできるだけ疲れたような声を取り繕って言えば、ブローム侯爵はしっかりと頷いて、動き始めた。

 彼がテキパキと働く中、ルカーシュは仄暗い達成感に浸っていた。高揚。その言葉がただしい。しかし、どこか自分の中で釈然としない部分があることに、ルカーシュは苛立ってもいた。

 万事上手くいった。行きすぎるくらいに。

 しかし、手についた血の感覚は、まだ拭えず、不快感がこびりついて離れなかった。


「なぜ……」


 小さな本音がこぼれた。それは図らずしも、ブローム侯爵の勘違いを増大させたが、ルカーシュはそんなことにも気がつかなかったのだった。

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