居酒屋にて
ルッテンベルクの大通りから少し外れたところにある小さな居酒屋。
壮年の夫婦が営むその居酒屋は、いつも客で溢れている。この居酒屋に足をよく運ぶ客は、一人できてここの他の常連客と相席することも少なくない。
その居酒屋に入ってきたのは、二人の男に一人の女だった。
あまり癖のない金髪に深い緑色の青年は、まず店の女主人に挨拶をして、人数を告げた。彼女は、それに応えて奥の空いている四人席を差した。
その様子を見ていた、癖のある茶色の髪の男は、居酒屋の女主人に片手をあげてあいさつし、そしてさっと先に席まで歩いた。
最後についてきた短い髪の、今日は黒髪の女性は、愛想よく女主人にあいさつし、店の男性客の目線を集めていた。
この居酒屋の客層はほとんど男、それも子持ちの男が多かったので、若い女性は非常に目立っていた。
しかし何人かの勘の良い男は、女性の視線の向く先に気づいた。彼女はかなり真剣に、前を歩く茶髪の男を見つめていた。
また、何人かは、軍服こそ来ていなくとも、先の男二人のブーツが、軍の支給品だと気づいていた。
そのため、誰も彼女に声をかけることなく、彼女は店の奥まで進んで行った。
彼女は自分たちの席に来ると、男二人が向かい合って座っていることに気がついた。彼女はどちらの男の隣に座るか選ばなければならなかった。しかし彼女は、好きな男の顔は見ながら話したいタイプだった。
「ねえ、私、奥の席のがいい」
彼女がそういうと、茶髪の男が立ち上がりかけた。
しかしそれよりもすばやく、金髪の男が立ち上がった。
「代わる。これでいいんだな?」
「ありがと。イェンスは察しが良くていいわね。全く、この鈍感男をどうにかして」
短い、今日は黒髪の彼女はキッと茶髪の男を睨むと、彼の真正面に座った。そしてイェンスはミーナの隣に座る。これは三人で座るときの定位置だった。
「ミーナに無理なのは俺も無理だ」
イェンスは首を振って、呆れたように茶髪の男を見た。
「なんだよ鈍感男って。俺だって譲ろうとしただろ?」
「あーもうっ! なんでジュールは毎回毎回のことなのに、どうして気づかないかなぁ!」
ミーナは苛立った様子でそういうと、手をあげて女主人を呼び、酒を三つ注文した。
鈍い鈍いと言われているジュールは、少し首をひねった後、あ、と小さく声を漏らした。
「よく考えれば、お前、いつも俺の前にいるよな?」
お。とイェンスは思い、じっとジュールを見つめた。
え。とミーナは思い、少し照れて視線を下に外しながら言った。
「そ、そうよ! あえてそう座ってるの! 悪い!?」
これはもしかしたら、ジュールでも気づくかもしれない。よくやった、ミーナ。
心の中でそう思っていたイェンスは、次の瞬間、ジュールはジュールでしかなかったことを知る。
「なんでだ?」
コテンと首を傾げて尋ねるジュールには、計算はない。ただの天然ボケだ。
ミーナは苛立ったのか、怒りでプルプルと震えている。しかし太ももの上でぎゅっと拳を握り締めると、何かを決意したように視線を上げた。
「なんでって、好きだからに決まってるでしょ!」
騒がしい居酒屋の喧騒が、ミーナの声で一瞬静まった。その静けさの中、あえてなのか、女主人は三人のテーブルに酒を置いた。
彼女は溢れそうなほどグラスいっぱいに入った酒を、ミーナの前に置いた。そして、にかっと笑って言った。
「お待ちどうさま。がんばんなよ、お姉ちゃん」
女主人が去ると、急に居酒屋全体がヒソヒソ声に包まれた。視線は三人のテーブルに向けられている。
ジュールはミーナの言葉の意味があまり呑み込めていなかった。どうしてその席が好きなのか、やはり分からないと思った。ところが彼は、閃いた。自身の天才的な閃きに、彼はにっこりと笑った。
イェンスとミーナは、ジュールの表情を見て、二人で視線を交わし、今日こそは彼に伝わったと確信した。
だからこそ、緊張した面持ちだったミーナが、どうにかジュールに微笑み返そうとした時だった。
「イェンスの隣がいいんだな! いやーまさかミーナがイェンスを好きとは知らなかったなー」
え。
居酒屋にいた全員が同じことを思い、全員がミーナを一斉に見つめた。
ミーナはガタリと立ち上がり、酒のグラスを男らしく掴んだ。そしてそれを一気に飲み干した。ゴクゴクゴクと喉がなる。
実に男らしかった。
隣のイェンスはもはや呆れて何も言えず、彼もまた静かに酒をあおった。
「おいおい。乾杯もなしかよ」
ジュールはそういうと、二人に合わせて酒に口をつけた。
「上手い」
そして呑気にそんなことを言った。
「そうよ!」
酒を一気に飲み干したしたミーナは、立ったまま一言叫んだ。もはやこの居酒屋で言葉を発しているのはミーナだけだった。
「私、イェンスととーっても仲良しなの!」
彼女はそういうと、座っているイェンスの頭を思い切り横から抱きかかえた。
巻き込まれて嫌そうなイェンスの顔は、ジュールからは見えない。
「やっるねー」
ジュールはそういうとグラスを掲げて、飲んだ。彼に全く動揺の色はない。
「って、んなわけあるかーーーっ!!」
ミーナは全力で叫ぶとともに、イェンスを思い切り突き飛ばし、その反動で自分の椅子に足をぶつけた。
突き飛ばされたイェンスは、かろうじて椅子から落ちなかったが、こっそり椅子を動かしてミーナから離れた。
「ん?」
急に発狂したミーナに、ジュールは首を傾げた。
「私は! あんたのことが!」
ミーナはビシッとジュールを指差すと、途中まで潔く言った。居酒屋にいる客も、店主夫婦も、イェンスもまた、彼女をじっと見つめていた。彼らはなにも話さなかったが、心の中で叫んでいた。
行け!その調子だ!
「私は、あんたのことが!」
大切なことだからなのか、ミーナは二度、繰り返した。しかし肝心のその先はまだだ。
「俺のことが?」
ジュールは、全く動じる様子もなく、ただミーナの奇怪な行動に首を傾げていた。ミーナは息を吸い、そして、言った。
「私は、あんたのことが好きだっつってんのーっ!」
ミーナはぜいぜいと荒い息をしながらそう叫んだ。
ジュールはにっと笑って言った。
「ああ! だから俺の前なんだな。俺もミーナ好きだなー」
そして当然のように言った。
居酒屋は一気に盛り上がり、手を叩いたり口笛を吹いたりするものもいた。
イェンスは頬杖をつきながら、じっと次のジュールの言葉を待つ。
ミーナは、口を開けたり閉じたりして、微かに赤くなったあと、聞いた。
「どういう意味?」
「ん? そのまま好きだってことだよ」
頬杖をついていたイェンスは、少しだけ期待を込めてジュールを見た。
「だから、それは……その、どういう意味?」
「どういう意味って……好きは好きだよ。だってお前面白いし、最高の同期で親友だろ」
机の端で頬杖をついていたイェンスは、思わず手から自分の顔が滑り落ちて、ぐらりと体勢が傾いた。
居酒屋の他の観客も、そりゃないぜと呻いている。今日初めて会ったはずの彼らは、すでにミーナの味方のようだ。
ミーナは、大きくため息をつき、へなへなと椅子に座り込んだ。
いつのまにか側にいた店の女主人が、さっと酒入りのグラスを一つミーナに差し出すと、何度か頷きながら言った。
「人生、そういうこともあるよ。これはサービスさ」
「ありがとうございます……。そうですよね、こんなことでめげてちゃダメですよね!」
ミーナはそういうと、グラスの酒を今度は一口だけ飲んで、置いた。
「料理、頼みましょう。ジュールの奢りね」
「おいおい。ここはイェンスに払わせるべきだろー。いくら給料違うと思ってんだ?」
「ジュールに払わせるべきよね?」
イェンスは、もうミーナが暴れることはないと踏んで椅子を元の位置に戻しながら言った。
「もちろん。……まあ、とりあえず、ミーナの分ぐらいは出せよ」
「ええー同じ階級なのに」
ジュールはそう文句を言ったが、思わぬところからミーナへ援護が入った。
「にいちゃん、そのぐらい出せよ、男だろう!」
「そうだそうだ!」
居酒屋でほとんど紅一点の彼女を、客はみな応援していた。
ミーナは美女とは言い難いが、愛嬌のある平凡な顔である。平凡であるということは、つまり、醜くもなく、取っつきやすいということと同義であった。
店の客はまるで娘のように、ミーナに親しみを抱いていたのだ。
「わかった! 分かりましたよ」
周囲からの声もあり、ジュールはそれを承諾する。そしてそれなら、と言って、食べたいものを遠慮なく頼んだ。ミーナもまた容赦なく頼んでいく。
イェンスは注文は二人に任せ、一杯目の酒をのんびり飲んでいた。
「そういえば……イェンスに言いたいことがあったの」
「言いたいこと?」
三人ともすでに酒は入っているが、ミーナの顔が真剣そのものだったため、二人もそれに合わせて背筋を伸ばし、耳を傾ける。
他の客はすでに三人から視線を外して、各々の会話に戻っていた。しかしミーナは念のため、聞き耳を立てられていないかさっと確認した。
そして、テーブルの真ん中に身を乗り出し、小さな声で言った。
「ミル大佐のこと、調べてたよね?」
「……ああ。もしかして、調べたのか?」
「ごめん。でも、気になって」
ジュールは何の話だと首をかすかにかしげたが、口は挟まず、ただ話に耳を傾けていた。イェンスもまたテーブルの真ん中に身を乗り出して、小さな声で言った。結果、三人はほぼ額をつけるような形で話すことになる。
「何かわかったことは?」
「まず、情報がかなり遮断されているのは感じたわ。諜報部隊という軍の中で一番、情報の流れのよい場所にいる私が言うんだから間違いない」
ミーナはその平凡な顔だちを生かして、諜報部隊員として働いていた。そのために彼女は会うたびに髪の色や、化粧の仕方などが変わっている。いかに人の記憶に自分の顔を残さないかに努めている彼女だったが、今日の居酒屋の客たちの記憶には、きっと深くその印象を残してしまったに違いなかった。
「それと、ユリアさん――でわかるわね? 彼女は元宮廷薬師で、しかもものすごく優秀だったみたい。当時の彼女の同僚と話しをしてみたんだけれど、どの人も彼女を高く評価していたわ。敵を作るタイプでもなかったみたいだし、殺人で処刑された時には、みんな驚いたそうよ。それに、彼女が大佐を”悪魔の滴”で暗殺したっていうのは腑に落ちないっていう話も聞いた」
「どういう意味で、腑に落ちないんだ?」
イェンスもその意見には同意だったが、何か新しい観点があるかもしれない。彼はそれを期待して、小さな声で問いかける。ジュールは誰のことを話しているかと理解し、すっと真剣な表情になった。
ミーナはそんな二人を見ながら、やはりささやき声で言った。
「彼女なら……完全犯罪は可能だった、それが全員の見解のようね」
「完全犯罪?」
ジュールが眉根をひそめると、ミーナは言葉を付け足した。
「彼女は非常に優秀な薬師だったから、証拠を残さず誰かを毒殺するなんてわけない……っていうことらしいわ。それに……彼女の処刑について疑問が上がっているの」
「……公開処刑じゃなかったことだな?」
一人を殺して処刑というのは、刑としてはかなり重い。それは殺された人物がミル家の当主かつ、非常に優秀な軍人であり、国にとっての損失が大きかったからである。しかしもしそういう判断で容疑者に厳罰がくだされたのならば、その処刑は公開することが多かった。最近は人道的な問題でかなり数は減ってきているが、アルナウト・ミルという人間の損失はそれほど国にとって大きいものだったのである。
「そうよ。それに処刑方法すら、記録に残っていないなんて不自然すぎるわ。それと……これは、最期に彼女の死体を葬った看守の話なんだけれど……彼女は北東部に住む異民族の血を引いているかもしれないそうよ。きれいに黒く染められていわかりにくかったようだけれど、根元に淡い紫色の毛が少しだけ見えていたそうなの」
「そうなのか?」
イェンスはそういわれて記憶をたどるが、彼女の髪色については覚えていなかった。ただし暗い中で目立たない色ならば、それは淡い紫色ではなくて、黒だったのかもしれない。
「でもそのことを聞いてから、同僚だった薬師のひとに聞いてみたけど、みんな黒髪だったって答えてた。だからずっと染めていたのか、もしくは単に看守の気のせいかもしれない。彼はもう高齢だから」
看守の証言は正しい。なぜならルジェーナの髪色が、まさに淡い紫色だからだ。淡い紫色は突然変異で出るような色ではない。そしてアルナウト・ミルがその血筋でないことは明白なのだから、自然とユリア・ヴァン・ミルは北東部の異民族の血を引いていることになる。
「それにしても……あの看守のお爺さん。何かを隠しているようだったのよね……」
「何かを?」
「うん……。彼が彼女を葬ったのだと誰に聞いたのかってすごい剣幕で聞かれたの。確かに記録上は彼の名前はなかったんだけれど、諜報部で殉職した方の日記を読んで、彼が葬ったって書かれていたから」
「なんでそんな日記を?」
ジュールがイェンスよりもさきに疑問を口にした。するとミーナは少しだけためらったあと、覚悟を決めたように告げた。
「実は……その人、任務の度に日記を私に預けてたの。そして、もし自分が死んだら、その中身を読んで、そして燃やしてほしいって。そこに書いてあることは、大変危険な情報もあるから、扱い方には気を付けろって。なんで私なのかって思ってたけど、どうやらミーナっていう名前が、亡くなった奥様と同じだったみたい」
「その人、何歳くらいなんだ?」
「四十くらいだったわ。それで読んでみたら、こう書いてあったの」
私はミル夫人の死について、知っていることがある。
彼女を最後に葬ったのは、当時の警察部隊第三連隊長だ。
「二文だけか?」
「そう。それで調べてみる気になったってわけ。そしてそのお爺さんに日記の存在と、それを燃やしたことを話したら、少し考えた後に、髪の毛の話をしてくれたのよ」
「……なるほど」
「今回わかったことはこれくらいよ」
ミーナはそういうと、少しだけ身を引いて体制を戻した。
「情報に感謝はする。ただ、これ以上は首を突っ込むな」
イェンスもまた身を引きながら、ミーナを見てはっきりとそう言った。するとミーナはその反応に驚いたそぶりもなく、むしろあきれたようにため息をついた。
「やっぱり……危険だとわかってるんだね? 私は今日は忠告したかったの。情報収集のプロでも、危ない綱渡りだったんだから。あなたはそういう点では素人だわ。それに……ヴェーダ家のあなたの動きは目立ちすぎる」
「この件からは手を引いた方がいい。ミーナだけじゃない。お前もだよ、イェンス」
話を聞いていたジュールが真剣なまなざしでイェンスを見た。二人に心配され、止められて、それでもイェンスは自分の心に全く揺るぎがないことに気づいてしまった。
「悪い……もう、引き返せないんだ」
イェンスは心の底から、ルジェーナを助けたいと思っている。そしてもし彼女が真相を見つけ、復讐を試みたとき、それを止めたいのだった。
それが恋からくるものなのか、単なるおせっかいなのか、それとも初恋のユリア・ヴァン・ミルの無実を晴らしたいのか、イェンスにはわからなかった。
しかしもう、かかわらないという選択肢だけは、イェンスの中に存在しない。それだけは確かなことだった。
「……気を付けて。私は本当に手を引くわ。これ以上は、危ないから。でももしイェンスが、さらに踏み込むというのなら、覚えていて」
ミーナは一度酒に口をつけ、そして、それを置いた。そして彼女はそのグラスの中に入っている酒を見つめながら言う。
「あなたの進む道は、この王国の闇で……それはもしかすると、ヴェーダ家の家訓に反するかもしれない」
ミーナの言葉で、先日のルジェーナの言葉を思い出した。彼女もまた、似たようなことを口にしていた。
「やめとけよイェンス。そもそも何のために、六年も前の事件を調べたいんだよ?」
ジュールの疑問は最もなものだった。イェンスはまだ、二人にルジェーナについて何も話していない。そしてこれからも、二人には話さないつもりだった。
今、イェンスはベラがパーシバルを巻き込みたくないという理由が嫌というほど納得できた。イェンスにとってミーナとジュールは士官学校からの大切な同期かつ友人である。
彼らが軍人として殉職するならば、その覚悟はあるが、まったく違う理由で命を狙われる危険性にさらすことはできない。
「何も……言えない。でももし、俺の身に何かあったら……月下のもとで咲く花の姫に事情を聞いてくれ」
「……!」
エノテラの別名は、月見草である。植物に詳しいジュールはすぐに理解したらしく、ぶるりと身震いしてから、イェンスを見た。ミーナはまだわからないようで、困った表情をしている。
「おまちどうさん」
店の女主人が、おいしそうな料理を運んできた。魚介をたっぷりと使ったスープは、色味も暖かく、湯気がほかほかと立って食欲をそそる。
この女主人は絶妙なタイミングで、ほしいものを持ってきてくれる。
「ほら、食べるぞ」
イェンスはあえて明るくそう言った。すると、不安げな表情をしていたジュールも首を横に振り、そしてあえて明るく笑って言った。
「おう。ほんとにうまそうだなー」
ミーナもまた、二人に合わせてにっこりと笑った。
「おいしそう!」
こうして三人の夜は更けていく。
途中でミル大佐について話した事実などなかったかのように、明るく、楽し気に。




