消えた二人
「イザベラ殿下のことです」
冷ややかな声で告げられて、イェンスは唐突に、シスラに言われたことを思い出した。
彼はとんでもない思い違いをしているのだ。なんでもイェンスがベラの運命の人だと思い込んでいるらしい。それはベラの失言が招いた誤解なのだが、彼はそれを真に受けてしまっているのだった。
「ヴェーダ大尉はどういった経緯で、殿下と知り合われたのですか?」
「どういった経緯、ですか……」
イェンスは思い出すのにしばし時間がかかった。まだルジェーナとベラと出会ってから一か月くらいしか経っていないのだが、二人と一緒にいて遭遇した出来事が衝撃的だったためか、もう何年も前からの知り合いのような気がしてしまっていたからである。
「もともとはルジェーナと知り合いだったのですが、彼女の店に行ったところ、ベ……殿下がいらっしゃいまして――」
危うくベラと呼び捨てそうになり、イェンスは慌てて殿下と言い直した。シスラは気に留めていなかったようだが、さすがにパーシバルの前で呼び捨ては気が咎める。初めてパーシバルと会った時はまだ、ベラのことを王女だと確信はしていなかったので良かったのだが、その素性を知った今となっては、第三者の前でそう簡単に呼ぶわけにはいかないだろう。
「――それで、私がルジェーナと親しくしている様子を見て、これから会うこともあるだろうからと、ベラと名乗られたのです。その時はまだ、彼女が王女殿下だとは存じませんでしたので、恐れ多くもただの友人として彼女のことは認識しておりました」
「そして正体を知った後も、イザベラ殿下のご意向に沿い、それ以前と変わらずに接しておられる、と」
パーシバルは丁寧な口調で話してはいたが、声音はどこまでも冷ややかで、イェンスは非常に居心地の悪い思いをした。
だから、シスラが紅茶をもって部屋に戻ってきた時には、小躍りせんばかりに喜んだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「ありがとう」
ほのかに立ち上がる湯気とともに柔らかな香りが運ばれてくる。ルジェーナのような鋭敏な嗅覚は持たないが、紅茶の香りを楽しむぐらいのことはイェンスにもできた。
そっとカップに口をつけ、その風味を楽しむ。
「セネヴィル少佐は、殿下の婚約者候補とうかがっております」
「ええ。彼女が私との婚約にうなずくことがあれば、即座に候補ではなく婚約者になるのですが……」
「うなずくことがあれば?」
パーシバルの言い回しにひっかかりを覚えたイェンスは問い返しながら、シスラをちらりと見た。なぜかシスラは少しだけ楽しそうで、笑いをこらえながら壁際に立っている。
「イザベラ殿下は私のことがお気に召さないようですから。王命でない限り、彼女がうなずくことはないのではないのかと」
イェンスはパーシバルとベラが並んでいるところをほとんど見ていない。そのため彼の言葉の真偽について考察することはできない。
「殿下とは幼いころからの付き合いがあるのですか?」
「イザベラ殿下と最初にお会いしたのは、私が十三歳の時です。もう十年になりますね」
「確か殿下が……」
イェンスはここまで言ってから、ベラの歳を思い出せないことに気づいた。王家の直系のものの名前と年齢ぐらいは、王国軍の入隊試験でも書かされるほどの基礎知識であるのだが、何せもうその試験を受けてから四年は経っている。
「八歳の時のことです」
パーシバルはまったく迷うことなく、ベラの年齢を口にした。イェンスは彼女が自分よりも四歳も年下であることに驚いた。
王女としての立場からなのか、常に上からの物言いをするし、あの赤い口紅も、実際の歳より上に彼女を見せている。
運命の人発言など、ややロマンティックな一面はあるのかもしれないが、常に堂々としていて、物事と真正面から向き合う気質がある。
「そうか……。セネヴィル少佐がいらっしゃるから、彼女は大人びているのですね」
「……え?」
ここで初めてパーシバルが冷静な表情を崩した。
「私の妹は、彼女より年上の幼馴染と婚約していまして、いつも言っているんです。彼に釣り合うように大人になりたいと。背伸びして大人びた服を着て、落ち着いた口調で話して見せて……妹と殿下を比較するのは恐れ多いですが、似たような心理があるのではと思いまして」
イェンスの考えは、パーシバルにはとても斬新なもののように感じられていた。女兄弟のいないパーシバルにとって、あえていうならばベラが唯一、妹のような存在であり、最も思考の読めない人種であったのだ。
「ですが……あなたはベラ様にとっての特別であることに変わりはありません」
全く付け入る隙のなかった先ほどまでと違い、パーシバルは徐々に素を見せはじめていた。なによりベラの呼称が変化している。
「それは――」
今こそパーシバルの勘違いを訂正すべきだとイェンスは思った。
シスラもそう思ったらしい、こくこくとうなずいている。
しかし、イェンスが言いかけた言葉は、発せられる前にさえぎられた。
「――失礼します!」
かなり慌てたノックと同時に、年若い侍女が部屋に飛び込んできた。シスラも若いが、さらに若い。いや、むしろ幼い。茶色の髪をおさげにしていて、明るい青色の瞳の少女だ。
「シュゼット! 少しは落ち着きなさい! そんなに乱暴に入ってくるなんて……」
シスラが先輩侍女として叱り飛ばすが、シュゼットの耳にその言葉は全く入っていないようだった。
「ひ、ひ、姫様が!」
「姫様? 体調が悪いとおっしゃって、お部屋でお休みになっているのでしょう?」
「四時前くらいに起こしてと言われたので、お声かけしたんです! そうしたら、姫様がお部屋にいらっしゃらなくて! わ、わたし、慌ててオーガスタさんに……!」
「あなた、勝手にお部屋に入ってお声かけしたの? オーガスタさんの指示を待たずに?」
シスラが咎めるような声をだすと、シュゼットはどうして怒られるのか不思議に思って少し首をかしげた。
「四時前くらいに起こしてと頼まれたのは私とオーガスタさんでしたし、オーガスタさんは忙しそうで、忘れてしまっておられるのではと思って」
「それは……そう。わかったわ。とにかくお部屋にいらっしゃらないのね? まだ帰っていらっ……じゃなくて、どこの庭園に行かれてしまったのかしら……」
シスラは自分の主の体調不良が、城を抜け出す口実だと心得ていた。しかし新人侍女のシュゼットはそのことを知らない。
ただし、ベラは彼女が時間を告げて出て行ったときはどんな時でもその時間までには戻ってきていた。戻ってこれる確証がないときは、時間を告げたりはしないのだ。
「オーガスタさんが私を呼んでいるの?」
「シスラさんと、あとセネヴィル少佐にこのことをお伝えしなさいとおっしゃってました!」
シスラは一度目を閉じて、今自分がすべきことを考えた。
「……あなたは部屋に戻りなさい。私はセネヴィル少佐と対策を練るから。オーガスタさんにもそう伝えて」
「はい。あ……オーガスタさんから伝言何ですが……」
「伝言?」
「寝室は空だった。何も、ない。……だそうです。意味、分かりますか?」
「……ええ。わかるわ。ありがとう。もういいわよ」
シュゼットは激しく動揺していて、扉を開いて慌てて出ていくときに、完全に礼を忘れていた。シスラはそれを注意しようか悩んで、今すべきことではないとやめた。
「どうしましょうか? 書置きがないなら、姫様は本当はこの時間に戻ってこられるつもりだったのだと思うのですが……」
「今日、イザベラ殿下が行った街に心当たりは?」
「いえ……。せめて、五つの街のうち、どこに出かけられたかさえわかれば……」
一連の流れを黙ってみていたイェンスは、ようやく口をはさんでもよい流れになって、一つの情報を提示する。
「ベラなら、今日の四回目の鐘がなる前に街で会いました。ルッテンベルク通りの、王城から……三つ目の橋あたりで」
イェンスがそういうなり、時計塔が本日五回目の鐘を鳴らし始めた。王宮だけでも十はあるのではないかと思われるこの鐘は、この国の人間の行動リズムを整えている。
その鐘が鳴っている間は、三人とも沈黙していた。パーシバルはじっとイェンスを観察しており、シスラは少し苛立っていて、腕を組み指でトントンと自分の腕をたたいていた。
そして長い三十秒が過ぎ去り、シスラはすぐに口を開く。
「二時間前にルッテンベルクにいらっしゃったんですね? その時、何かおっしゃっていましたか?」
「今日はルジェーナに会いに行くと言っていました」
「ルジェーナ様……つまり香水屋ですね」
パーシバルが横から口をはさんだ。
「その可能性が高いかと」
イェンスはうなずきながら、ベラが思っていたほど自由気ままに行動していたわけではないと悟っていた。もし彼女が本当に勝手に城からいなくなって、好きな時間に帰ってくるのならば、こうやって心配されるはずがないからだ。
「部下を何人か香水屋に向かわせます。残りの隊員はルッテンベルクの捜索を。ベラ様が街をまたいで行動されることは非常に稀なので、おそらくこれで見つかるはずです」
パーシバルは勢いよく立ち上がると、西側の扉に向かい、扉の向こうに消えていった。
トン……トン……トン……。
穏やかだが、はっきりとしたノックの音が部屋に響く。
「失礼します」
残されたイェンスとシスラは、顔を見合わせた。
本来の部屋の主がここにいないからだ。しかしシスラはさっと扉のほうへ近寄ると、扉を開けた。
「どうされましたか?」
「イェンス・ヴェーダ大尉はおられますか?」
部屋に入ってきた兵は、深い藍色の軍服と、腕に白い鳥のあしらわれた腕章を身につけていた。それは伝令兵の証であり、彼らは伝言や手紙、郵便物など、何かを届ける仕事を担っている。
「イェンス・ヴェーダは私です。どうされましたか?」
「ヴェーダ大尉にこちらの手紙をお預かりしています。これを押し付けてきた男が少し不審な動きを見せていたので、至急こちらに持ってきました」
イェンスは眉をひそめてそれを受け取ると、封筒をひっくり返した。宛名にイェンスとだけ書かれている。
「イェンスだけしか書いてありませんが……私宛で間違いないんですね?」
「イェンスという名の金髪で緑の目の軍人とおっしゃられましたので……おそらく」
「金髪で緑の目……。まさか……!」
イェンスは非常にいやな予感がして、封筒を乱暴に破き手紙を読む。その様子を見ていた伝令兵は驚いて、その場で目をぱちぱちとしばたいている。シスラはイェンスの様子に何かを感じ取って、ちらりと彼の手元の手紙を見つめた。
「くそっ! その不審な男はどうした!?」
「不審な男は、事情を聞こうとしたところ、逃げられました」
イェンスの突然の剣幕に驚きながらも、伝令兵は即座に質問に答える。
「男の後を追ったか?」
「いえ! 申し訳ありません!」
「……わかった。一つ頼みたい仕事がある」
「はい!」
「ヴェルテード王国陸軍、警察部隊、第三中隊の副隊長である二―ベルゲン中尉に伝言がある。王城内にある薬の研究棟に行って、イェンス・ヴェーダの名で預けたものの解析結果を聞いてほしい。そして、そのあと、もしそれが無意識に所持するには危険なものならば……今日の跳ね橋の開閉作業にあたる兵全員の軍服を新しいものと総取り換えするように手配してほしい。至急、伝えてくれ」
「畏まりました!」
伝令兵はそういうと、イェンスが言ったことをそのまま復唱した。それは完璧だったので、イェンスはうなずく。そして次に与えられた使命を果たすべく、部屋を出て行った。
「何かありましたか?」
イェンスが怒鳴ったことで、隣の部屋にいたはずのパーシバルが顔を出した。
「手紙が届きました。それにはこう書いてあります」
そしてイェンスは手紙を読み上げる。
「お前の紫の髪の連れは預かった。近くにいたので小麦色の髪の女もいる。二人を返してほしくば、今日最後の鐘がなるまでに、例の白い包みをルッテンベルク通りの四番目の橋の王城側に分かるようにおいておけ」
つまり、二人は誘拐されたのだった。




