跳ね橋の上がる前に
王都フルヴィアルの北と南を隔てるのは、大河リーニュ。その真ん中の島にぽつりと立っているのが王の住む城である。中には王宮があり、王族たちが住み暮らしている。
この王城が大河リーニュの左岸と右岸をつなぐ唯一の橋であり、通行許可を取らない限り、リーニュ河を渡ることでしか河向こうの街にはいけないようになっていた。
王城は外に出るために、大河の北に二つ、南に三つ、計五つの跳ね橋があり、その跳ね橋から続く道には名前が付けられている。そしてその大通りを抱く街を、それぞれその道と同じ名前で呼んでいる。
たとえば、王城から四時の方向に延びる道にはルッテンベルクと名付けられており、そこから、街の名前もまたルッテンベルクと呼ばれている。
そんな王都の五つある街のうちのルッテンベルクには、第三兵舎と第五兵舎が跳ね橋のすぐそばの、道の両側に建てられている。敷地はすべて高い塀で囲われており、訓練場も兼ねる広い庭と、兵士たちが住む高い建物がある。
時計塔が本日五度目の鐘を鳴らし、今の時間を伝える。夕方四時。
金髪に緑色の瞳の青年は、第三兵舎から姿を現した。今日は仕事のために、深い藍色の軍服を着ている。腰には剣や何十かにまいた捕縛用のひもも下げている。右腕にあるポケットには、剣と盾の書かれた紋章を付けていた。
そして同じような格好をした青年がもう一人、隣に並んでいる。その男の茶色の髪は寝癖がひどく、とてもこれから仕事をするようには見えない。
「ねみぃ……」
「寝てないのか? そんなに寝癖がついてるのに?」
「サラサラ毛質のイェンスと違って、俺は五分寝れば寝癖がつくのさ」
任務中は氏に階級をつけて呼ぶのが規則だが、イェンスは目の前の男にそんなことを指摘したりはしなかった。
「ジュール。いや、ブリュノー少尉。夜勤の前は寝るべきだ。これから十二時間、ずっと仕事なんだぞ」
ただ、あえて真面目くさってそう言ってみる。
「お、それは命令か? ヴェーダ大尉」
ジュールはニヤリと笑って、言った。
イェンスもなんだかおかしくなって、笑いながら首を振る。
「いや。同期への忠告だ」
二人はそんな会話をしながら跳ね橋を渡る。橋を渡り切ると、右側にある開閉室に入る。開閉室は各跳ね橋に二つずつあり、中はかなり狭い。椅子二つを両側の壁にぴたりとくっつけて並べてあり、入って右側の背もたれの右上には、赤く塗られた金属の筒がある。入り口はラッパのように広がっている。この筒は隣の開閉室に地中でつながっており、ここから叫ぶと、向こう側に声が聞こえるようになっている。その反対側には青く塗られた金属の筒があり、それは北西の街オーシェルマン側の開閉室とを結んでいる。
さして高性能ではないので、かなり気合を入れて叫ばない限り、この筒に耳を当てていない人間にまで声を轟かせることはできない。そのため、棒が各開閉室の壁につるされており、それで筒をひっぱたき、轟音を鳴らした後に話すのが慣例となっている。
「通話管もだいぶ色が剥げてきてるなぁ……」
のんびりとした口調でそう言ったジュールは、通話管の青いペンキをあえて爪で少しだけ剥いだ。しかしイェンスが睨んでいることに気づき、慌ててそのくずを床に落とす。
「通話管ももう少しで撤去だな」
「ん? ああ、確かに工事してるな。どういう仕組みかイェンスは知ってるのか?」
「まったく。残念ながら機械は不得手なんだ」
イェンスが首を振って否定すると、ジュールが楽しげに言った。
「イェンスでもそんなことがあるんだな」
「もちろんあるさ。……そういえば、ミーナはどうしてる?」
先日図書館であったことを思い出し、イェンスは話題を振ってみた。するとジュールはきょとんした顔をして首を傾げた。
「ん? ミーナ? 俺に聞かれてもなあ……まあ、元気にやってるぜ。たまに飯を食いに行くけどな」
けらけらと笑うこの男が、本当にミーナの気持ちに気づいていないのか、それともフリなのか、イェンスでさえも判断がつきかねている。
「なあ、寝てていいか? まだ鐘一つ分も時間があるんだぜ?」
すでに座っているジュールは、まだ立っているイェンスに向かってそう言った。イェンスはため息をつき、自分も向かい側の椅子に座る。そして足を右方向に伸ばした。足の向きを変えないと、ジュールと膝がついてしまいそうな距離なのだ。
「だめだ。と言いたいところだが、どうせ寝るんだろ?」
跳ね橋の開閉は、一つの橋につき四人が担当する。開閉室は二つなので、二人ずつが入る。これは昔からの慣例で、この跳ね橋開閉のシフトに入るのは、入隊二年以上かつ、少佐以下の人間全員が対象である。たとえ貴族だろうが庶民だろうが関係なく無作為にペアを組まされ、この任務に充てられるのだ。
対象人数が多いので、均等に回せばめったに回ってこないはずなのだが、配属部隊によって、多少、お役目が多かったり少なかったりとのムラがある。
「物わかりがよくていいねえ! この前なんかさ、オーシェルマン側に飛ばされた上に、なぜかセネヴィル少佐とペアを組まされたんだよ。もう一睡もできないね。あのひと、本当にじっと座って微動だにしないんだから。まったくもう」
「セネヴィル少佐か……」
「ヴェーダ家なら話す機会とかあるのか?」
「セネヴィル家は侯爵家。ヴェーダ家は剣の家と呼ばれているが、歴史上一度も貴族になったことはない」
ここで、ヴェーダ家としてではなく、第三王女の知り合いとして話したことがある、とは口が裂けても言えない。
だからイェンスはあいまいに話をぼかした。
「なったことはないんじゃなくて、貴族になることを拒み続けてるんだろ?」
「ああ。それでも、お前の知っての通り貴族のような待遇を受けてるさ」
若くしての特例昇進は、有能な貴族の特権である。貴族でも無能ならば昇進はしないので、今のところ表立って不満を言う人間はいない。
「お前の大尉は実力だよ」
「……そう言ってくれるなら、ありがたいが」
「信じてねえだろー? 士官は主席で卒業、新兵の時の模擬実践でもあーんな好成績残したんだから、大尉ぐらいあたりまえだっつーの」
「お前も引けを取らない好成績だったろ?」
寝癖だらけで、だらりとした印象の男だが、見かけによらず有能なのだった。
「総合力が足りねえよ。肉弾戦は向かないし。頭も足りないし。お前、なんでもできるんだもんな」
ジュールは懐から布を取り出すと、それを頭にかぶった。
「じゃあ寝るわ」
「はいはい。ごゆっくり」
イェンスはそう言うと、先に簡単な点検だけしてしまおうと、立ち上がった。
この開閉室の心臓とも言えるのは、奥に備え付けられた装置である。
船の舵のようなものが壁の中央に備え付けられており、その右下には楕円の穴がぽっかりと空いている。イェンスの拳が二つほどのサイズの穴は綺麗に削られており、床に寝せてある鉄の棒が縦に二本入るサイズだ。
イェンスを含め、多くの軍人は全くもって跳ね橋の開閉の仕組みを正しく知らない。
上官はただ、これが時計の仕組みを応用していることと、どんな操作を行えば橋が上がるのかだけしか教えない。実際に彼らも知らないのだとイェンスは半ば確信していた。
一つ確実に言えるのは、この開閉室には王宮並みのヴェルテード最高技術が使われていることだ。
一つはもちろん、跳ね橋を開閉するための装置。
もう一つは、照明だ。ここはガス灯でもランプでもなく電球が部屋を照らす。それは小さな電球が装置の上を照らすだけだが、燃えることもないし臭くもないこの照明の採用は、軍人を歓喜させた。
室内ガス灯は匂いがひどく、開閉室の扉を開け放つ必要があった。夏はいいが、冬は寒すぎて凍死者がでそうな勢いだった。
据え置き型のランプはようはロウソクなので暗く、しかも倒すとあっというまに火が燃え移る。小屋自体は城壁の一部なので石できているが、部屋の中の家具は木であるし、この開閉室の上は城壁の違う部分なので煙が上がって上にいる軍人が被害を被るのだ。
そういうわけで、王宮でもまだ王族の部屋といくつかの部屋しか採用されていない電気照明を、この開閉室は堂々と備え付けているのだった。
イェンスはまずは舵のような装置に損傷がないか確かめた。内部は専門の技術者にしか分からないので、とりあえず見た目だけである。
次に、電球が切れていないか確認する。
点いている。確認するまでもない。
そして装置の横の穴が塞がれていないかを確認する。一度、鉄の棒を差し込んでみて、奥まで押し込む。
ガコンという何かが外れたような音がしたため、正常である。
「問題なし」
イェンスは一人つぶやいて、これから一時間半以上、暇なことに気づいた。
話し相手になるはずの男は、寝ている。
「なんで二時間前から部屋に缶詰なんだか」
「まったくよー」
応えた男は眠っていた。まだ布を被っている。
寝言のようだ。
「電球が明るいな……」
「そーなんだよ」
本当に寝ているのか、イェンスは疑わしくなって布を掴もうとしたが――
「スピー……スー……スー……」
――寝息が聞こえてやめた。
「十二時間どころか、十四時間働くことになるのか」
「最悪だぜ!」
もはや面白くなってきて、イェンスは次の言葉を考えた。すると、しびれを切らしたのか、ジュールが言った。
「終わりかよ」
「考えてるんだ」
「ケチだなー」
相変わらず、ジュールの表情はイェンスには見えない。
「寝てるんだよな?」
「姉ちゃんは」
「ん?」
ついに話が合わなくなった。
「まだあるんだろ、お代わり!」
急に腕を突き出して動いたので、ジュールの顔に被っていた布がパサリと落ちた。ジュールは目を閉じていて、布を拾う様子もない。
「……家でご飯食べてる夢か?」
イェンスは落ちた布をひろうと、ジュールの顔にばさりとかけた。
「あひぃがとー!」
ハムハムと布をくわえながら、礼を言われた。
「召し上がれ」
イェンスはそう言って、椅子に座る。
少しだけ時間が過ぎた。
そのあとのイェンスは、ひたすらにぼんやりとしていた。夕方四時から待機させられる割に、本格的に仕事が始まるのは夕方六時からである。
そうして、特にそのあとは寝言もなく、ただ沈黙とともに時間が流れていった。
別名、忍耐部屋と言われているこの開閉室には、水を除く私物はおろか、仕事のための書類なども持ち込みが禁止されている。
仕事が始まるまでの二時間は、ただじっとここで待機しているしかないのだ。さすがにおしゃべりを咎められることはないが、同じ階級の兵がペアにされることは珍しいので、話しが盛り上がることも少ない。
イェンスとジュールのように同期の人間が配属されることは珍しいのだ。そして、さらに言うなら相方のことを気にせずに爆睡する男も珍しい。ジュールはそれなりの頻度で開閉作業に駆り出されているため、緊張感が少ないのだ。
イェンスは陸軍でも警察部隊にいるため、王都の見回りや事件の調査が主な仕事だ。そのためルッテンベルク街だけでなく、王都全体が管轄となり、この開閉作業に駆り出されることは少ない。逆にジュールは、陸軍の中でも治安維持部隊にいて、かつ王城とルッテンベルク街という狭い世界が担当のため、どうしてもこの開閉作業に駆り出されることが多くなるのだった。
「んーよく寝た!」
布を取り払い、ジュールが目を覚ました。ぐっと腕を天井に伸ばしてあくびをする。そして椅子から立ち上がり、ぐっと背筋を伸ばした。
「そろそろか?」
ジュールは扉を少し開けて、小さな石をかませた。閉めたままでも時計塔の鐘の音は聞こえるが、開けていたほうがよく聞こえる。
イェンスもまた立ち上がり、床においてある鉄の棒を取った。そしてそれをさきほど点検した穴の中に入れる。
「お、そっちをやってくれるのか?」
「めったにやらないからな」
嬉しそうにいったジュールが舵のような装置を握った。
すると、時計塔の鐘が鳴った。六時を告げる音だ。
それと同時にイェンスは、もともと差し込んでいた鉄の棒を、ガコンと音がするまで奥に押し込み、それを上にあげた。両手で押し上げているのだが、これはかなり重い。見た目では五センチほどしか上がらないのだが、重労働なのだ。
「いくぞ」
ジュールが舵を時計回りに回した。回したといっても、時計の針で言えば、十二時が一時になったほどしか回らない。
そしてそれが一定の場所まで回されると、今度はイェンスの棒は急に軽くなる。
この作業は跳ね橋の両側の開閉室が同時に行わなければならない。両方の開閉室で、鉄の棒でロックを外した状態でしか、二つの部屋の舵は回らないのだ。だから、片方の部屋で作業がもたつくと、もう片方の部屋の人間は、棒でロックを外し続けなければいけないので疲労が大きい。
この作業には機敏さが必要なのだ。
「次!」
ジュールに声をかけられて、今度はイェンスが鉄の棒を押し込みながら下げた。そしてジュールが再び時計回りに回す。そしてふっと軽くなると、再び鉄の棒を押し上げ、ジュールが回す。
この作業を、舵が一周するまで繰り返すと、無事に跳ね橋は上がるのだった。
圧倒的に棒を持っている人間のほうが力を使うので、たいていは階級が低い人間がこちらを引き受けることになる。
どうしてこんなにめんどくさい作業をするのかといえば、こういう仕組みにすることで、跳ね橋が急に下りたり上がったりすることを防げるとのことだった。つまり十二段階に少しずつ動くので、跳ね橋が落ちてきたことによる人との衝突事故などがなくなるというわけだ。
「疲れた……」
疲労感はあるが、実のところ簡単な仕事ではある。跳ね橋を上げる時間の差はあれど、まったく上がらないという事態は発生しない。ただ決まった順番通りに操作を行えばいいだけだからだ。
そのため、もし橋が上がらない事態が発生すれば、それは開閉室で何か問題があったと考えてよいと言われている。
「おつかれさん! ありがとな。舵を回すのは楽でいい!」
ジュールが明るくそういうと、彼はそそくさと開閉室の扉に向かった。イェンスは鉄の棒を抜き取り元の位置に戻すと、ジュールに続いて部屋を出た。
外はまだ明るく、太陽が出ている。
イェンスは扉を閉めると、持っていた鍵をかけて、跳ね橋のほうを見た。きちんと上がっている。
反対側の開閉室からも、二人の兵士が出てきた。
四人は向かい合って敬礼をすると、くるりと互いに背を向けた。
しかし互いに背を向けたが、それはそのまま歩き出すためではなく、礼の一つの流れとしてである。それが終わると、イェンスとジュールはしばし二人で見つめあった。
「俺は眠い。だから先に立ってるから、お前が中にいてくれ」
「了解した」
ジュールは開閉室に不審者が入らぬように外で、イェンスは万が一、ほかの開閉室から緊急の連絡が回ってきたときに対応するために中で待つ。
通話管を通して緊急の連絡が回ってくることは、イェンスはまだ経験したことがない。二か月に一度は勤務についているジュールでさえも、片手で数えるほどである。
だからこそ、今日もイェンスはただ座って、外にいるジュールと交代する時を待てばよいはずであった。本来ならば。
しかし不穏な知らせは意外な方法でやってきた。
ドンドンドンドン! 剣で床をたたいたかのような音が天井から鳴り響いた。イェンスは一瞬、首をかしげたが、それが緊急時の合図だと気づき、すぐに立ち上がった。
そしてさきほど跳ね橋を閉じるのにつかった棒を持ち上げると、それを縦にして天井を三度つついた。
すると金属がこすれる音とともに、天井が鎖でぶら下げられ、鉄の縄梯子が降りてくる。
上るかどうかをイェンスが悩むもなく、一人の男が天井から顔だけを出した。そして叫ぶ。
「ヴェーダ大尉! オーシェルマンの開閉室にお願いします! 橋が全く上がっていません!」