侍女たちの憂鬱
王都中に五回目の鐘が鳴った後、王宮の一室では、第三王女イザベラが、自室のリビングで静かに本を読んでいた。
部屋にいる侍女は二人。ベラが信用している侍女四人のうち二人だ。
ベラが読んでいるのは、鉄道に関する本で、特に、列車の動力に関するページを読み込んでいた。
お茶を淹れてベラに持って行った侍女クララは、好奇心からちらりと彼女の読む本を覗き見た。しかし不可解な数式に目がチカチカとして、すぐに視線を逸らす。
そしてセシリーの元に戻ると、小さな声で囁いた。
「どうしてアレが理解できるのかしら」
セシリーでさえもクララのその声は、ようやく聞き取れるほどのものだったが、ベラはふと顔を上げた。
はらりと彼女の美しい銀髪が目にかかる。
彼女の赤い目が細められて、ふっと口元に笑みが浮かぶ。
「お望みなら教えてあげるわよ」
ベラに見つめられて、同性ながらも一瞬、見惚れてしまったクララは、慌てて首を横に振って言った。
「もう、姫様ったら、お耳が良すぎます」
「長い付き合いなんだから、いい加減学びなさいよ」
ベラはふたたび本に目を落としながら言う。
「姫様のおっしゃる通りよ」
セシリーがクララを、たしなめると、クララは不満げな顔をして言った。
「だって、本を読んでいらっしゃる時なら、聞こえないかと思ったのよ」
「でも、本を読んでいるときにこういう会話をするの、もう六十二回目よ」
ベラの言葉にクララは絶句し、セシリーは即座に問い返した。
「数えていらっしゃったんですか?」
「いいえ。ただ、記憶をたどっただけ」
本をめくりながら事もなげに答えるベラに、二人は思わず顔を見合わせた。
すると、ベラはふと顔を上げ、はっとした表情をした。しかしすぐに微笑んだ。
「ずいぶん、気を抜いてたみたい。どうしてかしら。たぶん、あの人に会ったせいね」
「あの人?」
「私が、唯一、先生と呼んでも良いと思える人よ」
「やっぱりまだ、姫様には秘密がおありなんですね」
クララが少しだけ悲しそうに言うと、ベラはキョトンとして首を傾げた。
「そうかしら。でも、そうかもしれない。私って、一人の人に全ての秘密を明かせない人間なのよ」
「それで、その記憶力も隠していらっしゃったんですか?」
「それは、はいであり、いいえであるわね」
謎かけのようなベラの言葉にセシリーは眉を潜め、クララは首を傾げた。
「あの人、そうね、先生と出会った時、私はその記憶力によって、先生の目にとまったの。そして、その出会いが、私にそれを隠そうと決めさせたわ。だからね、先生にしかその記憶力を打ち明けてなかったという意味では、はい。でも、原因は先生だから、私のその気質が原因ではないという意味で、いいえ」
「うーん。なんとなく分かるような、分からないような。セシリーは?」
「私は分かったと思うわ」
セシリーもまた、断定はせず、あくまでも主観的に肯定する。
二人がベラの言葉の意味についてもう一度考えようと、頭の中で反芻し始めた時だった。
「失礼いたします。セネヴィル少佐がお越しです」
扉をたたく音の後に、オーガスタが向こう側から声をかけてきた。ベラは本を閉じると立ち上がりかけて腰を浮かし、しかしすぐにソファに逆戻りした。
その様子を見たクララとセシリーは、意図を問うようにベラを見つめる。
「パーシバルをこの部屋に入れて」
「……かしこまりました」
一瞬の逡巡の後、オーガスタは返事をした。普段は応接間にしかパーシバルを入れないベラが、このリビングにまで彼を入れるのは初めてだった。
だからこそ、その判断の理由が気になり、侍女二人はベラに一歩歩み寄る。
「婚約者になるからよ。話したでしょう?」
「だから、どうしてそうなるんですか?」
「噂になるわ。きっと他の侍女たちは、婚約者になるから、彼を入れたと思うでしょうからね」
クララの率直な疑問に、ベラは答えた。しかしそれでも分からないクララは質問を続けようとしたが、それは扉をたたく音によって遮られた。
「失礼します」
「どうぞ」
扉が開き、入ってきたのは黒髪の青年だった。部屋には三人いたが、彼の藍色の目に映るのは、中央にいる銀色の髪の女性だけだった。
「イザベラ殿下」
「あ、そうだ。二人は外に出ていて」
パーシバルの声はまるで聞こえなかったとばかりに二人にベラが言うと、二人はパーシバルの方を見た。
「殿下!」
パーシバルは咎めるような声を出すが、侍女二人は顔を見合わせ、しかし結局は主人の言葉どおり、頭を下げて部屋を出て行く。
「どうしたの? 面白い顔してるわよ、パーシバル」
「どうしたの? それはこちらの台詞です! 私と殿下の婚約が決まったと言う話が、広まっているのは何故ですか? それも私の預かり知らぬところで!」
「ベラって呼んで。婚約者になるのだから」
「そう言う話では……まさか、それが理由などとおっしゃりませんよね?」
「堅苦しい話し方も止めて。でも、それが理由ではないのよ、残念ながらね」
「ではどのような理由ですか?」
パーシバルが鋭く問い返すと、ベラは近くにあるソファを指差した。
「そこ、座ってね。あなたが座って、堅苦しい敬語も、呼び方も止めるまで、私は何にも話さないから」
白い肌に映える赤い目と唇が、パーシバルの目に飛び込んできた。彼女は得意げに微笑みながらも、パーシバルから視線を逸らさない。
パーシバルもまた、ベラから視線は外さなかった。しかし自分がいかなる抵抗をしても、今のベラが折れることがないと悟り、パーシバルはソファにゆっくりと腰をかける。
パーシバルが座ってもなお、ベラは話し始める様子はなく、ただじっとパーシバルを見つめているだけだった。
彼女の心情は、パーシバルには全くもって推し量ることの出来ぬものだ。もしこれがべらでなければ、パーシバルは相手が自分に好意を持っているのだと冷静に判断しただろう。しかし、ベラの目には、恋と呼ばれるだけの熱量がありながらも、それと同居しているべき不安や期待がない。
そもそも、パーシバルは目の前の美女を前にして、冷静さを保っていられたことがないに等しかった。
ただ、そんなパーシバルでも、彼女が発した言葉の意味をそのまま理解することはできる。
「どうして、君はそんなことをしたんだい? ……ベラ」
囁くように発せられたその言葉は、耳の良いベラには問題なく聞き取ることができる声量であった。
「そうね……リシャルト殿下にはこう言ったの。人並みに結婚したい、ってね」
「人並みに? でもそれは理由じゃないんだろう?」
パーシバルに対して嘘をつくことは、ベラにとって容易なことではなかった。しかしもしベラが彼に対して嘘をつきとおせなければ、彼をいやおうなしに巻き込むことになるのは明白だ。
だから、ベラはあえて、わかりやすい嘘をつくことから始めた。
「あら、私にだって結婚に憧れがあるのよ」
「憧れがあるとしても、僕との婚約をあれほど嫌がっていたのに、どうして急に?」
「私の心変わりだとは思ってくれないの?」
「思わないね」
これは第一段階だ。ベラはそう言い聞かせると、第二段階に入る。
「……リシャルト殿下に言われたの。この前の誘拐事件のようなことがあるなら、パーシバルに責任をとらせるって」
「!」
「だから言ってやったのよ。責任を取ってもらうわ。婚約する! ってね」
ベラはそういってウインクして見せた。すると、パーシバルは一度絶句し、そして大きくため息をついた。
「つまり……売り言葉に買い言葉?」
「そ。でも感謝してくれるわよね? 私がそういわなければ、あなたは近衛をクビよ」
ベラは首元を搔き切るしぐさをしながら、平然とそう言った。
「それは……ありがとう。でもそれならどうして、噂を流すなんて回りくどいことを?」
「私には王位継承権があるという話をされてね。万が一、血迷った陛下に却下されると困るから、先に既成事実を作ることにしたわ」
「え……? は、いや、その、それは……!」
きっぱりと言い放たれたベラの言葉に、パーシバルはまず赤くなり、次に青くなった。
しかしそんな彼の反応をよそに、ベラは話を続ける。
「こうやってリビングで二人きりになってみたり、口調を私の部屋の中だけでは戻したりね」
「ん……?」
「部屋の中だけでも、侍女の前で仲の良い素振り、というか、今までより親密な雰囲気があれば、勝手に噂なんて広まってくれるでしょう?」
「ああ。……君の言葉が足りないから、驚いたよ」
パーシバルは率直な感想を言い、そして、小さく息をついた。
「言葉が足りない?」
「いや、解決したからいい」
何を考えたかを悟られるわけにはいかなかったパーシバルは、慌ててそういってベラの疑問を受け流す。
「あら、そう? とにかく、陛下が是というしかない状況に持ち込もうと思って」
「つまり……言葉遣いはそのための演技というわけだ」
「ええ、そうよ」
「この前、ヴェーダ大尉が運命の人だと言っていたのに?」
これは、パーシバルの大きな誤解を解くために絶好のチャンスだった。彼女がここでそれをきちんと説明すれば、この後の話の流れは変わったはずだ。
「それと婚約に、なんの関係があるの?」
しかしベラは、目を細めて問いかけただけだった。パーシバルは小さくため息をついて首を横に振った。
「なにも。何も、関係ないさ。それで、婚約したら、どうする気? 本気で結婚するのかい?」
「確かに最初は、売り言葉に買い言葉だったり、あなたの首をつなぐためだったりしたけど……もし、ちゃんと婚約したら、もちろん本当に結婚するわよ。だから……一度だけ聞くわ」
ベラは体をパーシバルに向け、顔にかかった長い銀色の髪をかきあげた。そして、白い肌に映える赤い瞳をまっすぐと彼の藍色の瞳に向けた。
そしてベラは小さくこぶしを握り、息を吸ってはいて、そしてもう一度吸ってから言う。
「私と結婚してくれる?」
ベラの言葉にパーシバルは息を飲んだ。それはパーシバルが望んでいたが、一番望んでいなかった言葉だった。
素直ではないベラの余計な言葉の付け足しにより、婚約は目的のための単なる手段だと線を引かれている、パーシバルはそう感じていた。
「……姫の望みとあらば」
だから、パーシバルはあえてそういう言葉を選んだ。
彼女の意図を”正しく”理解したと示すために。自分の中にある本心は深く押し殺して。
一方、ベラはその言葉を聞いて、一度だけ表情を曇らせた。しかしそれはパーシバルが瞬きする間に消え失せて、彼女は勝気な笑みを浮かべた。いつもよりも赤い口紅が塗られた唇の端が上がっていないが、同じく動揺しているパーシバルは気づかない。
「ありがとう」
ベラは礼を口にして、そして一度下を向いて、ぐっと唇をかみしめた。こぶしは強く握りしめすぎて、爪が手のひらに食い込んでしまっている。
しかしその肉体の痛みは、心の痛みに比べれば……まだ優しいものだった。
「私、疲れたわ。悪いけど今日はもう帰って」
「……ゆっくり休んで」
二人はもはや、お互いに視線を合わせることはなかった。
ベラがソファに肘をつき、前かがみになってこめかみを押さえている間に、パーシバルは部屋から退出していた。
そして、それと入れ替わりに、クララとセシリーが入ってきた。
「姫様?」
ベラの様子を見て、クララが真っ先に声をかける。
しかしベラはまだ顔を上げなかった。
「馬鹿ね、私」
「どうされたんですか?」
「なんでもないのよ、セシリー。ただ、パーシバルに言ったのよ。ある目的のために、婚約してくれるかって。パーシバルは私がそれを望むなら、と応えた。ただそれだけのこと」
セシリーははっと息を飲み、クララは何かを聞き出そうに口を開こうとした。しかしそれをセシリーが視線だけで止める。
「シスラに怒られるわね。こんな顔をしていたら」
ベラはそういうなり、うつむいたまま立ち上がった。そして腰まである長い銀髪を一振りすると、寝室につながる扉へと進んだ。
「夕食はいらないわ。疲れたから、寝る」
二人の侍女は、そういう主人の背を見送ることしか出来なかった。
扉が閉まると、二人は顔を見合わせて、頷いた。
「シスラさんとオーガスタさんに伝えなきゃ」
そして二人の侍女は、リビングから出て行く。
誰もいなくなった部屋に残るのは、痛いほどの静寂と、隣の部屋からの、常人には聞こえぬほど小さな嗚咽だけだった。




