彼女にこの言葉を
ヴェルテード王国の王宮の一角で、第三妃と第五王女の目の前で、熱い抱擁を交わす二人がいた。
正確に言えば、男の方が一方的に抱きしめている。
彼は五秒ほどそうした後、はっと自分の状況に気づき、半ば飛び退るようにして彼女を離した。
「イェンス」
紫色の髪のルジェーナは、去っていく温もりを咄嗟に捕まえようと手を伸ばした。しかし、自分を興味深げに見つめるヴィクトリアと目が合ってしまい、すぐにその手を引っ込めた。
「来てくれて、ありがとう」
その代わりに、自分のために証人を見つけてここまでやってきてイェンスに礼を述べる。彼女は一つの決意を秘めていた。
その決意を秘めた晴れやかな笑顔は、イェンスの心を安心させるとともに、ぎゅっと締め付ける切なささえ心に残して行く。
イェンスはこれ以上、自分を騙し続けることはできないと悟っていた。
彼女が目の前にいて、自分が心から喜んでいて、深い絶望から解放されたことに気がつかないわけにはいかなかった。
「馬鹿。お前は事件に巻き込まれすぎ……」
しかし口から出てきたのはそんな言葉。
ベラとパーシバルの関係をもどかしく思っていたが、自分もさして変わらないなとイェンスは内心で苦笑した。
大切だからこそ、分からなくなる。考えすぎて素直になれなくて、でも愛おしい。
「知ってる。でも、ほら……」
ルジェーナは肩をすくめて両手を広げて見せた。
「無事だし、それに……イェンスが助けてくれるって信じてたよ」
溢れんばかりの笑顔が眩しくて、イェンスは目を細めた。
「……馬鹿」
イェンスはそうやって息を吐くと、今さらながらクレマチス妃に向き合い、そして礼をとった。
「顔をあげなさい。今さら礼なんて」
その言葉は穏やかだったが、どこか呆れが滲んでいる。イェンスは慌てて謝罪の言葉を口にする。
「申し訳ありません」
第三妃に対して礼を欠いていた自覚のあるイェンスは、深々と謝罪の言葉を述べる。これで許すかどうかは彼女の度量の広さ次第だ。
イェンスはごくりと唾を飲み込んで彼女の次の言葉を待った。
「もっと他に言葉があるでしょう?」
すると、クレマチス妃はクスクスと笑って首を傾げた。
一気に体から力が抜け、ホッと一息をつく。そしてイェンスはしばしその笑みの意味を考えた後、素直な気持ちを口にした。
「彼女のこと、助けてくださってありがとうございます」
イェンスがそう言うと、今度は合格と言わんばかりにクレマチス妃は頷いた。
「いいの。私が勝手にしたことだから。それより、早く行きなさい。別の罪状を捻出される前に」
「私が途中まで送っていきます」
イェンスとルジェーナは顔を見合わせ、二人でもう一度礼をとったあと、先導してくれるヴィクトリアの後に素直に従った。
二人が並んで歩く後ろからはヴィクトリアの近衛がついてくる。
イェンスは黙って歩き続ける中、ときおりルジェーナの方を見て、彼女が本当にそこにいるかを確かめた。
するとルジェーナと目が合い、お互いにはっとして視線を逸らす。しかしまた次に目があうと、ルジェーナが照れたようにはにかんだ。
王城の外門が見える所まで来ると、ヴィクトリアは立ち止まり、イェンスに後を託すと言って去って行く。
イェンスとルジェーナは二人で何も話さずに歩き、跳ね橋を渡る。
ルッテンベルクの大通りに出ると、寄り合馬車を使い、そして店につながる道の前で降りる。
二人はずっと無言だった。
お互いに、自分の気持ちと向き合い、どう言葉をかけるか悩んでいた。
しかし何を言って良いかわからず、結局店の前に来るまで二人は無言のままだった。
「戸締りはしっかりしろ。今日は店は開けるなよ」
店の前まで来ると、イェンスはそう言って、立ち止まった。ルジェーナは顔をあげ、何度か瞬きした。
大きな目の中に輝く紫色の瞳が、目の前にある緑色の瞳をじっと見つめる。そして、彼女の形の良い唇がすっと開けられた。
「イェンス。私、あなたに話さなきゃいけないことがあるの」
イェンスが自分の恋心を認めたのと同じく、ルジェーナもまた、イェンスを自分の事情に巻き込む覚悟を決めていた。
クレマチス妃と話して、余計に強くそう思ったのだった。
「話さなきゃいけないこと?」
「そう。長い話だから、イェンスの休みの日に、来てほしい」
二人はお互いに見つめ合い、そしてイェンスがふいとそれを逸らしてから言う。
「父さんにもう一度会いに行くとき、一緒に行く。その時でいいか?」
「あ、忘れてた……どうしよう! ごめんなさい!」
ルジェーナは、エドガールとの約束のためにオーシェルマンに行ったのだということを、今の今まで忘れていた。
真っ青になるルジェーナに、イェンスはふっと笑いながらぽんぽんと彼女の頭に手を置いていった。
「俺から言っておくから大丈夫だ。ほら、家に入れよ」
ルジェーナはイェンスの笑みに一瞬、見惚れた後、かすかに上がった体温を誤魔化すかのように首を振った。
「ルジェーナ?」
「なんでもない。ありがと、またね!」
ルジェーナはそういうと鍵を慌ただしく開けて店の中へ入って行く。
閉じられた扉を見つめたイェンスは、首を傾げて、そして王城へ向かった。
報告書を書くために王城に戻ると、ニーヴェルゲン中尉が跳ね橋付近でイェンスを待っていた。
「ニーヴェルゲン中尉」
「無事に会えたようですね」
「はい。ありがとうございました」
イェンスはそう礼を言うと、ふと、ニーヴェルゲン中尉が何かを言おうとしていることに気がついた。
「どうかしましたか?」
「先ほど、ヴェーダ大尉はおっしゃりましたね。ルジェーナさんは、あなたの大切な人だと」
「そうですが、それが何か?」
ニーヴェルゲン中尉は、いつもの穏やかな声で、しかし真剣な表情をして言った。
「彼女の母親の最期の言葉をお伝えしておきます」
「! 何を……」
「娘が真相を明かしてくれるわ。香りはすべて教えてくれるのよ」
強面の男の穏やかな声で語られたのは、女性口調の言葉。それは、記憶の片隅にあるユリアの話し方をイェンスに思い起こさせた。
「どうしてそれを……?」
「私が最期にあの方と話した男だからですよ」
ざっと一陣の風がイェンスの金色の髪を揺らした。木々がざわめき、風に負けた葉がひらひらと宙を舞う。
ニーヴェルゲン中尉の言葉は、まさに青天の霹靂といえるものだった。イェンスはしばし口を開けたり閉じたりしたあと、一つ尋ねる。
「彼女の処刑に立ち会ったということですか?」
イェンスは鎌をかけるためにあえてそう尋ねた。彼が何かの目的を持ってそんなことを言っているだけなら、その質問に頷くはずだった。
「いいえ」
しかしはっきりと否定の言葉が発せられ、彼は、少しだけイェンスに近づくと、小さな声でささやくようにいった。
「彼女の”自殺”に立ち会ったんですよ」
ユリアの死は処刑であったはずだ。彼女は殺されたことになっている。しかしどうしてニーヴェルゲン中尉がそれを知っているのか。そんな疑問に彼はすぐに答えてくれた。
「私がこうしてここにいるのは、あなたの父上のおかげです」
「父さんの……?」
「目撃してしまった私を逃してくれました。見なかったことにしろ、と。そうでなければ、私はここにいないでしょう。あなたの父君でさえも身動きの取れない大きな力が働いているのですから」
ここでイェンスは、父エドガールがどうしてユリアの死の真相について知っているかに思い当たった。
エドガールは間に合わなかったのだ。
「だから私は、彼女に着せられた濡れ衣を見逃すわけにはいかなかったんです」
「……ルジェーナ本人には?」
「私には、言う資格がありません。助けられなかったという意味では、私が実質的な死刑執行人だったのですから」
「つまり、私が伝えろと?」
「……言う必要があると思えば、お願いします。なければ、墓まで持って行ってください」
ニーヴェルゲン中尉は悲しげな表情をして、遠くを見つめた。
ゆったりと流れて行く雲が太陽の光に照らされて白く輝いている。
「あの人は、無実です。きっと」
ぽつりと呟かれたその言葉に、イェンスははっとして彼を見た。
「しかし、それを証明するには命を一つかけるのでは足りません」
「ニーヴェルゲン中尉……」
「信頼できる人間は、巻き込むべきです。そうでなければ、勝算は低いままですよ」
ふと、イェンスの頭の中に黒髪の近衛の顔が浮かぶ。
銀髪の彼女は怒るだろうが、彼もまた、知るべき人間なのではとイェンスはそう感じていた。
「気をつけてください」
「……はい」
イェンスが頷きながら答えれば、ニーヴェルゲン中尉は優しく微笑んだ。




