香りが知らせる
ヴェルテード王国、王都フルヴィアルに存在する五つの大通り。それは王都の中心に位置する王城にて交わるように作られていた。
その五つの大通りのうち、四時の方向に伸びるのがルッテンベルク通りと呼ばれている。この通りは王城から、王都の南東部に陣取る森へと続く道である。
この大通りと、東西に走る大河リーニュの間に区切られた、ちょうどカットされたチーズのような形の部分が、ルッテンベルク街と呼ばれる場所である。
そんなルッテンベルクの近くの森で、横転した馬車が発見された。そして、その周りには幾人かの軍人が群がっていた。
「ヴェーダ大尉」
名を呼んだ男は、三十歳ぐらいの見た目。引き締まった体と短く刈りあげた髪によって少し強面の印象だが、声は穏やかだった。
「ニーベルゲン中尉……どうしましたか?」
大尉と呼ばれた男は、明らかに中尉より若い。
混じり気のない均一な金色の髪と、緑色の瞳が特徴的だった。線が細くきれいな顔立ちのため女にもてるが、同時に冷たいとも称されていた。それは彼の切れ長の目が、常に何かを観察するような鋭さを持つことに起因する。
「馬車の中からこんなものが」
中尉が差し出したのは、小さな紙の包みだった。
大尉はそれを受け取ると、慎重に包みを開いていく。手のひらにのるほどの小さなそれの中には、白と黄色の混ざったような粉末が入っていた。
開けた瞬間に香るのは、何かの花の匂いだ。
「依存性あるいは毒のある違法薬物ですか……かなり香りもしますね」
手袋をはめたままその粉末をつまんでみる。黄色の何かはほとんど感触はなくほろほろと崩れていくが、白の粒は細かく砕かれていてもゴロゴロとした感触がある。
「中尉には分かりますか?」
「いえ。違法薬物の線が濃厚だとは思いますが……」
「そうですね。香りは誤魔化してあるだけということもあり得ます……とにかく調べなければいけませんね」
「本当は城の薬師に見てもらうのが一番です。ただ……」
ニーベルゲン中尉は言い淀んだが、ヴェーダ大尉にはその意図が正しく伝わっていた。
この転倒している馬車には、このルッテンベルク街で一番大きい薬屋の名が書かれた伝票が残されていた。
これは賊に襲われた被害者であったのだが、荷物を調べているとこの正体不明の薬物以外にも、怪しいものがいくつかでてきたのだ。荷を運んでいたものは殺されてしまっているのでなんとも言えないが、残された伝票などを見る限り、街の薬屋がこの怪しい物品を仕入れていたことは間違いない。
そして城にいる薬師には、その店で下積みを積んだ者が数多くいる。
もし、この薬物を仕入れたのが本当に街一番の薬屋で、城の薬師がその薬屋の味方をすれば、証拠は簡単に隠滅されてしまう。
薬師の登録名簿には経歴がすべて書いてあるが、その記載が本当のことかはわからない。一度どこかの薬屋を経由して城にあがれば、あっさりとそのつながりは隠すことができる。登録名簿には最後にいた店の名前しか書くところがないためだ。
「城の薬師に頼むのは最善とは言えない、か……知り合いに信頼できる薬師はいますか?」
前半部分は自分自身へつぶやき、後半は中尉に尋ねた。
「いえ……街の他の薬屋にいる薬師に尋ねてみる、くらいしか思いつきませんね」
「そうですね……この場の処理は任せていいでしょうか?」
「大尉自ら行かれるのですか?」
てっきり自分に仕事を振られるのだと思っていた中尉は、驚きを隠すことができなかった。
しかし大尉はそんな中尉の様子を気にすることもなく、テキパキと指示を出していく。
そしてその問題の薬物を上着の内ポケットにしまった大尉は、街に向かって歩き出したのだった。
街を歩き、大尉はいくつかの薬屋を見て回ることにした。森の方からルッテンベルク通りをずっとまっすぐ歩き続けて、左右に視線を巡らせながら歩き続ける。
普段は馬でさっと駆け抜けてしまうのだが、今日は大尉の馬は転倒した馬車を引くように置いてきている。もともと馬車を引いていた馬は、襲われたことでいなくなっていたのだった。
「これで四つ目の橋か」
歩いた距離を確かめるために大尉は一人でそうつぶやいた。
別名、水の都ともよばれるフルヴィアルにはとにかく水路と橋が多い。王都を南北に分ける大河リーニュの水を町中に引いているため、水には困らない上、小さなボートがあれば物の運搬も楽にできる。
ただし防衛上の問題で、あえて水路に橋をかけず、行き止まりになっている道も多いので、水上の足がない人間は、道に迷うと時間を大幅にロスすることになる。
他国ほど交通網の整備が進んでいないヴェルテード王国は、ここ王都でさえも鉄道が通っていない。そのため、道に詳しいものなら馬を、そうでないならばボートに乗るのが、目的地に早くつくための最善の手段とされていた。
しかしそんな道を大尉はひたすらに歩いていた。森から王城に向かって、ルッテンベルク通りを歩くという行為は、普通のヴェルテード人ならばやらない。片道一時間もかかる上に、ルッテンベルク通りならば寄合馬車が何本も通っているからだ。しかし大尉はある目的を持っていたため、歩きを選択していた。
「さて……どうするかな」
一時間かけて歩くと、王城が見えてくる。七本目の橋も渡り終え、王城には最後の一本だけでたどり着ける。
王城への入り口には跳ね橋があり、夕方の六時になるとその跳ね橋は一斉にあげられる。夜間は何人たりとも城の中に入れない。それが古くから続くこの街のルールであった。
大尉はその跳ね橋のそばまで来ると、くるりと踵を返した。そしてまた、再びルッテンベルク通りを、今度は森に向かって歩き出す。
一見無駄に思える行為だが、大尉は明確な意図をもってこうしていた。何かよこしまな考えを持つものは、それを取り締まる権威を見ると、必ず普通とは違う行動をしてしまうものである。
たとえば軍服姿の大尉をじっと見つめてしまったり、逆に目が合わないようにしたり、不自然にそわそわしたり。
大尉はそういう動きを見せることのない薬屋を探そうとしているのだが、それがなかなか難しい。一度の観察では、それが偶然の行動なのか、そういう心理的圧迫によることなのかわからないからだ。そのため彼は、何度も往復することに決めた。
普通の軍人ならばこんな面倒なことはしないだろうが、大尉は普通ではなかった。彼は比較的地味な作業を好んだし、何よりこの時間は彼がひとりで過ごせる愛すべき時間だった。そのため、彼は一見、途方もなくおもえるその行動をあっさりと選択するのだ。
そうして、彼が再び、四本目の橋まで歩いた時だった。
大尉の左肩に突然手が置かれた。
「どうしてそんなものをそこに?」
大尉とその人物が足を止めたことで、ルッテンベルク通りの人の波は少しだけ形を変え、二人を迂回するようにして流れてゆく。
「そんなもの、とは?」
ゆっくりと問い返した大尉は、さっとその人物を観察した。
相手は女だ。淡い紫色の長い髪に、同じ色の瞳を持っていて、それがどこか神秘的な雰囲気を醸し出している。
頬は赤みがさしていて、大きなぱっちりとした目が挑戦的に大尉を見つめていた。
彼女は大尉の上着の左胸部分を指さすと、視線を大尉の目から離さないまま、一歩近づいた。
「その内ポケットに入っている薬物ですよ」
その言葉を聞いた瞬間、大尉は相手の腕を掴むと、その人物を引き寄せながら大通りの端に寄った。
女は抵抗しようか悩んだが、思うところがあって素直に従った。
「何故分かった?」
「香りです」
鋭い詰問にも、女は全く動じない。
彼女は道行く人に視線を一瞬だけやるが、目の前の男がこれ以上、大通りから離れた場所へ連れていく気がないのを見て、再び視線を戻した。
「香り?」
「私は調香師なんです。誰よりも香りに敏感で、あなたの持ってるそれが何で作られているかも分かるんですよ」
大尉はその女の腕を離し、痛いと言わんばかりにさすっている様子を見つめた。
とりあえず、彼女がこの薬物を製造しているわけではない、と大尉は判断した。香りだけでわかったというのは信じがたいが、もし彼女が薬物の製造や密輸に関係しているなら、わざわざ軍服を着ている大尉に話しかけるはずがない。
また、この女が嘘をついているようには見えない。目が泳いでいる様子もないし、つかんでいた腕から伝わってきていた脈もとくに乱れてはいなかった。
「軍に所属しているイェンスと言います。名前をうかがっても?」
本当はヴェーダ大尉と言った方が話の通りが早いことが多いのだが、イェンスはあえてファーストネームを名乗った。
相手への警戒心を緩めたついでに口調も柔らかなお仕事モードに切り替える。
「ルジェーナです」
小柄で華奢な彼女は、名乗られたその名前に微かに眉を上げたあと、あっさりと自分の名を名乗る。
ためらった様子はない。
つまり本名、あるいは普段から使っている名前だ、とイェンスは判断した。
しかし疑念を弱めたイェンスとは反対に、ルジェーナはそれを強めたらしい。
「あなたは本当に軍人ですか?」
強い眼差しがイェンスを捉える。
ハッとさせられる美しさに、イェンスは思わず瞬きも忘れて彼女に見入る。しかし彼女が返答を求めていることに気づいて、一瞬遅れてうなずいた。
「……ええ、もちろん」
「証明できますか?」
ルジェーナは鋭く聞いた。
「それは……」
できない、とイェンスは思った。軍服を着ているが、それが複数人いればまだしも、一人だけならばただどうにかして手に入れた軍服を着ている男の可能性はある。軍服には軍の階級章もついているが、これも人の物を盗んだといわれてしまえばおしましだ。
「城にくれば私が軍人だと証言してくれる仲間はいます。もちろんそっくりなやつに化けていると言われたらそれまでですが」
「なるほど……。ちなみにあなたの兵舎はどこに?」
ルジェーナはイェンスの頭からつま先まで観察した後、少しだけ首をかしげて問いかけた。
「第三兵舎ですよ」
「それなら、本物だわ」
その変化は突然現れた。
さきほどまで固いつぼみのようにしっかりと結ばれていたその唇がほころび、まるで花が咲くかのように可憐な笑顔が女からこぼれた。
ルジェーナは妙に確信的な口調で言う。
「どうしてそう思われますか?」
イェンスは動揺を抑え込み、淡々とした口調のまま問い返した。
「第三兵舎でしか、あなたのブーツの紐についているアールボの花粉はつきようがありません。アールボの花粉は形状が特殊で付着しづらいから、日常的にあの場所を利用していないとそんなにたくさん、香るほどつきませんからね」
イェンスはそういわれて自分の足元を見た。
確かに黄色いものが紐についてはいるが、それが花粉かどうかは全く分からない。イェンスには香りはもちろんしないし、そもそもその付着物が砂か花粉かなど見分けることは不可能に近い。
「ただし、それだけだったらあなたがたまたまあの付近で這いつくばって何か探し物をしていたのかもしれません。でも自分から第三兵舎に住んでるとおっしゃったから、本当にそうなんだと思ったんです。なにかやましいことをして第三兵舎に向かったのなら、自ら行ったとは言わないはずですから」
そこで一息いれて、さらにダメ押しとばかりにルジェーナはつづけた。
「それに、懐に違法薬物を入れた悪党にしては間抜けですからね。あなたの持ってる薬物はうっかり吸い込むと体に毒。その効能を熟知している人間は、そんな上着の内ポケットにいれるなんてがさつな真似はしません」
イェンスは素早く上着の内ポケットに手を突っ込み、布で厳重に包まれたそれを取り出した。そしてそれを上着の内ポケットではなく、右腹部にあるボタン付きのポケットに落としこんだ。
「そう、それのがいい」
ルジェーナはすっかりイェンスを信用したようで、かすかに微笑んでいる。
ただしイェンスのほうはそうはいかなかった。はじめのこの薬だけでなく、ブーツのひもについていた花粉を見てそこまで推測できるというのはただものではない。それに彼女がどうしてイェンスのことを軍人かどうか疑いだしたのかもイェンスには理由がわからない。
しかしその疑問は案外すぐに解決された。そう、ほかならぬルジェーナが言ったのだ。
「どうしてあなたが軍人さんなのか疑ったかっていうと、ファーストネームを名乗ったからなんです。軍人さんはファミリーネームと階級を名乗るのが普通でしょう」
「なるほど」
これは軍人であるイェンスには納得できる理由だった。ヴェルテード王国軍の軍規によれば、任務中に軍人同士が呼びかけるのは、氏と階級を使わなければならない。これは親しくなりすぎて任務に障害が出ることを危惧してだと言われているが、実際のところはただの慣習だろうと思っている人間のほうが多かった。
そして、その慣習は、本来は使わなくてもよい、非軍人相手にでも適応されているのが現状なのだ。
「私は自分の階級に納得していません」
やぶから棒に言ったイェンスの言葉に、ルジェーナは首をかしげた。
「階級が低すぎて、ですか?」
「いや、高すぎてです」
「え?」
「私は二十二ですが、大尉です」
「……? すみません。私にはよくわかりません」
ルジェーナはイェンスの言いたいことを理解できずに、問い直した。
「二十二歳では、通常はどれだけ早く昇進しても、少尉がいいところです」
「あなたはニ階級高いですね。でもそれは、優秀だからじゃないんですか?」
「イェンス・ヴェーダ。剣の家、ヴェーダといえばわかりますか?」
イェンスはここまで名乗らなかった家名を名乗る。そのおかげでルジェーナにもよく理解ができた。そして彼女は大きくうなずいて言った。
「陛下、我が剣を以て、すべての敵を闇に屠り、御身を守ってご覧にいれましょう」
それは、ヴェーダ家が剣の家と呼ばれる理由の一端である。建国当初から続くヴェーダ家は、代々優秀な軍人を輩出しており、国王からの信頼も厚い。
そしてその名門の出であることこそが、イェンスの異例の出世の理由である。
「よく覚えていますね」
「誰でも言えますよ。剣と盾の双翼の誓いの言葉は、教科書にも載っているレベルで有名ですから」
「陛下、我が盾を以て、すべての敵を光に曝し、御身を守ってご覧に入れましょう」
イェンスがそうつぶやくと、ルジェーナはびくりと肩を揺らした。しかし小さく首をふるうと、にっこりと笑って言った。
「では、これで」
ルジェーナはそう言うと、踵を返した。
「どこにいくんですか?」
慌ててイェンスが腕をつかんで引き留める。ルジェーナは引き留められた意味がわからずに首を傾げた。
大きな淡い紫色の瞳が、イェンスを見つめる。それを見てイェンスは、自分が一瞬、途方もない大海原を漂流しているような気分に陥った。
「本物の軍人さんだとわかったので、あとはどうにかしてくださると思って」
当然のようにルジェーナは言ったが、イェンスとしてはそれを認めるわけにはいかなかった。
「これはいったい何ですか? それにどうしてわかるんです?」
「どうしてって、言いませんでしたか? 私は調香師。誰よりも香りに敏感で、それが何かかぎ分けられただけですよ」
そんな馬鹿な。とイェンスは思った。
香りに敏感といえど、厳重に包まれているこの薬物の匂いを、二メートルは離れている彼女が嗅ぎ取ったるなど不可能に近い。しかも彼女はアールボの花が第三兵舎にしかないことを知り、その上でイェンスがそれを身にまとっているとも看破したのだ。
さきほども同じ説明を受けたが、それはあり得ないことだった。少なくともイェンスはその事実を受け入れられない。
実のところ、ルジェーナが警戒を解いたら、本当の理由を教えてくれるだろうとイェンスは思っていたのだった。
「現象は常識に勝る、と父は教えてくれました。自分が見たものを信じなくてどうするのか、と」
「現象は常識に勝る……」
イェンスはその言葉をどこかで聞いたことがあると思った。だからこそ、はっとして、自分の考えをもう一度整理する。
「これが何か知りたいので、協力願えますか?」
やみくもに彼女の意見を否定しても協力は得られない。そう悟ったイェンスは、自分の中にくすぶる疑問を一度押し込めて、そう問いかけた。
するとルジェーナはふっと笑顔になってうなずく。
「はい! もちろん」
「ありがとう」
イェンスはほっとして胸をなでおろした。とりあえず彼女にこの薬物について聞き、彼女の言葉が信頼に足るかどうかはあとから調べればいい。
その時、二人のその話に区切りをつけるかのように大きな鐘の音が街全体に鳴り響く。
「最後の鐘か……」
一番近くにあった時計塔を振り返ったルジェーナは、はっとしたように小さくつぶやいた。
近くにいればてっぺんに掲げられた大時計を動かす装置が動く音がするその塔は、この街のリズムを毎日刻んでいる。
朝の六時から二時間おきになる鐘は、午後の六時にその日最後の音を鳴らして眠りにつく。
もし今、城の近くにいれば、王城の跳ね橋が上がる音も一緒に聞こえてきたことだろう。こうしてこの街は動いているのだ。
「今から私の店に来れますか?」
「え?」
「ここで話すのは問題ですし――」
そういって話を区切ると、ルジェーナはさっと視線を周囲に向けた。大通りと小さな道の交差点の隅に二人はいるが、ここで立ち話するのは確かによくないかもしれない。
「――あなたの疑問は一気にとけるはずです。店にきていただければ」
すっと真剣な表情をしたその横顔が、イェンスの記憶の断片と重なりそうになる。
長く風になびく美しい髪。大きく丸い目に、強く優し気なまなざし。
この女を見たことがあるのかもしれない。
イェンスはそう思って、じっと彼女を見つめたのだった。