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イェンスとルジェーナ  作者: 如月あい
一章 出会い
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客を選ぶ店員②

「こ、こんにちは!」


 緊張して、かすかに震えて裏返った少女の声が聞こえてきた。イェンスが思わず振り返ると、そこに立っていたのは、小柄な少女だった。

 女の身支度というものは男には理解しがたいが、イェンスからすると、この少女にはまだ香水は早いように思えた。緩く編んだおさげに、化粧をしている様子のない顔には、そばかすが浮いている。しかしそれでも愛嬌があって、可愛らしい少女だった。

「かわいい御嬢さんね。何をお求めかしら?」

 ルジェーナより先にベラが口を開く。

「あの、私! 落ち着けるような、そんな香りを探しに来ました! きゃあっ!」

 少女はそう言いながらカウンターに近寄ろうとして……すっころんだ。

 確かに落ち着いた方がいいかもしれない。イェンスはそう思いながら、少女の傍にさっとよって、彼女を助け起こした。

「大丈夫か?」

「す、すみません! ありがとうございます」

 助け起こされた少女はぺこりと頭を下げる。

「こんな感じだから、落ち着きたくって!」

「落ち着きたいと思う理由はなんでしょう?」

 ルジェーナがごくまっとうな質問をした。


「実は……私、好きな人がいます!」


 ほとんど叫ぶように言ったその声は、奇妙にひっくり返った。それでも彼女は果敢にもさらに言葉をつづけた。

「こ、告白したいんですけど、あがり症なんです! だ、だから、その時に、落ち着いて思いを伝えられるようにって!」

 彼女のこの落ち着きのなさが香りでどうにかなるものなのか、イェンスには甚だ疑問だったが、彼女が香りを求めてこの店にやってきた理由は分かった。

 ありがちと言えばありがちである。

 しかしながら、”相手を誘惑する香り”や、”相手の好きな香り”ではなく、自分の気持ちを落ち着かせる香りを求めにやってきたというところには、イェンスは少なからず好感を持った。

 さきほど金持ちのお嬢様を追い返したベラがどうするのかとみていると、彼女は自分の出番はないとばかりに首を振り、一歩下がった。

 ルジェーナはカウンターから出て、イェンスから見て右側の壁にある棚へと向かう。いくつもある棚のうち、扉が付いていて背の高い棚の中からいくつかの小瓶を彼女は取り出した。それはどうやら売り物とはまた違うようだった。むき出しの状態で棚に並べられているものは、どことなく凝った細工のガラス瓶に入れられているが、彼女が取り出した小瓶は不透明で中が見えず、ラベルが無造作に張ってある。

 彼女は手に取った小瓶をカウンターに並べると、もう一度棚へと戻った。そしてまた小瓶を取り出すと、カウンターに並べる。

 その作業を何回か繰り返し、カウンターに二十ほどの小瓶が並んだところで、ルジェーナは棚の戸を閉めた。そして少女をカウンターの前に立たせると、自分もその隣に並んだ。

「どんな香りが好きなんですか?」

「焼き立てのパンの香りが好きです! 実家がパン屋なので!」

 少女は勢いよくそう言ったが、言いきったあとでそれが香水選びには役に立たないと気づいたらしい。

「す、すみません。つい……」


 少女はしゅんとしてうつむいたが、ルジェーナは何かを考え込むようにカウンターを指でとんとんと叩いた。そうしてからおもむろに一つの小瓶を手に取ると、それを人差し指と親指で底と蓋を押えてから三度ひっくり返した。


「あなたの家のパンで、一番好きなパンは何ですか?」

「クリームパンです! 甘くてバニラのかおるカスタードと、柔らかいパン生地が絶妙に合うんです! あ、でもチーズたっぷりのピザパンも捨てがたいですね。トマトソースとベーコン、それからチーズが少し薄めのかりっとした生地に乗せてあるので、こってりしていても食べきれる量なんですよ!」

 少女が声を弾ませて、これは全くよどみなく言い切ったので、イェンスは焼き立てパンを思い浮かべてごくりと生唾を飲み込んだ。昼を早めに済ませたのですでに腹は空いてる。帰りにパン屋でパンを買って帰るのも悪くないかもしれない。


「クリームパンにピザ……。やっぱりベースノートにバニラは必要かなあ……」

 ルジェーナは小さくつぶやきながら、さきほど振った小瓶を持ったまま、もう一度カウンターの向こう側に回り込み、カウンターの端に置いてあった器具を引き寄せた。

 彼女が少女の前に置いた器具は、細長い口の空いた瓶である。それを装置をつかって固定し自立させると、彼女は先ほど三度ひっくりかえした小瓶を横に置いた。


「あなたの名前は?」

「タチアナです」

 問いかけながらも、ルジェーナは一つの瓶を持つと、それをひっくり返して細長い瓶の口に当てた。 

 細長い口の空いた瓶には目盛がついてあり、ぽつりぽつりと落ちる液体が徐々に溜まっていく。


「これがバニラですか?」

 少女が首をかしげて問いかけた。イェンスにはあまり細かい香りの差はわからないが、確かにお菓子で香るバニラとは少し違ったように感じる。どことなく棘がある印象だ。 

「開けた直後はアルコールが強いから、ちょっと香りが違って思えるんですよ」

「そうなんですか」

 ある目盛に液体が達すると、ルジェーナは瓶を戻して蓋を閉め、それをカウンターに置く。

 そしてベラに向かってルジェーナが指示を出す。

「二、四、九、十八、十九をお願い」

「りょうかい」

 ベラはカウンターにある二十種類の瓶から、迷わずに五つの瓶を取ると、それをルジェーナの方に渡した、

 そしてルジェーナがそれを手繰り寄せ、タチアナの前に並べる。

 二人の連携は見事で、日頃からベラが店を手伝っているのがよく分かる。


「この中から好きな香りを一つ選んでください。香りの確かめ方は、蓋を開けたら、手で仰ぐようにしてくださいね」


 ルジェーナはその瓶の一つの蓋を開けると、見本をみせるために、自ら瓶の口元で手を仰ぎ香りをかいだ。そしてそれをそのままタチアナに手渡す。

 手渡されたタチアナは、見よう見まねで同じ仕草をすると、香りを吸い込み、かすかに首をかしげた。

「そこにある他の四つもお願いします」

「はい」

 隣にいるイェンスはタチアナが順番に香りを確かめていくのをただ見つめていた。もう少し香りがただよってくるものかと思ったが、そうでもないことに気づいてイェンスは意外に思った。そうすると、むせ返るような香水のきつい女は、いったいどれだけつけているのか疑問に思えてくる。

「これが一番好きです」

 タチアナが指さした瓶には、かすれた文字で何か書いてあった。しかしイェンスにはそれを読み取ることはできない。

「なるほど」

 ルジェーナは何かに納得したようにうなずくと、その瓶をまた、さきほどの細長い瓶の上でひっくり返し、おそらくバニラの香りがする液体の上から注いでいった。

「次は……残りの十五本の瓶から、三つ、好きなのを選んでください」

 ルジェーナは目盛を見つめながら指示を出した。タチアナはそれに素直に従い、また香りを確かめる作業に入っていく。

 さきほどの液体よりも多い量を計り取ったルジェーナは、瓶を元に戻して蓋を閉めた。 タチアナが先に香りを確かめた五つの瓶全ての蓋を閉め、それをベラが棚に戻した。


 イェンスは一番最初にルジェーナが一つだけ避けた瓶が何なのか気になりながらも、二人の行動をただ黙って見守っていた。

 タチアナは三つに絞らなければならないのに、五種類選んだ段階で、悩み始めた。五種類のうち二つは決定しているようだが、残りの三種類で決めかねているらしい。


「その三つで悩むんだ……」


 ルジェーナはかすれたラベルを正確に読み取れるのか、それとも抜群の嗅覚によって中身が分かるのか。イェンスにはそのどちらかはわからないが、ぽつりとそうつぶやいて、タチアナがすでに決定した二つの瓶を近くに手繰り寄せ、そのうちの一つを混合液の中へ再び落としていく。

 じれったい作業だ。一滴一滴、混合液の中に落としていくのだから。


「これにします! おまたせしました!」

 ルジェーナが、二つの瓶を混合液に混ぜ終えてから、ようやくタチアナが声を上げた。

 イェンスはもはや眠くなっていた。


「それにしたんですね。それじゃあ……ミドルをいくつかと、あとトップノートが必要だから、どうしようかな。どちらにすべきかなやみどころだけど……」

 ルジェーナは何かをぶつぶつとつぶやきながら、タチアナが開けた瓶のふたを閉めはじめた。するとタチアナもそれにならって蓋をしめる。彼女が選んだ瓶以外は全て蓋を閉め終えると、それをまたきっちりと棚に戻して行った。そして今度は、同じ棚の低いほうの扉を開けると、いくつかの瓶をベラに渡した。彼女は何も言わずにそれを受け取ってカウンターに並べる。

 ルジェーナは迷いなく選ぶものもあれば、ときおり手を彷徨わせて、逡巡し、どうにか十二本の瓶を選んでカウンターに持ってきた。

 そしてまたタチアナに指示をだしいくつか選ばせて、それらをすべてを混ぜた後、最後に例の瓶の中身を混合液に落とし込んだ。


「よし、これでできます。ところで、いつ告白する予定ですか?」


 ベラと二人で手際よくかたずけながらルジェーナがそう問いかけると、タチアナは途端に顔を赤くしてふるふると首を横に振った。

「え! あ、あの、実はまだ決めてないんですけど……」

「そう、それなら良かったです。この香りが完成するのは二週間後なので」

 二週間。意外と時間がかかるものだとイェンスは驚いた。

 混ぜたら完成だと思っていた。


「あの、お金は……」

「そうですね……。これから二週間、毎朝あなたの家の焼き立てパンを一つもらえますか? それでいいです」

「え……本当にいいんですか? で、でも、うちのパンはそんなに高いわけじゃないし……」

「いいですよ。私が良いと言ってるんですから」

 戸惑うタチアナにルジェーナが穏やかに微笑んでみせると、タチアナはほっとしたように息をつき、そしてぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございます! 明日から毎朝持ってきますね!」

「はい。じゃあ、また明日」

「はい!」

 タチアナは元気よく返事すると、ぱたぱたと足音を響かせて店を後にした。

 扉が閉まった後、外で何か大きな音がした気がしたが……イェンスは気のせいだと思うことにした。


「さて、調香師の腕のみせどころね」

 ベラがにっと赤い唇を横に引いて笑う。片づけをおえた彼女は、いつのまにかイェンスの隣に立っている。

「……あなたにとってあの子は”香りの価値がわかりそう”なんですか?」

 単に鼻の良しあしという意味では分からないが、香水について詳しそうだったのは、あの金持ちの女だ。彼女は今日は香水をつけていなかったようだったが、きっといくつも他に持っているに違いない。自分のコレクションの一つに、この街一番の調香師の香水を加えようと言う気持ちだったのだろう。

 それにくらべてあの少女は、たしかに好感は持てるが香水に対しての理解はさしてないように見えた。

「ええ、もちろん。……まあ、あの女はいけ好かなかったし、あの子は可愛かったというのもなくはないけど」

 この店の店主はルジェーナであるはずだが、彼女もまたベラと同意見なのか、ベラの言葉に異を唱える様子はない。


「なるほど。さて、私もそろそろ失礼します」

 本題はとうに終えていたため、イェンスも帰ろうとして振り返った瞬間、後ろからベラに腕を掴まれた。

「二週間後の朝に来て頂戴」

「どうしてです? 私は必要ないでしょう?」

「来てくれた方が助かるわ」

「意味が分かりません。せめて理由がありませんと」

「助かるってだけよ」

「だから何が――」

「――二週間後に後悔しても知らないんだから」

 にっと口の端をつりあげてベラは笑った。

 今さらながらこの女のまとう雰囲気は、何かが普通とは異なっている。美しい顔立ちの女だが、髪の色は小麦色とあまり特筆すべきこともない。しかし彼女の赤い目はすべてを見透かしたかのようにじっと対象をとらえて離さないのだ。


「わかりましたよ。来ればいいんでしょう?」

「それでいいわ」

 イェンスが折れると、ベラは満足そうにうなずいた。

「それと、私に対しても敬語を使わなくていいから」 

「ベラ?」

 続いてベラがイェンスに言った言葉に驚いて見せたのは、ルジェーナのほうが先だった。 

 ベラが二週間後にイェンスを呼ぶことには口を挟まなかったというのに、口調の問題は気になるようだった。

「いいのよ。私の勘では、長い付き合いになるわ」

「……どうだかな」


 そんなことはないという意味も込めてつぶやいたイェンスだったが、彼はまだ知らなかった。


 そんなベラの言葉が、まったくもってその通りになってしまうとは。



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