二人の焦り
オーシェルマン地区は、王都でも比較的、自然の溢れる穏やかな街並みだ。街を流れる水路が最も多いのもこの地区だ。そして王城から離れるにつれて、建物の感覚がまばらになり、その代わり小さな公園がとこどころに姿を表す。王城からつながる大通りは、地区の半分ほどで姿を消し、そこから先は緩やかに傾斜していき、山に向かってだだ広い道と田畑が広がってゆく。平らな田畑に挟まれて立つ時計塔がこんなに目立っているのは、王都ではこの地区ぐらいなものだ。
ルジェーナが事件に巻き込まれたのはそんか穏やかな田園地区であり、王都の中でありながら、目撃者を探すのは骨の折れる作業だった。
イェンスにとっては地元だとはいえ、貴族でないヴェーダ家は領地管理をしない。そのため地元であっても、さして顔が効くということもなく、街の人に話しかけては、見てないよとそっけなく言われるのを繰り返していた。
田園地区で聞き込みは、人が少なくてすぐ終えてしまったので、建物の密集している地域まで二人は来ていた。
「見つかりませんね」
ニーヴェルゲン中尉は、かすかに焦りを感じさせる声音で言った。ルジェーナが連れ去られた後、もうすでに二回は時計塔の鐘が鳴っている。四時間あれば、ルジェーナの身に何か起こるには十分すぎるほどの時間である。
「まず、事件を整理しましょう……」
イェンスはそういいながら、道の端によけてせわしなく行き交う人や馬車を見つめた。
「一人の男性が急に道で倒れた。その場に居合わせたのは三人。ルジェーナは駆け寄って男の様子を伺うが、彼は既に死亡。そして、巡回兵が駆けつけた途端、残った二人は、ルジェーナを犯人だと証言した」
「しかし、二人の証言には不可解な点が幾つか見られます。ルジェーナさんがどのように近づいて、どんな薬を飲ませたのか、その供述がない。それに、二人は知り合いではないというわりに、供述がぴたりと一致しています。同じことを見ても、多少、記憶の食い違いは出てしかるべきです。それなのにあの二人にはそれはない。厳密に言えば、事件に関しては、齟齬がありません」
二人の目撃者の聴取は完全にニーヴェルゲン中尉に任せたので、イェンスは彼の言葉にただ頷いた。
そしてしばし考え、今日何度目かわからないため息をついた。
「ただ、あの物わかりの悪そうな集団には、不可解な点、ぐらいではルジェーナを返してもらうのは無理でしょうね……」
「そうですね……」
そのための目撃者探しだが、なかなかうまくいかないものだ。紫色の髪は珍しいので、もし見かけたら記憶には残ると思うのだが、全く現れない。
「あ」
「どうしました?」
「あの人……」
ニーヴェルゲン中尉の視線を辿ると、一人の青年が通りを歩いてくるところだった。多くの人間が歩いている中で、どうして彼に目が止まったかといえば、彼は紫色の髪をしていたからだった。
彼は手に野菜の入った籠を持っていて、イェンスたちが立ち止まっている場所の、向かい側にある建物の前で止まった。そして入り口を開けると、大きな声で叫んだ。
「採れたて野菜、持ってきましたよ!」
その青年がそう叫ぶと、中から声がして誰かが建物から出てきた。青年でかぶって相手の顔は見えないが、女性のようだ。
青年は何かを話すと、野菜を渡し、そして女性が中に戻っていくのを見送った後、先ほどより野菜のかなり減った籠を持って再び歩き始める。
「あの、すみません」
イェンスはとっさに彼を追いかけ、そして先ほどから何度も繰り返してきた質問を口にする。
「今朝、田園地区で紫色の髪の女性を見かけませんでしたか?」
イェンスが呼び止めた青年は立ち止まると、綺麗な紫色の瞳をイェンスに向けた。ルジェーナのよりも濃い髪と瞳の目の色が、いやでも人目をひく。
彼はそんな不躾な視線を意に止める様子もなく、にっこりと愛想の良い笑みを浮かべて言った。
「見ましたよ」
「見たんですか!?」
驚いてそう声をあげると、その声を聞きつけたニーヴェルゲン中尉もまた近くに寄ってきて、彼に重ねて質問した。
「どこで彼女を見かけましたか?」
「ここから十分ほど歩いたところの田園地区に彼女はいました。彼女の側にいた人が、急に倒れたのでよく覚えています」
青年の言葉に、二人は思わず顔を見合わせた。
これは重要な証言だ。しかし、それではまだ足りない。
「倒れた人は、どんな人でしたか?」
「男の人です。紫の髪のきれいな女性が、その人が倒れた後、駆け寄って手当てをしているようでした。私はとりあえず医者を呼びに行ったんですが、あの人は結局どうなりましたか?」
イェンスは彼の最後の問いかけに首を振って応えた。すると青年はそうですか。とつぶやいて、祈るように目を閉じた。
「あなたは、いつからそこにいましたか? 紫の髪の女性がその場所を通りかかるのを見ていましたか?」
「はい。私はそこで野菜を取っていて、ちょうど立ち上がった時に彼女がきました。あと、他に二人の女性もいました。二人とも、赤いスカーフを巻きつけた籠を持っていました」
これで少なくとも彼がそこにいたことがわかった。そうでなければ、二人の女性が持っていた籠まで話すことはできないだろう。
ニーヴェルゲン中尉は、イェンスの質問が途切れると、代わりに質問した。
「その紫の髪の女性は男性と同じ方向から歩いてきましたか?」
「いいえ。同じ方向から歩いてきたのは、籠を持った女性のうち、細くて折れそうな女性の方です」
「では、男性が倒れるまでに、紫の髪の女性は一度でも彼と話したり、物を渡したり、何らかの接触がありましたか?」
「いいえ。男は一度振り返って、籠を持った女性の方を見ましたが、紫の髪の女性とは全く接触がありませんでした」
イェンスとニーヴェルゲン中尉はお互いに顔を見合わせて頷くと、青年に事情をかいつまんで説明した。
一人の女性の冤罪を晴らすために、証言してほしいと。
「お願いできませんか?」
イェンスが説明を受け終えてそういうと、青年はにっこりと笑って頷いた。
「構いませんよ。ただ、一つ質問が」
「何でしょう?」
質問でもなんでもどうぞと思っていたイェンスは、彼の質問によって、静止した。
「その女性は、あなたにとって何ですか?」
時は数時間遡る。
場所はヴェルテード王国の王都の中央にある王城。
馬車が跳ね橋を渡ったところで、ルジェーナは真剣に逃走ルートについて思案を巡らせていた。
馬車に乗っているのは二人の兵士と、証言した女性二人。それからルジェーナだ。
四人乗りの馬車に五人でのるのは窮屈で仕方がなかったが、あくまで護送用馬車なので快適さは求められないのだろう。
街中で逃げるか悩んだのだが、ルッテンベルクと違い、オーシェルマンは土地勘が全くない。しかも王都の中では比較的田舎であるこの街は、馬で走るのに適していて、徒歩のルジェーナが逃げ切れるとは思えなかった。
王城ならば、ベラがいる。ベラの場所まで逃げ切れれば、とりあえずこの不当な殺人容疑からは逃れられるだろう。
母ユリアの時のことを考えても、一度罠にはまったら、正当な裁判は望めないことは明白だ。
この女性二人がどうして虚偽の証言をするのかは分からない。しかし彼女たちはルジェーナを捕まえられるほど強くはないだろう。それに彼女たちはただ、買収され利用されているだけで、ルジェーナを捕まえることに積極的には見えなかった。
そうなれば、逃走には、目の前の兵士たちさえ倒せればいい。
ベラのように最新兵器を持ち出されたら抗う術はないが、たかが調香師のルジェーナに対してそこまでの警戒心を持っているとは思えない。
ルジェーナを捕まえたオマール大佐の話を聞く限り、彼らはルジェーナの素性については知らないようなのだ。ただ、誰かの指示で、こういう風に動いているだけらしい。
オマール大佐はルジェーナのことを『ルジェーナ・アストロガノフ』と呼んだ。アストロガノフとは、ルジェーナが店を構えるにあたって使用している名であり、ルジェーナの恩人かつ師匠の名でもあった。
だから、ルジェーナがまさかあのアルナウト・ミルの娘で、武芸に優れているとは思うまいし、わざわざ軍の最高機密を持ち出すことはないはずだった。
ふと、ルジェーナは自分の体が震えていることに気がついた。勝算は五分五分である。そして逃走に失敗すれば、ルジェーナの未来はないに等しい。
今までも一人で戦ってきた。だからこそ、ルジェーナはどんな状況でも強くあれるはずだった。
しかし最近では、ルジェーナが困ったときにはいつでもイェンスがいた。彼に背中を預けられることが、どれだけルジェーナに安心をもたらすか、このような状況になると身にしみて感じられる。
助けに来てほしい。
自分から突き放しておいて、そんなことすら考えた。
そして矛盾してはいるが、同時に生きていてほしい。ここには現れないでほしいとも願っているのだ。
馬車の規則的な揺れが止まり、扉が開けられた。
ルジェーナは顔を上げ、一度深呼吸した。失敗するわけにはいかなかった。何があっても、生き延びなければいけないのだ。
ルジェーナは兵士が降りた後、おとなしく馬車から降りた。
そして、あたりを見回して兵士の数を把握し、そのまま勢いよく、馬車から降りたばかりの兵士に体当たりしようとした時だった。
「はい、ごくろうさま」
パンと手が叩かれると同時に、高くて、ゆっくりとした、しかしそれなりに大きな声がその場に響いた。
ルジェーナは思わず動きを止めてそちらに目をやると、はっと息を飲んだ。
敬礼でオマール大佐たちを迎えていた兵士たちも、慌てたようにその人物に向かって礼を取る。
一言に言えば、美少女がそこにいた。
ふんわりとしたやや茶色味がかった銀色の髪が編み込まれて一本のロープのように左側に流されている。銀色の髪には彼女の目と同じ黄玉を中央にあしらった造花がいくつも編み込まれている。
健康的な赤みを帯びた肌色をしていて、綺麗横に伸びる眉と、切れ長の目は強い意志を感じさせる。
彼女は落ち着いた赤銅色のドレスに身を包み、側に立つ侍女が日傘を傾けている。彼女の側には四人の軍服を着た男がおり、彼らは護衛なのだろうと予測ができた。
あの髪色で、ベラでもカトリーナでもない女性は、この王城には一人しかいない。
第五王女のヴィクトリアだ。
それを悟った瞬間、ヴィクトリアと目があった。彼女の黄玉色の瞳は、細められた目の向こう側でまっすぐとこちらを見ている。そして彼女は唇の端をにっとつりあげた。
ルジェーナは礼を取るのも忘れて、彼女に見入っていた。
彼女の佇まいは髪色を除けばあまりベラには似ていないが、しかし薄紅色の唇をにっと釣り上げる様子は不思議なほどよく似ていた。
「ヴィ、ヴィクトリア殿下。どうしてこのような所にいらっしゃるのですか?」
「あら? いけないかしら?」
ルジェーナは忘れていたが、王族が王宮の外に出ることは普通ではない。
ベラのように王城の外に出るなど以ての外だ。
しかしヴィクトリアは説明する気はないらしく、首を傾げて視線を大佐に向けた。
するもオマール大佐は護衛、もとい近衛たちを一睨みして、彼らに向かって言った。
「王女殿下をこんなところにお連れするなんて、何を考えている?」
すると、近衛の一人が進み出てきっぱりとした口調で言った。
「クレマチス妃殿下の許可を得ています」
「妃殿下の?」
「だから、その子は私のよ」
全く意味の通らない接続詞とともに、彼女はつかつかと歩み寄り、ルジェーナの腕を掴んだ。
その瞬間、ふわりと懐かしい香りがして、ルジェーナは目を大きく見開いた。その香りは、母ユリアが作った香水によく似たものだ。驚くルジェーナにヴィクトリアはウインクすると、耳元で小さく囁いた。
「悪いようにしないから、こちらに従って」
一方、ルジェーナを監視していた兵士は、王女に対してどう反応すべきか分からず、オマール大佐を見た。
「我々はあるお方の名の下に動いています」
オマール大佐は持っていた馬の手綱を近くにいた兵士に預け、ヴィクトリアとルジェーナに近づいた。
「だからなあに?」
口調はへりくだりながらも、かなり威圧的な態度ではあったが、ヴィクトリアは全く動じることなく首を傾げた。
「畏れながら、軍の任務として、あの方からのものの方が、ヴィクトリア殿下のそれよりも優先される事案です」
「兄妹に優劣はないのよ」
オマール大佐の言葉にヴィクトリアはふふと笑うと、幼子に言い聞かせるかのような口調でそう言った。
しかし彼はそれでは納得せず、言った。
「同等であらせられるなら、先に命ぜられた任務を優先します」
そう言って彼はルジェーナの腕を取ろうとした。しかしヴィクトリアは自らの体を割り込ませてそれを阻止した。そして楽しげに微笑んで言った。
「つまり、命じたのはやっぱりルカーシュお兄様ね」
オマール大佐は言葉に詰まった。つまりそういうことのようだ。ルジェーナは、糸を引く人間が見えたことに喜びと、そして大きな焦りを覚えた。ルカーシュがルジェーナの素性を知って排除しようというのならば、それは間違いなくミル大佐の事件に関係あることである。
このまま捕まれば、ほぼ間違いなく口封じをされるに違いない。
一人顔を青くするルジェーナよそに、ヴィクトリアはさらに話を続けた。
「でもまあ、同等じゃないから、こちらが先よ」
「何を……?」
「これはクレマチス妃殿下のご命令である。妃殿下の決定を覆すというのならば、国王陛下の勅書を持って参れ」
さきほどまでの様子とは違い、凛とした威厳のある重々しい口調でヴィクトリアがそう言うと、オマール大佐は苦い顔をした。しかしヴィクトリアに正当性があるらしく、彼は膝をつき首を垂れた。
「御意」
彼の言葉と態度により、彼が引き連れていた兵も、待ち構えていた兵も両方が道を開けた。
ヴィクトリアはそれに大きく頷くと、ルジェーナの手を引いて歩き出した。
ルジェーナはいまいち状況が把握できなかったが、とにかくヴィクトリアを信じることにした。香水のこともあるため、ルカーシュの方がより危険である。その彼に反抗するというのなら、彼女は味方だと思えるような気がしたのだ。
それに、ヴィクトリアの纏う香りが、いったい誰によって作られたものなのか、ルジェーナは興味があったのだ。
ヴィクトリアの後ろを歩いていると、ふと、イェンスのしかめ面を思い出した。彼があの場にいたら、一体どんな選択肢をとっただろうか。
彼なら迷わず逃げろと言ったかもしれない。先ほど、あの短髪で少し強面の男性がイェンスを止めなければ、彼はオマール大佐とやりやってでもルジェーナを逃しそうな勢いだった。
イェンスという人間は、彼自身の正義感でしか動かない。彼には地位も名誉も金も通用しないのだ。ルジェーナには彼との付き合いでそれがよく分かっていた。
だからこそ、ルジェーナは彼を巻き込みたくはないと思った。
ルジェーナがつき離さなければ、イェンスはルジェーナを守るために身を賭してしまいそうに思えた。
それは許せないし、ルジェーナも自分の命をかけてまで誰かを守ることはしないと誓っていた。
ところが、そう思う反面、イェンスに生きてほしいと願う自分の気持ちに気づいていた。自分の命と彼の命を天秤にかけた時、迷わずに自分の命を取れるか悩ましい。
昔なら迷わなかった。しかしイェンスの存在がそれを狂わせ始めている。
ルジェーナはこの感情の名を知ってはいたが、自分がそれを理解する日が来るとは思ってもいなかった。
それを理解するということは、母ユリアが自分のために命を賭したことを許すことにほかならないのだ。
最近まで、ルジェーナの憎しみの対象はあくまでも父を殺した犯人であった。
ユリアを処刑した人間達も憎くないわけではないが、ユリアにはまだ、生きるという選択肢があったとルジェーナは感じていた。それを放棄したの彼女の意思であり、いわば彼女は処刑という自殺方法を選んだのだ。
その意味で、ルジェーナはユリアに怒りを抱いていた。娘の命を危機に晒したとしても、ユリアには生きていて欲しかった。父アルナウトの復讐したいのならば、一緒に復讐してほしかった。
ルジェーナは少しずつユリアを許し始めていた。ユリアのアルナウトへの愛と、自分への愛というものを、ようやく経験的に理解したからだ。
そしてそれと同時に、イェンスを巻き込みたくないといって真実を隠していることが、実は彼を危険にさらしているのではという考えにも至った。すでにイェンスをルジェーナは十分すぎるほど自分の事情に巻き込んでしまっている。それならば、彼にいっそ知らせて、そして身構えてもらった方が幾分もましではないか。
巻き込みたくないと思ったはずなのに、彼に助けてほしいと願ったのもまた事実なのである。
「そんな顔しないで。取って食おうってわけじゃないの」
ふと気がつくと、ヴィクトリアがこちらを向いていた。無意識に彼女の後ろについて歩いていたが、表情に思考が出てしまっていたようだ。
ルジェーナはふるふると首を横に振ると、ヴィクトリアが納得しそうな疑問を口にした。
「ただ、どこに行くのかと思いまして」
「もちろんお母様のところよ」
「クレマチス妃殿下の元へ?」
先ほどの啖呵は、半分でまかせだと思って聞いていたために、ルジェーナはようやくここで状況がいかに混沌としているかを理解した。
クレマチス妃にルジェーナが呼ばれる意味がさっぱりわからない。
「そうよ。だって、あなたは娘だもの」
そして、ルジェーナの問いに応えたヴィクトリアの発言も、全く意味が分からなかった。




