断章≪手紙の少女≫
王都のはずれにあるミル家の墓。その前で手を合わせ、目を閉じる。この墓で眠る男のことを思い出すと、頬につけられた古傷が痛む気がする。この傷がついたのは、彼と肩を並べて戦っていたときだ。
「アルナウト……その時が来たら、私はすべてを守れるだろうか」
ヴェーダ家の当主として、やれることはやってきたつもりだ。まだ息子にも、紫色の髪の女性にも言っていないことだが、私は六年前の事件について、かなり多くのことを知っている。
それも、死んだ本人から聞いたからだ。
あれは、事件から一週間後のことだった。
一人の少女が私にある手紙を運んできた。彼女は蜂蜜色の髪をしていて、質の良い服をまとった少女だった。十五、六歳ぐらいの彼女は、スカーレット・イーグルトンと名乗った。
私は名前の書いていない手紙を開けてその中身を見て、思わず周囲を見回した。そして小さな声で彼女に尋ねた。
「これをどこで?」
私が尋ねると、スカーレットは、涙をこぼしながら言った。
「二週間前に渡されました。私は、シルヴィアと親友だから……。でも、こんなことになるなんて……」
私はその手紙を受け取ると、さめざめと泣く少女の背をさすった後、小さな声で言った。
「すぐに家に帰るんだ。この手紙のことは誰にも言ってないな?」
私がそう尋ねると、彼女はこくこくと頷いた。そしてその場を立ち去る。
私はすぐに道の端により、壁に背を付けてその手紙を読み込んだ。
その手紙は、一週間前に死んだアルナウト・ミルからの物だった。
親愛なるエドガール・ヴェーダへ
君がこの手紙を読んでいるということは、私はきっと、すでにこの世にいないのだろう。もし、私が生きているのにこの手紙を読んでいるのだったら、笑い飛ばして燃やしてくれ。冗談で済ませて良い。
もしそうじゃないのなら、つまり、私が死んでしまっているのならば、君に頼みがある。
妻ユリアと、娘シルヴィアのことを頼みたい。
あの子たちは、私が死ぬことで不安定な立場に追いやられることになるだろう。私が自分で守れないのは非常に申し訳なく、心苦しく思うが、私にとれる唯一の道がこの方法だった。
私は自分の命と、妻や娘の住むこのヴェルテード王国の未来を天秤にかけたんだ。
君は、一体どういうことかと怒っているだろうね。
私が殺された原因は、ルカーシュ殿下による、リシャルト殿下暗殺計画に気づいてしまったことだった。ところが、ルカーシュ殿下は非常に頭の切れる人間で、私が知ったことを悟ると私を逆に脅してきた。
君も知っていると思うが、ユリアは北東部の異民族、彼らの言葉で言うならば――類稀なる能力――と呼ばれる民族の血を引いている。
彼らがヴェルテード王国王都からは少し外れた場所に住んでいるのには理由がある。彼らはひっそりと目立たずに暮らしているが、あの一族が消え去れば、ヴェルテード王国のこれ以上の発展は望めなくなる。彼らは守るべき民だ。ユリアの家族だからという理由を差し置いても、守るべき価値がある。
しかしルカーシュ王子はそれを知らず、そして単に私の妻の出身地だからといって、そこを標的にしようとした。彼はあの一族を虐殺する気なのだ。私が従わなければ。
つまり、彼らの命と、ユリア、それからシルヴィアの命が惜しければ、計画を見過ごせと言ってきたのだった。
私はルカーシュ殿下を糾弾するには、十分な証拠を得ることができなかった。リシャルト殿下は公明正大な方だから、おそらくはっきりとした証拠がなければ、ルカーシュ殿下を裁こうとはなさらないだろう。だからこそ、私には彼の計画を先延ばしにするために、自分の命を使うことしかできない。つまり、命をもってリシャルト殿下の暗殺計画を止めるしかない。王族の出席する夜会で死人が出れば、自然と王族にたいする警備も強められるだろう。それで、少しの間は、ルカーシュ殿下の計画も延期させることができるはずだ。
剣の家の君は、きっと私の考え方をバカだと嗤うだろう。
何かを守ったときに、自分自身が盾になるなんて、無意味だと。
でも、もし私がここで盾にならなければ、多くの命が犠牲になるだろう。北東部の異民族だけではない。ルカーシュ殿下が王位をとれば、おそらくもっと多くの民が犠牲になることになる。彼は自分を邪魔するすべての物を排除する気だ。
私がこのような手紙を、スカーレットという、シルヴィアの友達に託したのは、私の行動が監視されているからだ。私が死んでからでなければ、この監視は解けることはないだろう。
君と直接接触することはできないし、私が生きている間にこの手紙を君に届けてもらうことも危険だ。おそらく君も監視対象に入っているだろうから。
しかし死後一週間たっていれば、ある程度警戒も緩んでいるはずだ。
君に、私の死の意義を知ってほしかった。そして、ユリアとシルヴィアを頼みたい。
ここまでわかっているなら、どうしてルカーシュ殿下を告発しないのかと君は思うだろう。しかし告発するには、私には守るべきものが多すぎる。私の身は重くなりすぎてしまった。
エドガール。君も、君でさえも私と同じ選択をするだろう。
いや、そうしなければならない。真実を知っていても、君は沈黙していなければならない。真実を知っている人間が生きて、この国の未来を守らなければならない。
君は時を待ってほしい。
いつか、真実を明らかにできる日が来たならば、その時は動いてほしい。
しかし今、やみくもに動けば君も死ぬことになる。
剣も盾も失われたこの国家に、未来はない。
我々の祖先が、この国の始祖に誓った言葉を、我々は忘れてはいけない。我々が守るのは、あくまでも陛下と民でなければならない。少なくとも、剣と盾の当主である間は。
ルカーシュ殿下は危険な人だ。
彼の抱える劣等感は、彼の心を深く蝕んでいる。そして彼は、リシャルト殿下が消えれば自分が国王になれると信じている。
しかし私の考えでは、おそらくリシャルト殿下がいなくとも、陛下はルカーシュ殿下をお選びにならないだろう。そしてそれは非常に残酷なことに、彼の能力にはまったくもって関係ない。
ただし、私は陛下がどうしてあの二人のどちらかに後を継がせたいとお考えになるのか、ある程度の推測はできる。そして理解もできる。
これからのヴェルテード王国は、激動の時代を迎えるだろう。おそらく我々が死ぬまでには、今、世界中で進められている”鉄道計画”が実行されるだろう。鉄道で国内中を結び、さらには国と国とも結びつける。武器も進化している。剣と盾を使う時代も、きっともうすぐ終わってしまう。私たちが誇りに思ってきた、剣と盾が戦闘から消える未来も近い。
この激動の時代を乗り越えていく王は、特別な存在でなければならない。凡人がいくら努力してもたどり着くことのできない、天才が必要だと、陛下は考えているのだろう。
たとえ盾が壊れても、たとえ君の剣が折れようとも、ヴェルテードの未来をつなぐために、私たちは生きなけれならない。そうしなければ、子どもたちの未来はない。私が最も恐れているのは、子どもたちの幸せな未来への可能性をつぶしてしまうことなのだ。
エドガール。生きてくれ。頼むから。
私の敵討ちなんて考えないでくれ。
ただ……生きてほしい。そして、君はしっかりと役目を果たしてくれ。この国を脅かす敵に剣をふるってくれ。
それがもし、王家の人間であったとしても。
私の考えは矛盾しているだろうか。しかし、私は、ミル家の始祖の誓いの言葉は、ただ陛下のためにあるとはどうしても思えない。
彼が守りたかったのは、民を守る陛下なのではないだろうか。もし、上に立つものが、民を虐げようとするのならば、そのときは私たちは誇りをもって立ち上がらなければならないだろう。
私にとっての正義はこれなんだ。
すまない。そして、ありがとう。
きっと君が妻と娘を守ってくれると信じて、言っておくよ。
君の永遠のライバル アルナウト・ミルより
追伸。君と肩を並べた士官学校時代は、楽しかったな。
私はこの手紙を読んだとき、思わずそれぐしゃぐしゃと握りつぶした。そして懐に乱暴に、しかし絶対に落ちないようにしまい込むと、王城へと急いだ。ここ数日、ユリアにアルナウト殺人容疑がかけられていることを知っていたからだ。
馬で駆けて、王城についたときにはすでに、ユリアがついに捕まったと大騒ぎになっていた。
私は急いで彼女が収監されている牢に向かった。見張りは一人、しかも半分居眠りしているような男だ。私を見て彼は非常に驚いていた。そして、今、一人の兵士が食事を運んだという報告をしてくれた。
彼にさっと金を握らせて、しばらくの間、人払いを頼む。
私の心は急いていた。どうにかしてユリアを助けなければ。それが、あの男の最期の望みなのだから。
しかしその気持ちを食事を運んでいる兵士に悟られてはいけない。私はできるだけ冷静になろうと何度も大きく呼吸しながら歩いた。そして牢につくと、なぜか牢の扉が開いていた。食事を提供するだけならば、小さな窓を開ければそれですむ。
「何をしている?」
空いている扉から中をのぞき込むと、若い兵士がびくりと体を震わせてこちらを振り向いた。その奥に倒れている、長い黒髪の女性。
その女性を見た瞬間、私は我を忘れて叫んだ。
「おい! ユリア! 大丈夫か!」
急いで牢に入り、彼女を抱き寄せながら脈を取った。どれだけ目を閉じて指先に集中しても、まだ暖かいユリアの心臓が脈打つことはない。
ああ、間に合わなかった。なんてことだ。
絶望の直後に、ふつふつと湧いて出てきた怒り。
「くそっ! 何があった!?」
私のあまりの剣幕に、兵士は仰け反りながら答えた。
「夫人が! ど、ど、毒を飲んだんです! 僕は、私は、と、とめられなくて……!」
「夫婦揃って馬鹿野郎!」
思い切り舌打ちをしたあと、自身の金髪をかきむしり、もうこの世にいない彼らを罵った。
本当に馬鹿な夫婦だ。
どうしてユリアが沈黙のまま死を選んだのか、理解できる自分も嫌だった。
結局この夫婦は、守るために死んだのだ。
しかし私は絶望に打ちひしがれている場合ではなかった。このままでは、この何も知らない若い兵士はきっと未来を絶たれるだろう。自分でも何が何だかわからないうちに。
「お前、階級は!?」
「ぐ、軍曹であります!」
「よし、おまえはここにはいなかった。食事は俺に途中で渡して運んでもらった。大佐命令なので断れなかった。こう、証言しろ! いいな!?」
私はそういうとぶちまけられた食事のトレーをさっと片づけた。
ユリアの死体は、いかにも毒を飲んで自分で倒れましたとばかりに置いておく必要がある。彼女が吐いた血は片づけず、その場所に口が来るように慎重に彼女の体を動かす。そして適当に髪を乱しておけば、とりあえず彼女が人知れず自殺したように見えるだろう。
私は落ちていた鍵を拾い上げ、牢の扉の鍵を閉めた。
軍曹は全くもって何が何だかわからない様子だった。しかし私は彼を半ば強引に引っ張り出すと、あのやる気のない見張りのところへ戻った。
見張りにさらに金と、さきほど拾った牢の鍵をつかませた。
「お前は体調を崩して、トイレに行っていたことにしろ。というより、今日はもうここには戻ってくるな。それと、この軍曹が食事を運んだのも、私が来たのも知らないことにしろ。分かったな?」
すさまじい剣幕かつ迫力でせまると、見張りは急に目が覚めたようで、こくこくと壊れたおもちゃのように頷いた。おそらく彼は黙っていられるだろう。私はそう判断すると、二人にこの場を離れるように指示し、二人が半分走っていくのを見届けた。
そのあと、私は自分がどうしたのか覚えていない。
しかしふらりと家に帰って、妻ライラにひどく心配されたのを覚えている。
彼女もまた、アルナウトとユリアの訃報を知って、衝撃を受けているようだった。私はアルナウトからの手紙を見せるか悩み、そして結局見せなかった。
部屋で一人、ゆっくりと手紙を読み込んだ。この手紙は、大切なところがぼかされている気がする。事件の大枠はわかるが、それでもなお、私にはどうしてアルナウトが死を選んだのか理解できない。いや、もしかすると理解できているのかもしれないが、納得したくないのだ。
それに、彼の手紙は、一貫してミル家の当主としての言葉が紡がれていた。彼は彼の正義を以て、命をかけたのだ。
私にはどうしてもそれを受け入れることができなかった。誰かのために死ぬなどというのは、何よりも傲慢な考えではないだろうか。それが美しい自己犠牲とあがめられても、守られたその人物は、暗い過去を背負わなければならない。
しかし、情けないことに私が一番衝撃を受けたのは、もっと別のことだった。
そう、彼が最後に書いた一言だ。
追伸。君と過ごした士官学校時代は、楽しかったな。
この一言を読んだとき、ふと士官学校時代を思い出した。仲が良いとはいえなかった。アルナウト・ミルとエドガール・ヴェーダは、剣と盾というそれぞれの家名と誇りを背負ってそこにいた。しかし始まりは友人ではなくとも、背中を預けられる仲間だった。隣に立つことを許した戦友だった。
最期の一文だけは、彼の本心だとエドガールは信じることができた。
だからこそ余計に、切なさで胸が締め付けられる。
あの頃は二度と帰っては来ない。
二度と、再現することも、あの頃を語ることすらもできない。
「……お前のそういうところが、嫌いでしょうがない」
こみあげてくる感情にふたをするために、手紙を乱暴に降りたたんで封筒にしまい込んだ。そして自分の部屋の、誰も手を触れないであろう場所にしまい込み、その引き出しには厳重に鍵をかけた。
親友を失った痛手も、約束に反してユリアを守れなかった後悔も、ぜんぶ引き出しの奥にしまい込んで忘れたはずだった。
そうしなければ、私は生きることはできなかっただろう。
本当は、アルナウトの本当の死因を追求したかったし、ユリアの汚名を返上したかった。
しかし、まったくもって腹立たしいことに、アルナウトの言葉通り、私はそうすることができなかった。私はただ沈黙して、この国の行く末を見守ることしかできなかった。
しかし、そうして数年間、自分をだましてきたのにも限界がやってきた。
私に手紙を運んだ少女が、一人の女性として成長し、やってきたのだ。
「エドガール・ヴェーダさんですね」
「君はたしか……イーグルトンの」
はちみつ色の髪に、明らかに金持ちであることが分かるような服装。豪奢に飾り立てた彼女は、強気な笑みとともに私の前に立っていた。
「聞きたいことがあります」
彼女はそういうと、驚くべきことを語ってくれた。
なんと彼女は命を狙われているらしい。六年前のあの日から、何度も狙われている気はしていたらしいが、この前は本当にあぶなかったのだと。
そしてそれをたまたま助けたのが自分の息子イェンスだというのだから不思議だ。
彼女はあの時私に渡した手紙が、自分が命を狙われる原因だと思っていると私に語った。私もその意見に賛成だ。
ユリアの自殺を知ることになったものは、ことごとく軍からいなくなった。たとえば死亡原因を診断した医者や、彼女を埋葬したものなど。
私にさえも逆らえぬ圧力がかかっているのは、肌身をもって感じ取っていた。つまり、アルナウトが死んでもなお、私の行動は監視されていたということだろう。
「巻き込んですまない」
「いえ。謝らないでください。それは気にしてません。それに最近はさすがに反省して、気を付けていますから。でもそれより、私は本当のことが知りたいんです。どうしてあなたは、戦おうとなさらなかったんですか? まさか、本当にユリアさんが殺したとは思っていらっしゃらないんでしょう?」
私は非常に悩んだ。あの手紙については、まだ誰にも話していない。妻のライラにさえも。
それに、私はもう一つ、ユリアからもまた、彼女が死んだ後に手紙を受け取っていた。
それらのことを彼女に話してしまえば、彼女の身はさらなる危険にさらされることになるだろう。
「……悪いが、話すことはできない」
「どうしてですか!」
「私が責任を持てないからだ」
「……シルヴィアが望んでも、ですか?」
「生きているのか!」
アルナウトとユリアの娘シルヴィアは、アルナウトの妹の家に預けられたのだが、一年足らずで消息を絶ったのだ。私はその時、非常に難しい立場にいた。
表だって彼女を探すこともできず、アルナウトとの約束を何一つ守れなかったとやけになって酒を飲んだ日もあった。
「ええ。……私に話せないのなら、あの子には話してあげてください。あの子はその権利も覚悟も、持っているはずです」
「……わかった」
スカーレットの言葉を聞いて、私はここにふらりとやってきてしまった。
アルナウト・ミルの墓の前に。
もしかすると、彼の墓に花を手向ける女性の姿を期待したのかもしれない。あるいは幻影でもいいから、アルナウト本人が姿を現さないかと。
「私にはもう、託すことしかできない」
まだ見つけていない彼女が真実を求めるのならば、手を貸そう。
私があきらめた真相の究明を、誰よりも彼女が望むのならば。それがせめてもの贖罪になれば、と私はそう思っていた。