守りたいもの
金色の癖のない髪に、深い緑色の瞳。彼の姿を見たとき、ルジェーナは言い表せぬ安堵感を覚えた。休みの日なのか、彼は軍服ではない。
「イェンス・ヴェーダ大尉か」
男は憎々しげにそういうと、剣からは手を離した。思わぬ人物の登場により、彼は少し頭が冷えたようだった。
「思いとどまっていただけて、何よりです。ヴァルター・ブルネッティ中佐」
「……非番の日に、何故こんなところに?」
「彼女は私の友人なので」
イェンスはなんのためらいもなくそう言い放つと、すっとヴァルターの隣まで歩いた。
「それで、どうしてこんな狭い香水屋で、剣を抜こうなどと?」
「リシャルト殿下のご命令を遂行しようとして、妨害されたからだ」
ヴァルターは胸を張ってそういったものの、少し気まずげな表情を見せた。ヴァルター本人も、素手の素人相手に、武器を向けようとしたことには多少の反省をしていた。
「妨害? 彼女は武器を持っているようには見えませんが。まさか気に障ることを言われただけで、リシャルト殿下付きの近衛隊長が暴挙に出たんですか?」
「くっ……ヴェーダの名を鼻にかけていると、そのうち痛い目を見るぞ!」
「ご忠告はありがたく頂戴いたします」
イェンスはそういうと、愛想のよい笑みを浮かべながら言った。
「そうそう、リシャルト殿下はご存知ですが、私はイザベラ殿下とも親交がありまして……イザベラ殿下がこのことを知れば、おそらく彼女は黙ってはいらっしゃらないでしょうね」
「なっ……調子に乗るのも大概にしろよ! ヴェーダだからすべて許されるとでも思っているのか?」
「いいえ。私は、私の信念に従って行動しています」
「このことはリシャルト殿下に報告する! あと、そこの娘! お前が態度を改めなければ、次は本当に剣を抜くこともいとわん!」
ヴァルターはそう叫ぶと、踵を返して開け放たれた扉のそばまで歩いた。イェンスはカウンターの上にあるものを片手で持ち上げた。
「忘れ物ですよ!」
そういうと、イェンスは何のためらいもなく、金貨の入った袋をヴァルターめがけて放り投げた。その袋重みのせいでかなりはやい速度でヴァルターまで到達したが、彼はそれを全く動じずにつかんだ。
そして怒りのこもった視線で一度イェンスをにらみつけると、外で待っていた二人の部下を連れて去っていく。イェンスは一度入口まで歩いて扉を閉めた。そして再びカウンターに戻りながらつぶやく。
「レナルド・シャブルー中佐なら、もう少し穏便に話を進めてくれただろうけどな」
リシャルトのもう一人の片腕、レナルドは比較的冷静な人間である。多少、軽いところがあるのは否めないが、少なくとも一般市民相手に大人げなく逆上したりはしなかたったはずだ。
「イェンス! 大丈夫なの?」
「何がだ?」
「だって、あの人のほうが階級が上なんだよね? 上司に逆らうなんて」
「軍人としてはご法度だな」
イェンスはそう言いながらも、ルジェーナを見た。そして彼女に怪我がないことを確認すると、安堵の息を吐き、そして、微笑んだ。
「とにかく、怪我がなくてよかった」
微笑みかけられたルジェーナは、大きく目を見開いてそして口を開きかけた。心配をかけたことを謝ろうと思ったのだ。
しかし、前回イェンスと最後に話した時のことを思い出し、首をぶんぶんと振りながら言った。
「この前も言ったけど、これ以上関わらないで! 確かに今回は助かったけど……でもこれ以上、私と関わったら――」
「――危険に晒されるって?」
「そうよ!」
「それでもいい」
イェンスのキッパリした声が、静かな店内に響いた。
「それでも、いい?」
「ああ。俺はお前の味方をする。お前が俺の正義に反しない限りは」
「反したら?」
「全力で止める」
「ほら、やっぱり!」
「でも、俺の正義とヴェーダ家の正義は違うものだ」
静かな声音で言ったイェンスの言葉に、ルジェーナはその意味を問うように目を細めた。
「もしお前が王家に仇なしても、それが俺の正義に反しなければ、俺は止めない。止めずに、むしろ手伝ってやる」
「……!」
静かな決意をたたえた深緑の瞳は、ルジェーナの紫色の瞳とかちあった。
二人は一歩も動かず、瞬きも、呼吸すら忘れて見つめあった。
それは、時間としてはほんの一瞬。しかし二人にとっては永遠のように長い一瞬。
先に動いたのは、ルジェーナだった。
「約束して」
「何を?」
「絶対に私のために死なないと」
「!」
イェンスにはルジェーナの気持ちを正確に推し量る術はない。しかし、彼なりに彼女の気持ちを想像することはできた。
彼女が本当に恐れているのは、何であるのか。
だからこそ、イェンスはふと真剣な表情をして、カウンターに左手をついた。そして、右手を伸ばし、ルジェーナの頭の上にぽんと乗せた。
「死なないと誓う」
「でも……」
「それに、死なせないとも誓う」
視線の高さを合わせて、イェンスは彼女の瞳を覗き込む。その瞳の中に映る自分の顔を見て、イェンスは目を丸くした。それに合わせて瞳の中の自分の表情も変化する。
「もし、死にかけたら、私を盾にしてでも生きて」
彼女の瞳は美しく澄んでいた。これほどまで近づくと、彼女が甘い花の香りの香水をつけているのだとイェンスにも分かった。
「もし、死にかけたら、一緒に逃げる」
「そういうことじゃないの」
彼女は不満げな声をもらすが、イェンスの手を振り払おうとはしない。
「そうならないように、俺は側にいる。だから……」
イェンスは一度言葉を切った。そして、彼は言う。
「隣に立たせてくれ、シル」
イェンスがそういうと、しばらく沈黙がその場を満たした。
しかし数瞬後にルジェーナは、大きく目を見開き、急に二人の距離の近さに気づいたかのように、二歩後ろに下がった。彼女の顔は真っ赤になっていて、片手で口元をぱっと押さえた。
イェンスは手持ち無沙汰になった右手を下ろし、カウンターに乗り出していた体を引いた。
「……びっくりした」
「え?」
「まるで、騎士がお姫様に誓う言葉みたい」
沈黙の後何を言うのかと思えば、ルジェーナのそんな言葉。
「それなら守らせてくれ、が正解だと思うけどな」
イェンスはふっと笑みをこぼす。
守らせてはくれないお姫様は、一体どうしたものか。
「……よろしくね。イェンス。いつか後悔しても知らないんだから」
ルジェーナも笑みを漏らし、少し冗談交じりな口調でそう言った。
「後悔しないさ。自分で決めたことだからな」
イェンスは徐々に、ルジェーナをどう思っているか分かりかけていた。イェンスは何があろうと彼女から目を離せないし、もし彼女が死にかけるようなことがあれば……イェンスは誓いを破ってでも、彼女を守ろうとするだろうと。
「それに、お前が危険なことに首を突っ込もうとしてたら、俺は止めるから」
「でも、止めながらも結局ついてきてくれるんだよね?」
にっこりと笑いながら、期待に満ちた目でそう言われれば、イェンスは否とは言えなかった。
返事の代わりに大きなため息をつき、金色の髪をぐしゃっと掻きむしった。
「ったく、しょうがないな」
「じゃあ、これ、付いてきて欲しいんだけど……」
「おいおい、早速かよ」
イェンスはそう言いながらも、ルジェーナがどこからともなく取り出した紙切れに視線を移す。
「これは?」
「知らない男の人がくれたの。でも彼は私の名を知っていて、私の知りたいことも知ってるみたいなの」
「怪しいやつすぎるだろ……読んでいいのか?」
「うん。その人の住所みたい」
イェンスは紙切れを受け取り、さっと目を通した。
最初は小さくうなずき、あるところで視線を止めた。そして彼は再び最初から紙を読んだ。
次に目をこすり、そしてもう一度見る。
「イェンス?」
彼の奇行を不審に思ったルジェーナは、首を傾げて問いかけた。
「これ……もしかして、金髪で深い緑色の、頬に傷がある四十代ぐらいの男からもらったのか?」
「そうそう!」
ルジェーナがそういうと、イェンスは思い切り舌打ちして、髪を掻いた。
「何やってんだよ、父さん」
「え?」
「これは……うちの家だ」
「ええっ!?」
イェンスが握っている紙の切れ端。
そこにかかれている住所は、ヴェーダ家の住所だった。




