過去語り編≪燃えた想い、蘇り、今≫
お父さんとお母さんがつけていた香水は、私が調香師を目指した一番の理由だったと思う。
お母さんは決してその作り方を教えてはくれなかった。調香を教えてくれたのはお母さんだったけれど、基本的なレシピ以外は、自分でがんばれとしか言わなかった。そしてお母さんはその香水を残してもくれなかった。
だからかな、私はそれを作るために、調香師になったのかもしれない。
お母さんは薬師だったから、むしろ薬師としての知識のほうがたくさん教わった。私は今、調香師として働いているけれど、薬師としても働けるぐらいの知識量はある自負があるの。
あれ、あんまり驚かないのね。そっか、イェンスはお母さんが薬師だったこと知ってるんだもんね。
そのお母さんが、連れていかれた日のことをまずは話すわ。
あの日は、お父さんの妹、つまり私の叔母に当たる人が家に来ていたの。
今思えば、あの日、お母さんはきっとこれからどうなるか全てわかっていたのかもしれない。
叔母さんは私の髪を黒く染めた。あの日は、ユリアとお揃いにしてみたかったのと言われたし、その瞬間は、私もそれを信じていたのよ。お父さんが亡くなってすぐだったから、とても気落ちしていたし、叔母さんの提案が私たちの気晴らしのためだと信じて疑わなかった。
三人でご飯を食べていたの。のんびりと。
お母さんは、いつものように支度した。
パンと、スープ。それから、香草で香りづけした魚。
特に豪華でもなければ、質素でもない食事だった。
ただ、食事を食べ始める前、お母さんは私の髪を梳きながら言ったの。
「こうしたら、私にそっくりね。それでも、目はアルナウトだわ」
懐かしそうに目を細めていうお母さんに、私は何も言えなかった。
お母さんはそのあと私をギュッと抱きしめて言った。
「ごめん。ごめんね、シルヴィア」
私はこの時、どうして謝られるのか分からなかった。お父さんを守れなくてなのか、それとも、お父さんの死から立ち直れなくてなのか。
まさか、私のために自分が捕まろうとしているなんて、思いもしなかった。
食事を食べて、まだ食べ終わらないうちに、急に家の中がうるさくなったの。それなりに大きな家だったから、使用人たちもいたけれど、それにしては不自然だった。
そうしたら、私たちがいた部屋の扉が乱暴に開けられて、甲冑をかぶった男たちが入ってきて、言ったの。
「ユリア・ミル。貴殿にアルナウト・ミル大佐の殺人容疑がかかっている。ご同行願おう」
私はびっくりして、意味が分からなかったの。でもお母さんはあっさり椅子から立ち上がって、パンパンと両手を払ったわ。
そして、男たちにあっさりと拘束されてしまった。
「何するの!? お母さんをどうする気!?」
私は怒ってお母さんを拘束した男に詰め寄ったわ。甲冑で顔は見えなかった。でも、男からは香水の移り香がしたの。スパイシーで、エキゾチック。そんな第一印象の。
そうだよ。その香りこそ、私が求めている香り。犯人につながると信じてる。
話を戻すと、私がそうやって詰め寄ると、その男は軍の正式な逮捕状を差し出したの。私はそれを見て、このまま連れて行かせてはいけないと思ったわ。
私はお母さんを守るために戦おうと思ったの。
そして、その香りがする男に攻撃しようとした時だった。
私は誰かの蹴りを受けてテーブルに激突する羽目になった。
イェンス、そんな顔しないで。そう、そうなの。私を蹴ったのはお母さんだったの。
「煩いわね」
お母さんがひどく冷めた口調でそう言った。私はその時叔母さんと目があって、小さく首を横に振られたの。
それで気づいた。ああ、お母さんは私を置いていってしまうんだって。
「ミル大佐のご息女に何てことを!」
「私の娘でもあるけど?」
一人の兵士の言葉に、お母さんはわるびれなく返した。私はまだ立ち直れていなくて、どうしたらいいか分からなくて、叔母さんをもう一回見たの。お母さんはもう、目すら合わせてくれなかったから。
そうしたら、叔母さんはお母さんに近づいて、そして怒った口調で言ったのよ。
「ユリア、まさかあなた……いつもこんな風にこの子に暴力を?」
「……私の教育方針に口出ししないでもらえますか、お義姉さん」
二人は見事な演技をしていて、甲冑の男たちは表情こそ見えなかったけれど、二人の茶番劇を信じているようだった。
「このっ……人殺しっ!」
叔母さんがそう叫んだ途端、お母さんは両脇を男たちに抱えられて外に連れ出されたの。
その時の叔母さんの表情も、お母さんの表情も、私は覚えていない。
「彼女の部屋も捜索させていただきます。案内していただけますか?」
「分かりました。こちらです」
叔母さんも部屋を出て行こうとして、ふと思いついたように私のほうを見たの。
「シルヴィア。もし食べられなかったら、片づけておいてくれる?」
私はどうして今、そんなことを言うのかわからなかったんだけど、とりあえず頷いた。
私は、もうただ泣いていた。お母さんが私を守るための嘘を壊せるほど、私は強くはなかった。それに、お母さんが濡れ衣を着せられて連れていかれたのが悔しくて、お母さんに巻き込んでもらえなかった自分が悔しくて。
私は泣きながら、おばさんに言われた通り食器を片づけ始めた。食べられる気はしなかった。そして片づけていたら、お母さんが使っていたお皿の下から、一枚の紙が出てきた。
それにはお母さんが作った香水がつけられていて、部屋を歩き回ってみると、スープを入れていた鍋の下からもかすかに香りがすることが分かった。厚手の布とスープ鍋の間に挟んであった紙は、スープ鍋の熱さで焦げてた。でも、お母さんの作った香水の香りがその紙からしたから、私はそれを開いた。
焦げてたから、実はあんまり読めなかった。
読めたのは数文字だけ。”殺された”、”ごめん”、”最愛のシルヴィアへ”。
お母さんは、なんていうか、ちょっと抜けたところがある人だったから、たぶん、紙が焦げることは想定外だったんだと思う。でも、殺されたという文字は、お父さんのことだと分かった。
そしてお母さんはお父さんについて何かを知って、こんな手紙を残したんだということも。
「ねえ、イェンス」
私はそう言いながら、懐に持っていた香水瓶を彼にかざして見せた。
「これ、クレマチス妃がくれたって言ったでしょう。私、とてもうれしかった。あのあと家中を探しても、香水瓶はおろか、使っていた香料さえなかったんだもの。たぶん、お母さんが意図的に捨てたんだわ。私への挑戦として」
イェンスの緑色の瞳がまっすぐに私に向けられた。そしてゆっくりと彼は口を開く。
「知りたいか? ユリアさんの……最期の言葉」
「……え?」
ざっと風が吹いて、私たちがもたれかっている木が葉を揺らし、ざわざわと音を立てる。私は散らばった自分の髪を手ですいた。心臓が早鐘を打っている。
イェンスは何を知っているというのか。私は知りたいような知りたくないような。そんな気持ちを抱えたまま、ゆっくりと頷いた。
「ニーヴェルゲン中尉に会ったことはあるよな? 彼は……ユリアさんの最期に予期せずに立ち会ったらしい」
ニーヴェルゲン中尉。イェンスと不審な行動をする男を追跡しようとしたとき、出会った軍人のことだ。短い髪で強面ながら、見た目を裏切って穏やかな声を持つ人だった。
「でもどうして? 処刑の時にいたの?」
私がそう問いかけると、イェンスはかすかにためらいを見せた。彼が何か黙ろうとしている。それも私が知りたい大切なことを。
「教えて。何を知ってるの?」
自分でも驚くほど鋭い声が出て、イェンスはその瞳の中に揺らぎを見せた。そしてある瞬間、意を決したかのようにこちらを向くと、イェンスは大きく息を吐き、そして吸った。
「ユリアさんは処刑されたんじゃない。捕まった直後に自殺したんだ。持っていた悪魔の滴で」
「そ……んな」
「捕まった日にシルの髪を染めさせたのは、彼女も娘も黒髪だという印象を与えて、お前を自由にするためだろう」
そこまで言われれば、私にもどうしてお母さんが自殺したのかが分かった。
お母さんは私を守るために死んだのだ。
彼女の髪が黒髪のままであるうちに。そして、本当の犯人への意趣返しとして悪魔の滴で殺害したのだろう。
もし、この話をほかの誰かが聞けば、さすがミル家、盾の家。そんな風にいって称賛される美談かもしれない。お母さんの命は私のために使われた。お母さんの命を盾にして、私の命を守った。
でも私は、ミル家として生きてきたというのに、その考え方を受け入れられない自分に気が付いていた。私はお母さんに一緒に生きてほしかった。あの場であの男たちに反撃して、私の手をとって逃げ出してほしかった。それがもし、どれだけつらい逃亡生活の始まりになろうとも、生きていてほしかった。
「シル……」
イェンスがそっと、私の頬に触れた。
あふれる涙を彼の親指がぬぐうけれど、私の涙は止まることなく流れ落ちてゆく。ずっと人前で泣くことなんてなかったのに、イェンスの前では止まらなかった。
「お母さんは……最期に何を言ったの?」
止まらないながらも、私は聞かなければならなかった。母の最期の言葉を。
お母さんが何を考え、自ら命を絶ったのか、私はどうしても知りたかった。
「ユリアさんは、『娘が真相を明かしてくれるわ。香りはすべてを教えてくれるのよ』そう、言い残して亡くなったらしい」
イェンスの口から語られたその言葉で、私は母の望みを知った。
ふっとお母さんの幻影が、イェンスの後ろに見えた気がした。不思議なことに、最後に蹴られたときのあの表情ではなくて、のんきに、幸せそうに笑っている顔だった。私の記憶の中のお母さんは、そういう人だった。
「真相を明かしてくれる……か」
どうやら私の行動はお母さんの意思に沿っていたらしい。いや、もしかすると、単に私とお母さんが似ているということなのかもしれない。
私は両親の死の真相を知りたかった。そしてできれば、お母さんの無実を証明して、お母さんの名前をミル家の墓に刻みたかった。
「香りは、すべてを教えてくれる……。いかにも言いそうだね、お母さん……」
涙が止まるまで、私はその場で泣いた。
イェンスは何も言わず、ただ私の背中をさすってくれていた。




