客を選ぶ店員①
ルッテンベルク通りから脇道に入り、さらに奥に進んだところ。そこにあるのは一軒の古ぼけたレンガの家。そこで淡い紫色の髪をもつ女が香水を売っている。
太陽がだいぶ傾いて徐々に山際に近づきはじめてきたころ、金髪に緑色の瞳の男――イェンスが、再びこの店の前に立っていた。
彼は先日、この店の主に大変世話になった。彼もまた店主を助けたのだが、それは店主にちゃっかり利用されたといってもいい事故でもある。実際は彼女に助けられた面の方が大きい。
そうして彼女に手伝ってもらった件が片付いたので、今日は手土産を持ってここにやってきていたのだった。
店の前まできて、イェンスは一度足を止めた。
ごたごたの際に香水瓶をいくつか破損した負い目のあったイェンスは、扉の取っ手に手をかけて、引っ込める。
少し落ち着かない気分になりながらも、ここで帰るわけにもいかない。一度深呼吸した後、扉をゆっくりと開けた。
店の中に入ると、今日は二人、先客がいるようだった。
ひとりは金持ちの女だ。
後ろ姿だけ見ても、先客の身に着けているものは高級品だと分かる。
夜会に出るわけでもないのに、ドレスと呼べそうな光沢のある生地をつかったワンピースを身にまとい、今にも折れそうな真っ青なピンヒールを履いている。
極めつけに腕に光るのは、腕時計だった。
ヴェルテードは時計生産技術において他国より群を抜いて秀でているが、あれほど小さな時計は、まだ量産できない。つまり非常に高い。
そんないかにも金持ちだとわかる装いの女は、蜂蜜色の髪を振り乱しながら甲高い声で叫んだ。
「なんですって!」
「だから言ってるでしょう? あなたに売る香りはないって」
イェンスが先客だと思ったもう一人は、小麦色の波打つ髪を持つ女だ。彼女はカウンターに肘をつき、手の甲に顎を置いて小さく首をかしげた。じっと相対する女をみつめている。
赤い目と合わせているのか、口紅は赤い。そして白い肌にそれがまた良く映えている。
彼女は店主のようにふるまっていた。横に長くくっきりとした目も、形の良い唇も、彼女が自信も余裕もたっぷり持ち合わせていることを全力で表していた。
そのため、金持ちの女はまさか、彼女が店主ではないとは思わなかった。
「どうしてよ!?」
カウンターに音がなるほど激しく手をついた金持ちそうな女は、甲高い声で叫んだ。
「だってあなたは香りの価値が分からなそうなんだもの」
「なっ」
イェンスは一瞬、このまま扉を開けて外に出ようか悩んだ。
赤い目をした店主を装っている女が、金持ちの女を怒らせたのは火をみるより明らかだ。
女のいざこざには絶対に巻き込まれたくはない。そう思うのが男というものだ。
もしこれが殺傷沙汰になりそうならばイェンスはここにとどまるが、腕時計をしたあの折れそうな腕で何かができるとは思えない。せいぜい、長く伸びた鋭利な爪で彼女をひっかくぐらいのことだろう。
店主のルジェーナならば手助けしてもいいが、見知らぬ女を助ける気はしない。それも、あんなに気位が高そうな女に、真正面から喧嘩を売ってしまう女はなおさらだった。
「あら、軍人さん。今日はどうしたの? 香りをお求めかしら?」
悪魔がそこにいた。
イェンスが逃げようとしているのを察して先手を打ってきた。
「……最悪だ」
思い切り舌打ちをして毒づくと、にっこりと笑ったその女の視線が飛ぶ。
「あら、気分でも悪いの?」
しかも地獄耳と来た。
「いいえ」
イェンスはおそるべきその聴力にあきれながらも、首を横に振る。
「ちょっと待ちなさいよ! その男には売るって言うの!」
そしてイェンスが予想していた通り、金持ちそうな女は、甲高い声で異を唱えた。
面倒なことに巻き込まれたな。と、イェンスは心の中でため息をつく。
「香りを買いに来たわけではありません。報告がありまして」
この店の店主に、と心の中で付け足す。
「なーんだ。つまんないの。それで、報告って?」
小麦色の髪の女はあくまでも金持ち女の対応を後回しにする。これはいっそイェンスへの嫌がらせなのではないかとも思ったが、イェンスには彼女に恨まれる理由が思い当たらなかった。
「私の対応が先でしょう!?」
女は見事な蜂蜜色の髪をばさりと振ると、カッと青色の目を見開いて怒鳴った。
金持ちなのはわかるが、この女は庶民だ。そうイェンスは判断した。護衛をつけている様子もないし、なにより品が足りない。
カウンターの女は、さして着飾っていないが、元々の美しさと品の良さが滲み出ている。言葉は丁寧ではないが、あしらいの上手さと相手に心情を読ませない技術に優れている。
「あなたは客じゃないわ。売らないって言ったでしょう? まったく、母国語ぐらいちゃんと理解してほしいわね」
「私が誰か分かって言ってるの!?」
「さあ? 名乗られてないもの」
金持ち女は一度信じられないと言わんばかりに大きく目を見開いた後、わざとらしくため息をついた。そして腰に手を当て、少し踏ん反り返るようにして言った。
「私はスカーレット・イーグルトンよ」
ああ、名前は知ってる。とイェンスは思った。
まあ、分かってた。とカウンターの女は思った。
イーグルトンだと分かれば、この女だって態度を変えるはず。とスカーレットは思った。
「ふぅん。それで?」
しかし女は全く気にせず、態度を変えることもしなかった。当然、スカーレットはショックでしばらく固まっていた。
「イーグルトンよ? あなた、イーグルトン商会も知らないって言うの?」
「知ってるわ。でも、あなたに売る気はしないわね。私は香水を作ってあげたい人に売るの。あなたは対象外」
この店の店主は別人だと知っているイェンスは、この女の正体を看破すべきか悩んだ。しかしふと上をみると、二階の窓の横にあるドアが少しだけ空いていて、見覚えのある紫色の髪の女が覗いていることに気づく。
つまり彼女はルジェーナ公認の店番なのだ。そうなれば、この茶番劇に水を差してさらに面倒事に発展させることはあるまい。
「なっ……! イーグルトンを敵に回してただで済むと思ってるの?」
「思ってるわね」
スカーレットは顔を真っ赤にして、唇をわなわなと震わせている。怒りが頂点に達していた。
「覚えてなさいっ! イーグルトンの名にかけて、この店を潰してやるんだから!」
見事な蜂蜜色の髪を綺麗に振ってから踵を返すと、おおよそお嬢様とは思えない荒々しい足取りで店を出て行った。
彼女のがあまりに勢いよく扉を閉めたので、店に並べてあった香水瓶たちがガタガタと音を立てて揺れた。
「嵐のようでしたね」
「ほんとうに」
「ところで、イーグルトンを敵に回して、本当に大丈夫なんですか?」
「ええ」
イェンスはカウンターに近づきながらそう問いかけると、女はまったく表情を崩さずにうなずいた。
むしろ彼女の赤い口紅の引かれた唇は、左右対称に横につりあげられていた。
「何の根拠でそんな自信があるんですか?」
イーグルトン家と言えば、この街どころか王都で最も大きい力を持つ商家である。様々なところに人脈を持っているし、王都にあるとはいえ、こんな裏通りの小さな香水屋をつぶすのは簡単だ。
しかし女は何故か自信満々な様子で、大丈夫だと言い切って見せた。
「イーグルトンはすごいけど、ヴェルテードで一番すごい家なわけじゃないわ」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味。ところで、本題は何? 香水を買いに来たわけじゃないんでしょう?」
しれっと話題を反らされてしまったが、イェンスとしてはそこまでこの初対面の女に興味があるわけではない。
これ以上の議論は無駄だと感じ、簡潔に答えを言う。
「ええ。この店の主に用があるので」
「ルジェーナの知り合いなのね。じゃあこれから会うこともあるでしょうから、私の名を教えておくわ。私はベラ。時折こうして店を手伝ってるの」
ベラはルジェーナを呼ぶために、一度体ごと振り返る。するとそれとほぼ同じタイミングでドアが開き、ルジェーナがカウンターに現れた。
「こんにちは、イェンス。それとありがとね、ベラ」
朗らかに挨拶をしたのはルジェーナだ。その様子を見て、ベラは少し驚いた様子を見せた。
「あら、案外、気を許した人間なのね」
「うん。この前助けてもらったの」
厳密には助けたというよりは、彼女に保険として利用された形であった。しかしそれを訂正するより先にベラが声を上げる。
「あら、珍しい! でもそうね、それならイェンスの名前は覚える必要がありそう。この店にくる限り、私たちは会わざるを得ないもの」
香水屋に定期的に来る予定はない、そう言いたかったイェンスだが、またそれを遮られる。今度はルジェーナだ。
「それで、報告って?」
「セントラルの毒薬の件だが、無事に違法薬物として認定された。これからは所持および製造する組織は取り締まることが出来る。ついでに言うと、この街一番の薬屋は、尻尾切りに出た。何人かが捕まり、薬屋の営業主は管理者として注意勧告を受けるにとどまった。また、彼らの情報提供により、他の薬屋で薬の流通に携わった人間も洗い出せた」
「結果的には主犯は捕まえられなかったけど、流通の全容はぼんやりと見えてきたってことなの?」
「ああ」
「そっか。でもちょっとでも前進したならよかったね」
「協力に感謝する。ただし、次回からはもう少し自分の身の安全に意を配ってほしい」
「う……善処します」
善処すると言う言葉は、ほとんど検討する気がないということの裏返しだが、イェンスは文句は言わないことにした。
実際のところ、ルジェーナがああして現行犯を押えさせてくれたからこそ、取り締まりに進展があったのだ。それに、彼女にこれから先、情報提供をしてもらうことが早々あるとはイェンスには思えなかった。
「さて――」
話も終えたことだし、帰る。そういおうとしたイェンスの口を閉ざしたのは、扉がきしみながら開く音だった。