親子
ヴェルテードの夜は、時計塔の最後の鐘の音とともに始まる。空が明るかろうが暗かろうが、ヴェルテード王国民にとって、最後の鐘の音の後は夜だった。
その夜もまだ始まったばかりのころ。
王都のオーシェルマン地区にある居酒屋に、金髪の男が二人向かい合って酒を飲んでいた。
「まさかお前に飲みの誘いを受ける日が来るとはな」
向かい合っている二人は揃いもそろって金髪に深い緑色の瞳を持っていた。歳が二回りほど違うことを除けば、二人は極めてよく似ていた。整った顔立ちも、酒の飲み方さえも。ただし、先に口を開いた男は頬に大きな傷が目立っていた。
「紫の髪の女性に、住所を教えたんだよな?」
職務上の立場では上司と部下だが、この場での二人は親子だった。
「……! どうしてイェンスがそれを知っている」
イェンスの言葉に驚いた男――エドガール・ヴェーダ――は、さっとあたりを見回してから、小さな声でそう言った。
「彼女は知り合いだ。そして、彼女の事情も知っているし、彼女に手を貸している」
イェンスが告げたその言葉に、エドガールは小さく息をのんだ。そして、目をつむってため息をつき、酒をあおった。そして、彼によく似た目を持つイェンスをじっと見つめる。
「お前は……どうしてあの娘を助けようと?」
「逆に聞く。同期でライバル……それはつまり、父さんにとっては大切な友人だったんだろう? どうして……放っておいたんだ?」
しばらくの間、二人はお互いを見つめ、否、にらみ合って動かなかった。相手の出方を伺うように少し構えた姿勢で相手を睨み続ける。そしてある瞬間、二人は同時に視線を切り、酒に手を伸ばした。
二人は同時に喉を鳴らし、食道を通る酒をその熱さで感じた。
「それがあいつと、彼女の望みだった。俺は生きろと。そして、見守ってほしいと」
あいつと彼女というのが誰なのか、イェンスにはすぐに理解できた。
しかし彼らはいつ知らせたのか。彼らの死は突然の出来事ではなかったのか。
頭によぎったそんな疑問は、続くエドガールの言葉によって解決した。
「あの二人は、頭のいい奴だった。あいつはどうして自分が死ぬか分かっていたようだし、彼女は、自分が濡れ衣を着せられることを分かっていた」
「それは……つまり、二人は死を自ら受け入れたのか?」
「そうとも言える。あいつらは盾になることを選んだ」
盾の家、ミル家。
彼らの祖先が初代国王に誓ったのは、盾になること。ヴェーダ家とはまるで反対の自己犠牲の精神。
イェンスはその精神を美しいと思ったが、遺されたルジェーナのことを考えると、なんともいえない気持ちになった。
「ばかだ。大馬鹿だよ。あの二人は」
やりきれないと言わんばかりに、酒を煽るエドガールは、ヴェルテード王国軍中将ではなく、ただの一人の男だった。
この時イェンスは、自分の問いが愚問だったことを悟った。エドガールの痛切な表情を見れば、放置することが彼の本意でなかったことはすぐに知れた。
「真相を、父さんは知ってるのか?」
エドガールは酒を飲む手を止めた。そしてゆっくりとイェンスを見た。
「お前よりは多くのことを知っている。たとえば……彼女は処刑ではなく、自殺した、とかな」
「自殺!?」
「声が大きい」
イェンスの放った物騒な単語は、居酒屋の喧騒にまぎれて気にも止められなかったが、エドガールは慌ててそう言った。イェンスもまた、自分の声が思ったよりも大きかったことに気づき、少し声のトーンを抑えて問い返す。
「どういうことだ?」
「どのみち処刑される予定だったのは事実だ。ただし、彼女は死ぬ方法と時を選んだ。そうしなければ……彼女の娘はもっと窮地に立たされたはずだ」
「窮地?」
エドガールは酒を飲み干すと、もう一杯追加で頼んだ。そしてからりと上がった軟骨のから揚げを口に放り込むと、それを食べた。
そんな父の行動に、イェンスはいらだっていたが、エドガールの手がかすかに震えていることに気づいた。エドガールもまた、平常心ではないのだ。
イェンスはそれに気づいたおかげで、父のまどろっこしい態度をどうにか許容できるようになり、自分も酒を口にする。そして、エドガールに言葉の先を目で促した。
「髪の色だ」
その言葉で、イェンスはミーナが言っていたことを思い出した。ユリアは紫色の髪だったかもしれないと。
「あの女は、あいつと同じ色でいたいという理由で、常に髪を黒に染めていた。だからこそ、あいつらの子どもを見たことがないやつは皆、その子どもも黒髪だと思っている」
「まさか……時を選んだというのは……」
「ああ、一か月も先に死ぬのでは、地毛の色がばれるということが一つの懸念だったはずだ。もちろん、あいつと同じ死に方を選んだとも考えられるが」
「悪魔の滴……?」
「ああ」
イェンスは熱い酒を飲んでいるというのに、体が冷えていくのを感じていた。ルジェーナは両親が殺されたと信じている。しかし本当は、彼女の母親はルジェーナを守るために自ら死んだのだ。
さすがは盾の家と言うべきか。
その崇高なる自己犠牲の精神は、しかし、確実に彼女の娘の精神を蝕むことになる。
「ただ、あいつが死んだおかげで、罪は無事あいつになすりつけられた。そしてだからこそその娘は悲劇の大佐の娘として、生かされることになった。もし彼女が容疑を否認すれば、間違いなく魔の手は娘にも向かっただろう。おそらく間違いなく共犯者にされてしまったはずだ。ところがそうしなかったことで、娘は母を疑っているのだという”印象”を対外的に与えることができた」
「そして……あの髪の色のままあいつは生きられるってことか。むしろそちらの方が都合が良いぐらいだった」
黒髪の両親から紫の髪の娘は産まれない。紫の髪というだけで、その出身がどこか知れる。そして、その出身のものはみな紫色の髪であるから、両親ともにそうでないならば、子どもが突然変異を起こすことはあり得ないとされている。
つまり彼女は特殊な髪色をむしろ隠れ蓑に、彼女の両親との関係性を否定しているのだった。
「さて、今度は私の番だ。どうしてお前は彼女を助けようと思った?」
エドガールは新たに運ばれた酒に口をつけると、じっとこちらを見つめた。
「最初は……何も知らずに出会って、ただ無茶な女だと思っただけだった。でもある時、俺は彼女の母親に出会った時のことを思い出したんだ。そして、彼女がその人の娘だとも。そうしたら、どうしてあいつが無茶をするのか分かった。そして、それを知った時にはもう、助けたいと思うくらいには親しくなっていたし、彼女が捨て身で行動することがあれば、止めたいと思うようになった」
イェンスの話は抽象的だったが、エドガールはそれについては口を挟まなかった。ただ静かに聞き、そしてぽつりと問いかけた。
「彼女を助けたいと思うのは、お前があの子のことを好いているからか?」
その質問に、イェンスはまたしても答えられなかった。
まだ、彼の中で分からない部分がある。
「分からない。もしかしたら、あの人の娘だからかもしれないとも思ってる」
「どういう意味だ?」
「俺は……あの人に淡い憧れを抱いてた。一目惚れだった」
「!」
その告白にエドガールは大きく目を見開き、そして首を振りながらため息をついた。
「お前もか……どうなってるんだ全く」
「お前、も?」
「俺もかつて彼女に一目惚れした」
「え!?」
思いもよらぬ告白に、イェンスは再び大きな声をあげてしまう。そしてどういうことかと自分そっくりの緑色の目を見つめると、彼は決まり悪そうな顔をして言った。
「一目惚れしたが、一瞬で失恋した。彼女があいつにベタ惚れだったからな。その失恋の痛手を味わった後に出会ったのが、ライラだ。ちなみに誤解のないように言えば、ちゃんとライラを好きになったから結婚した」
さりげなく付け足された一言に、イェンスは自分でも意外なほど安堵していた。心のどこかで、父エドガールには母に一途でいてほしいという気持ちがあったのかもしれない。イェンスはそんな風に考えた。
「それで……お前はもしかして、彼女にそっくりな彼女の娘を見て、ただ彼女の面影を重ねているから大切にしたいんじゃないかと思ってるのか?」
それはまさに、イェンスが懸念していたことそのものだった。
図星を指されて、イェンスはさっと視線を逸らす。
「なるほど。それは……自分で答えを出すしかないな」
「分かってる。ただ、この気持ちが恋にしろ、単なる友達への親愛にしろ、俺はあいつの味方をすると決めた」
もう戻れないことだけは、イェンスも自覚していた。見知らぬ他人のように振舞って、彼女の奮闘を見て見ぬ振りをすることは出来ないのだ。
イェンスの覚悟を決めた表情を見て、エドガールは小さく頷くとふっと笑って言った。
「好きなようにやれ。俺にはできなかったことだ」
エドガールの笑みは、何もできなかった自分への自嘲のようにもイェンスには思えた。
「それとあいつには、俺があいつの素性を知ってることは言ってない。話を合わせてほしい」
イェンスがそういうと、エドガールは眉をひそめて問い返した。
「何故言わないんだ? 知っていると分かれば、もっと情報を共有できるだろう?」
「それはそうだけど、全てを共有してしまえば、俺はあいつの頼みを断れなくなる。知らないふりをして、あいつの暴走を止めたいんだ」
「……そうか」
先ほどより冷めたから揚げをつまむと、エドガールはコリコリとそれを食べた。イェンスもそれにならって同じものをつまむ。食べ物をただ噛むという作業は、イェンスが思っていたより、心を落ち着かせてくれた。
どうしても言っておかなければいけないことを言うために、イェンスはじっとエドガールを見つめた。するとエドガールもそれに気づいてイェンスに視線を向けた。
「それと……俺は俺の正義に従う。もしあいつがヴェーダの正義に反しても、俺は止めないかもしれない」
しばしの間、二人の男は無言で見つめ合っていた。その表情は険しく、むしろ睨み合っているという表現の方がしっくりくるかもしれない。
二人の間に落ちる沈黙は、煩い居酒屋の中では全くもって無いに等しかった。多くの客のうち一組が黙っても、居酒屋の空気に何の影響もしない。
しかし二人があまりに鋭い目つきで互いを睨んでいるので、店員がチラチラと視線を向けていた。このまま二人が殴り合いをするのではと思ったのだ。
しかし、エドガールが先に視線をそらし、沈黙を破ると、店員は興味を失って自分の仕事に戻った。
「ヴェーダの正義に反しても……か。あの事件に何が関わっているのか、大体の予想は出来ているんだな?」
「ああ」
「……そこまでの覚悟があるなら止めはしない。止めても止まらんだろうからな」
エドガールはそういうと店員を呼び、酒の肴を追加で注文する。
イェンスはその様子を見ながら、ただ静かに酒を飲む。
「もし、彼女がお前の正義に反しそうになったら……どうする気だ?」
「その時は止める」
即答したイェンスに、エドガールはホッとしたように息をついた。
「そうか」
このあと二人は、静かに酒を楽しんだ。それぞれが小さな決意を胸に秘めながら。




