断章 ≪あのひのきれいなおんなのひと≫
それは多分雨の日の夜。日は沈み、外はまだガス灯もなくて暗かった。
寒くて痛くて怖かった。
お父さんのお仕事についてきたけど、一人ぼっちだった。大人の話には入れないし、妹のミリアンはお母さんを独り占め。
だから森で遊んでいたら、道に迷って、転んで膝を擦りむいて、日も沈んだから暗くって、寂しくって泣いていた。
「どうしたの?」
その女の人が来た時、風が吹いた。長い柔らかそうな髪が風に舞っていた。
暗かったから、髪の色は分からない。
綺麗な女の人だった。
「迷って、転んだ」
そういったら、女の人はそっと傷口に手を触れて、待っててねと言った。
「行かないで」
その人の長いスカートの裾を掴んだ。すると女の人は笑って首を振った。
「どこにもいかないわ。ただ、手当てするだけ。私は……薬師だから」
「くすし?」
「薬を作れるのよ」
「薬を?」
「そう。薬を」
女の人はカバンを開けた。なんだか不思議な香りがする。その女の人はいい匂いだったけど、そのカバンはヘンテコな匂いて、思わず顔をしかめた。
「あら、素直な子ね。でもこれが普通かな? それなのに、あの子ったら……」
「あの子?」
「私の娘よ。あなた、名前と歳は?」
「イェンス。歳は七歳」
「娘の名前はね、シルヴィアって言うの。あなたは娘の一つお兄ちゃんね」
女の人はそう言って笑うと、膝の傷に優しく何かを塗った。ちょっと痛かったけど、すごく優しくしてくれたから、我慢した。
そしてそのあとに、白い綺麗な包帯を巻いてくれた。
時折、ほおをくすぐる長い髪も、やっぱりいい匂いがする。
「どうしてここに?」
「つまらないから」
「お家が?」
「ううん。今はお父さんのお仕事についてきた。お母さんは妹に取られて、お父さんはお仕事。歴史の勉強をしなさいって言われたけど、あんまり面白くない」
「歴史のお勉強。そうなの、大変ねえ」
女の人は隣に座ると、大きく頷いてくれた。
「お父さんは歴史の勉強をする前に、いつも同じことを言うんだ」
「同じこと?」
「陛下、我が剣を以って、すべての敵を闇に屠り、御身を守ってご覧に入れましょう」
すらすらと、もう何百回も聞いたその言葉を唱えると、女の人は目を丸くしてこちらを見た。
そしてふと笑って言う。
「陛下、我が盾を以って、すべての敵を光に曝し、御身を守ってご覧に入れましょう」
「似てる」
難しい言葉の並びだけれど、音の雰囲気が似てたから、きっとこれは仲間だと思った。
「そうでしょう? 双翼の誓いと呼ばれてるの。イェンス君が知ってるのは剣の誓い。私のは盾の誓い。王様に、こうやって私はあなたを守りますって宣言したの」
「王様は、守るべき人なんだよね?」
「そうね。それが、剣と盾の家の使命だから」
「でも、どうして剣と盾なの? どっちが正しいの?」
女の人は瞬きをして、少しだけ考えていた。
「どちらも正しいし、どちらも間違ってるのよ」
その言葉は、とても難しくて、あまり意味が分からなかった。
「すべてのコトには、二面性があるの。裏と表。私の娘シルヴィアにも、ルジェーナという影がいる」
「ルジェーナ?」
「私の娘よ。シルヴィアと同い年の姉妹なの。でもね、ルジェーナは遠くに行ってしまって、もう会うことはできないの」
「会えないの? 会えないから、影?」
「ううん。ちょっと違うと思う。会えなくても会えても、影であり、光である。剣と盾と同じ関係性」
女の人は、まったく子ども扱いしなかった。大人が大人に話すように話してくれた。
難しいけれど、それが嬉しくて、分からないとは言わなかった。
「表と裏……」
女の人は、そうだ、と言って手を叩いた。
「私が歴史を少し教えてあげる」
「歴史を?」
「そう。王家にまつわる話よ。王様には何人ものお子さまがいるの。王子様と、王女様が」
「ああ! 少しだけ聞いたことがある。王様には奥さんが三人いて、よく喧嘩してるんでしょう?」
「……そうね。そのとおり。喧嘩は奥さんだけじゃなくて、子どもたちも同じ」
「兄弟喧嘩だ」
妹のミリアンとよく喧嘩する。でも決まってあいつが泣いて、怒られるのは自分だけ。そんなのって不公平だって思うけれど、お兄ちゃんだからって言われてしまう。
「ええ。そうよ。とくに王子様は、誰が王様になるかで喧嘩しているの」
「一番上の王子様が王様になるんだって、お父さんは言ってた」
そして、だからこそ、お前が忠誠を誓うのはリシャルト殿下だよとも言われていた。
「それは……あなたのお父さんが一番上の王子さまを応援してるから」
「応援してるから、だけ?」
「それに、彼がとびぬけて優秀だから、でしょうね。王子様の中で一番すごい人が、この国では王様になるのよ。それに生まれた順番は関係ないの」
「一番すごいから、一番上の王子さまが王様になる」
「本来の道筋ならば、そうね。でも、一番がいなくなれば、二番は一番になるのよ」
「いなくなる?」
「いなくならないようにするのが、あなたの役目」
「ふうん」
不思議なことに、このきれいな女の人から聞く話はすっと頭に入ってきた。分からない難しいこともあるけれど、この人は嘘はついていない。
「昔はね、王都は大河リーニュしかなかったの。そこに、王様がやってきて、小さな国を作ったわ。今の王都は、もともとは王都だけで国だったの」
「それで?」
膝の痛みがすっと和らいでいた。話を聞いていると、いつのまにか雨も止んでいる。森は暗いけれど、もう怖くはなかった。
「でも北側にも南側にも敵がいて、王様は困ったの。だからね、どちらから攻められても、どちらかに逃げられるようにしようと思ったの。それで、城を大河リーニュの真ん中に作った。王宮もその中に。それで、跳ね橋を五つ作って、その跳ね橋以外は、橋をかけてはいけないって言ったのよ」
「だから、北と南は船でしか行けない」
「そう。そうよ」
「でも、両方からやってきたら、どうするの?」
「その時は、お城に逃げて、跳ね橋をあげるつもりだったんですって」
「町の人はどうなるの?」
「町の人は困るわね」
女の人は困った顔をした後、優しく笑って言った。
「でも大丈夫。王様は、南の人たちと仲直りして、仲間になったから」
「そうなんだ! 北の人は?」
「北の人は、大喧嘩になったけど、王様が勝ったの」
「王様はすごいね」
「そうね。でも、大喧嘩だったから、みんなとても傷ついたわ。勝った方も、負けた方も。喧嘩はね、する前に防ぐ努力が必要なの」
「どうやって?」
「お話しするの。それが第一よ。でもどうしても無理なら……」
「無理なら?」
「守りたい人を守るために、全力を尽くすべきだわ。たとえ、何を犠牲にしても」
「ぎせい?」
「……いつか、分かるわ」
わからない単語を、その人は説明はしてくれなかった。
でも、誤魔化しもしなかった。
二人でそんな風に話していると、ランプを持った誰かが近づいてきた。
「ユリア! こんなところにいたの? ……って、その子は?」
髪の色も目の色もわからないけれど、優しそうな男の人だった。
「イェンス君。剣の家のね」
「ああ、ここまで仕事で来てるんだ。それなら挨拶しないとね」
「それで、アルナウトは何をしに来たわけ?」
女の人は、座ったまま腕を組んで、少しだけ首をかしげた。
「もちろんユリアを探しに来たんだよ」
「ふうん。そう」
「迷子だったの?」
迷子仲間だったのかと思って聞いてみると、女の人は首をふるふると振るって言った。
「家出してたの。アルナウトが迎えに来るまで帰らないって決めてたから」
そういうと、女の人は片目をぱちっと閉じてにっこりと笑う。
「帰りましょう」
女の人は立ち上がると、こちらに手を差し伸べた。
「え?」
「一緒に帰ってあげるわ。あなたのおうちまで」
その手をつかむと、とても暖かかった。
そして、ぽんと頭に手を置くと、がしがしと髪をなでられた。
「行くわよ、アルナウト」
「帰ってくれるんだね」
男の人は、ほっとしたように言った。
「まだ許してないけど……この子に免じてね」
「それは……感謝しなきゃいけないな」
男の人はこちらを見て微笑んだ。
それを見て、女の人もにっこりと笑う。風がまた吹いて、女の人の髪が、さらさらと揺れた。
「――ス! イェンス!」
ヴェルテード王国の王都にある一つの街、ルッテンベルクの第三兵舎。その談話室で、金髪の男が肩を揺さぶられて起こされていた。
「ジュール……ありがとう」
「いいえ。どういたしまして。お前がこんなところで寝るなんて珍しいな」
談話室のソファで眠り込んでいたところを、同期が起こしてくれたのだった。
「いい夢でも見てたのか? すごく気持ちよさそうに眠ってたけど」
「ああ……そうだな。初恋の人の夢だった」
「初恋の人!? どんな人なんだ?」
ジュールは、あまり恋愛ごとに興味のなさそうなイェンスが、そういう話をすることに驚きながら尋ねた。イェンスは全く恥じることなく、夢の内容を振り返る。
「実は細かいところは、あんまり覚えてないんだ。夢の中では全部思い出せるけど。でも……すごくきれいで、髪の長い女の人だった」
「女の人? 女の子じゃなくて?」
「子どもがいるって言ってたからな。俺の一つ下の」
「だいぶ年上だなー」
「今思えばそうだな。でも……たぶん、あれが初恋だと思う」
夢に見るほど、きっとどこかであれを理想としているのだと、イェンスは感じていた。
さらりと流れるあの髪が、非常に印象的だった。
どんな匂いだったか忘れたが、非常にいい香りのする人だった。
「どこの誰かわかるのか?」
「……思い出せないんだ。でも、思い出さないほうが、きれいな思い出のままでいられるかもしれない」
「それもそうだな」
ジュールはそう言ってうなずくと、ベッドで寝ろよ、と一言つけて去って行った。
「娘の名前だけでも……思い出せればいいんだが」
イェンスはぽつりとつぶやくと、ソファから立ち上がって、寝室に向かったのだった。