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イェンスとルジェーナ  作者: 如月あい
三章 幻影を求めて

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断章≪みてくれた人≫

「だめよ、リシャルト。あなたは王子なんだから、弱みを見せてはいけないの」


「よくできたわね、リシャルト」


「そうじゃないでしょう? あなたならもっとできるはずよ」


 母上の声は、いつだって兄上に向けられていた。

 その声は私に届くことはない。私には、母上はとても優しかった。私が何をしても彼女は叱ることはなかった。

 金色の豊かな髪をいつでもきれいに結い上げて、母上はいつも笑っていた。でもその視線の先にいるのはいつでも兄上。


「イザベラ。あなたは好きにしていいわ。だってあなたは王女だもの」


 彼女はいつでもそう言った。たとえ私が、勉強で優秀な成績を収めても、六歳にして馬に上手に乗れても、見事な刺繍の腕前を披露しても同じ。

 兄上がなんでも先にやってしまったから。

 私ができることはすべて兄上にはできたし、彼は私以上の成果を上げていた。だから、母上は私をほめることはない。

 家庭教師たちも同じだ。リシャルト殿下はよくできました……こうでした……そうでした……。

 なんでもかんでも兄上と比較した。


 兄上が母上にとって”良い子”だったから、”有能”で”王にふさわしい資質”を持っていて、そして何より”王子”だったから、母上は兄上を愛した。女王が国を治めたこともあったけれど、確率としては男のほうが多い。だから私は愛されなかった。嫌われもしなかった。ただ、無関心。

 父上は母上のところによく訪れていた。きっと母と、兄上に会うため。


 私はそう悟った時から、家族と極力会わない生活をしようと決めていた。もっというならば、誰とも会わない生活を。

 そんな風に生きてきたから、八歳の時には私はすっかり曲がってしまっていた。

 私がひねくれた原因の兄上は、高みからいつだって同じことを言う。


「イザベラ、お前は王女としての自覚を持て」


 そう言われても、どうして私が兄上のいうことを聞かなくてはいけないのだろうか。私は兄上が嫌いだった。何をやっても彼が存在するから、私は無になる。

 でもそんなことを本人に言ったことはなかった。

 八歳の時には、すでに学んでいた。

 私の言葉なんて、誰にも届かない。響かない。

 私の行動は、誰も咎めたりしない。

 兄上だって咎めるけれど、それは自分のため。自分の妹が”普通でない”ことを嫌がっているだけ。

 私はもう、感情を表現することすら、面倒になっていて、笑うことも怒ることも無駄だと思っていた。

 私は公の場に出ることを避けた。それでも父上も母上も何も言わない。元凶の兄上はうるさかった。


 王宮で私の姿を目にすることがある人間は、陰で私のことを”人形姫(にんぎょうひめ)”と呼んでいる。兄上は氷月の王子と呼ばれていても、それは美しさと冷たさを揶揄しているものだが、私の”人形姫”はどう考えても違う。

 人形のように微動だにしない、無表情なお姫様。

 でもそれを嫌だと思う気力もなかった。もはや他人が私のことをなんと言おうと構わないと思っていた。


 八歳のある日、退屈な礼儀作法の勉強を抜け出して、私は王宮の庭園に出た。庭園は広いが、私が歩くことができるのは、私が住んでいる建物の近くだけ。

 でも私はしょっちゅう、それをやぶって他の庭園にも遊びに行っていた。

 父上のほかのお妃さまに見つかると面倒なので、できるだけばれないように行動する。そして一人になりたくなったら、木の上にのぼればいい。


 木の上にのぼると、いつもは私を見下ろしてくるすべての人間が下にいる。

 私を探しに来る人はいないから、私はただじっと木の幹に背中を預けて、ぼんやりと空を眺めてみたり、行きかう人を観察したりしていた。

 誰も、私を気にする人はいない。王宮の庭園の木の上に、誰かが登っているという発想がないのかもしれない。でも本当は、私に気づいていて、みんなが私に気づかないフリをしているのかもしれないとも思っていた。

 事実、後者が正しかったのだと知ったのはもう少し大きくなってからだ。



「君はそこで何をしてるんだい?」

「……」


 その日は、良く晴れた日だった。

 私は一瞬、自分に話しかけられたことがわからずに、何も答えなかった。

 すると相手は無視されたと思ったらしい、なんと木によじ登ってきた。もう一人が登ってきたことで、木が揺れて、私はびっくりして相手の顔を見た。

 深い藍色の瞳が、まっすぐとほかでもない私を見ていた。

 彼はすぐに私の横の太い枝に登ると、彼の黒髪が風に映えた。歳は私よりいくつか年上だ。おそらくは、兄上と同じくらい。


「何をしているんだい? 君に聞いてるんだけど」

「……何を? ……木登り」

「それは見ればわかるよ! そうじゃなくて……木に登って、何をしてるんだい?」

「さあ……どうして、そんなことが気になるの?」

 私は不思議だった。どうして、彼は少し怒っているんだろうか。もともと中央にパーツが寄っているというのに、さらにぎゅっと顔をしかめている。

「君みたいな女の子が、木に登ってるなんて危ないだろう!」

 彼が大きな声を出して、私はびっくりして、思わず目を瞬いた。そして、ゆっくりと問いかける。

「危ないから……私に声をかけたの?」

「そうだよ。早く降りてくれないかな? 手伝うから」

 彼はいらだっていた。私を心配してくれていた。


「……手伝いは要らないわ」


 私はそういうと、するすると木から降りた。そして、どうしたものかと考える。この庭園は本来ならば、ベラがいてはいけない場所だ。

「……思ったより木登りがうまいね」

 エスコートを断られた彼は、憮然とした表情をしながらも、素直な感想を口にした。

「え……? 本当?」

「喜ばないでくれるかな。褒めてるんじゃないんだよ。どのみち木に登るのは危ないからやめてくれ」

「喜んでいるの、どうしてわかったの?」  

 ベラの感情を読み取れるものは、ほとんどいないに等しかった。だからこそ、人形姫だと言われてしまうのだから。

 すると、黒髪の彼は、すっとベラに近づくと、両ほほを包み込むように手を当てた。


「だって、そういう顔してる」

 

 そうやって、彼は当たり前のように、ベラにとってあたりまえでないことを言った。


「名前は?」

「パーシバル。君は?」

「イザベラ」

「イザベラ……どこかで聞いたことがあるような……」

「……三人、他のイザベラを知ってる」

 私はどきっとしたけれど、珍しくもない名前なのでそういった。王女だと言ったら、きっと彼も態度を変えるだろう。

 私はそう思ったのだった。

「その通りだけど……その銀色の髪……もしかして、君はイザベラ王女かい?」

「……だとしたら?」

 彼はそういうと、頬から手を放し、そしてすっと私の頭を撫でた。

「寂しいから?」

 深い藍色の瞳に自分の顔が映っていた。私の顔は、なんとも言い難い。でも、無表情ではなかった。私は思い切り困っている顔をしていた。

「……何が?」

「寂しいから、そこにいたのかい?」

「……そう。そうかも」

「そうか。もう一度……木に登る?」

「パーシバルが行ったら、そうする」

「違うよ。僕も一緒に登るのさ」

 そういうと、彼はするすると再び木の上に戻ってしまった。私は置いて行かれてしまうと思って、慌てて木に登った。木の上には逃げるところなんてないのに、置いて行かれたくないと思っていた。

「そんなに慌てなくても、どこにもいかないよ、ベラ」

「……ベラ?」

「イザベラなら、ベラだろう?」

「そうなの? 初めて呼ばれた」

 私が首をかしげて聞いたら、彼ははっとした表情をした。

 あの時の彼の心情は、あの時の私にも、今の私にもわからない。

 でも彼は、木の幹に右手を回し、左手を伸ばして私の頭を撫でた。そしてすっと銀色の髪をすいた。

「長い髪だね」

「私はこの色嫌い。大嫌い」

「どうして?」

「だってこれは……兄上と同じ。嫌い。大嫌い」

 頭を撫でる彼の手が止まった。そしてゆっくりとかぶりを振る。

「きれいな色だよ。僕は好きだな」

「そう?」

「だからね、ベラ。そんな風に君の兄上のことを言っちゃいけない」

「知ってる。でも大丈夫。誰もそんなこと聞かない。見てないから」

 私がこんなに長く話したのは初めてだと思った。

 こんなに長く私に話をさせた人も初めてだった。

「僕が聞いたじゃないか」

「パーシバルは、変」

「変じゃない。それに……」

「それに?」


「僕はちゃんと君を見てるよ」 


 たぶん、この時から、パーシバルは特別だった。







 パタンと日記帳を閉じた銀色の髪の女性は、小さく呻きながら自分のベッドに思い切り飛び込んだ。

 侍女をすべて下げた夜。

 王宮内の自室にある、秘密の隠し扉を開けて、ベラは懐かしい品を発見したのだった。

「これを書いたのは十三歳……。五年も前のやりとりを、こんなに覚えてるわけ? ……いや、今も思い出せるから、当たり前か。この時からもう、特別だったなんて……そんなこと!」

 ベラはぶつぶつとつぶやきながらページをめくる。めくりながら靴を脱ぎ、ベッドの下に放り投げると、寝返りを打って仰向けになった。そして日記帳をめくり続ける。

 そしてふとあるページで手を止めた。

「十四歳の誕生日……。荒れてるわね。日記を読まなくても何があったのかわかるわよ」

 誰もいない部屋で、ベラは一人で話し続けた。

「パーシバルに裏切られた日だもの……。忘れないわ。私が人生で二度目に感情を放棄した時期」

 ベッドの上で身を起こすと、枕とクッションに背を預けて、膝を立てて、太ももをノートの台として読み始めた。

 そしてある一文を見つけると、それを声に出して読む。


「ルジェーナと会わなければ、私はここにいなかった」 


 ベラはそういうと、ノートを閉じて、横に置き、そして目も閉じた。


「でもたぶん……その前にパーシバルに会わなければ、私は……」


 長い銀色の髪を一房掬い上げ、赤い瞳でそれを見つめた。

「この思いを抱えたまま、ゆくゆくは結婚するのかしら……それは、どれだけ悲しくて、つらいことなんでしょうね。あなたのせいよ、パーシバル。嫌い、大嫌い……なんだから」


 独り言ですら、素直になれないベラの夜は、こうして更けてゆく。


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