求める香り
その瞬間は劇的だった。
「ルカーシュお兄様」
カトリーナの声が、遠く聞こえる。たとえ彼女が手の触れる距離にいようとも。
「カトリーナ、どうしたんだい?」
スパイシーで、エキゾチック。第一印象は薄れつつあるが、その次に開く華やかな香りが、ルジェーナの記憶を呼び覚ました。
「私、ほしいものがあるの」
端からみれば、カトリーナがルカーシュにおねだりをしているだけのこと。
しかし彼女のそばにいる、金髪で、少し長めの前髪をもつ侍女にとっては、重大な意味をもつ一時だった。
「昨日も言ったけど、この香水はあげられないよ」
ルカーシュはムラのない銀色の髪をしている。肩に届くかどうかの長さで、レイヤーが入っており、先の方が薄くなっている。
しかし肌の色は浅黒く、髪とのコントラストで互いの色がより際立っていた。
黙っているだけでは少し近づきがたいベラやリシャルトと比べると、どちらかといえば優しそうで話しかけやすい雰囲気を持っている。そして彼は実際に、微笑んでいた。
しかし透き通るような青い瞳は、どこか値踏みするようにカトリーナを見つめていた。
「五年前に製造を停止したからでしょう? それはもういいの。それより今は、靴よ。今年の流行りはすごく細いピンヒールなんですって」
アーリアの根、アッカドの花、アルボルの茎……。香水は本来の香りを失いつつあるが、それでも原料を特定するには十分すぎるほどの香りを保っている。
女性でも男性でもつけられそうな、甘さのあまりない香り。
金髪の侍女は、少し視線を下に反らし、自身の中にうごめく感情を封じ込めるかのように、拳を強く握りしめていた。
「靴が欲しいんだね? それならすぐに手配してあげよう。可愛い妹の頼みだ」
「ありがとう、お兄様!」
穏やかに微笑むルカーシュは、ふと金髪の侍女に目を止めた。
つま先から頭の上まで眺めて、目を細める。
「見ない顔だね」
金髪の侍女は動かなかった。ただ、視線を伏せたまま、カトリーナの反応を待つ。
「私がまるで侍女を使い捨てているようないいなさりようね!」
カトリーナは少し苛立ったようにそう言うと、ルカーシュは驚いたように首を横に振って言った。
「すまなかった。きっと見たことがあったのに、忘れてしまっているんだろう」
依然としてルカーシュの興味は失われていなかったが、カトリーナの手前それ以上は追及しなかった。
「部屋に戻ります。お兄様はお仕事をがんばってくださいませ」
「ありがとう、カトリーナ」
カトリーナは侍女を引き連れて、不審に見えない程度に急いで部屋まで戻る。そして部屋の中に入り、侍女たちに出迎えられると、応接室のソファに崩れ落ちるように座り込んだ。
「どうして分かったのかしら。金髪の侍女なんて、五人もいるのに」
それは独り言のようにも、その場にいる金髪侍女に向けて聞いているようでもあった。金髪の侍女はおもむろに鬘を取ると、中にあっと自分の紫色の髪を解放した。
「鋭い方ですね」
ルジェーナはぽつりと正直な感想を漏らした。
金髪の鬘を被って侍女服を着て、ただカトリーナの後ろに控えていてだけである。そして毎日、昼の二時に部屋に戻るというルカーシュを、彼の部屋の前で待ち構えてカトリーナが時間を稼いだのだ。
計画を聞いたときは、ルジェーナが元々想定したものよりも、はるかに簡単で安全な印象を受けた。
しかしルカーシュは非常に観察眼に優れていて、ベラの頭のキレの良さは、やはり王族の血なのだとルジェーナはしみじみ痛感させられていた。
「鋭い? それはリシャルトお兄様がよく言われる台詞ね」
「とてもよく、物事を見ていらっしゃると思いまして」
カトリーナが上手くごまかしてくれなければ、最悪、名前を名乗る羽目になったかもしれない。できるだけ素性をバラしたくないルジェーナとしては、むやみに名と顔を覚えられることは避けたかった。
それに、もし目を合わせて話してしまえば、六年前の事件について問いただしたい衝動を抑えきれるか疑問だった。
ルカーシュが自らユリアを連れていったとは考えにくい。しかし、彼が何らかの形でこの件に関与しているとルジェーナは確信していた。
「それはそうね。でもリシャルトお兄様と違って優しいわ。私はいつも不思議なのよ。エノテラ妃殿下はとても優しいのに、どうしてあの兄妹はあんなに冷たいのかって」
「あの、兄妹?」
「リシャルトお兄様と、イザベラお姉様よ。イザベラお姉様は公に顔を出さないからお前は知らないかもしれないわね」
「どのようなお方なのですか?」
なじみ深い名が出てきて、ついルジェーナは尋ねてしまった。するとカトリーナは何故か声を潜めて言った。
「怖いの。無表情で、笑いも怒りもしない。あまり会ったことがないけれど、人形みたいだから人形姫なんて呼ばれてる。でもそうね……姉妹の中で一番の美人であることは間違いない」
一瞬、それは誰のことかとルジェーナは問い返したくなった。
よく笑い、怒り、時には泣くのがベラである。少なくともルジェーナにとってはそうだった。
しかし、王宮でのベラはそうではないのだろう。
「ところで、香水は作れそう?」
「はい。ですが……一つ、提案がございます」
「提案?」
ルジェーナはその場に立ったままで、少しだけ足を入れ替えた。そして、仕事に集中するために、一度だけ深呼吸した。
「はい。あの香りと似たものを作ってまいりますが、もう一つ、よろしければカトリーナ王女殿下の好みの匂いで香水をお作りしたいと思っています」
バンッと机を叩く音がした後、カトリーナは立ち上がって、ヒステリックに叫んだ。
「どうせあの香りが似合わないって言いたいんでしょう!」
予想はしていたが、ルジェーナの発言はカトリーナの機嫌を大きく損ねたようだった。カトリーナは一歩詰め寄ると、目を吊り上げて叫ぶ。
「知ってるわ! 私はお母様みたいに肌の色が暗めでもなければ、髪が黒くもない! お姉様はお母様にそっくりだし、お兄様だって、髪の色以外はそう! 私だけ、髪の色は中途半端で、顔立ちだって、どっちつかず! でもそんなの私にどうしろって言うのよ!」
叫び続けたカトリーナは、肩で浅く息をしていた。
侍女たちは、おびえた様子を見せながらも、ルジェーナの行動を先ほどよりは落ち着いて見守っている。
「非礼を承知で申し上げますが、あの香りは確かにカトリーナ王女殿下の雰囲気にそぐいません。しかし、カトリーナ王女殿下には、他の方にはない魅力があると思います。それを活かさない手はないのではと」
「私にしかない魅力? ムラのある髪色や、お母様と違う肌の色が? 私がカルミアを名乗ると、誰もが眉をひそめるの。あの王女は本当にカルミア妃の娘なのかって。そうやって私だけまた仲間はずれにされるんだわ!」
ここまで来てようやく、ルジェーナには、どうしてカトリーナがあの香りに拘るのかが分かった。
カトリーナの中には、深い闇がある。それは、孤独、疎外感、そして、とめどない不安と、理不尽への怒り。
普通の兄弟であれば、たとえ他の全員が母親に似ていても、父親との共通点さえ見出せれば、家族の一員という帰属意識を持つことができる。
しかし環境が特殊な王家において、帰属する場所は常に母親なのだ。たとえ父親と似ていても、彼女にとっての父は国王であり、それそのものが独立した存在である。母と母を同じくする兄弟だけが家族であり、父または他の異母兄弟たちは他人と言っても過言ではないのだ。
そして彼女は、その唯一家族と呼べる人々との共通点を見出せずにいた。だからこそ、せめて同じ香りをと思ったのだ。
「同じものを持たずとも、全く似ていなくとも、兄弟の絆は成り立つものですよ。それに、パトリク王子殿下も、香水をお持ちでないのではありませんか?」
「それは……そうだけど。でも! パトリクお兄様は、自分から欲しくないって言ったの! 欲しいと言ってもらえなかった私とは違う! 五年も待ったのに……」
「五年も?」
「ええそうよ! イルメリお姉様が嫁ぐ時に、香水を分けてくださるように頼んだの。でも、お兄様が私にはまだ早いと! だから、昨日、それを思い出して頼んだわ。そうしたら、お姉様が嫁いだ直後に生産が中止になったって言ったのよ! ルカーシュお兄様が止めたに決まっているのに!」
五年。その年月にルジェーナはひっかかりを覚えていた。ルカーシュの人となりを知らないルジェーナにとって、彼の真意を探ることは難しい。
しかし、それが単にカトリーナへの嫌がらせだとは思えない。心の中でどう思っているにせよ、彼は妹に対して優しい兄でいようと試みているのは、先ほどのやり取りで分かっていた。
つまりその方針を曲げてでも、香水を広めたくない理由がそこにあったのだ。
「今からでも、欲しくないとおっしゃってください。その可愛らしいピンクのドレスが似合う殿下には、もっと相応しい香りがあると思いますから」
「!」
「それでも、最後に選ぶのは殿下です。だからもう一度だけ聞きます。どのような香りをお求めですか?」
カトリーナは悩んでいた。悩みすぎて、自分が先ほど癇癪を起こしていたことも忘れるくらいだった。
彼女はふと、部屋を見回した。侍女たちが固唾を飲んで見守っている。いつもならば、こんなにズケズケと物を言う女は、すぐに追い出していた。
しかし不思議なことに目の前の調香師の言葉は、すっとカトリーナの心に染み込んでくる。
そして、カトリーナは答えを出した。
「……お前が思う私を表現した香りを。そして当然、私に似合う香りを、作ってちょうだい」
「かしこまりました」
この上なく抽象的な注文だったが、ルジェーナはにっこりと笑って頷いた。
「一つだけお聞きしたいのですが、初めに求めておられた香りは、好きですか?」
一瞬、カトリーナは黙った。そして、少しむっとした表情で言う。
「好きじゃないわ」
「かしこまりました。三週間、時間をください」
答えを知っていたルジェーナは、穏やかに微笑んでそう言った。
カトリーナは気まずさを誤魔化すために、ルジェーナから視線をそらし、目のあった侍女に話しかけた。
「ズラータ。彼女を見送るのと、報酬金の半分を」
「あ」
ズラータはすぐに動き出そうとしたが、ルジェーナが声を上げたことで動きを止めた。
「最初の一瓶は、無償で差し上げます。もしその香りを気に入ってくださいましたら、同じレシピでもう少し多く作ります。代金はその時に」
「無償で? どうして?」
意味がわからずに首を傾げたカトリーナを見て、ルジェーナはその場で背筋を伸ばした。
「数々の非礼を欠いた発言のお詫びです。これから言うことも含めて、謝ります。申し訳ありませんでした」
そして頭をさげ、再び上げた。
大きな丸い目がルジェーナをまじまじと見つめている。
「これから言うこと?」
「はい。同じレシピの香水は、すべて兄弟なんです。でも、違うからといって、どちらかが劣るわけではありません」
「……」
「それでは、失礼いたします」
ルジェーナはそういうと、もう一度礼をして、扉へと向かう。
「謝らないのかと思ったわ」
数歩歩いたところで、カトリーナがポツリと漏らした。
「悪いと思えば謝ります」
ルジェーナは振り返ると、微笑んでそう言った。
そして、ズラータについて部屋を出て行った。
二人は王宮を出るまで一言も話さなかった。王宮の門番に通行証を返却し、ルジェーナはズラータの方を見た。
「ここまでで大丈夫ですよ」
「……今日は、本当にありがとうございました」
ズラータが深く頭を下げた。
ルジェーナはそれに小さく首を振り、そして、ゆっくりと王宮から離れていく。それは、王宮の門の前の出来事としては、ありふれたものだった。ただ、客人が王宮から去っていく。それだけのこと。
しかし、それを遠くから見つめる二つの目は、鋭く細められていた。




