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イェンスとルジェーナ  作者: 如月あい
三章 幻影を求めて

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33/82

そこに見たもの

 一日の始まりを告げる時計塔の鐘が、王都中に響き渡る。その音を聞きながら、徐々に降りてくる跳ね橋を、馬上で今か今かと待ち受けている青年がいた。

 金髪に緑色の瞳で、深い藍色の軍服を身に着けているイェンスだった。

 彼はルッテンベルク街から王城に入ると、そのままぐるりと城壁沿いに馬を走らせ、南西部の橋へと向かった。

 大河リーニュにぽつりと浮かぶ王城を中心として、王都は大きく五つの街に分けられる。

 五つの街の中心には、王城と街をつなぐ五つの跳ね橋から続く、大通りが存在する。

 ウェストロイド地区は、ウェストロイド通りを中心に抱く、王都南西部の街で、ルッテンベルクの西側に位置する街だ。五つの街の中では最も狭いのだが、王都最高峰の職人たちと、それを売る商人たちが多く住む街でもある。

 そのため、この町は荷物を効率よく運ぶために、水路を極力とぎらせないような工夫がなされている。たとえばルッテンベルクの橋はさして高くないので、荷物を載せた中型船が下を通ることは難しいものが多い。

 しかしここウェストロイドの橋は、だいたいどこの橋でも中型船が下をとおれるように設計されている。そのためスロープがやたらに多い。それに、大通りにはルッテンベルクにつながるそれなりの数の水路が横切っているため、ほとんど地上はないといってもよいぐらいだった。まず跳ね橋を降りたところから緩やかなスロープが始まり、そのあと馬がのぼれるくらいの緩い階段を経て、一本目の橋にさしかかる。

 しかしそれだけではやはり橋の高さがルッテンベルクより少し高い、それだけの話になってしまう。この街の特殊なところは、橋の下に向かって、水路が緩やかに陥没していて、水位が他よりも低いところだ。しかも橋を抜けるとまた緩やかにもとの水位に戻るのである。


「さすがというべきか……」


 イェンスは馬を走らせながら、ウェストロイドの街並みを見た。

 朝の六時になると太陽が昇り明るくなりはじめるので、夜の間ともされていたガス灯は、夜に火をつけた点火夫てんかふたちによって消されていく。

 これは特に珍しい風景ではなかった。ところが、よく見るとなぜか点火夫たちは、大通りに並ぶガス灯の火を一つ飛ばしで消していた。つまり半分のガス灯には火がついたままである。

 イェンスは疑問に思って馬を止めると、近くのガス灯に寄ってきた点火夫が、火を消した。そしてまじまじとその様子をみているイェンスを見て、ニヤリと笑った。

「なんで半分近くのガス灯を消さないのか不思議なんだろ?」

 三十代半ばくらいの男は、疲れたとばかりにその場で腰に手をあてて立ち止まると、馬上のイェンスを見上げた。

「どうしてですか?」

「見てろ、あと、一分くらいだ」

 男はまだ火のついているガス灯をさした。

 イェンスはそれをじっと見つめる。一分と男は言ったが、実際はそれよりも短い時間だった。

 白み始めた空の中でも、十分な光度を持っていた街灯たちは、ある瞬間が来ると、ふっと消え去った。イェンスは理解に苦しんで瞬きし、思わず目をこすったが、街灯はやはり完全に消えている。

 残っている灯は、点火夫たちがまだたどり着いていない部分の街灯だけだ。

「ここ、ウェストロイドでは、大通りにあるガス灯の半分を電気の照明に差し替えてんだよ」

「電気の……それはこんなに一瞬で、消えるものなんですか?」

「ああ。スイッチ一つでな。三年後には残りのガス灯もぜーんぶ電気照明になる予定だ」

 男は大きな動作でそういったのだが、表情は曇っている。イェンスはそれを疑問に思ったが、すぐに自分で答えにたどり着いた。

「……この仕事はどのくらい?」

「十年だよ。ガス灯の整備士も兼ねてるんだ。でも、電気照明はさっぱり仕組みがわからんし……しかもガス灯みたいにいちいちひとつづつ着火する必要も、消火する必要もない。便利な道具は有り難いが、点火夫はみーんな失業だな」

「……」

「おいおい。そんな顔するなよ。それが”発展する”ってことなのさ。計画されていても、実行されていない大事業があるだろう、この国には?」

「鉄道……ですね」

「ああそうさ。この国に鉄道ができない大きな理由は、水路の運び屋と、陸路の運び屋……つまり船と寄合馬車の組合が大反対しているからだ。でも、もし鉄道ができれば、それはすごいことだぞ。リーニュに橋をかけて、南北もつなぐ計画のようだから、天候に左右されず王都の南部から北部に渡れる。ウェストロイドの端から、反対側にあるヴィッセルツの端までたった一時間でいけるようになるって噂だ」


 大通りの端から端までは、寄合馬車を使えば三十分以上かかる。単騎なら途中で止まる必要がないためもっと早いが、南北を横断するならば、馬はどこかに置いておかなければならない。

 そして河を渡るのに一時間半から二時間かかることを考えると、端から端まで行くには三時間弱かかるのが現状である。

 それを一時間でいけるようになるというのだから、鉄道の力は大きい。


「さて、俺はそろそろ仕事に戻る。軍人さんも、剣に勝る武器! なんてものが発明されなきゃいいけどな。がははは」

「……お仕事お疲れ様です」

 すでに開発されている、とは言えなかった。イェンスは沈黙を選び、無難な挨拶をしておく。

「ああ。軍人さんもな! じゃ、これで」

 その男は、まだ消えていない、つまりガス灯の火を順番に消していく作業に戻った。男がさぼっていたので、大通りの片側の照明だけが、まだぼんやりとあたりを照らしている。電気の照明よりも暗いそれは、確かにあたりを照らしているが、街を行く人間の誰も、それを気に留めていなかった。


 イェンスは再び馬を走らせた。朝一番の鐘がなったばかりだが、大通りにはそれなりの人や馬車が行き交っている。

 そして通りに面した店々は、二回目の鐘がなる時間になると、一斉に店を開ける。今はそのための準備の時間で、掃除をしたり、商品を並べたり、街の人々はせわしなく動き続けていた。


 王城を出て、一本目の橋を越えたところで、大きな建物が姿を現した。

 他の建物を三つほどくっつけたようなその建物には、二階と一階の間から屋根が飛び出していて、それを支える鉄骨でできた細い柱が四本、地面から垂直に伸びていた。

 木板の組まれた簡易的な屋根は丈夫そうな布に覆われており、黄みがかった白の布には赤い花が大きく描かれている。

 近づいてみると、花は姿を消し、その代わりにイーグルトン商会と描かれた看板が存在感を放って店先にドンと置いてあった。


 イェンスは馬から降りると、近くにあった繋ぎ石に馬を繋いでおく。そして軽く服を払うと、ゆっくりと店に近づいた。

 布張りの屋根の下は、店になっているようで、すでに何人かの人が商品を並べ始めている。

「すみません」

「お客さん、ちと気が早すぎだよ」

 イェンスが声をかけると、商品を出していた男はそういいながら振り返った。

 そしてイェンスが濃い藍色の軍服を着ていることに気づくと、眉をよせ、声をひそめて聞いた。

「お客さんじゃないのかい?」

「買い物はしません。ただ、スカーレットさんに用がありまして……」

「お嬢様に!? お嬢様は確かに気が強いし、ちょっと高飛車だけど、そんなに悪い人じゃないんだよ」

 男のがでかい声でお嬢様の擁護を始めたせいで、他に作業をしていた人間もみな二人の方を向いた。

「捕まえるわけではありません。お話をうかがいたいだけで……」

「そんなの旦那様がお許しにならないさ! お嬢様に一体全体、何の用だって言うんだ!?」

「軍の機密ですので言えません」

「ほうら、見ろ。軍の機密だって言って、事情も言わずに取っ捕まえようって腹だろう! でもな、こちとらイーグルトンの旦那様にはどでけぇ恩があんだよ! そう簡単に通しはしねぇからな!」

 話が全く通じない男に、イェンスは思わず髪を掻きむしった。

 この男の声が大きいせいで、行き交う人の視線が痛い。それはスカーレットにとってもマイナスだと気づいていないらしく、男はさらに話を続けようとした。

 ところが、イェンスが止めるよりも前に、思わぬ人物の登場により、男は黙らされることになる。


「何を騒いでいるの! 朝から煩いわね!」


 叫んだ女性の蜂蜜色の髪が波打ち、やや激しく揺れてから元の位置に収まった。

 女性は腰に手を当てて、騒いでいた男に向かって指をさした。


「あなたねえ、私への来客は、勝手に判断しないで指示を仰ぎなさいよ! それくらいもできないの!?」

 スカーレット・イーグルトンは、初めて会った時と同じくひどく怒っていた。

「で、ですがお嬢様。以前、判断を仰いだところ、そのくらい自分で判断しろとおっしゃったではありませんか」

「それは身元不詳の怪しい男だったからでしょう!? 軍服を着た男を門前払いしたら、むしろこの家には後ろ暗いことがあるって思われるじゃない」

 スカーレットはそこまで言うと、イェンスに目を向けた。そしてすっと笑顔を作り、愛想よく言った。


「イェンス・ヴェーダ大尉ですね? 先日はお世話になりました。あの日のことは記憶が曖昧なのですが、命を助けていただいたこと、感謝しております」


 その言葉が、以前見た彼女や、先ほどまで怒鳴っていた彼女とはまるで違って丁寧であることに、イェンスは驚きを超えて混乱していた。


「た、たすけていただいた? し、しかもあのヴェーダ家の?」

「この方は先日大変お世話になった方よ。それに誉れ高き剣の家、ヴェーダ家の長男。そんな彼が私の様子を心配して見に来てくださったのに、お前は早とちりして、まったく!」

「も、申し訳ありませんでした! それなら最初からヴェーダと名乗ってくだされば良かったのに!」

 スカーレットの様子が心配だから見に来たわけではなかったが、イェンスはそれを言わずにこの流れに乗ることにした。

「お話をうかがっても?」

「もちろん。こちらへどうぞ。中でお茶でも用意させます」


 スカーレットに連れられて建物に入ると、そこもまた店だった。しかし、簡易的な屋根の下で売っている商品とは違い、中のものは明らかに高いとわかるものだった。

 全てガラスケースに入れられていて、商品の中には腕時計もある。


 スカーレットとイェンスは店の中にいる人間の視線を全て集めていた。みなが手を止め、スカーレットに挨拶をする。しかしスカーレットは気にもとめず、そのまま店の奥にある扉を開けた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 イェンスはこの建物ですれ違う全ての人に注目されることに居心地の悪さを感じながら、スカーレットにひたすらついていった。

 そして客間に通されると、クッションのきいた椅子に二人とも座る。

 座った瞬間にスカーレットがテーブルの上の呼び鈴を鳴らすと、すぐに扉が開き、お茶と菓子を手に持った女性が部屋に入ってきた。

「やれば出来るんじゃない。悪くないわ。呼び鈴を鳴らして三秒だなんて」


 スカーレットは腕時計の秒針を見つめながらそう言うと、女性に下がるように言った。

 女性は一礼すると、好奇心に耐えられないと言わんばかりにちらりとイェンスを見た。わずか五秒くらいでも、目を大きく開けて見つめられると、決まりが悪い。

 イェンスが軽く咳払いをすると、女性はハッとしたように我に返り、そそくさと部屋を出て行った。


「堅苦しいのは嫌いなの」


 後は察して、と言わんばかりにスカーレットはそう言うと、運ばれてきたばかりの紅茶に口をつけた。

 見た目はまったく似ていないが、その言動がベラに重なって、イェンスは思わず噴き出した。

「なに、なんだっていうわけ?」

「いえ……知り合いのとある高貴な女性にも同じことを言われたので」

「ベラって女でしょう? 動きに品があったもの。それに、イーグルトンの名にも動じないというなら、伯爵家、いや侯爵家の娘さんかしら?」

 実は王女ですとは言うわけにもいかず、イェンスは首を振って言った。

「ご想像にお任せします」

「つまんないの。それより、私に用って何かしら? 私を心配してきたわけじゃないのは分かってるわ」

 さきほど場を収めるために口にしたのは、本気ではなかったようだ。イェンスは少し安心しながら、口を開いた。

「二つ、お聞きしたいことがあります」

「ヴェーダ家の長男に畏まられて、私がこんな口調なのは問題なのよ。でも面倒なの。分かるでしょう?」

「じゃあ、二つ聞きたいことがある」

「そうこなくっちゃね。それで、なに?」

 スカーレットは小首を傾げると、長い爪で自分の髪を梳いた。

「一つ目は、最近、ヴェルマオウを大量に所持している集団が摘発された」

「ヴェルマオウ? 違法薬物ね。依存性が強すぎるし、飲むものに幻覚を見せると聞いたけれど」

「それの流通ルートを調べることはできないか?」

「まさか! イーグルトンはそんな取引はしないし、そういう連中と関係はないもの!」

 スカーレットはそう言って、しかし髪を梳く手を止めて、何かを思い出すように眉間に指をあてた。

「そう、そういえば……エトニンの根の発注が増えてるの。合法的な生薬で、ヴェルマオウの依存性を弱める効果が、最近発見されたって噂よ」

「それの流通ルートならわかるか?」

「ええ。持ってこさせましょうか?」

「頼む」

 スカーレットは呼び鈴を鳴らして人を呼ぶと、書類を取りに行くように使用人に命じた。

 ヴェルマオウの依存性を弱める薬が必要な場所には、間違いなくヴェルマオウが存在する。スカーレットはそれを分かっていて、イェンスに情報を提供したのだ。

 つまり彼女もまた、頭が切れる人間だった。


「さて、その間にもう一つを聞きましょうか?」

「二つ目は、先日、誘拐された原因に心当たりは?」

「そうね。あ、食べていいわよ」

 全く手をつけていない様子を見て、スカーレットはそう言った。あえてそう言われたので、イェンスは出された紅茶と菓子をありがたくいただくことにした。


「うまい」

「でしょう? 外の店でも出してるの。あと心当たりなんてないわ。でもこんな性格だから、敵はそれなりにいるけどね」

「そもそもどうして一人で香水屋に?」

「あの日も大通りまでは家の馬車で行ったのよ。でもそこからは一人だったわ。私が探してるのはシル……あ、えっと」

「ルジェーナのことか?」

 イェンスがそう問い返すと、スカーレットははっとした表情になり、そして尋ねた。

「どうして分かったの?」

「本人がそう呼んでほしいと言ったから、だな」

「なんだ、あなた知ってるのね! シルヴィアったら言ってくれれば最初から素直に対応したのに」

 シルヴィア? そう問い返したかったが、イェンスは黙って話を聞くことにした。

「私が狙われたのは、とある香水を探しているからよ。それは世に五瓶しかなかったもので、今はもう作り手もいないの」

「香水を探しているから? ……ルジェーナのところにもそれで?」

「ええ。あの子のお母様が作った香水を、私もあの子も追いかけているの。最初はシルヴィアを探す目的もあって、あの店に行ったわ。シルヴィアなら調香師になっていると思ったから」

 シルヴィアとルジェーナという単語を聞くと、なぜか遠い昔に出会った女の人がイェンスの頭によぎった。彼女の長い髪が脳裏に現れては消えるような、そんな感覚。


「ユリアさんの夢を継ぐだろうって思ったの」


 ユリアさん、という名前を聞いて、イェンスの頭にくっきりとある女性の顔が浮かんだ。

 先日、夢にまで現れた印象的な女性。イェンスが生まれて初めて、好意を抱いた女性その人だ。

『娘がいるの』

 美しい声がふわりと蘇る。


「大丈夫? 急に黙り込んで」

「いや、大丈夫だ」

「それで、その香水を探すためにミル大佐のお墓に行ったのよ。ルジェーナさんの、あ、つまりシルヴィアの双子の姉。彼女の名前も一緒に刻まれてたわ」


『すべてのコトには、二面性があるの。裏と表。私の娘シルヴィアにも、ルジェーナという影がいる』


 ようやく彼女の言葉の一つを完璧に思い出した。

 彼女はユリアと呼ばれていた。

 そして、以前見た、ミル大佐の事件資料に乗っていた加害者の名前も、ユリアだ。

 娘の名はシルヴィアで、ルジェーナは遠くへ逝ってしまっていた。


「だから、探してるんだな、香りを」

「そう。探してるのよ、香りを」


 スカーレットとの話は噛み合っていない。しかし、イェンスのなかで、バラバラになっていたピースが、ピタリとはまったのだった。


 紅茶を飲んだイェンスは、落ち着くために一度大きく息を吸って吐いた。


「そうそう、私も聞きたいことがあるの」

「え?」

「あなたは、シルヴィアの何? 彼女のこと好きなの?」

 せっかく落ち着こうと思ったのに、スカーレットの質問で、イェンスはもう一度呼吸をし直す羽目になった。

 ルジェーナのことを好きかどうかという質問は、恋愛対象としてという意味だとイェンスにもわかっている。しかし、自分で自分に問いかけても、よく分からないというのが本音だった。


「友人で……人としては好きだ。面倒ごとに首を突っ込みすぎだとは思うが」

「人としては、ね。恋愛対象じゃない?」

「少なくとも今は……違うと思う。おそらく」

 

 放っておけない危うさと、目を見張るような強さ。彼女はまさに、ユリアの言う二面性を持った人間だ。

 守らなければと思う気持ちは自覚しているイェンスだったが、それが恋かと問われれば答えを躊躇ってしまう。

 スカーレットが次の言葉を言う前に、使用人が部屋に戻ってきて、イェンスの求めていた資料を持ってきてくれた。

 スカーレットはそれを受け取ると再び部屋から出ているように言いつけ、資料にざっと目を通す。

「なるほど。これは……我が家にも有益な情報だったかもしれないわね」

「異様に多く仕入れているところがあるんだな?」

「ええ。イヴィル商会が多いわ。かなり新しい商会だから、ノーマークだったけれど」

「新しいというと?」

「まだ二十年くらいよ。小さいからこそ、うちみたいな大きな商会が輸入するものを買うんでしょうしね」

 スカーレットは資料をイェンスに渡した。ここ数ヶ月でエトニンの根をイーグルトンから購入した家の名前がずらりと並んでいる。そこには、購入量も書かれている。しかし一見すると、彼女が指摘したイヴィル商会がありえないほど多く仕入れているようには見えなかった。

「単純な量だけだと、メルニア家と同じくらいだけれど、メルニア家は薬草を多く扱う店。それに、規模もイヴィル商会とは比べものにならないぐらい大きいわ」

「なるほど。比率が多すぎるんだな」

「そうなるとますます怪しいのよね。それ、商人ではないあなたが見ても、何も感じなかったでしょう? それが狙いなのよ。私も疑ってかかったからこそ、見抜けただけ。上手い手だわ」

 イェンスは資料をざっと目を通したが、自分でこれを持っていても読み取れる情報量が少ないことに気づいた。

「ちなみに、イヴィル商会が他に何を買ったか分かるか?」

「分かるわよ。ただ、商品別に購入者をリストにして、それを購入者ごとに月末にまとめるの。今月分はまだ作ってないから……必要なら作らせるわ」

「頼む。それとこれは返しておく」

「いいの?」

「ああ。その代わり、ここでしっかり保管しておいてほしい」

 どこに敵がいるか分からぬ王城に持ち帰るよりも、大きな商家であるイーグルトンにあったほうが安全だ。それに、この資料はイーグルトン家にあって然るべきものなので、この場所にある限りは、それが狙われることもない。

「分かったわ」

「それと……」

「何?」

「今日ここで話したことは、ルジェーナには話さないでくれるか? 俺は来ていなかったことに。あの馬鹿は首を突っ込みたがりすぎる」

「……ふふ。いいわ。黙っててあげる」

 スカーレットは楽しげに笑った。

「あと、資料はまた取りに来るから、城には送らないでくれ」

「……三日あれば十分よ」

「分かった」

 






 イーグルトン家を出ると、すでに太陽が昇って、通りは明るくなっていた。

 行き交う人々も増え、開店前の準備はほとんど終えられていた。

 そしてイェンスがつないでいた馬のところに戻り、その背をひと撫でした時だった。


 時告げの塔が、あちこちでいっせいに鐘を鳴らし始める。店の準備を終えてひと休憩していた者はその鐘の音で、一瞬空を仰ぐと、次の瞬間からは、もう商人の顔をして、呼び込みを始める。


 大通りにある街灯は完全に消えていて、太陽にその役目を譲り、自らは静かに眠りを楽しんでいる。

 寄り合い馬車や船に人々は集まり、そして運ばれてゆくが、誰も進化し続ける街灯に目を向けることはない。


「かつてのミル家は……たしかウェストロイドにあった、な」


 変わらぬ日常に見えるこの空間も、絶えず変化している。

 川の流れはいつも同じに見えても、決して昨日と同じ水を運ばぬのと同じである。


 イェンスはふっと宙を見つめ、そこにあったであろう、長い髪の女性の生きた軌跡を思い描く。

 すると、かつて憧れたその人の顔は、不思議とルジェーナの顔となって、イェンスの脳裏にぱっと現れた。


 イェンスは首を小さく振って、現実いまに戻る。そして馬に跨り、王城に向かって、馬を走らせた。



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