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イェンスとルジェーナ  作者: 如月あい
三章 幻影を求めて

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34/82

見知らぬ男

 焼きたてのパンの匂いは、ルジェーナに空腹を思い出させた。

 ルッテンベルクの街に漂う香りだけで、ルジェーナにはそれがなんのパンかが分かる。

 大通りからはかなり外れた位置を、あてもなく歩いていたルジェーナは、自らの空腹を満たすために香りの方へと歩き始めた。

 大通りを外れても、水路を使って小さなボートが人を運んでいるし、裏通りにある店を求めて歩く人々もいる。

 時折、濃い藍色の軍服を着た人にもすれ違うが、視線を逸らして目が合わないようにする。

 見るまでもなく、香りが違う。

 ルジェーナはそう考えてふと、自分がイェンスの香りをなんとなく覚えてしまったことに気がついた。

 香水を付けている人ならともかく、体臭というものを嗅ぎ分けるのはかなり難しい。特にルジェーナのように鼻が効きすぎると、その人物が無意識的にまとった香りまで感じ取ってしまうからだ。

 ルジェーナを持ってさえも、人の香りを追うのは難しい。しかし、近づきさえすれば、その人が知っている香りをまとっているか否かは分かるのだった。


「調香師さん!」


 声をかけられて現実に引き戻されたルジェーナは、自分に手を振る少女を見つけた。


「タチアナさん。もしかして、このお店は?」

「私の家です! あ、正確には両親の。よければ見ていきませんか?」

「はい。喜んで。お腹も空いているので」

 美味しそうな香りに誘われて、ルジェーナは即座に頷いた。

「こんにちは」

 声をかけながら店の中に入ると、パンのほのかな甘く、柔らかな香りが鼻をくすぐった。棚に並べられたパンは形が様々で見ても楽しい。

「こんにちは、お嬢さん。今ならクリームパンが焼きたてだよ」

 声をかけてきた女性は、少しふっくらとしていて、はきはきと元気な雰囲気だった。おさげで落ち着きのないタチアナとはあまり似ていないが、よく見ると鼻の形がそっくりである。

「お母さん、この人が私を助けてくれた人!」

「そうなの! それじゃあサービスしなくっちゃね」

「いえ。大したことはしていませんし、知り合いの軍人の方が助けてくれましたから」

 タチアナがスカーレットとともに誘拐された時、ルジェーナが追いかけると言ったにせよ、イェンスも追跡と犯人の捕縛にかなり力を貸してくれたのだった。あの場で一番活躍したのはベラであったが、彼女はいなかったことになっている。


「いいのよ! 香水も作ってもらったんでしょう? この子ったら仕事がお休みの日はいつも付けてるのよ!」

「もう! お母さん!」

 タチアナはそう言うと、恥ずかしそうにしながら笑って言った。

「おかげで落ち着いて話ができました! ありがとうございます。ただ、今日は仕事で、パンの香りを損ねるといけないのでつけてないんですが」

「それでいいと思います。これだけ美味しそうな香りがしてるなら、それ以上付け加える必要はありませんよ」

 ルジェーナは大きな丸い目を細めて微笑むと、パンに視線を移した。

「落ち着いて話って?」

 ルジェーナがパンを見ている間に、先ほどの会話を聞きつけたタチアナの母は、タチアナに鋭い質問をした。すると、タチアナは顔を真っ赤に染めるとおさげを横に大きく振って言った。

「な、なんでもないっ!」

「あらぁ? 何があるのかしら? 色づいちゃって!」

「もうっ!」

 親娘のなんでもない会話に、ルジェーナはそれを微笑ましく見守りつつも、一抹の寂しさを感じていることに気づいた。


『仇をとってね、絶対よ』


 遺書に書いてあった言葉が、ルジェーナの脳裏に蘇る。その言葉は、長い黒く染められた髪の女性の虚像と、彼女の声によって再生され、いつでもルジェーナの心に深く刺さる。


「ルジェーナさん?」


 現実に引き戻されたルジェーナは、タチアナの心配そうな顔を見て、すぐにパンに視線を移す。

「この、チーズのパンと、クリームパンをいただけますか? パンをどれにするか悩んでたら、ぼーっとしちゃいました」

 ルジェーナが明るくそう言うと、タチアナはありがとうございますといって、パンを紙袋に入れてくれた。

 受け取ったパンは温かく、袋から漂ってくる芳醇な香りが、さらに食欲を掻き立てる。

「あ、よかったらここで食べていくかい?」

 パンを受け取ると、タチアナの母がぽんと手を打って提案してくれた。紙袋の中のパンは温かいし、お腹も空いている。自分の家まで近いので、冷める前には食べれるかもしれないが、今なら焼きたてだ。

 チーズののったパンの表面はカリッとしていて美味しそうに見えるし、温かいクリームパンはバニラの香りを漂わせている。

 しかしルジェーナはふと、仲の良さそうな親娘を見て、心の隅がヒンヤリと冷えていることを感じた。

 温かかなパンや、親娘とは反対に、ルジェーナの心の中は負の感情に侵食されて、冷えつつあるのだった。

「すみません、用事があるので」

「そうかい、また来ておくれ」

「また来てくださいね!」


 ルジェーナは曖昧に微笑むと、約束はせずにパン屋の外に出た。

 そしてしばらく歩いて大通りに向かう。パン屋が完全に見えなくなった位置で一度立ち止まり、紙袋のなかの焼きたてのパンを一つかじった。

 柔らかいパンに、とろりとしたカスタードクリームの甘さが口の中に広がる。それは焼きたてなので温かく、作り手の心を感じさせる味だった。

「そういえば……お母さん、クリームパン好きだったな」

 ルジェーナは一人でそう呟くと、クリームパンをそのまま食べ続けた。

 懐かしさと寂しさと、そして先ほど心に巣食い始めた嫉妬が同居して、ルジェーナの心の中は混沌としていた。

 ルジェーナがベラの側にいられるのはきっと、彼女が何より、家族と疎遠だからなのだと、分析していた。

 家族を殺された・・・・日から、幸せそうな家族を見ることが苦しくなった。いつもいつもではないが、時折、発作のようにルジェーナを襲う、劇的な憎しみの感情は、ルジェーナの心を焼き、傷つける。

 一人になったその日から、歩くときに常に武器を携帯しているのも、自分に殺傷衝動があるからなのかもしれない。ルジェーナはそんな風に考えては、そんな自分の強暴性に嫌気がさした。


 クリームパンを食べきると、残ったチーズパンは紙袋ごとカバンに放り込んだ。


 そして、嫌な感情を振り切るように、意味もなく駆け出した。人がそこまでは多くない路地は良いが、大通りに近づけば近づくほど、走るのは難しくなってくる。

 ルジェーナは徐々にスピードを落とすと、歩いて大通りに入った。家に帰る方向ではない。どこへ行きたいのか、何を目指しているのか、自分でもわかっていなかった。


「おい!」

 大通りで誰かが叫んでいる。

「待て!」

 腕を掴まれると同時に、体が大きく傾いて、ルジェーナの紫色の髪が揺れた。

 腕を掴んだ男は、見知らぬ人だった。金髪に、深い緑色の髪。顔立ちは整っているが、頬に大きな傷があった。

「名前は!?」

 よく見ると男は軍服を着ていて、胸のポケットに金のバッチをつけている。

 なぜこの男に呼び止められ名前を聞かれているのかわからないが、ルジェーナは相手が軍人なので、とりあえず名を名乗ることにした。

「ルジェーナです。失礼ですが、お会いしたことはありませんよね?」

「……シルヴィアは元気か?」

 思いがけぬ名前に、ルジェーナの息が一瞬だけ止まった。しかしすぐに、懐にある短剣に手を伸ばしながら、ゆっくりと問いかける。

「シルヴィアとは?」

 すると、深い緑色の目がすっと細められ、ルジェーナを捉えた。そして、静かな声で男は言う。


「いかなる理由があろうとも、軍人相手に刃を向けるのは感心しないな」


 どこかで聞いたことのある台詞に、ルジェーナは咄嗟に記憶を辿る。

 しかしそれを終える前に、男がさらに衝撃的な言葉を告げた。


「私はエドガールだ。お前の両親とは知り合いで、特にあいつ……父親とは、ライバルと言っていい関係だった。そしてさらに言うなら、あの男の死因はユリアではないと信じている」


 エドガールを信じるべきか否か、ルジェーナは悩んでいた。しかしながら、彼の洞察力の鋭さからして、とてもルジェーナが敵う相手ではない。

 もし彼がルジェーナの敵で、正体に気づいて近づいたならば、すぐにルジェーナを殺そうとするはずだ。何もわざわざ相手を警戒させることはない。


「どうしてお前は死んだ双子の片割れの名前を使っている? それよりもどうして親戚の家から失踪したんだ?」


 しかも、彼は極めて正確で詳しい情報を持っていた。特に前者については、生前の両親を知っていなければ知りえないことである。

 ルジェーナは警戒を解き、口を開いた。

「シルヴィアは元気です。彼女は、ある使命を果たすために生きています」

 エドガールは何かを言おうとして、しかし口を閉ざした。目の前にいるルジェーナが、とても彼の言葉に耳を傾けるように思えなかったからだ。

「そうか……。ではもし、お前……いや、彼女が助けを必要とするならば、ここに来い。微力ながら力になろう」


 男はそういうと、持っていたノートの一枚を引きちぎり、そこに大きな字で住所を書いた。そしてそれをルジェーナの手に半ば無理やり押し付けた。

「では、また」


 男はそういうと、大通りの人混みの中に消えてゆく。

 残されたルジェーナは、渡された紙を読んだ。オーシェルマン地区の住所が書かれているが、あまり土地勘のないルジェーナには、全く場所が想像できなかった。


「それにしても、あの人、どこかで……」


 記憶を辿るように目をつむったルジェーナだったが、思い出せない。

 一人立ち止まるルジェーナを急かすように、時計塔が三日に一回の時計合わせのメロディーを奏で始めた。道行く人は時計塔を見て、店を出している人間は、自分の家の時計を合わせるために一度室内へ入っていく。


 ルジェーナだけは「リールゥー」の音が鳴り止んでもなお、そこに立ち尽くしたままだった。



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