星月夜に
王宮から見上げる空は、黒い。しかしその黒にはどこか透明さすらうかがえて、白く輝く大きな球や、ところどころに散らされた白や赤や青などの光がよく映えて美しい。
誰もが寝静まった夜中にベランダからそっと抜け出して、庭を歩くのがベラは好きだった。
彼女は長い銀髪を染めることも結うこともせずに、丈の長い外套ですっぽり覆い隠して歩いていた。髪を染めてしまうと、もし兵士に見つかった時に面倒なことになる。
しかしベラは、そんな心配が必要ないくらいには、兵士をやり過ごすのが上手だった。彼らの巡回経路は頭に入っているし、もしそれに彼らが従っていなかったとしても、夜はベラの耳の良さが最も活きる時間だ。聞こえてくる足音を交わしてゆけば、おのずと誰にも気づかれずに歩き回ることができた。
ベラは何も考えずに、ただ見つからないことだけを考えて歩いていたのだが、ふと気が付くと、パーシバルと初めて出会った庭園に来ていた。
あの日と同じ木を探そう。ベラはそう決めて、だいたいこの辺だろうというあたりをつけて歩き始めた。すると予想外の方向から、人の呼吸音が聞こえて、思わずそちらに目を向ける。
急に上を向いたベラは、自分の目がとらえたその人物が少し信じられなくて、その場に茫然と立ち尽くしてしまった。
「……ベラまでここに来るなんて」
木の上にいたパーシバルの黒髪が風に舞った。彼の深い藍色の瞳がベラをまっすぐに見据えた。
ベラはしばらくの間、ただパーシバルを見つめていたが、ふと我に返って、微笑んだ。
「私も登って良い?」
問いかけるのに合わせてベラが首をかしげると、肩にかかっていた銀色の髪がサラサラと流れてゆく。
月の光に照らされて幻想的に波打つ髪を見つめたパーシバルは、思わず唾を飲んだ。
「おいで」
しばしの沈黙の後、パーシバルがそう言って下方に手を伸ばせば、ベラがさっと木を登り始める。どこか慌てた様子の彼女を見て、パーシバルは思わず声をかけた。
「そんなに慌てなくても、どこにもいかないよ、ベラ」
それは奇しくも、出会いの時にかけたのと同じ言葉。
ベラはその言葉にびっくりして、丈夫な枝にかけた足を滑らせた。
「危ないっ!」
パーシバルは思わず叫ぶと、左手を伸ばしてベラの腕を掴んだ。ベラはその一瞬のチャンスを逃さずに、足をどうにか枝にかけて、体勢を整える。
そして半ば引きずり上げられるようにして、パーシバルのいたすぐ隣の枝にベラは腰掛けた。
「ありがとう」
「まったく、肝が冷えたよ」
パーシバルはため息をつくと、ベラから手を離した。ベラはその手を視線で追いかけ、しかし何も言わずに木にもたれかかった。
「月や星がよく見えるわね。あの星なんて、降ってきそうだわ」
黒色の空に輝く青い星を見つめてベラがそういうと、パーシバルはベラの方を向いた。優しい微笑みを浮かべた彼は、小さな声で言った。
「月が、綺麗だね」
月が綺麗と言いながら、パーシバルはベラを見つめたままだった。
じっと見つめられているベラは、不覚にも心臓が高鳴るのを感じていた。静かな夜に、自分の鼓動がやけにうるさい。二人はしばらくの間、今ここではなく、過去のある一瞬にいるのかもしれなかった。
王女と近衛ではなかった、ある一瞬に。
「あの頃は……あなたと婚約するなんて思わなかった」
今はすぐに過去になり、未来はすぐに今になる。その永久の繰り返しの狭間で、二人は過ぎ去って行った過去を見つめ、これから来る未来を想像した。
二人とも、互いを必要とし、共に歩むことを強く望んでいる。結婚という未来は二人にとって、最良の未来であるはずなのに、しかし二人の心の中には深い影が潜んでいた。
どちらも互いの心が見えず、月も星もない夜闇をさまよっている旅人のようであった。
「そうだね。ベラが婚約したいと言い出すなんて思わなかった」
「言い出してほしくなかった?」
ベラは明るくそう聞いた。彼女は声こそ明るく振舞っていたが、パーシバルの表情は見ずに、遠くの空を見つめていた。
「……いいや。そんなことはないよ」
パーシバルは真剣に、心を込めてそう言った。もしベラが彼の目を見ていれば、もしかするとベラは彼の真意に気づけたかもしれなかった。しかしベラは空を見たまま、ふっと笑って首を横に振った。
「嘘。こんなじゃじゃ馬じゃなくて、もっと可愛い子が良かったくせに。第一王女ならともかく、第三も第四も第五も一緒だものね」
「君は……何を言ってるんだ?」
パーシバルの声が険しくなったことで、ベラは少し驚いてようやく彼を見た。パーシバルの表情には怒りが混ざっていたのだが、ベラにはどうしてか全く理解ができなかった。
「何をって……家のために王女をもらうなら、カトリーナでもヴィクトリアでもいいでしょう?」
「いいわけないだろう! まさか……ずっとそんな風に思ってたのかい?」
「……違うの?」
はっと息を飲んだベラは、赤い瞳を大きく見開いて問い返した。
「ベラだから、承諾したんだ。ヴィクトリア殿下やカトリーナ殿下でもいいなんてことはない」
彼の言葉は、彼にしては珍しく素直で、率直な表現だった。ベラがこれを素直に受け取ることができたなら、二人の関係性はこの時点で変わったはずだった。
しかしベラはそういう点で非常に不器用な女性だった。彼女は弱冠十八にして多くのことを知っていたが、自分への好意を悟る能力は通常よりもかなり劣っていた。
「ああ……私はパーシバルの忠誠心を疑ってるわけじゃないわよ」
「忠誠心? そういう問題じゃ……」
パーシバルは言いかけて、途中で言葉を切った。
自分の言葉がベラの負担になるのではと危惧したためだ。
パーシバルはまだ、ベラがイェンスを運命の相手だと考えていると信じていた。そして、自分との婚約は、あくまでもリシャルトとの口論の延長線上で、パーシバルの立場を守るためだと。
「私……明日の夕食に出るつもりよ。そのときに陛下に婚約の許しを願い出る」
「一か月に一回の……王家総出の夕食会だね」
王宮の行事の一つとして、月に一度、十歳以上の直系の王族が一堂に会して夕食をとる日が設けられている。参加は強制ではないが、よほどのことがない限り、出ることを期待されている。
しかしベラは、まだ片手で足りるほどの回数しかそれに参加したことがなかった。
「カルミア妃やクレマチス妃もいてくれた方がいいと思ったの。私が婚約すれば、また一人、王位から遠ざかることになるのだから」
ベラが夕食に参加しない理由を知っているパーシバルとしては、彼女が自らそれに出席するということに驚いていた。そして同時に、彼女が少しずつ成長しているのだと寂しくも感じていた。昔だったら、彼女が家族とともに進んで食事をとろうとするなんて、あり得ないことだった。それだけ、彼女の家族の、つまり王家への不信感は大きかったのだ。
「陛下は、認めてくださるかな」
ぽつりとつぶやいたその言葉は、パーシバルの心からの懸念だった。しかしベラはその懸念を吹き飛ばすかのようににっと唇の端を釣り上げて笑みを作った。
「認めさせるのよ。そのための布石は打ったわ」
いつだって勝気で、そして家族を嫌っていながら、寂しがりやなベラ。
初めて会ったとき彼女がまとっていた悲壮感は、すっかりなりを潜めた。彼女は強く強かになった。それでも、パーシバルは彼女を守りたいと心から思っている。
「認めてくださらないときは……なんどでも頼むよ」
ぐっとこぶしを握り締めた彼は、ベラの目をまっすぐに見据えた。
「え?」
「ベラを永遠に守る権利をください、とね」
ベラは驚いて目を見開き、少し照れて顔を赤くし、そして無邪気な笑みを浮かべてうなずいた。
「期待してるわ。だってあなたは、私の騎士だもの」
星が降りそうな夜。
少しだけ近づいた二つの影。
しかしそれが隣合うには、まだ少し、時間が必要だった。
時計塔が最後の鐘を鳴らしてからはや二時間。すっかり暗くなった空は、月と星が輝いている。
通りを歩くものは少なくなっていたが、まだそれなりに数はいる。ガス灯はもちろん全て点灯されていて、イェンスはふと、点火夫との会話を思い出した。
街は技術の発展とともに変わって行き、いつかはイェンスの剣も必要なくなる時代がきっと来る。
剣の家と言われてきたヴェーダ家の人間が、剣を持たなくなるというのはなんだか不思議な話だった。
イェンスはルッテンベルクの大通りから外れた道を迷いなく歩いていく。もうはや行き慣れた道だ。
路地の奥にある、少し古ぼけた香水屋に、イェンスは用があった。そしてそこに到着すると、扉の前で一度立ち止まる。
営業時間が終わっているため、イェンスは少し悩んだ末に、扉をノックした。
しばし沈黙があり、鍵が開く音が聞こえた。そして扉が軋みながら開き、この店の主ルジェーナが顔を出す。
「イェンス。どうしたの?」
「話があって」
「とりあえず、入って」
ルジェーナは驚きながらも、イェンスを店に招き入れた。そしてスタスタと歩いて行き、カウンターの奥に回り込むと奥の扉を開けてこちらを振り返った。
「こっちまで来て」
「今日はまさか、来客はないだろうな?」
初めて会った時の記憶が蘇ったイェンスは、冗談交じりにそう尋ねた。するとルジェーナもそれに気付き、笑って首を振る。
「ないわ。今のところ、何の事件にも巻き込まれてないから」
「それは朗報だな」
イェンスはカウンターの裏に回り込むと、ルジェーナが抑えている扉を自分で抑え、彼女を先に入らせた。そして自分も中に入り、扉を離す。
扉はゆっくりと閉まって行き、最後にはわずかな隙間を残して止まる。イェンスはそのことに妙に安心しながら、部屋の真ん中の机まで進んだ。
考えてみれば、ルジェーナの店にはよく訪れているが、彼女の居住スペースに足を踏み入れたのは、これが初めてのことだった。
ルジェーナはちょっと待ってと前置きをして、紅茶を淹れてくれた。カップが目の前に置かれると、暖かい湯気とともに、ほんのりと香りが漂ってきた。どうやらただの紅茶でなく、果実の風味もついたフレバーティーのようだ。
「これ、香りがいいな」
「うん。お母さんの故郷でよく飲まれてる紅茶なの」
さらりと彼女が、ユリアについて触れたことで、イェンスはカップを持っていた手をかすかにふるわせた。
「それで、話って?」
イェンスの向かい側に座ったルジェーナは、さっと次の話題へと移ってくれた。イェンスはそれをありがたく思いながら早速、本題に入ることにした。
「今週末なら、父さんは家に帰るらしい。ただ申し訳ないが、俺は仕事があって一緒にはいけないんだ」
本当はルジェーナと一緒に家に行こうと思っていた。しかしそうすると、イェンスはルジェーナの過去について知らざるを得なくなるだろう。今はまだ、イェンスが知っているとルジェーナに悟らせたくはないのだ。
「そうなの。それなら、一人で会ってくる。イェンスのお父さんなら、一人で会っても問題ないだろうから」
「そう伝えておく」
「ありがとう」
ここでイェンスは、彼がここに来た目的が既に果たされたことに気がついた。
今日イェンスがここにきたのは、他でもなくこの話をルジェーナにするためだけである。そうなると、この紅茶を飲み終わったら帰るべきだ。イェンスはそう思った。
向かいに座っているルジェーナと二人きりであるというのが、イェンスを落ち着かなくさせた。二人でいることは多々あったが、こんな気持ちになったことはなかった。ここがルジェーナの私的空間であるということも関係しているかもしれない。
「今日は月がきれいだった」
沈黙に耐え切れずにそんなことを言うと、ルジェーナはふと立ち上がって窓のそばに寄っていった。そして窓を開け、冷たい風を受けてその髪を揺らしながら、ほんとだね、と言った。
「きれいな月。まるで……」
そのあとの言葉は聞き取れなかった。
ルジェーナはぽつりとつぶやくと、イェンスを見た。そして何かに気付いたように大きく目を見開き、そしてふるふると首を横に振る。彼女はなぜか顔を赤くしていた。
「どうしたんだ?」
「な、なんでもないの」
慌てたようにいう彼女に、それ以上その先を追及するのはためらわれた。彼女の隣に行くことも、今のイェンスにはできなかった。彼の中ではまだ、ルジェーナがどういう存在なのか定まり切っていない。だからこそ、イェンスはただ紅茶を口にして、ルジェーナの様子を見守っていた。
この日を境に、小さな変化が生まれた。
ひとつの歯車がかみ合ったことでゆっくりと、二人の物語は動き出す。
しかしそうした自覚は、彼らには全く存在していなかった。