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イェンスとルジェーナ  作者: 如月あい
三章 幻影を求めて

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第四王女カトリーナ

 王宮の西側にある一つの建物が、第二妃カルミアとその子どもたちの住む場所である。

 二人の王子と二人の王女を持つ彼女は、王宮にある妃の住む棟としては最も大きな棟に住んでいた。

 ルジェーナは、カトリーナの侍女であるズラータに案内されて、生まれて初めて王宮に足を踏み入れていた。

 カトリーナの名前で発行された通行許可証を首に下げ、たどり着いた建物を見上げた。

「最上階にはカルミア妃殿下が、上から順番にルカーシュ王子殿下、今はもう隣国に嫁いでおられませんがイルメリ王女殿下、次にパトリク王子殿下で、そしてカトリーナ王女殿下が二階にお住まいです」

「全員違う階にお住まいなのですか?」

「はい。御子が四人までは一人一つの階を持てるようになっています。それ以上ですと共有することになりますが、もともと半分も使っていらっしゃらない方がほとんどです」

 ズラータの説明を聞きながら、ルジェーナはしみじみと大きな建物を見つめた。ベラもこんな大きな建物の一つの階を独り占めしている一人なのかと思うと、不思議な気分である。

 これだけ広ければ、確かに誰かといても孤独を感じるのかもしれない。ルジェーナはそんな風に考えながら、先を歩くズラータの後を追った。


 前を歩くズラータは小さく体が震えている。彼女は船頭の話によると、ずぶ濡れで王城からでてきたのだった。つまり彼女の主人は、それだけ起伏の激しい人間ということである。

 ルジェーナは目的のためであれば、水をかけられようがお茶をかけられようが構わなかったが、ズラータの対面を守るためにも気に入られなければならない。

 

 自分に関係ないと割り切れる性格ならばよかったが、そうではないのがルジェーナだった。

 建物内部の華やかな内装と、明るい電気の照明に目を奪われながらも、ルジェーナは妙に早く打ち続ける心臓を落ち着かせようと、大きく息を吸って吐くことを繰り返していた。

 ベラとは対等に話しているが、王女に王女として接した経験がルジェーナにはない。

 本当はベラを相手に練習したかったのだが、ベラに告げる時間的猶予がなかったためそれは断念したのだった。


「失礼いたします」


 扉をノックしてズラータがそういうと、彼女は震える手を押さえつけながら扉を開け開けた。

 ゆっくりと振り返った彼女は、懇願するような目でルジェーナを見つめていた。

 ルジェーナは最後に息を吐いてから、一歩部屋の中に足を踏み入れた。

 部屋に入ると、お姫様と聞いて、まっさきに誰もが思い浮かべるような、そんな少女が扉の方を向いたソファに座っていた。

 ベラの顔だちは整って艶のある美しさだが、少女はどちらかといえば幼く愛らしい顔だちをしていた。肌はベラに引けを取らないくらいに白いが、目は丸く大きく、鼻は筋は通っていても高くはない。

 彼女が着ているのは淡いピンクのドレスで、胸から裾にかけてグラデーションがかかっていた。

 髪は根元が暗く毛先にいくにつれて徐々に銀色になっていく。その見事なグラデーションの髪の上半分だけを複雑に編み込んでハーフアップにし、残した髪は左側に流されている。髪には白い宝石のついた髪飾り。胸元にも白い宝石のついた首飾りが光っていた。

 彼女は興味深げにルジェーナを見ると、ふと髪に目を留めた。

「珍しい色ね」

 それを言うなら、王族特有の銀色の髪はもっと希少価値が高い。ただ、ベラのムラのない銀髪を見たことがあったルジェーナは、カトリーナのようなムラのある髪色も存在するのだと内心で驚いていた。

 そんなことを考えていたルジェーナの、一瞬の沈黙を困惑ととったのか、ズラータが後ろから、助けを出した。

「こちらは調香師のルジェーナ様でございます。そしてあちらの御方が、カトリーナ王女殿下でございます」

 ルジェーナは部屋に入ったところで突っ立っていたが、少しだけ前に出て笑顔を作った。

「初めまして。ルジェーナと申します。カトリーナ王女殿下が香りをお求めだと聞いて、こちらに伺わせていただきました」

 相手が誰であろうと、客であることに変わりはない。いつもやっているように、挨拶をすると極力笑顔を保つことを意識した。

「お前は本当に、私の望む香水を作れるの?」

「まずは、カトリーナ王女殿下がお望みの香水についてお聞かせ願えますか?」

 ルジェーナは背筋を伸ばして立ったまま、穏やかな声色を出すように努めた。

 部屋にいる五人の侍女はルジェーナとカトリーナの様子を身じろぎもせずうかがっていた。しかしどの侍女の面持ちもどこか悲壮な雰囲気がただよっていて、ルジェーナは少しだけ不安になる。

 しかし不安をよそに、カトリーナ王女殿下は機嫌が良さそうだった。

「元はお母様の香水よ。それをイルメリお姉様と、ルカーシュお兄様が気に入って、受け継いだの」

「それは、ズラータさんが持っていらっしゃった、あのハンカチについていた香水ですか?」

「ええ」

「カトリーナ王女殿下がお望みの香水は、つまり既存のものなのですね?」

 ルジェーナは答えを知っていたが、確信を得るための疑問を口にした。

 すると、直後にガシャンと激しい音がして、高そうなカップが床に飛び散り、中身がぶちまけられた。低いテーブルの真下には絨毯が敷いてあったのだが、カップは絨毯より外側まで跳ね飛ばされていた。

 目の前のカトリーナが、紅茶のカップとソーサーを思い切り払いのけたのだ。

 ルジェーナとしては、カトリーナの突然の癇癪よりも、カップが割れてから初めて、彼女が紅茶を飲んでいたことに気づいたことの方が問題だった。

 緊張は嗅覚を鈍らせるようだ。部屋に入った瞬間は、視覚に全ての意識を持って行かれていて、そんなことに気づく余裕がなかったのだった。


「知るわけないでしょう! お兄様が私には香水をくださらない理由なんて!」


 甲高い声で怒鳴り散らしたカトリーナは、腕を組んでそっぽを向いた。

 怒らせたことに気まずさは覚えど、さして恐怖を覚えなかったルジェーナは、次に何を言うべきか悩んだ。


 怒らせたことで分かったことは三つ。

 カトリーナは被害妄想が強いこと。

 かなり感情の起伏が激しく、自分を制御出来ないこと。

 そしてそれをしょっちゅう侍女にあたっては、彼女たちを困らせていること。

 カップを片付ける侍女の手際の良さが、全てを物語っている。それに、片付けに参加していない侍女もまた、おびえた様子はあれど、驚いた様子はない。


「もし、その香水をつけている方に直接お会いできれば、それとかなり似た香水を作ることは可能です。全く同じ材料を揃えることは不可能なので、全く同じものとは申し上げられませんが」


 何を言うべきか悩んだ末に、ルジェーナは何事も起こらなかったかのように振る舞った。カトリーナの癇癪は見ておらず、自分が謝るべき事態は何も起こらなかったとばかりに。

 王女が怒ればとりあえず謝る人間は多いだろうが、ルジェーナの質問は仕事の上で、必要な質問だった。既存の香りに似たものを作るのと、個人の中にあるイメージを具現化させた香りを作るのは根本的にやることが違うためだ。


 カトリーナは、ルジェーナの対応に驚いて、何も言えなくなっていた。怒りを超えて、むしろ、彼女はキョトンとしている。

 侍女たちはルジェーナの失礼な対応に真っ青になって、どうやってフォローしようかと口を池の鯉のようにパクパクとさせていた。


「どうして同じ材料を揃えられないのかと申しますと、香料の原料である動植物は、個体によって違う性質を持つためです。つまり、たとえ同じ品種のバラを使っても、全く同じ香りを作ることは、厳密に言えば不可能なのです。しかしもちろん、気づかない程度まで似せることは可能です」


 言葉を失っている王女と侍女を置いて、ルジェーナはつらつらと調香師として言っておくべきことを述べた。

 そして、カトリーナの反応を待つ。


「お前は私が怒ったのに……何故謝らないの?」


 カトリーナは心の底から不思議に思っているようにルジェーナには見えた。

 彼女は既に怒ってはいない。


「私は自分に非がある時にしか謝りません。無実の罪を着ることがどれだけ恐ろしく、周りに迷惑と心配をかけるか、身をもって知っているからです」


 こうした瞬間にルジェーナが思い浮かべるのは、母ユリアのことだった。彼女の夫であるアルナウト・ミルの殺人容疑をかけられ、それは濡れ衣であったが否定せずに亡くなった。

 たとえそれが娘の『シルヴィア』を守るためであったとしても、守られた方としては簡単に容認しがたい出来事であった。

 だから、ルジェーナは決して無実の罪をかぶることはしない。それがたとえ身を滅ぼそうとも、その方針を曲げる気にはなれないのだ。


「私が誰だか分かっている?」


 カトリーナは、ベラならば最も口にしそうにないことを、当然のように口にした。


「はい。もちろんですよ」


 侍女達は固唾を飲んで二人のやりとりを見守っている。片付けをしていた侍女ですら手を止めて、カトリーナの次の行動を待っていた。

 五人の侍女はみな、カトリーナの癇癪を予期し、本当に首が飛ぶかもしれない調香師を憐れみ、その八つ当たりを受ける自らの身を憐れんでいた。

 しかし結果的に、その身構えは全く意味をなさなかった。


「いいわ。そう言われてみれば、確かにお前はただ、確認しただけだもの。私が勝手に言外の意味を想像して、怒っただけのこと。香水があるのに、どうして私だけもらえないのかしらと、馬鹿にされているような気がしたものだから」


 この時の侍女達の表情は見ものだった。カトリーナに謝りもせずに、ルジェーナは彼女の癇癪から逃れることに成功したのだから。


「分かっていただけて何よりです」


 思っていたよりは、素直で頭の回転が良さそうだ。

 ルジェーナは侍女達が驚嘆する中で、一人冷静にカトリーナという人物を分析する。


「そうね……まず、似ている香りが作れるなら、それで構わないわ。ルカーシュお兄様が調香師に製造を止めさせるまでは、同じレシピで作り足していたのよ。だからもともと、お母様の香水をそのまま受け継いだわけではないもの」

「製造を中止した時期をご存知ですか? あまりに前ですと香水そのものの香りがかなり変質している恐れがあります」

「そうね……確かあれはイルメリお姉様が嫁がれた時だから……五年前かしら?」

「五年……かなり際どいところですね。実際に香りを確かめてみなければ、変質していると断定もしかねますが」


 五年前に製造を中止した理由が気になるが、それは調香には直接関係がないことだ。これを聞いて怒らせれば、ルジェーナはただ謝るしかない。


「香水をつけている人に直接会いたいと言ったわね? それはさして難しくないから、今日、実行できるわ。……ズラータ」

「はい」

「侍女服を一式用意なさい。あと、かつらも。色は金色で、前髪が少し長めの方がいいわ」


 ズラータは言いつけられるとすぐに部屋を退出した。その動きに合わせて、ティーカップを片付けていた侍女も、集めた破片を持って隣の部屋に消えていく。


「侍女服と、鬘……」


 ルジェーナは思わず小さな声でカトリーナの言葉を繰り返した。カトリーナがこれから告げであろう作戦が、自分の予想と違うことを祈りながら。



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