覚悟
ルッテンベルクの路地の奥にある一軒の香水屋。その店の壁に背を預けて立っているのは、金髪の髪の青年だった。彼は縦に長い金属の箱を、ぴたりと耳に着けてそこに立っていた。
「ねえ、ど……て、王宮に?」
すると、箱が突然、話し出す。その音量は小さく、耳にぴったりと当てないと聞こえないほどだったが、内容を把握するには十分だった。
「誰から……たの?」
「イェンスから」
「き……会ったの?」
「昨日、る……が行ってからすぐに」
決して明瞭ではないが、こんな具合で、中の二人の会話は進んでいく。
十分ほど、聞きたいことをあらかた聞いたところで、青年は金属の箱を耳から離し、箱の中側面にあった赤いボタンを押した。すると箱はただの箱のようにぷつりとしゃべるのを止めた。
そして、しばらく待っていると、小麦色の髪の女が店の外に出てきた。
彼女はきしむ扉を丁寧に閉めると、外で待っていた青年に、ポケットに入るほどの小さな箱を渡した。代わりに青年が耳に当てていた、長い箱を受け取る。
「これ、うるさいわね……ずっと音が鳴ってるんだもの」
「うるさい? 今もか?」
「イェンスには聞こえないの?」
ベラが持っていた小さな箱からは、絶えず高い耳障りな音が鳴っていたが、それは常人には聞こえぬほどの高い音だった。
しかし耳の良いベラは、そんな高域の音も聞き取ってしまい、頭痛に悩まされていた。
「ベラほど耳が良くないからな」
イェンスがそう言って肩をすくめると、ベラは信じられないとばかりに目を見開いた。
「耳が良いのも良し悪しね」
「まったくだ」
「それで、どのくらい聞こえた?」
「内容の復習の前に、俺が店に入るんだろう?」
「ええ。そうだったわね」
ベラが縦に長い箱の横のボタンを押すと、それを耳に当てた。しかし、雑音に耐えられず、少し耳を話す。
それを見ていたイェンスは、ベラに下がっているように合図して、小さな箱は胸のポケットに入れた。
そしてゆっくりと扉を押し開けて、店に入る。
店内は相変わらず香りに満ち溢れていた。店の奥のカウンターには、淡い紫色の髪をした女性が、少し困った顔をしてイェンスを見ていた。
「ベラに会った? さっきまでいたの」
「ああ。すれ違った。もしかして同じ要件か?」
「まだイェンスの要件を聞いてないよ」
「ルジェーナは分かってるんだろ?」
ルジェーナはカウンターの端にあった調香用の器具を手繰り寄せ、香料の入っている棚に向かう。
「昨日、どうして王宮に行ったか、でしょう?」
イェンスはルジェーナの目を見ようとしたが、ルジェーナは全くイェンスを見ようとはしなかった。
「依頼を受けたの。カトリーナ殿下の香水を作って欲しいって、頼まれて」
ルジェーナは棚から瓶を取り出して、中身を確認するかのように蓋を開けた。
その動作は、話をしながらやる必要性のないものだったが、ルジェーナは目を合わさない理由を作るためにそうしていた。
「どうして殿下に?」
「侍女がね、私の望む香りを作れるものを連れてくるまで帰ってくるなって言われたんだって。その人があまりに必死だったから、引き受けたの」
唐突に、イェンスは自分がルジェーナの素性について知っているとバラしたくなった。
もしそう言えば、ルジェーナはベラだけでなく、イェンスも巻き込む気になるのではないかと考えたのだ。
しかしイェンスが話だそうとする前にルジェーナはふと思いついたように違う話題を出してきた。
「そう言えば、タチアナさんに会ったの。告白できたんだって。お母さんとも仲が良くてね……私、嫌になっちゃった」
「嫌に?」
ここでルジェーナは初めてイェンスの目を見た。彼女の淡い紫色の瞳には微かに潤み、口元は寂しげな微笑をたたえている。
イェンスは嫌な予感がして、胸元のポケットにちらりと視線をやる。
そして予感は、見事に当たった。
「幸せな家族を見て辛いの。そして、タチアナとそのお母さんを見た時に思ったんだ。私がベラと一緒にいられるのは、ベラが家族と上手くいってないからなんだなって」
イェンスはベラが聞いていないことを祈るしかなかった。ベラが聞いているなどと夢に思っていないルジェーナは、さらに言葉を重ねる。
「だってね、もしベラが家族と仲が良かったら……私は嫉妬で彼女を殺してしまうかもしれない。ベラが家族を嫌っているからこそ、私はあの子を受け入れたんだと思うんだよね」
イェンスは何も言えなかった。初めて見るルジェーナの激しい感情に、ただ圧倒されていた。
「でもそんな風に考える自分に吐き気がした。私はなんて、嫌な奴なんだろうって」
「……ベラとセネヴィル少佐のことは?」
「それは本当に応援してる。私が耐えられないのは、幸せな“親子”だから」
その答えは救いではあったが、それでも外で沈黙するベラのことを考えると、イェンスは何を言えば良いのか分からなくなっていた。
「ねえ、イェンス」
決意を秘めた目が向けられて、イェンスの心臓がどきりと跳ねた。
淡い紫色の髪が彼女が少し動くのに合わせてサラサラと揺れる。
「お願い。もう、私と関わらないで」
その切実な声は、イェンスの心を波立たせた。彼女の望む願いは、イェンスがここに足を運ぶのをやめさえすれば、簡単に実現される願いである。もしルジェーナが面倒事に首をつっこんでも、イェンスが見て見ぬふりさえすれば。
「もうこれ以上、大切なものを増やしたくない。もしもう一度失えば……私は――」
「――それは、約束できない」
しかしイェンスはその言葉にうなずくことはできなかった。考えるよりも先に口から言葉がついて出る。
「こんなに危なっかしいやつを放ってはおけない」
「知らないから言えるんだよ! 私と関わることが、どれだけ危険なことなのか!」
知ってる。
そう言おうとして、イェンスは唐突にあることに気がついた。そして喉元まで出かけた言葉を飲み込んで、違うものに変える。
「お前が危険なことに首をつっこまなければ、危ないことは起こらない」
「私は好奇心だけでそうしてるわけじゃない。私の使命なの! 私は、そうしなければいけないの!」
ルジェーナは、棚を荒々しく閉めると、カウンターの奥の扉に向かった。
「使命だというなら、民を守るのが軍人として、ヴェーダとしての俺の義務だ!」
奥の部屋に逃げようとしていたルジェーナは、イェンスの言葉にピタリと足を止めた。
「その剣を持って、王家の敵を倒すんでしょう? もし、私が王家に仇したら、イェンスはどうするの?」
陛下、我が剣を以って、すべての敵を闇に屠り、御身を守ってご覧にいれましょう。
それは初代のヴェーダ当主が、国王に忠誠を誓った時の言葉。だからこそ、ヴェーダの血を引くものは皆、王を敬え、王に逆らうものは迷わず殺せ、と教えられる。
「俺は……」
「帰って。帰ってよ! もう、関わらないで!」
答えに困ったイェンスにそういうと、ルジェーナは奥の部屋と姿を消した。勢いよく閉められた扉のせいで、半開きのままだった香料の棚がぐらぐらと揺れた。
イェンスは深いため息をつくと、店の外へ出る。
壁際に立つ女性は、悲しげな微笑を浮かべてこちらを見た。それはベラには似合わぬ、儚い笑みだ。
「聞いてたんだな」
四角い小さな箱を渡しながら、イェンスは言った。
「大丈夫。分かってたの。ルジェーナに、本当の友達だと認められてないってことは。……最初から、分かってた」
穏やかな声色だったが、ベラの顔色が悪い。元々白い肌だが、血色はよい。しかし今日の彼女は青ざめていて、どこか人形のような無機質さが漂っていた。
「聞きたいことがある」
「なあに?」
「二人はどうやって、知り合ったんだ?」
ベラの素性を知った時から、疑問だった。しかし、イェンスが二人の素性を知った今でなければ、聞くことが許されなかった疑問でもある。
「……その前に二つ、聞かせて。あなたはルジェーナのこと、好きなの?」
あっさりと聞かれたその質問に、イェンスはすぐには返答できなかった。それは、恥ずかしさや照れからではない。
「分からない。ただ俺の初恋の人は……ユリアさんだったんだ」
「そうなの?」
その返答は完全に予想外だったベラは、驚いて目を見開いた。
「ああ。だから、その影を追っているだけなのか……本当に彼女と向き合っているのか、自信がない」
「……そっか。でもそれはきっと、分かろうとして分かるものじゃないものね」
心なしか寂し気な表情で言うベラに、イェンスはパーシバルについて尋ねてみたくなった。しかし今はその話をすべき時ではないと思い直し、続きを促す。
「もう一つの質問は?」
「どうして、ルジェーナに、彼女の素性を知ってると打ち明けなかったの?」
「止められないと思ったからだ」
「止められない?」
「もし、素性を知っていると打ち明けて、あいつと共に戦うと決めたら、俺はあいつの無茶を止められなくなると思ったんだ」
「つまり……ルジェーナを守るため?」
「……ああ」
イェンスの答えを聞いたベラは、場所を変えましょうと言って歩き出した。
イェンスは黙ってそれについていく。ベラは路地をひたすらに歩く。最初はどこに行くのかと疑問に思っていたイェンスだったが、彼女が見覚えのある場所で止まったことで、思い出した。
「ここは……道順を覚えてたんだな」
「覚えるのは得意なの」
そこは一見、なんの変哲もない行き止まりだった。
しかし、ベラが落ちていた物干し竿を拾い、レンガの壁の上の方をそれで思い切り叩いた。
すると壁の下の方のレンガが、激しい轟音を立てて動き出し、入り口が現れた。
ベラとルジェーナと共に、誘拐犯を追いかけた時の仕掛け扉である。
この先の回廊は、湖へと繋がっている。イェンスとベラは、中に入った。入るときにイェンスは、物干し竿をベラから受け取り中に入る。
前回はアクロバティックな動きで作動させた仕掛けを、今回は物干し竿で堅実に作動させ、入り口を閉めた。
「ここで話すか?」
誰にも聞かれたくない話なら、むしろここは好都合ではないかとイェンスは考えたが、ベラは首を横に振って言った。
「湖まで行きましょう」
二人は前回と同じ道を辿り、湖に出た。ルッテンベルクに住む人間にはあまり馴染みのない場所である。
湖岸まで二人で歩くと、イェンスは思わず湖を覗き込み、透明な水の壁向こうを泳ぐ魚の姿を探した。
「ここ、いい場所よね」
ベラはそういうと、湖岸に連なる岩の一つにすっと腰を下ろした。イェンスもまた、違う岩に腰掛けて湖の方を見る。
「イェンスは運命の人だと思うの」
唐突に放たれたベラの言葉に、イェンスは思わずため息をついた。
「ルジェーナの、だよな?」
「ええ。それ以外に誰がいる?」
ベラは不思議そうにそう言うが、今の流れでは、ベラにとっての運命の人だと思うのが自然だ。
パーシバルにも同じことを言って誤解させたに違いない。
イェンスはそう考え、少し呆れた。
しかしベラはふと思いつたように付け加えた。
「もしイェンスが私の運命の人なら……私は絶対にあなたを巻き込まない。でもあなたが私のそれではないから……私にとってより大切なのはイェンスではなく、ルジェーナという親友だから――」
彼女は言葉を切った。そしてにっこりと笑いながら言う。
「――だから、全部話すわ。私の判断で、あなたをルジェーナの事情に巻き込む。巻き込まれる覚悟は?」
「ある」
イェンスの即答。
そして、ベラは、二人の出会いについて語り始めた。