船頭と侍女
ヴェルテード王国、王都フルヴィアルの一つの街、ルッテンベルクの外れにある古い家。
そこには有能な調香師がいると、街では有名だった。店主は珍しい紫色の髪と目をしていて、客が望む香りを勧める、あるいは作ってくれるのだという。
しかしもし、客が望みの香りがよくわかっていなければ、その調香師はどうするのだろうか。
一人の男はそんな風に考えながら、店の前に立った。
男は薄手の長袖に、暖かそうな綿の入ったベスト、それから長いズボンを長靴にいれ、白い手袋をしていた。
男はこの無駄に水路の多い街で、船頭をしていた。客を船に乗せて運ぶ。それは一見、シンプルだが、他の船との兼ね合いも考えると、早すぎても遅すぎても許されない、熟練の技と勘が必要な仕事であった。
そしてその仕事は、鉄道という新しい技術に奪われそうになっている。
男は詳しくは知らないが、王都の南から北をたった一時間で進むのだということは聞いていた。
人や荷を載せる船の組合、または寄り合い馬車の組合は、普段はバチバチと火花散らすというのに、この度ばかりは結託して、鉄道建設に異を唱えている。
しかし今の男にとっては、将来、鉄道の存在で自分たち家族が食いあぶれるかどうかの心配よりも、”彼女”の求める香りが手に入るかどうかのほうが問題であった。
香水屋などという洒落た店に入ったことのない男は、店の構えが古めかしいことに少し安心した。
男はゆっくりと扉に手をかけるとそれを開いた。扉は見た目通り古く、少し動かすたびに木がきしむ音がする。しかし取り付けられている鍵は新しいし何より、店の中は船頭をしている男にとって未知の香りがした。
店に一歩踏み込むと、女性のあらゆる香りがした。船頭の周りには、男で香水をつけているものはいない。貴族は男でも香水をつけるたしなみがあるそうだが、そういう男とは無縁のためだ。貴族も船を使うが、そういう船は男の勤めている協会とは別のところが取りまとめているので、やはり関係ないのだった。
その点、女は庶民でも香水をつけているものは多い。十年ほど前から、ヴェルテード王国でも合成香料の生産が本格的に始まり、香水の値段が庶民の手に届くものになったからだ。それ以降、船の利用客でも香水をつけているものがぐんと増えた。
男にとって意外だったのは、この店に香る香りが、思ったほど強くないことだ。船に乗る女たちは、その人たちが船から降りたあとでも香りが残るほど強い香りをまとっている。
「こんにちは」
「こんにちは……」
店の中に入ると、奥にカウンターがあり、その向こう側にこの店の主がいた。噂通り淡い紫色の長い髪をした女性だ。目は丸く大きく、穏やかに微笑んでこちらを見つめている。
「船頭さんですか?」
店主の問いかけに、男は身を固くした。それがどうして船頭がここにいるのかという、蔑みの言葉ではないかと疑ったからだった。
「この時間に船頭さんが来られるのは珍しいもので……お休みですか?」
しかし、店主の笑顔に曇りがないことと、彼女の疑問が最もであることに男は安堵して、そしてゆっくりと首を横に振った。
「具合が悪いと言って、早く上がらせてもらいました。実は、急ぎでやらなければいけないことがあったんです」
「……とりあえず、そちらの椅子にどうぞ」
話が長くなることを察した店主は、カウンターの前にある足の長い椅子を勧めた。男は素直にそれに従って、ゆっくりとカウンターに近づいた。店の壁際には棚があり、華奢な香水瓶が並んでいる。
これはどのくらいの相場なのだろうか。
小さな瓶を見つめながら男はそう考え、しかし今はほかにやるべきことがあると首を横に振った。男の妻も香水を愛用しているのだが、それが家計にどれだけの影響を与えているかは、妻のみぞ知るところである。
男は椅子に座ると、店主と向かい合った。彼女と向かい合うと、彼女の瞳の色が噂通りきれいな淡い紫色であることに気が付いた。髪も目の色も珍しい。どことなく、彼女は普通ではないことができそうに思える容姿だった。
「初めまして。私はルジェーナと申します。お名前をうかがってもよろしいでしょうか?」
「マルコと申します」
ルジェーナは愛想がよく、魅力的な女性だった。あと十年若ければ、とマルコは考えてから、妻の顔を思い出して身震いをした。
「寒いなら、窓を閉めますが……」
「いいえ! まったく寒くなんて! それよりも、ここは、香りを買うだけではなくて、作ってもらうこともできるんでしょうか?」
「はい、作ることもできます。ただ、もし、お客様の求める香りがすでに店にあるのならば、そちらをお渡ししています。香水が完成するまでには時間がかかりますから」
マルコはその言葉を聞いて安堵した。”彼女”が求めていたのは、そういう店だったからだ。
「なるほど……。香りを探しているのは私ではないんです。彼女が……お客様が、探しておられました。そして、それは私の午後の仕事を返上してでも、やり遂げなければいけないのだと感じました。そう、やらなければ! 彼女は死んでしまう!」
声を上ずらせ、マルコはカウンターにいささか勢いあまって手をついた。すると、カウンターの上にあった器具や瓶がぐらぐらと揺れる。マルコは慌ててのけぞると、背もたれのない椅子がひっくり返って、後ろに倒れそうになった。マルコはカウンターをがしりとつかみ、ルジェーナも慌てて手を伸ばした。
「す、すみません……」
「落ち着いてください。まず、その彼女について聞かせていただけますか?」
ルジェーナはそういうと、カウンターの端に移動して、かまくらのような形をした陶器をカウンターの中央に置いた。そしてその中にあるろうそくに火をつけると、そのドーム状になっている陶器の頭の部分にあるへこんだ部分に、水を少し注いだ。
何をしているのかさっぱりわからないマルコをよそに、ルジェーナは棚から二瓶ほど取り出すと、おもむろにふたを開け、水に数滴、その瓶の中身を垂らした。
すると、もともと香っている部屋に、果物の爽やかな香りが漂い始めた。グレープフルーツのような柑橘系の香りがしている。
「本当は調香前にこういうことをすると、求める香りがぶれるんですけれど……今はとにかく落ち着いてもらった方がいいと思ったので」
「確かに……少しだけ落ち着いたかもしれません」
ルジェーナにそういわれると、香りの力で精神が静まったような気分にマルコはなった。
「いや、そこまでの即効性は……いえ、なんでもありません。効いたならそれが一番いいことですから」
ルジェーナはぶつぶつと小さな声で言ったが、それはマルコには届かない。
「まず、その女性とはどういった関係ですか?」
「関係なんて! とんでもない! 妻が聞いたらなんというか! 彼女はただのお客様です! ただ……」
「ただ?」
「びっしょりと濡れていたんですよ。雨も降っていないのに、全身がずぶぬれで……むらのある金色の髪も、べっとりと張り付いていて、最初は幽霊かと思う有様で……」
「ずぶぬれの女性? その彼女を、どこから載せたんですか?」
その奇怪な状況に、ルジェーナはすでに好奇心が沸いていた。しかしあまり詮索好きだと思われても困るので、その好奇心は極力内心にとどめた。
そんな彼女の心情を知らないマルコは、ゆっくりと思い出しながら語り始める。
「彼女は王城近くの船着き場から乗ってきたんです。ほかの乗客はいなかったので、どこへ行くのかと問うと、ルッテンベルクへと」
「王城から……」
「ずいぶんときれいな格好をしていらっしゃいました。でも、主がどうのと話されていたので、おそらく侍女の方でしょうね」
「侍女……つまり、王族の?」
ルジェーナの問いかけにマルコはしっかりとうなずいた。
「王城内に住めるのは王族と、王城内の施設に関係する者だけですからね。貴族様はみなさま馬車で出勤されるわけですから、王城から一人で出てきたなら、その可能性は高いと思います」
「それで、彼女はどうしたんですか?」
「彼女はずぶぬれで、死にそうな顔をして、何かを握りしめていました」
「その握りしめていた何かは、今マルコさんが預かってきているのですね?」
マルコは説明しようとしていたのを遮られて、驚いてしまった。まだそれを出す素振りさえしていなかったというのに、どうしてルジェーナがわかったのか不思議だったのだ。
彼女はしまったという表情を作ると、照れたように笑って言った。
「鼻はいいんです。すごく……その、いい香りのものを持っていらっしゃるから」
「さすが調香師さんですね」
船頭であるマルコは、一般的な”調香師”というものの嗅覚について知識がなかった。そのため、調香師とはそのぐらいのことはできるものなのだろうと判断し、懐から一枚のハンカチを取り出した。そしてそれをカウンターに置く。
ルジェーナはそれを手に取ろうとして、なぜか一度それをやめてマルコを見た。
「女性から預かったものですか?」
「いいえ。女性は私に、これと同じ香水か、同じ香りを作れる人を探しているといいました。そして、彼女はあなたの話を私にしてくれました。淡い紫色の髪の女性で、腕のたつ調香師に会いに行くのだと。ところが、彼女は船の中で急に倒れてしまったのです。私は慌てて近くの船着き場に船をつけ、医者に見せました。医者は心労だといい、しばらく横になっているべきだと診断しました。すると彼女は目を覚ますなり、調香師を見つけなければ帰れないと泣き出したのです」
「泣き出した……? つまり、それは、彼女の主からの命令だったんですね」
「はい。姫様がお許しにならない、私は帰れない。そんな言葉ばかりをつぶやいて、暴れだしました。医者はその女性に薬を飲ませて、女性は眠りにつきました。そして私はそのハンカチをもって、あなたに会いに来ることに決めました。もしそうしなければ彼女は……その……」
「死んでしまいそうだった?」
ルジェーナが言葉を引き取ると、マルコはこくこくとうなずいた。それを見てルジェーナは小さく息を吐くと、ハンカチをゆっくりと手に取った。そして、目をつぶり、ハンカチを鼻に近づける。
マルコはごくりと唾をのんだ。
その真剣な表情の中に、一瞬だけ、激しい憎悪、あるいは怒りのような感情が浮かんだような気がしたからだった。しかしそれは気のせいかと思えるほど一瞬で、ルジェーナは目をあけると穏やかな声で言った。
「これは……かなり、高貴な方の香りですね。ただ、香水の香りがあせてしまっていますので、これを元に復元するのは極めて難しいです」
「そうですか……」
マルコはがっくりと肩を落とすと、件の女性になんと言おうかと思考を巡らせ始めた。しかしその思考を遮るかのように、ルジェーナは意外な言葉を口にする。
「よろしければ……私が王城に伺います。そう伝えていただけますか?」
「! いいんですか!?」
「はい。その女性の主は調香師を求めていらっしゃるご様子。直接、香水の香りをかげば、材料さえ揃えられれば、香水を再現することは可能だと思います」
マルコは香水に対する知識が乏しく、ルジェーナの言葉を素直に信用した。そして椅子から立ち上がると、嬉しそうに笑って言う。
「じゃあ、さっそくあの人に伝えてきます!」
「これを!」
ルジェーナは持っていたハンカチを差し出すと、今にも走り出しそうだったマルコは、どうにか立ち止まった。
「ああ! すみません。もらいます」
ハンカチを受け取ったマルコは、それではと言い残して、勢いよく外に飛び出して行った。扉をあけて店の外に出ると、ひんやりとしたきれいな空気がマルコの体を包み込んだ。空はよく晴れていて、青く澄んでいる。
マルコは予想外の収穫に微笑むと、女性が寝ている病院へと急いだ。
一方、店の中に残されたルジェーナは大きく息を吐いた。そしてカウンターの外側に回り込むと、椅子に腰かけて、ため息をつく。
そしてカウンターの中央にある陶器の香拡散機の火を吹き消した。一筋の煙とともに、蝋燭が消えた香りが少しの間だけルジェーナの周りの空気に滞在する。
「アーリアの根……。あの香りと、似てる……」
ルジェーナはマルコが店に入ってきた瞬間から、その”香り”を感じ取っていた。だからこそ、自分を落ち着け、その香りから遠ざけるために、この香拡散機を使用したのだ。
母が連れ去られた日、ルジェーナの鼻の記憶として残ったのは、母が作った香水と、母を連れ去った人物から立ち上っていた香水の香りだ。
連れ去るというよりは、連行するという方が正しい表現だが、とにかくその男は香水の香りがしたのだ。一瞬の印象だが、その材料が高級なものだったような気がしているので、男と近しい関係にあった人物が高貴な身分なのだとルジェーナは判断していた。
いつものルジェーナならば、それがどの香料を作って作られたかわかったはずだったが、あの日はそれどころではなかった。連れていかれる自分の母親を引き留めることに気が行っていて、香りを覚えている余裕がなかったのだ。
「同じ香水なんて作ることはできない……」
さきほどマルコに作れると宣言したのは、単にルジェーナが自分の鼻で真実を確かめたかったからだ。素人レベルならば、似ているとだまされてくれるぐらいの出来には落とし込めるかもしれない。しかし、ルジェーナのように香りに鋭敏な人間が、同じ香水だと思えるものは作ることが不可能なのだ。
最近はかなり合成香料が多くなったとはいえ、まだ天然香料を使った香水も多く存在している。天然香料は、そもそも年や生産地によってかなりのムラがあるため、同じ香りのする香料を探してくるのもかなり難しい。
しかし、それでも、ルジェーナはその試みをあきらめるわけにはいかなかった。
「行かなきゃいけない……だって私は、調香師だから」
自分に言い聞かせるようにそっと、ルジェーナはつぶやいた。




