続きは言わないで
オーシェルマン地区の端にあるヴェーダ邸の近くにある森の中を、ルジェーナとイェンスは歩いていた。
今日は二人でエドガール・ヴェーダを訪れる予定だったのだが、彼が急に仕事で家に戻れなくなったとヴェーダの家についてから知らされたのだった。
そこで二人はエドガールへの訪問は日を改めることにして、ヴェーダ邸の近くを散歩することにした。
二人が歩くたびに落ち葉がさくさくと音を立てる。時折、二人の気配を感じてなのか、森の生き物ががさごそと動くが、危害を加えようと飛び出してくるものはない。静かな森の中を、自然の音に囲まれながら二人はひたすらに歩いていた。
「ここら辺でいいか」
ある程度歩いたところで、イェンスがそういってルジェーナを見た。
「そうだね」
森の中の少し開けて日が当たる場所で立ち止まると、一つの木に二人でもたれるようにして横並びに座る。風が冷たいが、しかし寒くて凍えるということはない気温だった。
「イェンス、私ね……」
木々の間から漏れる光の揺らぎを見つめているルジェーナは、ゆっくりとイェンスのほうに首を向けた。
その瞬間、イェンスはルジェーナが何を言い出すのか理解して、身構えた。しかしルジェーナの言葉を遮ることはしない。
「私は……シルヴィア・ソレイユ・ミル。ミル大佐の娘なの」
ざっと一陣の風がルジェーナの、否、シルヴィア・ソレイユ・ミルの淡い紫色の髪をさらった。風に舞ったその髪は乱れながらも、再び彼女の背中へと流れてゆく。
イェンスが無心で彼女に見とれている間、ルジェーナは不安でいっぱいだった。イェンスがどんな反応をするのか、それは一種の恐怖ですらあった。
「……知ってた」
小さな声は、森の中によく響いた。イェンスは仕方がないという表情をしながらもう一度はっきりとした声でルジェーナに言った。
「知ってたよ。お前がシルヴィアだって」
丸く大きな目が見開かれて、目の前にいるイェンスをルジェーナは茫然と見つめていた。彼女はまさかイェンスが知っているなどと思ってもいなかったのだった。
「どうして!」
彼女は最後まで疑問を口にしたりはしなかったが、イェンスは正確にその質問を理解して答えた。
「理由は二つある。一つはスカーレット嬢が口を滑らしたこと。もう一つは、俺がユリアさんのことを覚えていたってことだ」
スカーレットが口を滑らせた。それは、あり得そうな話だった。ただしルジェーナの母親とイェンスにつながりがあったとは知らず、ルジェーナは混乱した。イェンスとユリアがあったことがあるのならば、つまりそれはルジェーナとイェンスもはるか昔にあったことがあるということになり得る。
しかしそんなルジェーナの建てた仮説を、イェンスはすべて見通していたかのように否定した。
「俺とルジェーナ……いや、シルとは会ったことなかったよ。ユリアさんに会ったのは、本当に偶然のことだったからな」
「でもそれなら、どうして黙っていたの……?」
言ってくれればよかったのに。そういう意味も込めてルジェーナが尋ねると、イェンスはさっと視線をそらしてしまった。しかしそれでもあきらめずにルジェーナがじっとイェンスを見つめていると、彼はぐしゃぐしゃと自身の金色の髪をかき乱して言った。
「怖かったからだろうな」
「怖い?」
イェンスの本心を探ろうとしてか、ルジェーナはイェンスの緑色の瞳をじっとのぞき込んだ。ルジェーナは少し体を起こして前のめりになったために、無意識のうちにイェンスとかなり接近していた。イェンスはそのことに動揺して、しかしここで疑われるわけにはいかないと、目線をそらすことなく、言葉をつづける。
「もしお前が復讐のために、犯人を殺したいと言ったら……。そして、もし、復讐の手伝いをしてほしいと言ったら……俺は――」
「――断れる自信がなかった?」
言葉を引き継いで言ったルジェーナの言葉に、イェンスは小さくうなずいた。
両親が突然死んだことで、殺した相手を殺してやりたいと思ったことがないとはルジェーナには言えなかった。そのくらい犯人を憎んだこともあるし、だからこそ、ルジェーナは真実を探すために本名を捨てて、死んだ双子の妹の名前を借りることにした。
しかしながら、ルジェーナの中にあった怒りの矛先は、単純に犯人に向いているということもなかった。自らルジェーナを置いて死んでしまったユリアに対してもかなりの比率で怒りはあったし、そもそもどうしておとなしく殺されてしまったのかと父アルナウトにも怒りの感情はあった。
「でも、気づいたんだ。俺は、俺の正義に反することはしない。お前が望む”復讐”が、殺人へと変わってしまったら、俺は全力で止めるだろう。それは、正義感というよりはむしろ……」
「むしろ?」
問い返すと、イェンスの瞳にルジェーナの姿が映るくらいの距離で彼は囁いた。
「シルを犯罪者にはしたくない――」
ゆっくりとイェンスはルジェーナに近づいて、その紫色の髪にそっと触れた。意識的にイェンスが彼女に触れるのは初めてだった。
淡い紫色の瞳は限界まで開かれて、しかし、彼女はイェンスの手を拒むことはしない。
「――その気持ちだけで、俺はたぶん、お前を止められるだろうなって」
言葉をそこで一度切ると、髪に当てていた手をすっとそのまま背中に流し、そして、イェンスはルジェーナをそっと抱きしめた。
二人の鼓動の音が重なって、ほかの音は何も聞こえなくなる。お互いの体温、鼓動……研ぎ澄まされた神経が拾うのはたったそれだけだった。
ルジェーナをさらに抱き寄せたイェンスは、彼女の耳元に口元を寄せる。
「そのくらい、俺は――」
「――待って」
ルジェーナはイェンスの手を拒むことはなかったが、彼の言葉は遮った。彼女の中に流れるすべての血が沸騰してしまったのではないかと錯覚するほど、ルジェーナは体中が熱かった。
イェンスの言葉の続きを渇望する気持ちがなかったといえば嘘になることも、ルジェーナは自分でよくわかっていた。しかし彼女は、イェンスの腕の中でゆっくりと首を横に振った。
「言わないで。お願い」
イェンスはぴくりと体を震わせたあと、ゆっくりとルジェーナから離れた。そして彼女の気持ちを確かめるために、じっと目を見つめた。
「私はまだ、自分以上のものを持ちたくない。大切なものを増やしたら、弱くなってしまう」
じっと淡い紫色の瞳がイェンスを見つめて離さない。とらわれたイェンスは、しばらくの間身動きもできずにただ固まっていた。
しかししばらくすると、イェンスは少しだけほっとしたように微笑んだ。ルジェーナが、イェンスの気持ち自体を拒んだわけではないと分かったからだった。
イェンスはルジェーナから手を引いて、そのまま立ち上がった。
「じゃあ……大切な友のために、俺の正義のために、俺は動こう」
立ち上がったイェンスの表情は、地面に座っているルジェーナからは見ることができなかった。しかし彼の声が、思っていたよりも穏やかであることはルジェーナにも感じ取れた。
地面に手をつき、ゆっくりと立ち上がると、ルジェーナは懐から一つの小瓶を取り出した。そしてイェンスの正面に回り込むと、それをイェンスの顔の前で小さく振って見せた。
「それは?」
「クレマチス妃から頂いたの」
「クレマチス妃から?」
彼女の手の中にある瓶は、香水瓶だとイェンスにもわかった。それは薄く曇ってしまっていたが、華奢で洗練されたデザインの瓶だ。ルジェーナはその瓶のふたを開けると、それをイェンスの鼻先に近づけた。
その香りを吸い込んだ瞬間、イェンスはふとユリアとの出会った時のことを思い出した。
柔らかな髪が風に舞い、そっと彼女はイェンスの傷口に触れた。近づいてきた彼女から漂ってきた香りはイェンスを安心させる、そんな香り。
「これ……まさか……」
イェンスがその香水瓶を見つめながら言うと、ルジェーナはふっと笑って言った。
「ほかにも覚えていてくれる人がいるなんてね。ちょっと劣化してるけど……でも、これは間違いなくお母さんの香り」
「それをクレマチス妃が?」
どうして、そういう意味を込めてイェンスが問えば、ルジェーナは肩をすくめた。
「知らない。教えてくれなかったから。ただ……この香りをかいでいると、昔のことを思い出したの。薄れていた記憶も、ふっと戻ってきた気がして、不思議だね」
ルジェーナはそういうと、再び座って木にもたれかかった。そしてイェンスにも隣に座るように促した。イェンスは少しだけ悩んだあと、彼女の隣に腰を下ろす。
「過去の話……聞いてくれる?」
座ったイェンスを見つめてルジェーナがそう問えば、イェンスはうなずき、そして、何かを思い出したように口を開いた。
「一つだけ、聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
「その髪の色……北東部の異民族の血を引くからだと聞いた」
先日、ルジェーナの無実を証明してくれた青年は、ルジェーナよりももっと濃い紫色の髪を持っていた。彼もまた、北東部の異民族の血を引いていて、だからこそ、名前も普通とは少し違った。そしてそれよりもっと前には、ミーナが、ユリアの髪色が紫色だったという話をしてくれていた。そしてその段階でイェンスがその異民族に関して調べたところ、少し気になることが出てきたのだ。
「六年前の事件の直前、その一族の調査が行われている。担当者の名前をたどっていくと……どうやらルカーシュ殿下の差し金らしいことまでは分かった」
イェンスがそこまで言うと、ルジェーナは何かに気が付いたように小さく息をのんだ。そして、少しだけためらったのち、まっすぐにイェンスを見て言った。
「お母さんは、確かにオムニポテンスの出身よ」
「オムニポテンス?」
「北東部の異民族のこと。その一族がかつて使っていた言葉では、類稀なる能力という意味。私の名前のソレイユは太陽という意味があって、ルジェーナには、月という意味のリュヌという名前があるの」
そこまで聞いて、ふとアラムが言っていた言葉を思い出した。
「シルの呼名はソレイユってことか?」
「どうして呼名のことを知ってるの?」
「お前の無罪を証明するのを手伝ってくれたやつが、教えてくれた」
「名前は?」
ルジェーナに問い返され、イェンスは少しだけ言葉に詰まった。彼の名前はイェンスにとってすこし覚えにくかったのだ。しかし少し考えると、キチンと記憶はイェンスの頭の中にしまわれていた。
「アラム・アドハーブル・スコジェパ」
「スコジェパ!? その人、どんな人だった?」
イェンスがその言葉を発した瞬間、隣に座っていたルジェーナは、イェンスにのしかからんばかりの勢いで尋ねてきた。ルジェーナがどうしてそこまで必死になるかわからないイェンスは、首をかしげて、そして青年のことを思い出そうと試みた。
「歳は二十ぐらいで、髪の色は濃い紫色。顔立ちはわりと整ってたと思うが……髪色の印象に負けてあんまり覚えてないな。それと……字がすごくきれいだった。図ったかのように空白が均等で」
「二十……。アドハーブルという呼名……それに均等な文字……。その人はたぶん、私の従兄弟だと思う」
「従兄弟!?」
イェンスはもう一度青年の顔を思い出そうと試みた。しかしやはり濃い紫色の髪の印象に妨げられて、あまり顔は覚えていない。
「類稀なる能力という一族はね、感覚が非常に鋭敏な一族なの」
「感覚が……鋭敏。それってまさか……お前の嗅覚みたいな?」
イェンスの問いに、ルジェーナは正解とばかりにうなずいた。彼女の鋭すぎる嗅覚は、オムニポテンスの血を引くものである証拠といっていい。
そしてそうであるならば、イェンスは納得できることがいくつもあった。
「本来は、私みたいに片親が一族ではない人間だと、力は薄まるの。ただ……私は特殊で、普通よりむしろ強い力をもって生まれたみたいね。そして多分アラムは、視力がすごくいいんだと思う。だから、空間把握能力にも優れていて、字のバランスや余白も完璧なんだよ」
並外れた感覚をもつ一族類稀なる能力。
その一族に思いをはせたとき、イェンスの心の中には、何かひっかかりがあった。しかしそのイメージはその場では思い出すことができずに、ぱっと霧散してしまう。
「ねえ、イェンス」
「なんだ?」
「聞いてくれる? お母さんの出身のことも含めて……私の、昔の話。これを聞いたら……きっと、私の事情に大きく巻き込まれるけど」
その言葉は、奇しくもベラが口にしたモノと似通っていた。
イェンスはそのことに気がついて、ふっと小さな笑みを浮かべて、うなずいた。
「ある」
イェンスの即答にルジェーナは少しだけ驚いたように目を丸くして、そしてふっと彼女もまた微笑んで語り始めた。




