あの香りを追いかけて①
朝いちばんの鐘が鳴る。
時計塔の鐘の音を聞きながら、非番だというのに軍服を着ているイェンスは、ルッテンベルク通りを歩いていた。
王城から数えて四番目の橋で寄合馬車を降りたところで、「イェンス!」と、まるで旧友にあったかのように声をかけてきた女がいた。
その名をベラという。小麦色の豊かな髪は平凡な色だが、彼女の白い肌に生える炎のような赤い色の瞳は目を引くものがある。
その話し方は少し高飛車ではあるものの、一つ一つのしぐさはかなり洗練されている。この国一番の大商家イーグルトンの娘にあっさりと喧嘩を売るところを見ても、実はこの女もかなり良い身分の女なのではとイェンスは疑っていた。
「約束を守って、来たのね」
「来い、と言われたんでね」
イェンスはぶっきらぼうにそういったが、ベラはまったく気にした様子はなく、明るく笑って言った。
「ふふ。その口調のほうがいいわ。腹の探り合いは嫌いなの」
すると何を言うでもなくベラはさっさと小道に入り、店へと向かい始める。彼女は今日はかなり踵の高い靴を履いていて、歩くたびに彼女の靴の音が響く。しかしその音が普通の靴とは違い、もっと固く高い音であることにイェンスはひっかかりを覚えていた。
「あっちじゃないのか?」
注意力が散漫だったせいか、香水屋に行くにしては遠回りな道をベラが選んだことに、すこし歩いてから気づく。
するとベラが上半身をひねってこちらを向いた。
「これであなたを呼んだ意味がわかるから、いいのよ」
どうやらベラは方向音痴ではなく、わかっていて選んでいるらしい。
赤い口紅を引いた唇をにっと釣り上げ、小麦色の髪をさっと片手でひとまとめにして左胸のほうに流す。そしてもういちど体を前に向けると、またヒールの音をたてて歩き始めた。
「呼んだ意味……?」
イェンスは意味が分からずにそうつぶやくが、ベラはまったく待ってはくれなかった。それに、イェンスはこの城下にあるこの街の街路地はだいたい把握しているが、香水屋にいくためには、どうしても同じ道を通る必要がある。あの店は路地の一番奥にあり、その店にたどり着くまでの直線の道の左側には建物が、右側には水路があることで、その道以外のルートからの侵入を不可能にしているためだ。
「本当にこの道で――」
「――静かに」
香水屋がある路地とは違う路地の突き当りで、ベラは突然足を止めた。そこにはほかの建物よりも一階分ほど低い建物がある。
そしてその突き当りに放置されている樽に近づくと、彼女は迷わずその上に足をかける。
「まさか……」
ベラのやりたいことを察してイェンスは息をのんだ。
「ついてきて。ここからは静かにね」
樽に足をかけたまま一度イェンスを見てそういうと、ベラは樽に両足を乗せたあとさらにもう一段樽に上り、屋根の端をつかんで勢いよくその上に飛び乗った。彼女のひざ下丈のスカートが翻り、鋭利なヒールが屋根に引っかかって音を鳴らす。
「おいおい……。本気なのか」
「早く上ってきて。私たちはいないことになってるんだから」
彼女の後ろから太陽光が差し込み、彼女の表情は見えない。しかしベラが屋根の上で立ってこちらをじっと見降ろしているというのはシルエットだけでもわかった。
イェンスは仕方ないと一度ため息をついたあと、樽を駆使してあっさりと屋根の上に上った。
「……ったく、おてんばなお嬢様だ」
小声で文句を言ったイェンスだったが、ベラはかなりの地獄耳で、その言葉を聞き逃したりはしなかった。
「どうしてお嬢様だと?」
ぞくりと背筋が凍るような声がベラから発せられる。
赤色の瞳が今までにない以上に鋭い眼光を伴ってイェンスを射抜く。思わず息をのんだイェンスは、彼女の人を威圧する雰囲気にのまれぬようにかすかに視線をそらして言った。
「仕草に品があるし、イーグルトンに喧嘩を売れるなら、イーグルトンが何かを知らない無知な奴か、自分自身がイーグルトンに並ぶ何かなのかだと考えるだろ?」
「ああ……そういうこと」
イェンスが自分の推測を話すと、ベラは納得したようにうなずいた。そして先ほどまでの冷たい雰囲気を消し去り、屋根の上を歩き始める。
このような歩きにくい場所を動くのに、彼女がどうしてヒールを選んだのかは男のイェンスには理解が及ばないところだった。
彼女はその靴を脱ぐそぶりは見せないが、足音が立たないように慎重に歩いている。
屋根の上を歩くというのはイェンスにとって初めての経験だったが、案外悪くないものだ。風は気持ちがよいし、太陽はまったく何にさえぎられることなくイェンスを照らす。こっそりと行動するにはあまりにも吹き抜けすぎるが、ある一定の場所から死角になるという意味ではこの上なく条件がいい。
「それで、あの香水屋を見張ってどうする気なんだ?」
今、イェンスは屋根の上に這いつくばり、ベラは煙突の陰に身を潜めて香水屋の入り口をうかがっている。屋根の上を歩き始めた段階から、これが香水屋の入り口を見張るためだと気づいていたイェンスだったが、その理由はまだわかっていない。
「もうすぐ出てくるはずよ……ほら」
ベラが身をよじって煙突の陰から顔を出すと、香水屋の扉が開く音がした。古いのかきしんだ音を立てるのですぐにわかる。
「ありがとうございました!」
出てきたの見覚えのある少女、タチアナだ。
彼女は扉を開けたまま、中にいる人物に明るく礼を言うと、後ろ手で扉を閉める。右肩にはカバンを持っていて、おそらく例の香水はその中にあるのだろう。
そして彼女が店の前から駆け出そうとしたときだった。
「あなた、やっぱり香水を買ったのね」
「え? あ、はい」
タチアナの前に立ちふさがったのは、蜂蜜色の髪の女、つまりあのスカーレット・イーグルトンだ。
イェンスは万が一にもこちらの存在に気づかれぬように、腕の力だけで体を少し後ろにずらす。
ここからでは香水屋の入り口付近しか見えないが、スカーレットもその視野の範囲にいるので他の場所が見える必要はない。
「ベラ」
極力首を上げないようにしながら、指示を仰ぐために左側の煙突のほうを見ると、ベラがにっと笑って唇に人差し指を立てている。
つまりしばらくは様子見をしろということだ。
「出しなさい」
「え?」
タチアナは言われた言葉が呑み込めずに、思わず問い返した。スカーレットは、どんくさい女だというかのようにあきれた声で言った。
「あなたが買った香水よ」
腕を組みながら、スカーレットは話続ける。
「あなたみたいな人に、香水なんてふさわしくないわ。あの女、本当にいけ好かないし、自分が小麦色の髪でパッとしないからって、ひがんでるのね。でも、腕は確かだっていうんだから、そんな良い品物は、私みたいな女にこそふさわしいでしょう? だから早く出しなさい。あなたが払った十倍の値段で買ってあげるから」
イェンスは思わず顔をしかめた。そして同時にベラの意図を察した。おそらく彼女はこうなることを見越していて、スカーレットからタチアナを守るためにイェンスを借り出したのだ。
女のいさかいに巻き込まれるのは不本意だが、タチアナは全く関係ない一市民である。同じく一人の男としては、助けるべきだろう。
「そ、それはできません!」
「あら、十倍じゃ足りない? じゃあ、二十倍でもいいわ」
「そ、そういう問題じゃありません!」
「じゃあどういう問題なわけ!?」
震える声でタチアナがそう叫ぶと、スカーレットも負けじと甲高い声で叫んだ。
イェンスがそろそろ出ていこうかとうかがうと、ベラもつもりだったようだ。
ベラが立ち上がりかけることで、ヒールが一度、屋根を鳴らした。
そしてイェンスが二人から目を離し、起き上がろうと両手を勢いよくついた瞬間だった。
「きゃあぁ!」
「えっ! あぁぁぁ!」
二人分の悲鳴が、それもなぜかスカーレットの悲鳴が先に聞こえた。
イェンスは身を起こすのをやめて、そのまま屋根のヘリを腕でつかみ、体を引き寄せるようにして前に移動した。
まず初めに目に入ったのは、タチアナとスカーレットが折り重なるようにして倒れている姿だ。
次に、目深に帽子をかぶり、さらにフードをかぶって顔を隠した五人の男を確認し、彼らの内の二人が、タチアナとスカーレットをそれぞれ抱き上げた。
「これもお嬢様の予測のうちか?」
とっさに振り返りながらイェンスがそう問いかけると、ベラが慌てて首を横に振った。
「私はただ、イーグルトンの娘が来ると思っただけ。これは……まずい」
イェンスはすぐに視線を下に戻す。男たちは帽子にフードをかぶっているため、上方向に対する視界はすこぶる悪い。そのため見つかることはないと踏んで、イェンスは慎重に上体を起こした。
「一人で二人の人質をかばいながら五人を相手するのは分が悪いな」
ただ五人の男を捕まえるだけでなく、あの二人を取り戻さなければならないのだ。それも、極力けがをさせないように。
今ここで飛び降りていけば、片方は奪い返せるかもしれないが、二人を無傷で奪還は厳しいだろう。あるいは、誰かに足止めをされている間に、二人を抱えて残りの仲間が逃げてしまう危険性がある。
「私も数に入れてくれていいわ」
なぜか彼女はスカートの上から太ももを抑えるようにしながら言った。その行動が気になったものの、イェンスは首を横に振る。
「人質が増えるだけだ」
「そんなこと……って、うそ!」
きしみながら扉が開く音がした。
今、このタイミングであそこから出てくる人間は一人しかいない。
「何をしているんですか!?」
ルジェーナのまっすぐな声が響いた。
それに反応して、男たちのうちの一人がルジェーナに向かって走りながら剣を抜いた。
危ない。そう思うと同時に、イェンスは動いていた。
「待て!」
男たちの気をルジェーナからそらすべく、イェンスは思い切り叫んだ。そして勢いよく屋根から飛び降り、受け身をとって地面を転がりながらその勢いで立ち上がる。
女一人が相手だった時は、まっすぐに向かってきていた男も、さすがに軍人を前にしてやりあうつもりにはなれなかったと見える。
「逃げろ!」
ルジェーナに襲い掛かろうとしていた男はそう叫ぶと、剣をルジェーナに向かって投げつけた。イェンスはそれを左手を添えた剣で弾き飛ばしたが、男たちはすでに角をまがろうとしているところだった。
「まずいな」
この路地は入り組んでいて、一度見失うと見つけるのは難しい。
ベラに上から見てもらおうかとも思ったが、彼女はすでに両手で屋根のヘリをつかんで降りる態勢になっていた。慎重に体を下し、両腕が伸びきったところで手を離した。
足を落下点に近づけていたことで、彼女はまっすぐと地面に降り立った。しかし高いヒールが派手な音を立てたので、おそらく足にはかなりの衝撃があるはずだ。
「参った」
さすがにもう一度上れと言えるほど鬼ではない。イェンスは舌打ちをして、自らの金色の髪を掻きむしった。
「私がいれば追えるよ!」
するとルジェーナが堂々とそう言った。
「どういう意味だ?」
動きにキレがあるのは、先日の一件でわかっている。しかしルジェーナがあの男たちに追いつけるほどの脚力を持っているとはイェンスには思い難かった。
「ああ。そうだわ。彼女、持ってるものね」
ベラはすぐにルジェーナの言葉の意味を理解してうなずいた。ルジェーナは鍵をかけると、ベラとイェンスに向かって言う。
「行きましょう」
「行きましょうって……」
行き先がわからないから困っているというのに、ベラは自信満々にそういうと、ルジェーナの方を向いた。
「私にはわかるから」
ルジェーナが一度目を閉じ、そしてすっと前を向いた。
「タチアナさんにあげた香水が辿った道が」
「え?」
「だって私、調香師だよ」
長く柔らかいルジェーナの髪が、風に踊った。